エピローグ −賠償−
アタシ……山田清心の姉は、相澤悠奈という名前の悪魔に、一方的に殺された。小学六年生の時だった。
好奇心に負けたアタシが、事件の詳細をネットで検索したのは、中学一年生の時。それまで、犯人の顔はおろか、名前すら全く知らなかった。忌々しい少年法ってヤツのせいだ。
検索の結果ヒットしたのは、相澤悠奈という名前。顔は、どんなに探しても見つからなかった。そしてこの名前は、アタシの頭の中に不気味に粘りつくことになる。いつまでもずっと……。
そしてあの日、近所のスーパーで、たまたまアタシは聞いてしまったんだ。相澤悠奈は、沙紀って名前に改名したらしい……って。
アタシの全身に鳥肌が立った。学生時代の親友に、深町沙紀という名の女性がいたからだ。でも彼女は、物静かで、丁寧で、すごく優しい女。そんなわけないと思った。ずっと否定し続けた。……だけど。
「久しぶりですね。すがちゃんの実家って、この近だったんですか?」
精神的に追い詰められたアタシは、『今すぐ会いたい』といい、沙紀を夜のコンビニの駐車場に呼び出していた。
「……沙紀、聞いていい……?」
「はい、なんでしょう?」
「沙紀って、今何歳……?」
沙紀の表情は暗くてよくわからなかったものの、動揺していることはハッキリ伝わってくる。
「何歳って……。いいじゃないですか、歳なんていくつでも……」
「いいから、正直に答えて!!」
返事はすぐには返ってこなかったけど、何分か経った後、根負けしたように彼女は呟いた。
「二十……五。今年で二十六……かな」
今までずっと同級生だと思っていた沙紀は、姉と同い年だったんだ。全身に悪寒が走り、嫌な汗が滲んだ。
「ごめん、別に隠してたわけじゃなくて……!! はず……かしかったし、気を遣われるのも……嫌だったし……」
弁解する沙紀の言葉が、妙に胡散臭く感じられる。それでもまだ、沙紀はあの事件の犯人じゃないと、心のどこかで信じてたんだ。こんなにいい子が、人殺しのはずないって……。
「沙紀……、アタシの姉さんのこと、知ってる?」
「お姉さん? いたんですか? 全然知りませんでした……」
この沙紀の言葉に、アタシは少しだけホッとした。姉を知らないのなら、沙紀は犯人じゃない……。そういう希望が持てたからだ。
「まぁ、話したことないもんね、姉さんのこと……。実は、沙紀と同い年なんだ、生きていればね……」
「……あ、ご……ごめんなさい」
「ううん、いいの。アタシから振った話題だし。それに、もう亡くなったのはずっと昔で……姉さんが小学6年生の時だったから、とっくに乗り越えられてるよ!!」
あえて明るく振舞うアタシに対して、沙紀は……急に暗くなったように見えた。それも、アタシに同情してくれているからだって……どこまでも楽観的なアタシは、そう思っていた。
「どうして……亡くなったんですか?」
「え……? うん……。殺されたんだ。同級生の女の子に……」
「その……犯人の名前って、知ってますか?」
「名前? そうね、ええと……。相澤悠奈って子だったかな、確か」
なるべく白々しく、アタシは言った。これで何の反応もなければ、沙紀と悠奈は無関係だ。心の中で「沙紀は悠奈じゃない、沙紀は悠奈じゃない」……そう、何度も唱え続ける。だけど……。
「ごめんねすがちゃん……。あなたのお姉さんを殺したのは、私なんです」
沙紀は、いともあっさりと認めてしまった。救急車のサイレンが、ドップラー効果を伴いながらアタシの耳をかけぬけていった。
「……ち……ちょっと待ってよ!! だって沙紀は、アタシの姉さんのこと、知らないんでしょ!?」
アタシは沙紀に「嘘だよ」と言わせたくて、必死になった。悪い冗談はやめてくれよと……そういう感じで。
「そうじゃなくて。花々ちゃんがすがちゃんのお姉さんだった、っていう事実を、知らなかっただけ。山田花々さんという人物のことは、よく知ってますよ」
山田花々……。間違いなかった。やっぱり、今アタシの目の前にいるのは、相澤悠奈……あの悪魔なんだ。確信が持てた途端に、激しい怒りが込み上げてきた。
「なんで…なんで殺したの…!? なんでだよ!? どうしてアタシの……家族の幸せを奪った!? どうして!?」
沙紀の肩を激しく揺すりながら、アタシはそう問いかけていた。すると沙紀は、アタシの手を冷たく払い落としてから、言ったんだ。
「なんでって……最低の人間だったからですよ。私以上に」
開き直りやがった……!! アタシは愕然となった。アタシの親友としての沙紀は、もうそこにいない。いるのは、ただの悪魔……。
「なんだよ……ふざけるなぁぁあっっ!! こっちが、こっちがどれだけ苦しんだと思ってる!? どれだけ絶望に打ちひしがれたと思ってる……!? 信じてたのに!! あんたのこと、ずっと信じてたのに!!」
「……だから駄目なんですね。それだから、あなたはお姉さんのことに何も気が付けなかった。やっぱりすがちゃんは、いい人ですね。お人よしです。相手のいいところだけを見ることができるんですから……。あなたのお姉さんとは、全然違います」
パァァアン……。
その音は、夜の空によく響いた。アタシは、沙紀の頬を平手で思い切り叩いていたんだ。彼女は、表情の一つも変えなかったけれど。
