水月の視点
「さっきのはびっくりしたね。でも灯もけなげでかわいいし、力になってあげなきゃ!」
一組の灯と教室前で別れた後、四組の教室に鞄を置いた私は、一葉に誘われるまま、二人連れ立って女子トイレにやってきた。
まだホームルームの開始まで時間もあったし、私もさっきの話をもう少し自分なりに咀嚼しておきたかったので、ちょうど良かった。
「でも、記憶喪失って本当にあるんだね……」
洗面台で手を洗いながら、一葉が言う。
私は口にハンカチをくわえていたので、すぐに返事はできなかったけど、一葉に不満そうな様子はない。私に話しかけているように見えて、これって要は独り言なのである。中学三年間、同じクラスで付き合ってきて、この子の性格はよく分かっている。
「実際、どんな感じなんだろうね?」
先ほどの灯の様子からして、記憶喪失というのは、本当のことなんだろう。
でも、この時の私には、まだピンときていなかった。「記憶喪失の人」というと、「ここはどこ……」じゃないけど、混乱した、なんというか軸のぶれたイメージだ。
そのイメージと、彼の立ち居振る舞いが、どうしても一致しないのだ。
「綾人君、ちょっと変わってるな、とは思ったけど、全然そんな感じじゃなかったから、びっくりしちゃった」
そうなのだ。昨日の自己紹介の時、「反対から」といわれて、内心私も、ちょっとどきっとしていた。もちろん、上がり症なくせに、一度スイッチが入ると暴走する気のある親友が、初っ端からなにかしでかさないか、心配だったから。
でも、すすんで立候補した綾人君が話し出した瞬間、そんなことは全部、頭から押し流されてしまった。
たかだが自己紹介とはいえ、高校一年生が、たくさんの初対面の人の前で急に話をすることになったら?
普通は、どんなに取り繕っても、多少は恥ずかしそうだったり、どこかに緊張の色が見えたりするものなんじゃないだろうか?
でも、彼は本当に自然体で、全く、そういう動揺の「かけら」すらないように見えた。……ちょっとすべり気味だった時も含めて。
少し高めの身長に、引き締まった細めの体形。兄妹なのに灯とは大分違う、軽いくせ毛。低めでよく響く声。目は一重で鋭く、いわゆる「美少年」系の顔立ちではないけど、ほんの数言で感じられた、同い年とは思えない(実際一つ年上だったんだけど)クールな雰囲気も含めて、正直、ちょっといいかも、と思った。
それがいきなり「看護婦さん」だ。「え、あなたみたいなポジションの人が、そんなこと言う必要なくない?」って、聞いている私の方が、変にドキマギしてしまった。
周りのクラスメイトも、そのギャップに唖然としていたようだった。もちろん、固い空気を壊してくれたのはありがたかったけど。
「でも……面白半分でからかう人もいるかもしれないし、あんまり広めないほうがいいよね? 私たちがこっそりフォローしてあげればいいんだし」
一葉の独り言は、まだ続いていた。でも、今のはその通りだろう。
灯の様子からしても、少なくとも周りも含めて、もう少し雰囲気が落ち着くまでは、あまり大っぴらにして騒がれたくないと思っているはずだ。
「だね。その方が、一葉も綾人君とお近づきになる口実ができるし!」
私は、ここで初めて口を挟んだ。
「え、ち、違うよ。なに言ってるの、水月」
「はいはい。いいじゃない、『メガネの似合う、かわいい』一葉ちゃん。たまには私とも仲良くしてよね!」
一葉の背中をパン、と叩く。
「もう水月! 本当にからかわないでよ!」
うん、私と一葉で、なにができるかは分からないけど、できるだけ力になろう。
しばらくは、陰から彼のフォローをしてあげないと。一葉をからかいながらも、そういう気持ちになっていたのは、私も同じだった。
「えーっ、ヤットさん、なんすかそれー?」
一葉と教室に戻ると、髪を染めた軽そうな男子が、なにやら綾人君と話をしているようだ。それも結構な大きさの声。物凄く悪い予感がする。
一葉も同じことを思ったようで、不安そうな目で私の方を見ている。
「記憶喪失なんて、嘘でしょー? 昨日といい、ヤットさんそんなキャラじゃないじゃないっすか。いつから路線変更したんすかーっ? もー、このお茶目さんっ」
「いや、本当だぞ。おかげで妹とも同級生だ」
アイタタタ……。私と一葉が教室にいなかったのは、せいぜい五分てとこだ。その間に、もう、これである。
教室のクラスメイトたちも、「記憶喪失」という異質な響きに興味を引かれたのか、綾人君たちのやりとりを、注意深く見守る雰囲気になっている。なぜか、周りの女子が皆、赤い顔をしているのが気になるけど。
「あれ? ヤットさん、妹なんていましたっけ……? それにこの学校なんすか? でも、いいんすか、じゃあ俺、妹さんに、お兄ちゃんがナース好きだの記憶喪失だの言ってたって、話しちゃいますよ?」
「よく分からんが、話したいなら後で紹介するぞ? 妹も、スタイルがいい美人の看護婦さんが好きって言ってたからな」
「え、『妹』さんすよね……?」
……灯、あなた、苦労してるのね……。さっき知り合ったばかりの健気な女の子が抱いているであろう悩みに、私はとても深いシンパシーを覚えた。
同時に、さっきまで畏敬の念と、ちょっとしたときめきまで抱きかけていたこのポンコツ兄を、今すぐ教室から連れ出して、説教してやりたい気持ちになっていた。
隣では、一葉がぷるぷる震えている。あ、これ、「入った」かも?――