トランシルヴァニアでのある体験に関するヨーゼフ・Aの手記
吸血鬼ものです。
女性向け要素を含みます。苦手な方はご注意下さい。
ジーベンビュルゲン、この魅惑的な響き!ハンガリーを越えて、いつか旅してみたいと思っていたその地方が、わがオーストリアの統治下に入り、私は念願かなってその国に向かっている。すまぬ、ハンガリーよ、私にはそなたの異国情緒より、さらに向こうの神秘の森のほうが、いっそう麗しく思われる。それゆえ私は、一歩足を踏み入れたなら、其処をその土地の人々が呼ぶように呼ぼう、憧れをこめて、森の彼方の国、トランシルヴァニア、と。
これは、祖父のヨーゼフ・Aの遺品を整理したときに見つけた、古い手記の書き出しである。手記は、愛用の机の引き出しの一つに入っていたのだが、引き出しには鍵がかけられている上、その鍵はなくなっている始末で、およそ物を捨てるということのなかった祖父らしからぬ状況だった。引き出しが気になった私は鍵を壊して(針金でつつきまわして)、手記を発見した。残念ながら祖父は文学者でも詩人でもなく、旅行記の中で読んで面白い部分はほんの少ししかないことは、私も認める。しかしある部分だけは、一般の読者にも十分に興味深いのではないかと思う。ジーベンビュルゲンという響きに、著者と同じようにロマンティシズムを感じるならば、であるが。
祖父ヨーゼフは1687年生まれ、裕福な商人の三男として多少の教育を受け、その上で一文にもならない学問に自由な時間の大半を費やした。変わった人だった。
【トランシルヴァニアでのある体験に関する、ヨーゼフ・Aの手記】
5月26日
トランシルヴァニア地方を横断して、ブラショフという町にやってきた。さてここまで来て、後はどうしようかと迷う。南は、善良なキリスト教徒の敵であるオスマン帝国の属国だ。だから、むろん最初は南に向かうつもりなど毛頭なかった。しかし私は面白いものを見つけてしまった。
聖ニコラエ教会で、旅支度をした変わった集団が司祭の祝福を受けていた。それはいい。旅立つ者が司祭から祝福を受けたいと思うのは自然なことだ。しかし彼らは皆、首から大きめの十字架をさげ、最新式のフリントロック式の銃と剣を持ち、それらを使うことを生業としていると思われるひとびとばかりだったのだ。興味を引かれた私は教会に立ち寄り、仔細を尋ねてみた。
「彼らはどこへ、何をしに行くのですか。」
正教会に独特の荘重な服装と風貌の司祭は、その見た目を裏切らない重々しい声音で答えた。
「南から来る、悪魔の使いを征伐しに。」
「悪魔の使いを征伐とは。彼らはいったい」
「近年しきりに、生ける死者が人々を襲います。それは人の血を吸って生きる呪われた存在であり、その魂なき肉体を地に還すのは教会の責務なのです。あの人々はそうした魔物を斃すことを使命とし、我々はハンターと呼んでいます」
このようなやり取りのあと、私はカルパチア山脈の向こう側へ、冒険行をすることを決めた。
人の生血を吸う生ける死者、すなわち吸血鬼などというものが本当にいるのかどうか、うわさの出所が知りたかったのだ。
6月8日
南のワラキアは、こことおなじ正教の国でありながら異教徒のトルコにくみしている。敵国であるため、国境越えは難しい問題となる。訊ねまわったが、うまく入りこむ方法はない。ブラショフに来てから2週間もたってしまった。ほかに方法がないのなら、仕方ない、少々危険だが、カルパチアのふもとの村で山中から国境を越える道を尋ねようと思う。冒険に多少の危険はつきものだ。丈夫な靴と杖を調達したら、すぐにも出発するつもりでいる。
いまは、トランシルヴァニアの神秘の森より、ワラキアの小暗い背徳の風が私を呼んでいるようだ。
