特別扱い
「……だから、記憶喪失なんて、そんなに軽々しく言っちゃだめなの!」
突然、会話に割り込んできた一葉に、朔が怒られている。昨日や今朝とは、随分と一葉の様子が違う。
「だって、冗談だと思うじゃん……普通……」
「だって、じゃないの!」
「いや、だって、ヤットさんが……」
「だからだってもヤットもないの!」
一葉のおかげでこの場はなんとかなりそうだな。そんなことを思っていると、一葉の隣に立っていた水月が、教室の入り口を見ながら、一葉の袖をくいくいと引っ張っている。
教室の入り口には、咲さんが立っていた。眉間にしわを寄せた、難しい顔をしている。
「はい、みんな。もう始業だから、席に着こうね」
咲さんが、パン、パンと手を鳴らしながら、教壇に上る。水月も、朔も、もちろん他の立っていた生徒たちも、自分の席へと戻っていった。
その時、始業のチャイムが鳴りだした。
「……はい、じゃあホームルームを始めるけど」
チャイムが鳴り終わると、咲さんはそう言って一呼吸置いた後、
「最初に、みんなに、大事な話があります。真木君のことです」
「……別に病気ではないから、特別に気を使ったりする必要はないの。だから、変に騒いだりしないで、みんなクラスメイトとして、普通に接してあげてね」
うーん、なるべく広めないように、と言われていたのに、二日目にして、いきなりクラス中にばれてしまうことになった。やっぱり、記憶喪失なんて言葉は、使うべきじゃなかった。……ごめんな、灯。
「じゃあ、ホームルームを始めようね。今日は、まずクラスの係を決めます」
こまごまとした決めごとの後、中庭での集合写真の撮影で、午前中の予定は終了した。
「午後は一旦教室に集合ねー。あと、クラス委員に決まった二人は、教科書を運ぶのを手伝ってもらうから、予鈴がなったら二階の多目的ルームにねー」
咲さんは、手でメガホンの形を作りながら言った。ヤッホーのときにするポーズだ。
とりあえずお昼をたべようと、教室に戻ろうとすると、
「真木君、今日はお弁当?」
咲さんだった。
なんでも、相談したいことがあるのでお昼を一緒にどうか、とのことだ。一体なんだろう? 一旦教室に戻り、リュックを取って職員室に向かうと、ちょうど咲さんが扉を開けて出てきた。
「あ、真木君。じゃあ、旧校舎の方へ」
この学校の校舎は、数年前に建て直されたけど、旧校舎の一棟が、取り壊されずに残っていた。現在は、一部の文科系部の部室や、生徒会室として活用されている。運動部で、生徒会とも特段の関わりのなかった僕には、ほとんど縁の無かった場所だ。
咲さんに先導されて、渡り廊下から旧校舎へと向かう。
そういえば、今日の咲さんの髪型は、昨日のシニヨンスタイルではなく、ハーフアップになっていた。
『……綾人、俺はこれから、お前に色々なことを伝える。だが、その全ての前提として、決して忘れてはならないことがある』
「それは、一体?」
『一流の男と、二流の男。その最大の違いがなにか、分かるか?』
「……力不足を痛感します」
『なにを“特別扱い”するのか。分かれ目は、そこだ』
「特別扱い?」
『二流の男や、三流以下の男は、“女であること”を特別扱いしてしまう』
「男性にとって、女性は特別では?」
『違う。女だから特別なんじゃない。“その女”だから特別なんだ』
「力不足を痛感します」
『まあ、今はいい。お前なら、すぐに俺がなにをいいたいか分かるようになる。そのためにも、俺はお前に、一つの課題を与える』
「はい、喜んで」
『女が髪型を変えたら、必ずそのことに触れるんだ』
「必ずですね?」
『そう、必ずだ。気が付かないなんてのは論外だが、気を付けるのは、ただ“かわいいね”なんてのは、二流以下がやることだってことだ』
「ではどうすれば?」
『“前後”と“細部”だ』
「“前後”と“細部”ですか?」
『そう、“前後”と“細部”だ。“前もよかったけど今のもいいね”、が基本だ。分かるな? あとは、他の男が触れないような、細かく変わったところまで、きちんと誉めろ』
髪の上部は、淡いピンクパールのバレッタでまとめられている。日が差し込むこの渡り廊下だと、やや色素の薄い、茶色がかった髪なのがはっきりと分かる。
「昨日の髪型も素敵でしたが、今日の髪型もとてもお似合いですね」
「え、あ、ありがとう」
咲さんは、びくっと立ち止まってこちらを振り返ると、すぐにまた前を向いて歩き出した。
「や、やっぱり入学式みたいなカチッとしたスーツだと、ああいう方がね。普段はこうなんだけど」
前を向いたまま、咲さんが言った。
「そうですね、式の雰囲気にも合っていましたし、とても清楚な感じで良かったです」
「……」
「今日のそのバレッタも、咲さんの髪の色にぴったりですね。とても素敵です」
またピタッと足が止まり、先ほどよりもゆっくりと振り返る。
「ねえ、真木君……その、わざとやってるんじゃ、ないよね?」
背中が少し丸まって、上目使いのような体勢だ。
「なにがです?」
「う、ううん、いいの。急ごうか」
なにか、おかしなことを言ってしまったのかな?
「……だめだめ」
少し早足で歩き出す咲さん。
「……いくら最近……ご無沙汰……なに考えて……私……」
途切れ途切れに、そんな呟きが聞こえた。