「黙れ……。あんたにアタシの何がわかる……!! ぬけぬけと生きてきたあんたに、なにがわかるんだよ!?」
「……みんなそうなんですよ、人間は。自分こそが一番カワイソウだと、思われたいんです。同情して欲しいんです。被害者になりたいんです。そうやって生きるほうが、楽だから。言い訳できるから。だから、すがちゃんは私の気持ちをわかろうとしないんです。そうですよね? 本当は優しい清心さん……」
アタシは我慢できなくなり、沙紀の反対の頬をもう一発、思い切り叩いた。でも彼女は、相変わらず能面のような表情のまま、感情的になるアタシを、冷ややかな目で見続けていた。
「気が済むまで、好きにしていいですよ。ただ、これは事実としてあなたに伝えておかなければいけません。花々さんは、最悪ないじめっ子でした。下手したら、私は殺されていたんです。いいですか、あなたの見ていた花々さんは、化けの皮をかぶったニセモノ……」
「それは、あんたのことだろう……!!」
今度は、沙紀の顔に拳を食らわせていた。さすがの沙紀も、体勢を崩して痛そうに頬を押えた。姉さんが、そんな人間のはずないじゃないか!! この女は、全部自分の都合のいいようにもっていきたいだけなんだ!! そういう思いが、アタシから冷静さを奪い取っていく。
「姉さんは、姉さんの人生はなんだったんだ!? あんたに殺されるために、姉さんは生きてきたんじゃない!! あんなに、あんなに綺麗だった姉さんを、よくもあそこまでメチャクチャにできたよなぁっ!!」
「人は――」
沙紀は体勢を整えて、唇から血を流しながら言った。
「割と簡単に、天使から悪魔へと変貌してしまうものなんですよ。自分がどんなに良心的に振舞おうとしても、人間社会がそれを受け入れてくれなければ、やがては疲れ果てて……他人を庇う余裕なんてなくなっていくんです。表立った罪は犯さないけど、自分のために他人を使い、人を人とも思わないような人間が、善良な心優しい人々を踏み台にすることで、彼らを悪魔へと変えてゆくのです」
その言葉は、姉が沙紀を悪人へと陥れたのであり、沙紀はむしろ被害者なのだと、言っているようなものだった。もうアタシには、それに反論する気力など残っていなかった……。
「もういい。……わかった。二度と、アタシの前に現れないで」
この言い合いに空しさを感じるようになってきたアタシは、そう言って立ち去ろうとした。ここで終わりにしたかった。それなのにあの女は……!!
「私は、すがちゃんに目を覚まして欲しいんです!! 目をそらさないで欲しいんです!! 人を信じることも大切です。でも、違うんです、あなたのお姉さんは……!! あなたの思っているような人じゃないんです!! 受け止めてください、山田清心さん!! あなたのお姉さんは、悪魔だったんです!!」
刹那、怒りが爆発してしまった。一気に脳天まで血がのぼり、理性が完全に吹き飛んでしまった。
「これ以上……これ以上、姉さんを侮辱するなぁぁあああ!!」
アタシは沙紀に向かって疾走し、彼女の胸の辺りを全力で突き飛ばした。
ドスンという手応えと同時に、彼女はアタシに顔を向けたまま、後方へバランスを崩す。反射的に手を伸ばしてきたものの、彼女がその手でアタシをつかむことは出来なかった
「…… こ れ で ゆ る し て く れ ま す か ?」
彼女の唇はそのとき、そう言っていたような気がする。その悲しそうな瞳は、我を失ったアタシを蔑んでいるようにも見えた。
今までの沙紀との思い出が、走馬燈のようにアタシの脳内を駆け巡る。気がつけば、ボロボロと涙がこぼれていた。これは、沙紀との別れを悲しんだ涙じゃない。
彼女を信じ続けていた自分自身への憤りと、裏切られたことへの絶望に対する涙だ。
その直後、沙紀の姿がアタシの視界から消えた。同時に、激しいブレーキ音とタイヤの擦れる音、鈍い衝撃音が、アタシの耳を貫く。何が起きたのかも理解できなほど、その出来事は一瞬の間に起きた。
アタシが突き飛ばした勢いで沙紀は車道にはみ出し、車に轢かれてしまったんだ。彼女は斜めにはじき飛ばされ、ゴロゴロと対向車線へ転がって行った。
ただ、車の速度がそれほどでもなかったんだろう、沙紀の意識はまだあったらしく、手をついてなんとか立ち上がろうとしていた。それを見たアタシはハッと我に返り、沙紀を助けに行こうとしたんだ。でも、それが起きたのは一瞬の間だった。
対向車線から、大型のトラックが猛スピードで突っ込んできたんだ。沙紀はアタシの目の前で、トラックにズタズタに轢き潰されてしまった。ブレーキ音に混じって、骨が砕け、肉が引き裂かれるような不気味な音が、周囲に拡散してゆく。
そうだ、アタシには確かな殺意があって、沙紀を突き飛ばしたんだ。これは事故じゃない。アタシによって意図された、明らかな殺人。
アタシは、姉さんを殺した犯人への復讐を果たしたんだ。
近くで惨状を目撃した人が、警察に通報している。トラックの運転手が慌てて降りてきて、車体の下をのぞき込み、激しく嘔吐している……。慌てふためく人々をぼんやり眺めながら、アタシは放心状態となっていた。
トラックのタイヤの隙間から、よく分からないぐちゃぐちゃしたものと、沙紀の手らしきものが……覗いていた。