6月12日
今日は疲れた!山越えなど二度と考えまい。不承不承ながら山越えの道筋を教えてくれた村に別れを告げてから、道なのか木々の隙間なのか判別のつかないものをたどること、朝からおよそ7時間。日が傾き始めても一向に予定していたアルジェスに着かない。山の中で夜を越す気にはさすがになれなかった。狼なぞ現れた日には命がない。あせりにあせって歩を早めた結果、何と運の良いことに、アルジェスではないがどうやら町らしきものが見えてきた。とにかくその町に入り、最初に目に付いた宿屋に飛び込んで、ようやく一息つくことができた。ここの宿は家族で営んでいて、亭主とおかみと、なかなか愛嬌のある娘が、旅人を快く迎えてくれた。
今夜はもう眠ろうと思うが、場合によっては、この町にしばらく滞在するのも良いと思っている。町に入る前に、夕暮れの山あいに黒々と見えた中世的な城、そして町に入ってまず訊ねたこの町の名前。
ドラクレア。悪魔の化身である竜の子を意味する町の名が、ひどく気になる。
6月13日
今朝は、かなり満足のゆく朝食から一日が始まった。塩味の強い固めのパンにバターとジャム、ポーチドエッグののったサラダと、上等のソーセージ。その朝食の給仕は例の愛嬌のある娘がしてくれた。疲れもとれ、すっかり元気になった私はさっそくこの町について情報を集めだした。
「この町はドラクレアというそうだが、なぜ悪魔の名など冠しているのだろう?」
娘は両手を体の前で組んだり後ろで組んだりしながら、知らないわ、昔からそういう名前なんだもの、と答えた。さらに訊こうとすると、扉が開いてめがねの男が一人入ってきた。大きなかばんを持ち、さらに多くの荷物を従者に持たせているのを見て、医者だなとぴんときた。病人でも出たのだろうかと思っていると彼はずかずかと私の前に来た。
「旅の方ですな。ドラクレアへようこそ。旅の方には無料で瀉血してさし上げることになっていますが、いかがですかな」
にこりともせずに放たれる医者の言葉を私はただただ呆気にとられて聞いていた。そんなサービスは聞いたことがない!宿の者たちは驚いた様子もなく遠巻きにして見ているだけだ。私は断った。
「いえ、結構です。」
医者はやれやれとつぶやいて立ち上がると、入ってきたときと同じように大またで、さっさと出て行ってしまった。
なんという変わった町だろう。散策に出ると、いっそう奇妙なことに気がついた。立ち並ぶ家々のつくりはごく一般的なものだったが、どの家も戸や窓に十字の形をした飾りがついている。そういう装飾をつける風習があるのか、それとも非常に信仰深い町なのか。後者の割には教会がさびれているのが不思議だ。町に取り囲まれた小高い丘には何本もの尖塔を持つ重厚な城がそびえたつ。窓の少ない堅固なつくりはやはり当世風のものではなく、中世の衣装をまとった諸侯や貴婦人にこそ似合わしい。城を訪ねられるだろうかと観光気分で思ったが、城について何も知らないことを思い出し、昼にふたたび宿に戻った。
昼食は、朝よりも質素だった。朝食を腹一杯たべたので不満はないが、昼のほうが軽いというのはおかしな感じだ。宿の娘は(月並みにマリアという名だそうだ)私の向かいに座って油を売り始めた。
「お客さん、どこから来なすったの。」
「ウィーンだよ。トランシルヴァニアをずっと旅行してね」
「ウィーンですって!都会だわ。すごいのね。身なりもいいし・・・もしかして貴族様?」
「ただの商人の息子さ。ところでここは、ワラキアの領内かい」
娘の質問攻めにあってはたまらないので、私は逆にこちらの知りたいことを訊いた。
「ここはまだトランシルヴァニア領よ。でもワラキアのアルジェスの町のほうが近いの。」
