05 怪しい男
後方は、いくら叩けど壊れなかった扉。
それは行き止まりの壁と同義で、逃げ場なんてそこには無かった。
そのはずだった。
が。
後ろから、僅かな風を感じた。
夜の冷気と僅かな腐乱臭が混ざり合う、外の空気だ。
そう確信して、俺は地面を蹴った。
人攫いの象徴である迷彩柄の布が、空を切った。
振り返ると、そこには素性の知れない男がいた。
おそらく、こいつが先ほど俺に逃げろと言った男だろう。
黒いフードに黒い外套。灰色のスカーフで口元を隠した背の高い男。
フードを目深に被っているために、表情を窺い知ることはできない。
疑問が頭の中に湧き上がってくる。
なぜ、この男は扉を開けることができたのか。
この男の目的とは何なのか。
この男は何者なのか。人攫いの奴らとはどういう関係なのか。
だが、俺は迷わない。
俺がいくら開けようとしても開かなかったはずの扉が、今は開放されている。
逃げ道があるならば、逃げる。
そうするのが良いと俺の直感が告げていた。
俺は外に出て、とにかく走った。
路地を右へ、左へと曲がった。
袋小路で追い詰められないように道を選んだ。
夜の貧民街を駆ける。
しかも、子供が。
当然、危険だということはわかっている。
しかし、そうするしか俺に取れる手段はなかった。
助けに入ったあの男が何者なのかが分からない以上は。
あの男は何者なのだろうか。
人攫いの奴らと対立する集団の手先か?
それとも奴らから金品を奪い取ることが目的か?
人攫いは儲かるから、奴らもそれなりに金目のものを持っていたことだろう。
頭の中でそんな思考をこねくり回しながら、走る。
夜の闇の中、ちょうどいい隠れ家を探しながら。
最悪、今日は路地裏で寝ることになるかもしれない。
出口の限られた家に籠るよりも、すぐに逃げられる裏路地の方が安全かもしれない。
定期的に、後ろを振り返る。
俺はあまり夜目が効くほうではないが、おそらく追ってきている奴はいないだろう。
俺を追いかけるような足音も、気配もない。
いや、油断は禁物だ。
貧民街という世界では、一瞬の油断も命取りになる。
俺は、そうやって死んでいった奴を何人も見てきた。
……いったい、どれくらい走っただろうか。
神経をすり減らしながら長い距離を全力疾走したせいで、息が切れてしまった。
こういう時は、いったん休むに限る。
もし疲労を蓄積させたまま接敵するようなことがあれば、目も当てられない結末になるだろう。
もう、夜も遅い。
この辺で寝床を探そうか。
なるべく人目につかず、かつ行き止まりでない場所。
その中でも、あまり人に知られていなさそうなところ。
周囲に警戒しつつ、都合の良い場所を探しながら歩く。
この家屋は、人の気配がするから駄目だ。
ここの路地は、少々目立ちすぎる。
どこか、ちょうどいい場所は――
――突如、人の気配がした。
遅れて、足音が。
反射的に後ろを振り向く。
振り向きながら、地面を蹴って距離をとることを試みる。
「……っ!?」
腕を掴まれた。
反射で、掴まれた腕を振りほどこうと腕を乱暴に振り回す。
同時に、俺の腕を掴んだ奴の姿が目に入る。
夜の闇に溶けるような、黒い外套の男。フードを目深に被り、スカーフで口元を隠している。
そうだ、こいつは。
さっき、俺を逃がした男だ。
しかし、分からなかった。
なぜ、俺を逃がしたにもかかわらず追いかけてくるのか。
いつから、どうやって、俺を追いかけてきたのか。
この男の目的は、一体何なのか。
隙を見せていることは自覚しつつも、迷い、困惑するしかなかった。
しかし、男は俺に襲い掛かってくるようなことはせず。
強い力で、俺の右腕を掴みながら。
夜の静寂の中、男は低い声で言った。
「お前には話がある。俺についてこい」
腕を引っ張られる形で、半ば強引に俺は連れ去られていった。