30 海運都市アラインサンドリア
ティリナ行方不明事件から数日後。
あれ以降、ティリナがいなくなることはなかった。
むしろ、ずっと俺の傍に付き添っていたような気がする。
それなら確かに見失うことが無いから良いのだが、どこか距離が近いような気がした。
とはいえ、俺がティリナの依り代である以上、今更ではあるのだが。
そんなわけで、俺とティリナ、エルキナは、海運都市アラインサンドリアに向かう馬車に乗っていた。
もちろん、使用人やメイド、御者も一緒である。
ただし、バラディアとの終戦協定が結ばれていないためにジル・エリヴィスに戦力を残さなければならず、ロノアをはじめとした戦闘メイドやセバヌス、エリヴィス軍の面々はジル・エリヴィスに残っているらしい。
俺は馬車に揺られながら、柔らかい椅子に座っていた。
ティリナは姿を現しておらず、俺に取り込まれて休んでいる。
そして眼前には、俺と同じく馬車の席に座るエルキナの姿がある。
アドレーン公爵家の最も豪華な馬車というだけあって、馬車の内部が広い。
俺とエルキナの間にはテーブルが置いてあり、飲み物やお菓子を嗜むことができそうである。
椅子はクッションが敷いてあるため柔らかく、馬車の揺れを吸収するため尻も痛くならないだろう。
馬車の内装は赤で統一されており、白いドレスを纏ったエルキナがうまい具合に引き立って見える。
そのようにエルキナを見ていると、彼女はぽつりと呟いた。
「復興も、無事に進んでいるみたいですね」
「ああ、前みたいな活気が戻ってきている気がするな」
対バラディアでの戦争で戦地となった第一城壁付近。
馬車はちょうど、そこを通りかかるところだった。
馬車の窓は、第一城壁に囲まれた、第一城壁区域の街の景色を映していた。
第一城壁の破壊を許し、第一城壁守護隊の前線によって抑えきれなかった敵兵による被害と、それを討伐するための戦闘のための損壊。度重なる砂嵐によって汚れた建造物。
終戦直後はそんな景色だったが、今ではすでに戦前と同様の、平和な街の様子が見て取れる。
「だが、城壁の修繕はまだ先か」
「そうですね。あれは、魔法を用いた大規模な工事が必要なので……」
大規模魔法陣によってえぐり取られた地面は元通りになっており、城壁付近に積み上げられた瓦礫の山はかなり低くなっていたが、しかし、城壁は崩れたままの状態にある。
まだ、完全に復興が終わったわけではないということなのだろう。
「話は変わりますが、シグトさんはチェスをご存知ですか?」
「ああ。チェリスに教わった」
「そうですか。では、チェリスがチェスの名前の元となったということもご存知ですか?」
「直接聞いたわけではないが、名前が似ているしそんなものでないかとは思っていた。でも本当に、チェリスがこのゲームを作ったのか?」
言外に「あんなに複雑なゲームを、チェリスのような子供が本当に作れたのだろうか?」と言い含める。
セバヌスと協力したとは言っていたが、それでも身内でやっているうちはあれほど詳細なルールは必要ないだろう。
しかしあのゲームは、既に何十年、いやもっと古くから改良されてきたかのような、そんな洗練されたものを感じたのだ。
「確かに、元となったゲームはありました。リヌキスというボードゲームを改良して、チェスを作ったと聞いています。リヌキスから盤面を広くして、駒の種類を多くしたのがチェスで、それ以外のルールはリヌキスとほとんど同じみたいです」
「なるほどな。戦略の幅が広がって、一気に貴族の中で流行り始めたってわけか」
「よく知ってますね。シグトさんも、貴族の出身なんですか?」
そう問われ、ふと思い当たることがあり、考えを巡らせる。
ここで、俺の出身が路地裏だということは言わない方が良いかもしれない。
貴族の中には、そうした者を忌み嫌っている者もいるという。
エルキナはそういう類ではなさそうだが、万が一というのもある。
人は見かけによらないものだ、とはよく言われていることだ。
「いや。ただ、そういう話を聞いたことがあるだけだ」
「そうですか。……では、ちょっとチェスの相手になっていただいても良いですか?」
「ああ。大丈夫だ」
頷くと、エルキナは椅子の上に置いてあったチェスボードを机の上に乗せ、白と黒の駒を並べ始めた。
どうやら、エルキナは最初からチェスをするつもりで、道具一式を持ち込んでいたらしい。
用意周到である。
このようにして、馬車で揺られている暇な時間は主にチェスをして過ごした。
このゲームは奥が深く、また集中するので暇つぶしには最適なのかもしれなかった。
特に暇を持て余したと感じることもなく、二日ほどの行程を終えた。
そして、到着した。
海運都市アラインサンドリア。
商業が盛んな、港の街。
その立地を象徴するように、塩分の含まれた独特な香りが僅かに感じられた。
馬車の中から、俺は生まれて初めて海を見た。
地平線まで果てしなく続く青い水面は、自然の雄大さを余すことなく表現していた。
俺とティリナが救おうとしている世界は、果てしなく大きなものであると、否応なしに理解させられた。
☆ ★
アラインサンドリアの領主邸。
ジル・エリヴィス城のように武装しているわけではなく、大きく立派な邸宅と呼ぶにふさわしい佇まいであった。
アラインサンドリアの中央部にあるそれは、周辺の建物よりもひときわ大きく、目立っていた。
そこに到着すると、使用人の一人が門番と何かを話し合っていた。
その後、使用人は戻ってきて、門番は邸宅の中へ駆けていった。
しばらくして門が開くと、道の脇には使用人とメイドが一列に並び、盛大な歓迎を受けた。
その中を馬車で通り抜け、邸宅の玄関まで到着し、馬車を降りる。
するとそこには、嫌らしい目つきをした恰幅の良い中年の男が待ち構えるように立っていた。
そんな見た目に反して、着ている服はまるで新品のような礼服だ。
どことなく、路地裏の少年の敵である奴隷商を想起させるような見た目であった。
「ようこそ、アラインサンドリアへ。エルキナ様もお元気にしておりましたかな?」
「はい。エダグス様も、元気そうで何よりです」
「では、時間を無駄にさせてしまうのも悪いですので、早速ここらの案内をいたしましょう」
エダグス・フォン・カレヴィエル。
エルキナによるとこの男は傲慢で強情とのことだが。
俺が抱いた第一印象は、少しばかり異なった。
奴隷商と見た目が似ているからだろうか。
それとも、彼の雰囲気によるものだろうか。
なぜかは分からない。
だが俺は、この男が危険であると、直感的にそう思ってしまった。