話の続きで、トランシルヴァニア側からこの町に来るには、ブラショフでなくシビウから来れば山越えにもちゃんとした道があったのだということがわかった。私のとったルートは道ではなかったらしい。
「城は、誰が管理しているのかな」
「城主の老伯爵様とそのご子息が住んでらっしゃるわ。ここは城下町よ」
驚いた。オーストリアの傘下に入っても、昔ながらの伯爵領がそのまま残っているとは。マリアはおしゃべりな質らしく、城についていろいろと話してくれた。
「お城のミフネア様はそれはきれいなかたで、若い娘はみんな憧れてるのよ。」
若い娘の憧れの的ということは、城主の子息のほうにちがいない。
「未来の城主夫人の座を狙っているというわけか」
からかってやったのだが、マリアはあやふやな調子で、え?そう、そうかもね、などと煮え切らない反応だった。からかいがいのない娘だ。城下の住人は一定の税金を納めているらしいが、総じて町は自由で住みやすいところだということだった。「老伯爵様はうるさいことは何にも言わないから」だとマリアは言った。
とりあえず城主についてわかったことだし、午後、城をたずねてみることにした。城の入り口まではかなりの急坂だった。これだから昔の城というのは。しかし着いてみると、城は意外と開放的だった。入り口の門番に自分は学者で、城の書籍を閲覧させてほしいのだと言うと、すんなり通してくれた。広々とした清潔で明るい場内には結構な数の男女が楽しげに働いている。案内してくれた四十がらみの男が「書斎に入れるかどうか、ウルリヒ様にきいてみましょう」と言うので、直接お会いできますか、と尋ねてみた。
「ウルリヒ様はこのところご病気がちなので、なんとも・・・。」
「では、もうお一方の・・・」
「ミフネア様に?それなら、夕方までお待ちいただかなければなりません。でも書斎のことならむしろミフネア様にお聞きしたほうがいいかもしれない」
城主親子に対して、ずいぶんくだけた物言いをするものだ。こんな話をしながら立派な階段を上り、一つ上の階の踊り場で左右を見渡した。右も左も長い廊下が続き、部屋数はいくつあるのかもわからない。この階には客室と使用人の部屋があるそうだ。使用人たちがこんな良い場所を占めているというのも聞かない話である。ウルリヒ様の部屋と、もっと上等の客室はさらに上だということだった。私たちがしゃべっていると、まさにその上の階から、六十くらいの高貴な感じの紳士が女中に付き添われて下りてきた。むろん、これが「老伯爵」ウルリヒであろう。
「旅の方と聞いたが・・・」
ゆっくりとこちらを見た「老伯爵」に、私は一歩引いて挨拶をした。
「この町は何もないが、静かで良い所。ゆっくり滞在されると良い」
「お言葉に甘えて、そのようにさせていただきます。たいそう由緒あるお城のようですね。差し支えなければ書物を拝見したいのですが」
「書物も人に見られてこそ価値があるというもの。どうぞ、存分に」
「ありがとうございます」
老伯爵は穏やかで偉ぶったところのない、優しそうな人物だった。
書斎に入れてもらった私は、夕方まで書物に埋もれて過ごした。蔵書はかなり豊富で、分野も多岐にわたり、中には十二世紀くらいの古いものもあった。ここを出たらもう目にすることはないだろう、貴重なものだ。伯爵は博学なのだろう。没頭しすぎて、腹時計に気付いたときにはすでに夜の九時くらいになっていた。書斎はもともと薄暗く、ランプの光を頼っていたので、外が暗くなったのがわからなかったのだ。急いで本を片付け、遅くなった詫びと、礼を言おうと思ってウルリヒの居室の方へ向かった。
