自己紹介とポリコレ
タン・タタン。
黒板に、小気味良いリズムで文字が書き連ねられる。
編み込まれた髪を、低めのサイドでお団子状にまとめた、いわゆるシニヨンスタイル。その髪型が、寧音さんに似ていたからだろうか。僕はふと、入院中の出来事を思い出していた。
パン・パン。
指先のチョークの粉を軽く払って、こちらを向いたその人は、
「赤穂田 咲です。年は二十五歳、担当科目は古文・漢文です。みんな、これから一年間、よろしくね」
右手でサムズアップのポーズを取りながら、片目をパチッとつむり、そう自己紹介した。
教室の最前列に座った何人かの生徒たちが、その様子を見て「ぷっ」と小さく笑う。担任の自己紹介を笑うなんて、失礼ではないんだろうか?
でも、教壇に立つその人は、まるで気にした様子もなく、話を続ける。
「ふふっ、ありがと。こんな珍しい苗字だから、昔はよく『くらのすけ』とか『ろうし』とか、からかわれてたの。みんなとは年も近いし、気軽に『咲さん』って呼んでもらえると嬉しいな」
なるほど忠臣蔵か、などと納得していると、今度は教室の半分くらいに笑いが起こっていた。咲さんも、一緒になって笑っている。もしかして、今のが「笑うとこ」ってやつなのかな?
「じゃあ、初めてのホームルームだから、みんなにも一言ずつ、自己紹介をしてもらいます」
とたんに、静まり返る教室。
「うーんと、こういうのって、だいたい名簿の最初からだと思うから、今回は反対からいこうかな?」
「えっ」
右隣に座る女子生徒が、小さく声を上げた。
入学式当日、席順は窓側の前の方から、あいうえお順になっている。当然、名簿の最後は、廊下側の一番「後ろ」の席、つまりは、僕の右隣だ。
周りの様子を伺うように、小刻みに動く首。ふんわりとカールしたワンレンの毛先が揺れる。その様子を横目で眺めていた僕とも、一瞬視線が合った。少しずり下がった、丸みのある形のメガネの奥の瞳は、少し潤んでいるようにも見える。
「あ、でも、もしやりたいって人がいたら、そこからでもいいよ。だれか最初にやりたい人、いる?」
教室内を見渡す咲さん。
『……周りに遠慮してるようじゃ、売れっ子になんてなれない。永久指名なんだから、初回さんへの自己紹介は、とにかく積極的にいくんだ』
自己紹介は積極的に、でしたよね、ツバサさん。
「はい」
「っ!」
僕が手を上げ、声を出した瞬間、隣の女の子の丸まっていた背中が、びくっと一瞬、真っ直ぐになった。少しだけ僕の方に傾いた顔。口元が、なにか言いたげに震えている。
「あら、真木君、偉いわね。じゃあ、真木君からお願いするね」
早速、担任に誉められた。さすがはツバサさん。
「そうね、名前と、出身中学と、好きなもの、くらいでどうかな? 終わったら、みんな拍手で、次の人ね」
あまり音を立てないよう、椅子の座面を両手でゆっくりと後ろに引きながら、立ち上がった。
「真木 綾人です。出身中学は南中です」
話しながら、咲さんが再び板書をしているのが目に入る。
タタン・タン。「名前」「出身中学」「好きなもの」。
その後姿に、またしても寧音さんの記憶が蘇った僕は、
「好きなものは、看護婦さん……」
いや、待てよ。「看護婦さん」は……。
『……日本はまだまだだけど、あっちじゃもう、あらゆるシーンでポリコレへの配慮は必須なんだよ。まあ、それを言ったらここでの話も大概アウトなんだけどね。アハハッ……』
「失礼、看護婦ではなく看護師です。女性の看護師さんが好きです」
全く、危ないところだった。性別で職業差別をするような人間、なんて風に思われるのは、きっとよくないよね。
一瞬の静寂の後に起こった、パラパラとした拍手。どうやら、初日から大きなミスを犯すことは、避けられたみたいだ。
着席すると、隣の女の子が、左手をすっと僕の机に伸ばし、そっと折りたたまれた紙のようなものを置いた。顔は真っ赤で、下を向いて縮こまっている。なんだろう?
開いてみると、中にはかわいい丸文字で「ありがとう」と書かれていた。
なんだか嬉しい。さすがはツバサさんと緒濱さん。
……入学式当日は、こんな風に何事もなく、穏やかに過ぎていったのだった。