水月と一葉
「ご存知だとは思いますが、逆行性健忘、いわゆる『記憶喪失』とは、ある時点から過去の記憶の一部が失われる症例を指します」
母の顔は、再び「硬い」ものになっている。相変わらず灯は、小揺るぎもしない。
「通常は、健忘のきっかけとなった出来事から近い記憶ほど失われやすく、逆に起点が昔の記憶については失われにくい、といった傾向が見られます。これは、普通の健康な人であっても、一昨日の夕食のメニューは思い出せなくても、自分や両親の名前、出身地などを忘れることはない、といったイメージが分かりやすいでしょうか」
橘医師は、机の上の資料を手に取り、ページを捲りながら続けた。
「ところが、綾人君の場合、事故直前の出来事についても、ほとんどの記憶が残っています。脳外科でも、学校に可能な範囲で確認したようですが、学校行事の内容や、それこそ事故の直前と思われるような授業の内容についても、驚くほどの詳細なレベルで」
「あの、先生、でも……」
「はい、ですので、今回のケースが非常に特殊なのは、その点なのです。外傷による健忘症では、記憶障害は、特定の時間軸に対して発生することが一般的です。事故から一年前までの出来事が思い出せない……といった具合ですね」
手に持った資料を再び机の上に置き、橘医師は母の目を真っ直ぐに見据える。母の表情が、さらに「硬く」なった。
「綾人君の場合、きっかけとなった出来事は、階段からの転落事故に間違いないはずなのですが……。なんというか、記憶障害が、連続した時間軸に対してではなく、ある特定の事象に対してのみ、発生していると考えるしかありません」
「あの、それはつまり……」
母の声は、震えている。灯もごくり、と息を飲んだのが分かった。
「はい。なんとなくお分かりだとは思うのですが、綾人君の場合、記憶のうちの『人間関係』とでもいうべき領域に対してのみ、障害が発生しています」
母が、両手で口を覆うような仕草をみせる。
「簡単に言えば、生まれてから事故までの、人との関わりの全てを忘れてしまっている、ということです」――
「記憶喪失……?」
「嘘でしょ……まだそんなのぶっこむの? 伏線回収できなくなっても知らないよ?」
意を決して、二人にお兄ちゃんが記憶喪失の一種であることを告げた。一葉はさらに顔色が悪くなっている。水月にしても、言葉尻だけを捉えれば茶化すような内容ではあっても、決して本心からふざけているわけではないのは、雰囲気から明らかだった。
「うん。って言っても、勉強とかに支障はないし、色々準備もしてきたから、大体は大丈夫だと思うんだけど……」
舞い落ちてきた桜の花びらが、ちょうどお兄ちゃんの頭の上に乗っかった。人が結構な覚悟で真面目な話をしてるのに、なんかマヌケ……。
「でも、ちょっと人間関係とかで、記憶が曖昧なところがあって。だから変なこと言ったり、しちゃったりすることがあるかもなんだけど」
実際には「ちょっと曖昧」どころじゃない。それに、いきなり過ぎたかな?
でもさっきの様子じゃ、黙ってたってすぐ、なにかしらやらかしちゃいそうだし……。
それに、ほとんど直感でしかないけど、この二人だったら、大丈夫な気がする。
「あの、だから!」
他の三人よりも数歩前に回り込んで、水月と一葉に頭を下げながら言った。
「お兄ちゃんのこと、よろしくお願いします! たぶん、色々変なことしちゃうと思うんだけど、決して悪気があるわけではなく!」
……やっぱり、重すぎたかな? 顔が上げられない。
「そんなに重く考えなくて良いからねー」とか、冗談めかしとこうかな?
うん、やっぱりその方が……。
「灯ちゃん!」
急に両手で肩をつかまれて、体をぐっと押し上げられた。
「大丈夫だよ! 私と水月で、綾人君のフォローはちゃんとするよ!」
私の両手は、いつの間にか肩から手を離した一葉の両手に握り締められていた。
まつげが触れ合うほどの距離にある一葉の表情は、先ほどまでの青ざめたものから一転している。瞳はうるうるしているけど、全体的にはなんというか、「メラメラ」とでもいうような雰囲気だ。あまりの変わりように、ちょっと心配になる。
「あー、一葉、こういうの好きだもんねー。レンタルのハチ公で、嗚咽が出るほど号泣してたのは、ちょっと引いたし」
あれ、ハチ公って? なにか引っかかるような……。
「水月! 茶化さないで!」
「はい、はい」
「灯ちゃん!」
「あ、あの、灯でいいよ……」
一葉は相変わらず、私の両手を握り締めたままだ。
「灯! 私たちは、なにがあっても灯と綾人君の味方だからね! なにか困ったことがあったら、遠慮なく言って!」
「う、うん……ありがとう……」
心からの好意だってのは間違いないし、本当にすごくありがたいんだけど。なんだろう、この不安は。
やたらと芝居がかったアクションといい、このテンションといい、もしかしてこの子……。
うちのお兄ちゃんとの相乗効果で、なにかとんでもないことにならなければいいんだけど……。
「ほら一葉。通行人の邪魔だよ。歩いた歩いた」
水月が一葉の肩に手を回して、強引に歩き出す。私の両手も、自然と自由になった。
二人が、私の横を通り過ぎる。
「水月ー……」
一葉はまだまだ続けたかったようで、不満そうだ。でも、絶対悪い人じゃないもんね、なんて自分に言い聞かせる。
少し先を歩く形になった二人に目をやると、不意に水月が私の方を振り返った。
水月は、一葉の肩から回した右手で、私に向かって親指をぎゅっと立てながら、ニコッと満面の笑みを浮かべた。まるで、「分かってる、分かってる」とでも言いたげだ。
……うん、二人ともちょっと変わってるけど、この子たちとは、仲良くやっていけそうな気がする。なんだか嬉しくなって、私も親指を立てた両手を、二人に向かって突き出した。いい人たちと知り合えて、よかったね、お兄ちゃん!
……さっきから黙っていたお兄ちゃんは、まだ例の「よく分からない」って顔をしている。
頭の上の花びらは、いつの間にか三枚に増えていた。
もう、このヒトは……。