そして、私は彼に逢った。廊下の途中で、私は同じほうへ向かっている人物に行き会った。身なりのよさから、これが伯爵の子息であろうと、そのときは思った。黒っぽい服装は地味すぎる気もするが、ちらりと振り向いたその顔に、私は思わず足を止めてしまった。
マリアの言ったとおり、大変な美貌の持ち主だった。長い睫毛が瞳に影を落とし、細くて真っすぐな鼻梁と形の良い小さな口が華奢な印象を与え、秀でたひたいに、つやのない黒い髪がふさふさとかかっている。歳は二十六、七だろうか。大理石のような顔色はウルリヒよりも彼のほうが病気ではないかと思うほど生気がなく、ひどく愁わしげで、全体に退廃の気配を漂わせていたが、そのまとう空気と暗い色の瞳には引き込まれるような何かがあった。私はとりあえず頭を下げた。
「客人か」
「ヨーゼフと申します。ウルリヒ様にお許しをいただいて、書斎をお借りしておりました」
「許可を得たならば良い」
やわらかく、沈みこむような静かな声音だ。口数が少ないらしく、彼はそのまま話を終えようとした。
「ミフネア様でいらっしゃいますね」
彼はごくわずかにうなずいただけだった。私はさらに言葉を継いだ。
「遅くまでお邪魔しましたので、ウルリヒ様にお礼を申し上げたいのですが」
「体調が悪いので今日はやめたほうが良い。明日また来なさい」
「ではそうします。」
父の伯爵よりも鷹揚な口の利き方に私は面食らいながら答えた。蔵書をほめると、彼は少し反応を示した。
「四百年も昔の書物を見つけましたが、この城に代々伝わるものですか。」
「その本についてはよく覚えている。ワラキア建国期のある騎士の記録で、当地を訪れたときに見つけて購めたものだ。」
「なるほど」
「ワラキア公国はその後、別の家系がヴォエヴォド(公位)につき、建国の祖であるラドゥはほとんど忘れ去られている。報われないものだ。どうでも良いことだが」
「この町は、その頃ワラキアの内だったのですか」
「ワラキアも、その当時ハンガリー領だったトランシルヴァニアも、この町を気にかけたことはなかったと思う。だからどちらに属していたかは、誰にとってもどちらでも良いことだ。」
私はこの人物にだんだん興味がわいてきた。この若さで、この老成した口のききようはどうだ。もっと話したかったが、時間も遅いので後日に譲ることにした。老伯爵には礼を言いそこねたので、別れ際に私はこう言った―
「お父君によろしくお伝え下さい」
すると彼はきょとんとした顔つきになって小首をかしげた。何が疑問なのか私にはわからなかった。彼はすぐに元の表情に戻った。
「伝えよう」
そう言って、階段の上へ消えていった。遠ざかるとき、足音一つしなかった。
宿に戻って、マリアに、城主親子に会ったことを話した。
「伯爵はお加減が悪いと聞いていたが、運良くお会いすることができたよ」
マリアは変な顔をした。
「お加減が悪いのはウルリヒ様のほうよ。もっとも老伯爵様が元気いっぱいだなんて聞いたことはないけれど」
「ウルリヒ様が、伯爵様だろう?」
マリアはぽかんとして私の顔を見つめ、それから、けらけらと笑い出した。ひとしきり笑いおさめると、彼女は信じられないことを口にした。
「老伯爵様はミフネア様のことよ。ウルリヒ様はご養子で、五十年くらい前にミフネア様がお城に連れてらしたんですって。」
私はこのときどんな顔をしただろう?私の混乱した頭のためにも、この日記にメモを残しておく。
老伯爵=ミフネア 子息(養子)=ウルリヒ
このことと、町中の十字架との間に関係があるとすれば、それは一つの仮定へとつながる。老伯爵は吸血鬼なのではあるまいか?しかし、そうだとしても私の心には恐怖よりも好奇の気持が強い。城にはほかにも吸血鬼がいるのだろうか?ウルリヒもそうなのだろうか?
そして、伯爵の物憂げな口調とまなざしの理由はどこにあるのだろう?
