遭遇、氷結竜
終わった。
そんな感想が、最初に頭の中をよぎった。
「あ、ああ、ああああああああ…………」
ランが腰を抜かしたように情けない声をあげ、見るからに怯えている。先ほどまであんなに余裕があった彼女が、だ。
だが、それを責めるものはいない。そんな者がいるはずがない。
無理だ。生き残ることを、既に本能が諦めてしまっている。理解しているのだ、絶対的な力の差を。
「あっ……にっ……に、逃げ、ないと……」
恐怖によって顔面を蒼白に染めながら、なんとかといった様子で声を絞り出しているアン。いつもの明るさなどかけらも見当たらず、今の状況が限界であることを強く示している。
「……ああ、そうだ。橋を渡れば……」
レイはそれに答え、元来た道への撤退を提案する。
ドラゴンから逃げながらあの橋を渡るなど、不可能に近いのだが、それでもまだ正面からぶつかるよりはマシだ。そう判断したのだろう。
「は、早く行くわよ」
「うん……」
三人は我先にと元いた方向に引き返していく。心身ともに正常からはかけ離れた状態でありながらも、彼らは凄腕の冒険者だ。落ちずに橋を走れる余裕はギリギリあるらしい。
って、冷静に観察してる場合じゃなかったな。半ば現実逃避じみた思考だったが、この局面でのそれは死につながる。俺も三人に続いて逃げないと……。
「ゼロ、早く! こっちに!」
向こう側まで渡り切ったらしいアンの声が聞こえてくる。切羽詰まっているからなのか、いつもの侮蔑の色は含まれていないようだった。
だが、俺はその言葉に応えることができない。
「無能! おい、何やってる! 死ぬぞ!」
レイも向こうまで行けたようで、俺に声をかけてきた。そして、先程から一歩も動いていない俺に不信感を持ったようだ。呼びかけが困惑するような感じに変わっていく。
俺だって、逃げたいんだ。ここからすぐにいなくなりたい。こんなところにいたくない。
だが、体が動かないのだ。
クソっ、何が起きてるんだよ。手足が指一本も動かせない。それどころか、気を抜けば倒れてしまいそうな……。
出現してからほとんど身動きを取っていないドラゴンは、俺のことをずっと見つめてきている。まるで恋人に対するそれのように、情熱的に。……なんて、頭の中でふざけたことでも考えていないとどうにかなってしまいそうな恐怖。
振り返れない。ドラゴンの目に向けた視線をそらすことができない。逸らした瞬間、俺は死ぬ。そんな気がする。
全身が汗でベトベトになるのも気にならないくらい追い詰められていると、後ろからランの声が聞こえてくる。
「ねえ、ちょっと待って。なんであのドラゴン動かないの?」
「……ぇ? あ、たしかに……」
ランの疑問に、同意するアン。
「……もしかして、ゼロを最優先の獲物として認識してるんじゃないのか?」
レイが幾分か落ち着いた声でそう言った。……もしそうだとしたら、俺は絶望なんてものじゃすまないんだが。
「ねえ、それってあいつを殺すまでドラゴンはこっちを襲ってこないってことなんじゃない?」
「そう……かもしれないね」
「……逆に考えれば、あいつがこっちに来たらドラゴンまで引き連れてくるかもしれない、ということか」
なにやら相談している風の三人。おい、なにを話している。遠くて全ては聞き取れないが、俺にとって都合が悪いことのような気がするぞ。
致命的な何かが起きる前に逃げようと必死に体を動かそうとするも、まるで自分の手足じゃないかのように全くびくともしてくれない。……くっそ、マジでなんなんだ。
焦りながら、そして未だに動くそぶりを見せないドラゴンの不可解さに得体の知れない怖さを感じながらいると、ランが一言、やけに通る声で言った。
「それなら、この橋を壊してあいつがこっちに来られないようにして、私たちは出ていけば、逃げられたりしない?」
……………………え?
「そ、それは……そうだな……」
………………おい、待て。お前ら、何を…………。
「……それしか、ないよね」
………………何を言ってる。おい、おい!
「……わかった。橋を、壊そう」
……………………え?
