アイ
「き、記憶が消えたって、本当か……!?」
少女の爆弾すぎる発言に、口をあんぐりと開けながら聞き返す。
「はい……。……あ、でも、消えたのは『これまでの自分』に関する記憶だけで、知識は全部残ってますから、問題はありませんよ?」
「いやいやいやいや、問題ありすぎるだろ。俺のせいで、そんな……」
無意味に嘘をつくタイプだとは思えないので、本当なのだろうが、嘘であってほしい。それだと俺が彼女を、今までの彼女を殺してしまったのと同義だ。
……いや、モンスターである以上敵だったのだから、殺してしまってもダメではないどころか推奨されることなのだろうが。それでも、少しの間だけだが話してみて情が湧いていたため、大きな罪悪感が襲いかかってくる。
「普通に生きていけますし、記憶を失った代わりにご主人様に出会えたんですから、むしろラッキーなくらいです!」
気に病んでいる俺を慰めるためか、笑顔でそんなことを言う少女。そんな簡単に割り切っていいことなわけがないのに。
「それにそれにっ、あの時のご主人様の拳、気持ちよかったですし!」
「まさかのドM!?」
うっそだろオイ。
両頬に手を当て、恍惚とした表情になりながらよだれを垂らす少女。目の焦点はあっておらず、顔が紅潮している。
これは、ふざけることによって俺の罪悪感を……いやでもドラゴンだとこの価値観が普通って可能性もあるな。っていうか、そんな気がしてきた。
「とにかく、わたしは大丈夫ですから、ご主人様は気にしないでください」
「……ああ、わかった。ありがとう」
真意は不明だが、ここまで言ってくれているのだ。これ以上俺が悩むのは、きっとこの子にも失礼になるだろう。お言葉に甘えさせてもらうか。
しかし、記憶喪失ね。もしかして、彼女が俺のことをご主人様と呼ぶのは、それと関係があるのではないだろうか。
目覚めてみると今までの自分の記憶がなくなっており、そばに倒れているのは敵とはいえ唯一自分が知っている相手。自分の名前すらわからない中ならば、既知の者の存在は心強いだろう。不安になっていた彼女が依存してきても、おかしくはない。
……洗脳感が半端ないな。殴り倒した相手にご主人様って呼ばせるとか、完全に悪役ポジじゃね?
あ、それと、やけに情緒が不安定な感じなのも記憶がない影響か。不自然に感じていたが、たしかにそりゃそうなるだろう。むしろ通常の状態でいられたらおかしいくらいだ。
「そういえば、記憶がないっていうことは、名前も思い出せないのか?」
考えている途中で出てきた疑問について聞く。知識は残っていると言っていたが、それは一体どの程度のものなのだろう。
少女は笑顔のまま口を開く。
「思い出せません。そもそも名前があったかわかりませんけど」
ともすればとても暗い過去がありそうな言葉だが……ああそうか。名前が付けられてない可能性もあったな。というよりも、その確率が高そうだ。
モンスターには基本的に個体名がつけられていない。多くの場合、種族名で区別される。というのも、そもそもモンスターにはまともな自我を持つほど知能が高い者が少なく、そういう文化が生まれることがあまりないのだ。
ドラゴンのように高い知力を有するモンスターであれば名を持つこともあるが、それも限られた例外のみである。
人のように振る舞っている少女の様子を見てうっかり忘れてしまっていたが、モンスターに名を尋ねるのはあまり意味のないことだったな。
一人で納得していると、少女が何かを期待するような輝く目で見つめてきていた。
「あの……もしよかったら、ご主人様にわたしの名前をつけてもらえませんか?」
「え、俺が?」
「はいっ」
突然の要求に吃驚して、自分の顔を指差し聞き返した。すると、返ってきたのは可愛い笑顔と弾むような言葉。
自分で始めた話題だが、変なところにやってきたな。
……名前か。俺でいいのであれば別につけても構わないが、そんな経験はないのでまともなのになるかどうか。
えーと、一応考えてみるか。