6月14日
私ははりきって調査を開始した。町の人々は、伯爵の正体を知っているに違いないのだ。まずはマリアに知っているだけのすべてを話させることだ。
「マリア。伯爵の不老の秘密を知りたいと言ったら、話してくれるね?」
こう切り出すと、彼女はそわそわしだした。どうやらよそ者にしゃべりすぎたと後悔しているらしい。こんな小娘に、どこまで話してよいかの分別などつくはずもない。
「あたし、あまりよく知らないのよ。」
「しかしあんなふうにいつまでも姿が若いのは普通の人間じゃない。町の人は知っているんだろう?彼が何者なのかを」
マリアはついに、年寄りは皆、伯爵様は「ストリゴイ」だと言っている、と白状した。ストリゴイというのはこの地方での吸血鬼の呼び名らしい。しかし彼女自身は本当にそれ以上知らないようだった。「おじいちゃんならもっと知っていると思うわ」と言うので、私はその老人に会いに、宿屋の奥へ邪魔をした。
老人は思ったよりすらすらとしゃべってくれた。彼はまず、ウルリヒ様は人間だ、と断言した。そして、子供のころには夜は絶対に外に出てはならず、いつも十字架を胸に下げているように言われていたこと、町中がいつも夜におびえ、たびたび人が襲われる被害が出たこと、被害にあった死者も吸血鬼になってしまうため、その死体は蘇らないよう心臓に杭を刺して埋葬したが、それは恐ろしい光景だったこと、などを語った。しかし、いまは城に伯爵以外の吸血鬼はおらず、被害もないのだと言う。そういえば、城では人間がおおぜい働いていた。彼は言った。
「城に人間の奉公人があがるようになったのと、町から吸血鬼が減って安全になったのはわしが十歳くらいのころのことだ」
老人の年齢は六十過ぎと思われ、したがって、それは半世紀くらい前の話だろう。老人が言うには、最初に奉公にあがった人たちなら当時のことを詳しく知っているだろうが、もう八十歳くらいになっているだろうから、生きているかどうかわからない、とのことだった。
私は、伯爵自身は血を飲まなくて平気なのか、と訊いてみた。すると老人はとたんに貝のように口を閉ざしてしまった。なにか、かばいだてするような気配が感じられた。重ねて訊くと、彼はいかにも自分の口から言うのだけは避けようとする感じで、毎週城にあがる医者がいるからその医者に聞けとだけ言った。
老人の話も気になったがひとまず置いておくことにして、午後はふたたび城に登った。口実のように書斎に寄り、日暮れを待ってウルリヒの部屋へ向かう。日のあるうちに行っても伯爵は現れないだろうからだ。私はよほど興味津々の様子だったのだろうか。ウルリヒは(やはり具合が悪いらしく、ベッドの上だった)私を見るなり、城下で何か聞かれましたね、と言った。あいかわらず品の良い、穏やかな感じだった。しかし、伯爵に比べるとずいぶん腰の低い話し方だ。昨日はたいして気にならなかったのだが、伯爵の鷹揚さのほうがより貴族的であるように思われた。ウルリヒは、もとは貴族ではなかったのかもしれない。
「伯爵はあなたではなく、ミフネア様だと」
ウルリヒは少し真顔になり、ミフネア様にお会いしたのですか、と訊ねてきた。私が返事をしようとしたとき、部屋のドアが開いて当の伯爵が音もなく入ってきた。
「その人は私に『お父君によろしく』と言った」
彼は別に気分を害したようでもなかったが、私は丁重に頭を下げた。
「昨日は失礼いたしました。お分かりいただけると思いますが、あなたがご子息のほうだと勘違いを」
「早とちりなことだ」
彼はそう答えてウルリヒの傍に腰を下ろした。なんだか眠たげでなげやりな様子の彼は微笑ましく、私はおかしくてならなかった。
「ところで客人には、わが書斎がお気に召したようだな」
伯爵は私に書物の話を促した。私は2、3の本について、その書かれた年代や内容の重要性を強調しながら意見を述べた。伯爵はどの書物のこともよく記憶していて、手に入れた経緯まで話してくれた。自分の正体を隠そうという気はないようだった。
