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たろうくんとじろうくん

「太郎君は三個のコップを割ってしまって、次郎君は一個しか割っていないんですよね? なら、より悪いのは、当然太郎君です」


 精神科の医師だという人物は、胸に「(たちばな)」という名札をつけていた。

 イラストを用いた何度目かの質問に、僕はこう答えた。


「たろうくんは、おかあさんのおてつだいをしていて、てがすべってこっぷを3こ、わってしまいました」

「じろうくんは、とだなのおかしをこっそりつまみぐいしようとして、こっぷを1こ、たなからおとしてわってしまいました」

「たろうくんと、じろうくん。わるいのは、どっち?」


 平易な文体といい、三個と一個という単純な比較といい、これでなにが分かるんだろう? 疑問を持ちながらも、僕はしばらくの間、同じようなやり取りを繰り返した。

 その後も、テストのようなものを受けさせられたり、なぜか歯磨きをしろだの、サッカーボールでリフティングをしろだの言われ、解放されたのは、結局三時間強もの時間が経った後だった。


「脳外科での診断どおり、症例としては、逆行性健忘の一種であるといえます」


 待合室で待たされていた僕と母、それに灯は、再び「精神科」と書かれた部屋に通された。

 僕らが簡易な丸椅子に腰を掛けるやいなや、橘医師は、机の上の資料を見つめたまま、そう口火を切った。


「日常生活の基本的な動作はもちろん、いくつかの室内種目を試しただけではありますが、球技などの複雑な動きにも、全く問題はありません。運動、お得意なんですね」


 ここで、橘医師は初めてこちらに向き直り、僕らに交互に視線を向けた。


「ええ、中学では野球部のキャプテンでしたし、事故の前までは高校でも……」


 そう答える母の表情は、怒っている……というのとは、少し違うような気がするけど、それに似たような、なんというか「硬い」表情だった。


「そうでしたか。こういった、『体が覚える』などと表現するような記憶領域を、一般的に『手続き記憶』と呼びます。手続き記憶の領域について特段の問題が生じないのは、覚醒直後に軽度の前向性健忘の併発がみられたことも含めて、外傷による健忘の典型的な症例といえます」


 母は、橘医師の言葉を、うん、うんと頷くようにして聞いている。一方灯は、先ほどからじっと押し黙ったまま、ぴくりとも動かず、橘医師を見つめていた。


「念のため言語能力や思考力、計算力などについても再度テストを行いましたが、こちらも基本的には、なんの問題もありません。むしろ一般的な水準を大きく上回っています。とても優秀なお子さんですね」


 母の表情が、また少し変わった。僕にはなんとも表現のしようがない表情であることは同じだけど、先ほどより少し「軟らかく」なった気がする。


「で、ここからが本題なのですが……。通常の逆行性健忘の場合、記憶障害は、『手続き記憶』とは異なる、『エピソード記憶』などと呼ばれる領域で起こります。要は、個人が経験した色々な出来事の記憶ですね。綾人君の場合も、広義ではこれに当てはまるのですが……」


 そこで一旦言葉を切ると、橘医師は、改めて母の方に向き直り、こう告げた。


「一般的な逆行性健忘では、まず見られない、()()()()()()()()が認められます」――




「あの、それは災難だったね……。ごめんね、変なこと聞いちゃって」


 いつまでも立ち止まって話をしているわけにもいかず、並んで歩き出してすぐ、林藤(りんどう)さんが気まずそうに言った。さっきまでの恥ずかしそうな表情とは打って変わって、少し青ざめているみたい。小波(さざなみ)さんも、快活な雰囲気から一転して、何事かを考えているように黙り込んでいる。


「あ、ううん。全然気にしないで!」


 気を使わせちゃったかな?


 お兄ちゃんを挟んで反対側を歩く二人に向かって、両手をぶんぶんと振っていると、お兄ちゃんが、いつもの「良く分からない」って顔をしている。


「ああ、なにも変なことは聞いてないぞ?」


 気を使ったわけじゃなくて、「なにを謝ってるんだろう?」とか、本気で思ってるんだろうなあ、このヒト。

 どうしようかな……会ったばっかりだけど、この二人だったら……。


「ふーん、昨日もそう思ったけど、やっぱり真木君て独特だよね。さっきみたいにフレンドリーそうなのに、人の目を気にしてないというか、達観してるというか」

「水月、失礼だよ……」

「すっごい誉めてるんだけどな。それに真木さんも……ってか、分かりにくいなあ。二人とも名前でいい? 私たちのことも、さっきみたいに呼び捨てでいいから」

「あ、もちろん。私も灯でいいよ」

「じゃあ灯。綾人君は全然そういうこと気にしなさそうだし、灯もさ。変に気を使われるより、フランクなほうがいいんじゃない?」

「うん」


 軽くて馴れ馴れしそうな態度だけど、空気を変えるために、わざとそうしてることは、すぐ分かった。一葉も、お兄ちゃんに悪い印象を持ってないのは、間違いなさそう。

 この二人には、ある程度話しておいた方がいい。私は、そう判断した――


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