この娘の名前……、名前……。うーん、難しいな。俺の親はどういう意図でゼロって名前をつけたのだろう。
確か、レイはみんなの希望の光になってほしいっていう願いから名付けられたんだっけ。だったらなんか、『こんな人生を送ってほしい』みたいな願望をそのままつければいいのか? 人生っていうか、竜生だが。
だとすると……。
「アイっていうのはどうだ?」
「アイ、ですか?」
とりあえず適当に思いついたものを口に出してみた。
記憶を失った彼女に愛に溢れた生活をしてほしい、という考えからだ。あと氷結竜の最初の二文字というのもある。
「アイ……。アイ……」
反芻するように、何度かつぶやく少女。
「いい名前ですね! ありがとうございます、ご主人様っ!」
数秒後、満面の笑みで彼女はそう言った。今にもスキップでも始めそうなくらい上機嫌である。あの恐怖しか感じなかったドラゴンだとは思えないほど、その様子は可愛らしい。
あまり深く考えずに言ったものなので少し申し訳ない感じがするが、気に入ってくれたのなら幸いだ。
「それじゃあ、これからよろしくな、アイ」
「はい!」
笑顔で右手を差し出すと、彼女……いや、アイは俺の手を握り返してきた。握手の完成だ。小さくて冷たいアイの手の感触が心地よい。
さらに彼女は左の手も使って俺の手をガッチリと掴み、上下にぶんぶんと振り始める。……って、痛い痛い痛い痛い。めちゃくちゃな握力でやられているので、右手が壊れそうだ。寝てる間に攻撃されても無傷だったとか言っていたが、それ絶対嘘だろ! マジで痛いぞこれ!
「ちょっ……、ギブ! ギブ! やめてくれアイ!」
「あっ、すみませんご主人様っ」
素直に謝りながら手を離してくれた。まずいことをしでかしてしまったと、しゅんと落ち込むアイが可愛い。
……それにしても、本当に力が強いな。さすがはドラゴンだ。握手で右腕が砕けかけるなんて初めてだぞ。しかもこれ、絶対全力じゃないだろ?
「…………」
…………。
強いんだよな、アイは。とてつもなく、とんでもなく、理不尽なほどに。
かなりの強者であったはずの、レイ達が何もできなくなってしまうくらいに。
…………。
「なあ、アイ」
「なんですか?」
呼びかけると、鈴を転がすような声で答え、俺の顔を見上げてくる。
そんな彼女に俺は、とある一つの提案をした。
「俺と一緒に、このダンジョンを攻略してくれないか?」
「……え?」
アイは強い。俺が今まで会ってきたものの中で、間違いなくダントツに強い。記憶を失ってはいるが、それでも問題にならないくらいの力を持っているだろう。……まあ、俺はなぜか勝ってしまったが、あれはなにかの間違いだったのではないかと思っている。というか、それ以外ない。
それで、そんなアイならば、もしかすればこの最高難度のダンジョンをクリアすることができるのではないかと、そう考えたのだ。
ダンジョン『魔王の涙』の最深部に封印されているという、魔王が死の間際に瀕してなお執着したという財宝。それを持って帰れば。
…………。
俺は、この期に及んで英雄願望を完全に捨てきれていない。みんなに讃えられる、そんな存在になりたいと思っている。願っている。こんな方法でなったって意味がないとわかっているのに。
もしも財宝を手に入れることができれば、俺は英雄になれるだろう。
これはきっと、最低の提案だ。アイに過酷な戦いを強いて、その恩恵にあずかろうという、下衆の考えなのである。まるで暴政を敷き甘い汁を啜る無能領主のような。
自分は役に立たないのをわかっていて、それでも栄誉を手に入れるために、知り合ったばかりで信用できるかも怪しいとはいえ好意を向けてくれているらしい相手を利用する。軽蔑されたって、この場で殺されてしまったっておかしくないくらい、最悪な考えだ。
それでも俺は。わかっているはずなのに、俺は。欲望を抑えきれなかった。
そんな俺の言葉を聞いて、彼女は……
「はい、ご主人様! いっしょに頑張りましょう!」
快活な笑顔で、そう言った。