「書物の多くは私が集めたものだ。私とウルリヒの他にはほとんど読む者もない。好きなだけ使いたまえ」
伯爵はウルリヒの手に触れ、眼交わしながら言った。二人は実に仲が良いようだった。親子と言うには何かしら違和感があった。そうこうするうちに、ウルリヒがちょっと咳き込んだので、病人を疲れさせてはいけないと思い、退出することにした。伯爵はウルリヒを気遣い、子供にするように布団をかけてやっていた。
6月15日
午前中、例の医者のところへ行った。宿の老人が言っていた城の主治医とは、私がここで最初に迎えた朝、瀉血サービスに来たあの無愛想な医者だった!私が行くと、用件を察したらしくものすごく迷惑そうな顔をした。
「伯爵のことならしゃべらんぞ。」
何も言わないぞとばかりの態度なので、私は正面から訊かず、やんわりと別の話からはじめた。
「伯爵様の正体を探ろうというのではありません。ウルリヒ様は、お加減が悪いのですか。」
医者は眼鏡を上げ、お会いできたのかね、珍しいことだ、と言った。彼の話では、ウルリヒは近頃、寝たり起きたりの状態で、自分の見立てではもう長くはないだろうというのだ。さらに彼は
「ウルリヒ様が亡くなりでもした日には、この町もまたどうなることやら」
とぶつぶつ言う。それはどういうことかと私は問い質した。すると医者は咳払いしてごまかそうとし、かえれかえれ、話すことなど何もないと繰り返した。
「隠さなくても、もう聞いてしまいました。伯爵様は吸血鬼だと。町の者はみな知っているようですね。でも被害はないと言う。伯爵様は人間の血がなくても平気なのですか。」
知っていることを一息に並べ立てると、医者は、ごまかしきれないと観念して話し始めた。
「そんなわけがなかろう。伯爵にはわしが毎月、町の者たちから瀉血した血を持って行く。」
ここではじめて、瀉血を持ちかけられた理由がわかった。
「むろん、たいした量じゃない。水差しに半分程度だ。人間ならば栄養失調になるくらいの充足度であろうよ。しかしそれで何とか人を襲うのを我慢できるのだそうだ」
「なぜ伯爵はそんな無理をしているのでしょうか」
「知らん。伯爵がそうするようになったおかげでわしらは安心して暮らせるようになった。ウルリヒ様が城に来たころからそうなったのだ。その前は伯爵も人間の血を啜って暮らしていた。」
「だから、ウルリヒ様が亡くなったらどうなるのかと心配されているわけですね」
「そういうことだ。」
医者は、これ以上はわしは知らん、当時城に奉公していた人でアンナという婆さんがいる、興味があったら聞いてみるがいい、とだけ言って、腹が痛いと駆け込んできた男を診るために私を顎で追い出した。
例によって午後は城を訪ね、書斎を借り、ウルリヒの病を思い、医学や薬草の本を手に取った。体力をつけるような薬でもあればと思ったのだ。しばらくそんな本に埋もれていると、夕方、思いがけず伯爵が書斎に現れた。私の見ている本を覗き込み、いつものように静かな調子で私に話しかけた―――
「君は医者なのか」
私は伯爵に興味を持ってもらえたことを嬉しく思ったが、残念ながら医者ではないのでそのように答えた。
「医者ではありません。医学もかじりはしましたが」
一瞬の沈黙のあと、彼はあらためて私に言った。
「もしウルリヒを助ける方法があるのなら、何でもやってもらいたい」
この言葉の中には、かすかにおびえているような響きが感じられた。伯爵は心から物を頼む人がよくするように、私の手をそっとつかんだ。私はつかまれた手の冷たさに驚いて思わず手を引っ込めてしまったのだが、伯爵の暗い色の瞳がゆっくりとこちらを見たので、そんなぶしつけな反応を示したことを後悔した。吸血鬼の体は死者のそれだ、当たり前ではないか。私の不用意な態度が伯爵を傷つけたのではないかと思うと気になって仕方がない。
しかし、伯爵はウルリヒを死なせたくないと思いながら、なぜウルリヒを自分と同じ吸血鬼にしてしまわないのだろうか?
