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10 精霊の少女




 泉に辿り着いた時には、完全に森は真っ黒の闇に覆われていた。

 しかし不思議なことに、この泉の周辺だけは、不思議と明るかった。


 ぼんやりとした灯りに包まれた、緑色から茶色へと変わっていく地面のグラデーション。

 青々とした葉を生い茂らせた木々。

 水面には、夜空に浮かぶ星々が、水の細波さざなみによって明滅し、煌いていた。


 まさに絶景と言うべき景色に、ただただ目を奪われるばかりであった。


 ふいに、水面のある一点がぼんやりと明るくなり始め、俺はそちらに視線を向けた。

 水面には、群青色の空と白い星が、綺麗に写し取られていた。


 その水面の、中央部分。

 そこから柔らかい光が発せられ、だんだんと周囲が明るくなってきた。

 徐々に水面の波が大きくなり、星の光が、泉の中央から発せられる光が、不規則に乱反射し、幻想的な光景を作り上げた。


 そして。

 泉の中から、精霊が出現した。


 肌は雪のように白く、腰のあたりまで伸ばした髪は、夜空の青を薄くしたような薄い群青色だ。

 青い模様の入った白いドレスには、各所に、色とりどりの宝玉が飾られていた。

 赤、橙、黄、緑、水色、青、紫――7色の宝玉で彩られたネックレスは、小柄で可憐な彼女を幻想的に仕立てていた。


 そんな彼女が、目を瞑ったまま水面の上へ浮かび上がる。


 そして、彼女の全身が水面の上に姿を現したところで上昇を止めた。

俺のいる方を向いたまま、ゆっくりと目を開く。

 その目は、透き通るような水色の瞳だった。


「ようこそ、精霊の泉へ。あなたは何を求めに……





…………え?! ご、ご主人?!」


 精霊の少女は驚いたように目を見開き……その表情は嬉しそうなものへと変わる。

 両手を広げて、抱擁を迫るようにして駆けてくる。


 そして、勢いをそのままに、俺に抱き着いた。

 柔らかく温かい肌の感触と、柑橘系の甘い匂いが俺の全身を包み込む。


「ご主人、会いたかったよ!」


「えっ……? たぶん、人違いでは……」


 いけない、少し動揺してしまった。

 ちょっと落ち着こう。

 なんで俺は今、少女の姿をした精霊に抱きしめられているのか。


 ここまで喜んでいるところに水を差すようで悪いのだが、俺はその「ご主人」とやらに、心当たりはない。

 その上、再会の時にここまで喜ぶような関係の者もいなかったはずだ。

 だから、少し申し訳ないのだが、彼女の抱擁を、なるべく優しく引きはがそうとして――


――悲しそうな顔をして、彼女の方から抱擁を解いた。


「いきなりごめんね……。そうだよね、キミは私なんか知らないよね……。ご主人には、あの時の記憶が無いんだもんね……」


 彼女は今にも泣きそうな表情を浮かべ、俺に対して頭を下げる。

 こんな顔をされると、俺の方も申し訳なくなってくる……。


 いや、でも。

 彼女は、何と言ったか。


『キミは私なんか知らないよね……』

 たぶん、彼女にもその自覚はあるのだろう。

 俺は彼女に会ったことはない。


『ご主人にはあの時の記憶が無いんだもんね……』

 問題は、これだ。

 あの時の記憶。

 あの時とは、いつか。

 何か、どこかで引っかかりがある気がする。


 そうだ。

 予言者ルクトの言葉だ。

 俺の前世は、人間の始祖だった。

 彼は俺に向けて、そんな話をしていた。


 確かに、俺は前世の事など覚えていない。

 人類の始祖ならば、誰かの主人という立場であってもおかしくはない。


 そうだ。彼女の話と辻褄が合う。

 人違いではない。

 どうやって彼女が知り合いの来世の姿だと気づいたのかは不明だが、精霊にはそういう能力もあるのかもしれない。


 さて、俺の前世の名前は何だったか。

 確か、俺の名前は……


「……ルーグトリス。それが、俺の名前でしたか?」


「……っ?! もしかして、あの時のこと、覚えてるの?!」


「いいえ……。申し訳ないんですが、前世のことは、他人に聞いた話だけしか知りません。予言者ルクトという男を知っていますか?」


「ルクト……。ううん、知らない。でも、ルクトって人はキミの前世の名前を知っていたんだよね?」


「そうなりますが……」


 てっきり、予言者ルクトとこの精霊の少女は知り合いであると思っていた。

 ルクトが俺を嵌めようとしていて、精霊の泉にたどり着いたらルクトの息のかかった精霊が俺を陥れるように行動するのではないかという想定もしていた。

 だが、彼女の反応を見る限りだと、久しぶりに親しい友達や家族、恋人に出会ったような喜び方であった。

 純粋に喜び、しかし俺が彼女を知らないということに気づき、涙を流しそうになっていたように見えた。

 もし仮にこれが演技であるというのなら、俺は早々に白旗を上げて降参する。


「……うーん、不思議だなー。キミのことがご主人だって分かるのは、ボクだけだと思ってたんだけど……。まあ、いいか。それよりも、ご主人に頼みたいことがあるんだ。聞いてくれるかな?」


