氷の涙
洞窟の奥にある氷に覆われた部屋で、得体の知れない魔力を持った珠を前にして、アイは静かに涙を流していた。
「あ、あれ……? ど、どうしたんでしょう、わたし……」
ひどく動揺したような声を出すアイ。まるで俺に言われて初めて気がついたかのように、困惑している。
「な、なんで……」
アイは溢れる露を両手で拭いながら、そうこぼす。涙と表情が合っておらず、ちぐはぐな印象だ。
「もしかして、何かの精神攻撃とかを受けてるのか? それだったら、すぐにこの部屋を出た方が……」
「い、いえ、そういうわけではないんですけど……。何も起きてないはずなのに、止まらなくて……」
わけがわからないといった様子で、それでも否定するアイ。何かされてるようにしか見えないが、彼女が自分でそう言うということは間違いないのだろう。魔力には敏感みたいだし、干渉されそうになったらわかるはずだ。
そうなると、アイ自身の問題によってこうなってるということになるが、それも違和感がある。特段感情を揺さぶられるようなことはなかったはずだ。目の前にある珠の魔力に怯えて、というのも少しおかしいな。
出会った時から常に情緒不安定気味な彼女であるが、いくらなんでも理由もなく泣きはしないだろう。
うーん、わからん。
…………。いや、待てよ。今のアイに自覚がなくとも、過去の彼女には泣く原因があるとしたら、説明がつくんじゃないか?
「なあアイ、この部屋に見覚えはないか?」
「見覚え、ですか……?」
「ああ。もしかすると、記憶喪失になる前のアイがここに来たことがあって、その時に何かあったんじゃないかなって」
そう。現在のアイは俺と出会う以前の記憶が全てなくなっている。ならば、失う前に、例えばこの部屋で親しい者が死んだりしていたりしたら、この反応にも説明がつくのではないだろうか。覚えていなくても、体が勝手に動いて、みたいな。
「わからない……ですけど、そうかもしれません……。ここに来てから、なんだか心がざわついて……」
相変わらず涙を流しながらも、こくんと頷くアイ。
「そうか、じゃあとりあえずここを出るか?」
「……、いえ、大丈夫です。気になることもありますし、もう少しいましょう」
俺の提案に、アイは首を横に振る。無理しているようにも見えるが、彼女がそう言うのだったら、尊重しよう。
「わかった。でも、辛いと感じたらすぐに言ってくれよ」
「はい!」
目を瞑って涙を止めてから、アイは元気に頷いた。……これなら大丈夫そうか。
ほっと息をついていると、アイは表情を険しく切り替えて、水色の珠に目を向けた。
「……それで、気になることっていうのはやっぱりその珠に関係しているのか?」
転換した空気に合わせるように、俺は彼女に尋ねる。
「そう、……ですね。珠、というよりは珠が発している魔力の方にですけど」
「ああ、確かにとんでもない量だもんな」
答えてくれたアイにそう言うと、彼女は首を横に振った。
「いえ、問題は量ではなく、どちらかというと魔力そのものにあるんです」
「魔力そのもの……、って、どういうことだ?」
予想を外した俺は、驚きながら問いかける。
「ご主人様、この魔力に覚えがありませんか?」
「え……? いや……」
返ってきた答えに、俺は言葉を詰まらせた。
覚え、ということは、これと同じ質の魔力を以前感じたことがあるということなのだろうか。しかも、言い方的に、どうやら俺も知っているもの……。
俺とアイが共通して知っているってことは、少なくともこのダンジョン内にあったものってことだよな。今まで見てきたものと言えば、まあ敵として現れたモンスター達か。だが、そのどれとも違う感じがする。強いて言うなら、神々しいまでの威圧感はアイに似ている気もするが、それもどこか違うような。
モンスター以外に見たものって言うと、あとはこの氷の洞窟くらいか。まあ、もの扱いできるかは微妙だけど、この洞窟自体も魔力は持って……、って、まさか……。
「……この珠の魔力、洞窟を構成してる魔力と全く同質なんですよ」
俺の考えを肯定するように、アイは解を告げる。
「それって、つまり……」
「はい。この珠、或いはその持ち主の魔法によって氷の洞窟が造られています」
「――――ッ」
そしてアイが言ったのは、信じられないような事実。
魔法、魔法で、だと? ありえない。確かに魔法は汎用性が高いスキルで、その属性に類するものを生み出したり操ることができるが、そんな常識はずれの規模で展開できるようなものじゃない。それこそアイでも不可能だろう。
……いや待て。魔法? それはおかしい。
俺は、ダンジョンの壁に触れたことがあるんだぞ?