6月16日
たらいまわしにされている気もするが、医者の言っていたアンナというもと奉公人に、会いに行くことにした。
アンナは、宿の爺さんの言ったとおり八十を越えているであろう。しかし語り口はしっかりしていて、若いころはきびきびした人だったのだろうと想像された。彼女は、この婆の話をお聞きになりたいとか、伯爵様にじかにお会いしたんじゃ無理もないこと。それにしてもあのお医者様も口の軽い人だこと、といいながら私に椅子をすすめた。
「たいそう長い話ですからね、お茶でもないと最後までは聞けませんよ」
私の前には紅茶と焼き菓子が出てきた。
「今から五十年以上も昔、この町の門は常に閉ざされておりました。用事のある者以外は外に出ることもできず、人々は教会と十字架だけを心の頼りに、閉鎖的な生活を続けていたのです。夜には家の戸をかたく閉ざし、決して出かけようとはしませんでした。それでも、うっかり外で夜を迎えてしまった者は、多くの場合、朝には死体となって発見されました。行方知れずになった者もありました。彼らがどこへ行ってしまったのか、私たちは知っていました。当時のお城は」
アンナは身を乗り出して聞いている私にお茶を飲むように手振りですすめた。
「動き回る死者たちの巣窟でした。百人よりもっと多くの吸血鬼たちが、伯爵様の下にいました。彼らはお城に住み、夜になると町や周辺の森に出てきて、不運にも彼らの目にとまった人間たちの血を啜り、自分たちの仲間を増やしていったのです。彼らに殺された人間が魔物としてよみがえるのを防ぐには、なきがらの胸を杭で打つか、すっかり燃やしてしまわなければなりませんでした。私たちはずいぶん用心して暮らしておりましたが、被害を完全に食い止めることはできませんでした。なぜなら」
私は生唾とともに菓子のかけらを飲み込んだ。
「娘たちは自分の部屋の窓辺に伯爵様が来ていると、すすんで迎え入れたからです。伯爵様はあの通り美しくて、魅惑的な優しい声で、みんなぽうっとなってしまうのです。
けれどもお城にいる他の吸血鬼は伯爵のことをとても恐れていました。おそろしい魔物たちでしたが、伯爵は彼らを簡単に消し去ってしまうことができるので、皆、伯爵の命令に逆らうことはありませんでした。町の人々もまた、伯爵をもっとも恐れていました」
今のこの町からは想像もつかない。何より伯爵が人間を襲うところが想像できなかったが、伯爵に惑わされる人々の気持はわからないでもなかった。夢見がちな年頃の娘ならばなおのこと無理もない話であろう。
「ウルリヒ様は五十五年前、どこかから伯爵様が連れて来られたのです。十歳でした。もちろん、私たちがそのことに気付いたのはしばらくたってからでした。お城の御用商人が、人間の子供がいるらしいと話していました。同じころ、伯爵は城下に三か条のおふれを出されました。一つめは城中の者は民に危害を加えてはならないこと。二つめは城下のすべての家は出入口と窓に十字架を掲げること。そして三つめは、外出時は必ず十字架を携行すること、でした・・・」
続いた話はなかなか壮絶で、伯爵は命令に従わない吸血鬼たちを片端から粛清したとのことだった。アンナの兄弟は夕刻に出歩いていて危うく殺されるところを、伯爵自身に助けられたのだそうだ。
「兄たちは青くなって逃げ帰ってきましたが、集まってきた魔物たちは伯爵様の手であっという間に切り裂かれてしまったと言っておりました。伯爵様は兄たちに早く帰れとおっしゃったそうです。その話を聞いて以来、私は、伯爵様は本当はいい方なのではないかと思うようになりました。そのうちに、お城にいた吸血鬼はだんだん数が減って、ついには伯爵様以外誰もいなくなりました。夜に外出することさえ普通のことになりました。
お城にいるという子供はどうやって生活しているのかしらと気になってきたやさき、お城では執事や召使の募集を始めました。その子供、ウルリヒ様のお世話をする人間を雇うとのことでした。もちろん皆、最初は怖がってお城に行こうとしませんでした。でも、お城にはもう、伯爵様とウルリヒ様のほかにはせむしの下男しかいなくなっていましたし、昼間だけの勤めで良い上、ご奉公のお給料がとても良かったので、二十人ほどの就職希望者が集まりました。私もこのときお城にあがったうちの一人でした。」
アンナは熱いお茶を淹れなおしてくれた。この先の話はとても込み入って長いので、要点だけまとめることにする。