「はい、何でしょう」


「……ボクを連れて、世界を救う旅に出てほしいんだ」


 世界を救う、か。

 そういえば、ルクトも同じようなことを言っていた。

 もうすぐ世界が終わる、とか、世界を救えるのは君しかいない、とか。


 でも、俺にそんな大層なことは出来そうにない。

 一人の人間の力なんて限られているし、他の人を動かすようなコネもない。

 そもそも、どうやって世界を救えばいいのかさえ分からないのだ。


「やっぱり、難しいかな? ……そっか。そうだよね。ご主人は私のこと、今日初めて知ったんだよね。初めましての人にこんなこと言われても、信じることなんてできないよね……」


「いえ、そういうことではなくてですね。その、俺一人のちっぽけな力で世界を救えるとはとても思えないですし、そもそも世界の救い方も分からないですし……」


「あ、ボクの言い方が悪かったみたいだね。ボクは、キミの使える力も、どうやって世界を救うのかも、全部わかってるから。だから、キミが心配する必要は無いよ。ただ、時にはボクだけの力だとどうしようもないこともあるから、そういう時には協力してほしいな、ってことかな」


「では、俺は具体的に何をすればいいんですか?」


「うーん。今の地点では、状況による、としか言えないかな……。でも、一つ言えるのは、ボクはキミに連れられていないと、この泉から離れられないんだ」


「俺に、そんな能力があるんですか?」


「いや、他の人でもいいんだけど、なんというか……。この泉から出るときには人間と同化しなきゃいけないんだけど、その、気分的に、キミ以外の人とは一緒になりたくない、っていうか、ボクの心に決めた人がキミだから、って言えばいいのかな? でも、結局、キミの始祖の力は必要になるから……まあ、ありていに言えば、キミじゃなきゃダメなんだ、って感じかな? 


……説明下手でごめんね。この説明で、分かってくれたかな……?」


「大丈夫、だと思います。つまり、俺とあなたは一緒になって、悪を倒して世界に平和をもたらす、みたいな感じでしょうか」


「なんか、一緒になるっていうと、恥ずかしいけど……。だいたいは、そんな感じかな。それで、ボクの頼みは、受けてくれる?」


 返事は、決まっている。

 ルクトの言い分に従うと決め、精霊の泉に向かった時には既に。

 引き返すことなど、選択肢には無かったから。

 ただ命を繋ぐだけの生活で一生を終えるのではなく、何かに向かって進んでいくのだと、そう決めたのだから。

 例え騙されていたとしても、何も為さないで死にゆく生活よりは希望があるだろうから。

 だから。


「はい。以後、よろしくお願いします」


 そう言うと、彼女は顔を綻ばせて喜んだ。


「よかったー。こんな私のことを信じてくれて、ありがとう」


「いえ、最初から、返事は決めていたので。

……あ、そういえば。あなたの名前をまだ伺っていなかったと思うんですけど……。

 ちなみに俺は、今世では、シグトといいます」


「ボクは…………そうだ。ティリナって呼んでもらっても良いかな? あと、キミに敬語を使われるとちょっと悲しくなっちゃうから、馴れ馴れしく接してほしいな。侍従とか召使いとか、そういう扱いでもいいから」


 敬語じゃないと悲しくなる、か。

 きっと、前世の俺は彼女とかなり親密な関係にあったのだろう。

 たしかに、久しぶりに会った親しい友達が、いきなり自分のことを忘れ、あまつさえ距離を置いて敬語で話すのは、どんな事情があったとしても辛いものなのかもしれない。


「はい。ええと、ティリナ。今日からお前は俺の案内人だ。さっそくだが、次にどこに行けばいいのか案内してくれ。……こんな感じでいい?」


「うん。そんな感じでお願い」


 ティリナはそう言って微笑んでいたが、唐突に「あっ」と声を漏らした。

 慌てたように、泉と空を見比べ始めた。


「どうした?」


「あ、うん。なんか、もうすぐ星の満ちた時間が終わっちゃうみたいなんだよね。だから、もしキミが協力してくれるなら、ボクのこと、キミに取り込んでもらわなきゃいけないんだけど……。その、拒絶しないでね……?」


 ティリナは上目でお願いをしてくるが、もとより俺は彼女を拒絶する理由はない。

 無言で頷くと、彼女は安心したのか、控えめに笑った。


 そして、意を決したように頷いて、彼女は俺に抱き着いてきた。

 俺は、そんな彼女を受け入れ、そっと抱き返すと――



――目の前の、彼女の姿が消えた。


 そして、俺の中に何かが入ってくるような、俺の身体が温かい何かで満たされていくような、そんな感覚がした。


 彼女が姿を消して残ったのは、夜空を写し取ったように煌く泉の水面と、ぼんやりと明るい泉の周辺の自然、そして泉のほとりに立っている俺だけだった。

 静かで、やはり幻想的な光景だが、どこか寂しそうに見えた。


 いつしか、空腹感も消え、衣服の泥も落ちて綺麗になっており、水面で自分の顔を確認すると頬に出来ていた切り傷もすっかり無くなっていた。


 そして、星が満ちている時間が終わった。

 ぼんやりと明るかった泉の周辺の光が徐々に暗くなり、やがて真っ暗になった。

 空の星が、水面に反射した星の光が、夜の闇を穿つように輝いていた。

 そこで、俺は横たわり、ゆっくりと眠りについた。




 俺はこの日、精霊ティリナを取り込んだ。





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