もし魔法で作られているのだとしたら、俺が一度触った時点で全てがかき消えていて然るべきだ。しかしもちろん、そんなことにはなっていない。
……いやだが確かに、それを示唆するような妙な部分はあった。このダンジョン、戦闘中にどれだけ暴れても壁や地面が傷つかないのだ。高い破壊力を持つアイのブレスでさえ、氷を砕くには至っていない。
「ご主人様、ここは何ですか?」
頰に汗を伝わらせながら、アイはそう尋ねてきた。
「記憶のないわたしが言うのもおかしな話ですけど、ここは明らかに異常です。わたしの『知識』の中にあるどんな場所とも違っています。……ご主人様、ここは一体……」
瞳を不安げに揺らしながら問いかけてくるアイに、口の中が乾いていくのを自覚しながら、なんとか返答する。
「……『魔王の涙』。百年前に滅んだ魔王が自らの宝を守るために作ったとされるダンジョン、の一部……だと思う。少なくとも、氷のエリアに入る前は、そのダンジョンの中だったはずだ」
「魔王、ですか……」
復唱するように呟くアイ。
「ああ、炎を操る歴代最強の魔王だったらしい。何か知ってたりするのか?」
「……わかり、ません。知らないです。……でも、なにか引っかかるような、えっと……」
アイは俺の質問に対して否定しながらも、どこか困惑するような、悩むような表情を見せた。頭痛でもしているのか、顔をしかめながら側頭部を手で押さえている。
「……すみません、思い出せないです」
彼女は苦しそうに、あるいは悔しそうに謝ってきた。
……思い出せない、か。それは、単純に知識の中でも重要度が低いものだったので忘れてしまったのか、それとも失ってしまった記憶の中に入っているのだろうか。
アイは以前、『これまでの自分に関する記憶』を失くしたと言っていた。もしも後者であるのならば、それはつまりアイが魔王の関係者であるということを意味する。……まあ、彼女は超高位モンスターの氷結竜なのだから、関係があっても何も不思議ではないが。
「ご主人様、他にダンジョンの情報はありますか?」
「一応探索されている範囲の地図や出現するモンスターの一覧表はあるけど、見るか?」
「お願いしますっ」
アイの返事を受けて、俺は袋から複数の紙を取り出した。地面に広げるようにして置くと、彼女は横から覗き込んでくる。頬と頬が触れそうなくらい近くに来た彼女の顔は、ひんやりとした冷気を放っていた。
「んんー、書いてある限りでは変なところはありませんね」
「まあ、アイが居た部屋のことすら載ってないくらいの情報量だからな。過去の英雄が行ったルート以外はほぼ探索されてないんだよ。マッピングするにしても、モンスターが強すぎて――」
「一覧にあるモンスターって、どれも弱いものばかりですね。これまで戦ってきた敵とは比べ物にならないです」
「……ああ、うん、まあそうだな」
上級精霊やら未確認のゴーレムやら出てきましたもんね。サラマンダーとか鼻息で消し飛ばせますよね。
しかし、改めて見てみても、『おかしなこと』は何一つ書いてないんだよな。
あの時は極度の緊張をしていたためか、特に不審に思わず受け入れてしまったが、冷静に考えてみればアイが出てきた部屋の存在は怪しい。いくらなんでも扉があることすら地図に書かれていないというのは不自然極まりないだろう。
あんなにわかりやすい位置にあり、入ってくれと言わんばかりの存在感だったのだ。罠だと思い回避したにしても、そういったものがあること自体は記載しておくはず。
まさか、どこかのタイミングでダンジョンそのものが作り変えられた……?
「うーん、何もわかりそうにありませんね……」
「そうだな。考えても無駄みたいだ」
難しい顔で呟くアイにそう返す。すると、彼女はなにかを閃いたような晴れやかな表情になり、こちらを向いた。
「ご主人様っ。考えて駄目なら行動してみるのはどうでしょう!」
「行動って……具体的には?」
自信満々なアイの態度にそこはかとなく不安を感じなくもないが、尋ねてみる。
「ご主人様にあの珠を触ってもらうんです!」
「能力無効化を試してみるってことか?」
「はい!」
なるほど。確かに実行してみれば、何かが起きそうな気はする。気はする。気はするが……。
「それで取り返しのつかない事態になったらどうするんだ?」
「その時は気合いで!」
「それは大体失敗する時の思考だから却下」
いやまあ、アイなら大抵のことは気合いでなんとかなるのだろうが。
俺の方は、謎の力を得たとはいえ素の能力が貧弱なことには変わりないので、何かあれば簡単に命を落としてしまう。死も覚悟で攻略しているとはいえ、そんな間抜けな終わり方はごめんだ。
「……まあ、考えていても仕方ないか。とりあえずは攻略を進めよう」
「はい、そうですね……」
自分の提案が却下されたことが不満なのか、少々元気のない反応をするアイ。いや、そんな悲しげな目で見られてもやらないから。無理だから。なしても大抵なんとかならないから。
…………。
しょんぼりと落ち込むアイを、慰めるように撫でる。
そうして俺たちは謎の部屋を出て、分岐点まで戻ってきたのだった。