「私が、やるわ」
振り向かずとも。後ろを見なくても、わかった。理解できた。感じられた。
ランが今、橋に向けて弓矢を構えている。
……………………。
…………。
「さようなら、崩壊を呼ぶ矢!」
「やめろぉおおおおおおおおおおおお!!」
絶叫する。体は依然動かずとも、喉だけは震わせる。
だが、そうだ。
そうだ。
間に合わない。
まずは爆発音が聞こえた。
そして、次に何かが崩れるような音が聞こえる。
認めたくない。知りたくない。
だが、わかってしまっている。
俺の最後の希望である橋はもう消えて、それで――
「それじゃあ、永遠の別れね」
「最後に囮役としてくらい役立ってくれよ、役立たず」
「バイバイ、最後まで無能な荷物持ちくん」
無能と呼ばれても、役立たずと呼ばれても、荷物持ちであったとしても、まだ少しはきっと残っていると信じていた絆が、もうどこにもないことも。
本当は、わかっていた。
…………。
…………。
…………。
…………。
…………。
「うわぁあああああああああああああ!!」
三人が出て行き、瓦礫の音もしなくなった静寂の中で、俺の叫び声だけが虚しく響いている。
ああ、俺は死んだのだ。まだ体は生きている。息もしている。だが、既に死んでいるのだ。ゼロという人間は。
ずっと前から死んでいたんだ。一年前から。俺が無能になった日から。
あの日にもう、死んでたんだ。
「愚かな、ものだな」
「……っ!」
どこからか、女性の声が聞こえた。もう俺に呼びかける者がいるはずなどないのに。
ついに壊れたか。幻聴が聞こえてくるなんて。
俺は自嘲する。
……いや、待て。どこから声は聞こえてきた? 目の前からだろう?
そこには一つ、いるはずだ。人知を超越したナニカが。何をしてもおかしくない、化け物が。
そうか、お前か。
今喋ったのはお前か。
俺を哀れんだのは、お前なのか。
氷結竜。
何故だか笑えてくる。何もおかしいことなどないというのに。どうしてだか、笑いが止まらない。
ああ、世界とは、面白いな。
「グルァッ!!」
咆哮とともに、ドラゴンは口元に魔力をため始めた。透き通っていて、澄み通っている、綺麗な綺麗な水色の魔力を。
そして数秒たってから、魔力は一気に放たれた。俺に向かって、放射する形をとって。
竜の吐息。ドラゴンが持つスキルで、神話では英雄達を何度も殺した絶対的な力の奔流。
俺はこれに殺されるのか。こんな美しいものによって殺されるのか。
それは、幸せだなぁ。
笑顔でその時を待っていると、ついに吐息の先端が俺に触れた。
そしてその瞬間、ドラゴン・ブレスが消えた。
「……えっ?」
なんともない。俺の体に異常は起きておらず、なんの変哲も無い。
どういうことだ? ドラゴンが途中で攻撃をやめたのか? なんのために?
驚いてドラゴンを見ると、彼女も困惑していた。信じられないものを見るような視線をこちらに向けてくる。
意味がわからないぞ。どうしてお前まで理解できないなんて顔をしている。
ドラゴンが自分の意思でやめたわけじゃないのか?
でも、だとしたら一体誰が。この場には、あとは俺一人しかいないし、俺にそんなことができるはずはない。俺にはなんの力もないんだから。
だけど、あれ? よくわからないが、なにやら力が湧いてくるような。
今なら、なんだってできるような。不思議な力が湧いてくる。
さっきまで硬直していた体が嘘みたいに動く。自分の意思通りどころか、いつもよりもさらに滑らかに早く動く。
何かが叫んでいる。
何か? いや、違う。
本能が叫んでいる。
目の前にいる雑魚を倒せと、そう叫んでいる。
意味が分からない。わけがわからない。
だが、何かに突き動かされるように、俺の体は勝手に拳を握る。構えを取る。何度習っても習得できなかった拳術を使おうとする。
「うぉおおおおおお!!」
そして、気がつくと飛び上がっていた。脚力だけで、ドラゴンの頭の上まで跳んでいた。
「はぁああああ!!」
次に、拳に感じる何かとぶつかった感触。何かを叩いた、実感。ただし、痛みはない。ただ壊した。そんな不思議な。
そしてその後、足の裏に地面を感じた。どうやら着地したようだ。
頭の中が疑問符で溢れながらも、恐る恐る前を見ると。
氷結竜が砕けた頭から血を流して、倒れていた。
…………。
……え?
まさか、……俺が、こいつを倒したのか?
どうして? どうやって?
何もかもが信じられずに拳を見つめていると、不意に視界が真っ暗になった。平衡感覚が狂う。立っているかも座っているかもわからない。
ああ、これは知っている。これは、気絶だ。
この日、俺はドラゴンに勝利し、そしてそのままひとときの眠りについた。
「ご主人様! ご主人様! 大丈夫ですかっ?」
そして目がさめると、水色の髪の毛を持つ十三歳くらいの少女に、看病されていた。
……はい?