アンナたち「就職希望者」が最初に城に行ったのは伯爵からの指定により未明の時刻だった。城の玄関口を見下ろす大階段の上に姿を現した伯爵は、自分には人間を襲うつもりがないこと、だが念のため首の詰まった服を着、必ず十字架を持って城に来ること、ウルリヒは人間で、伯爵の養子であり、将来はこの城を継ぐのでそのつもりで仕えてもらいたいこと、などを皆に話した。
『私の世話は必要ない。日のあるうちは地下の棺で寝ている。ただし城が荒れないよう、よく働くように』
伯爵が言ったのはそれだけだった。この言葉から、吸血鬼が昼間は活動できないことと、棺を寝る場所にしていることがわかる。集合時間として夜明け前を指定したのも、人々に不安を与えない為だろう。彼が現れたときには息を呑んで固まったアンナたちも、魔物とは思えない行き届いた、理性的な人物像にすっかり安心し、また、際立った美貌に男女ともに驚嘆したという。その後ウルリヒにもひきあわされ、利発な、健康な人間の子供であることがわかって、全員が城で働くことに決まった。
その後半年ほどの間、城での勤めは平穏に続き、城の中の部屋を好きに使ってよいと言われたこともあって(伯爵は使うあてのない部屋など、使用人に使わせてもかまわなかったのだろう)、次第に夜も城に残るようになった。伯爵は毎夜、ウルリヒに会いに来、たまにひとりで入浴したり、書庫にこもったりしているだけで、ほかの人間たちとは顔を合わせようとしなかったが、話す時には親切で穏やかであり、女中たちの中には伯爵に憧れを持つものもいた。しかし、ある日事件が起こった。
女中の一人が廊下を歩いているとき、伯爵はその首に咬みつこうとしたのだ。だが、彼は必死で自制し、ふらついてその場に倒れこんでしまった。女中たちが慌てて近くの部屋に運び込んだが、その日、彼は眼をさまさなかった。アンナたちは城下の医者―例の瀉血の医者だ―に相談し、栄養失調だろうと推測した。水差し半分の血の献上はこのときから始まったらしい。伯爵が、倒れるまで血を絶って耐えていた話が伝わると、住人は一様に伯爵に同情するようになった。人々は相談して当番制で血を献上することを決め、以後、この方式で落ち着いたようだ。また、アンナを含む女中たちは、すすんで伯爵の身のまわりの世話をすることを申し出た。なんといっても城主なのだし、一人で何もかもするのはおかしい。むろん、吸血鬼である伯爵は食事をしないので、世話と言うのは灯りを持って歩くとか、着替えや入浴を手伝う程度のことだった。
「私たちは競って伯爵様の傍にいたがりました。もちろん、伯爵様はかしずかれることは当然に受け止めていらっしゃいました。ミフネア様はお顔だちだけでなくお体もとてもきれいで、手を触れるのがもったいないくらいで、私はいつも緊張したものです」
私は思わず想像してしまった。書斎で私の手に触れた滑らかな白い肌をした手からすると、他の部分も同じように白く滑らかに違いない、などと考えて、服の下の体を想像するなどまったく無礼極まりないことだと慌てて想像を振り払った。
そうして平穏な日々が続き、十数年が過ぎると、人間であるウルリヒはすっかり大人になった。そろそろ奥方を迎えるころだろうと言われていたが、ウルリヒはアンナたちにもたびたび、自分は結婚する気はないと漏らしていたそうだ。
アンナは言った。
「養子ということを気にしてらっしゃるのだと、私たちは思っていました。今でも皆、そう思っているでしょう。でも私は聞いてしまったのです。あの日、伯爵様はいつものようにウルリヒ様の部屋にいらしていました。私はいつものようにお茶を持っていきました。でも、お部屋の扉の前で私は思わず足を止めました。部屋の中からは、真剣な声で何か話しているのが、切れ切れに聞こえていました。」
彼女に聞こえたのはほとんどウルリヒの言葉だけだったそうだ。
『あなたを愛しています。あなたは私の父などではない』
『・・・・』
『そんなことはどうでも良いのです。私が欲しているのはあなただけです、あなたのすべてです。』
『私は・・・おまえを・・・』
私は自分がどんな顔でこの話を聞いていたのかわからない。
「何かのわずかな物音がしました。それから、ミフネア様の、いけない、というお声と、ウルリヒ様の高ぶったような声と。私は、そっとその場を離れました。それ以上聞いてはいけないと思って。けれど、私が廊下を曲がるとき、ドアが開いて、ミフネア様が走って向こうへ去っていくのが見えました。伯爵様があんなふうに取り乱すのを見たのは、後にも先にもこのときだけでした。」
その次の夜、アンナは伯爵が思いつめたような顔でウルリヒの部屋の前に立っているところに鉢合わせた。なぜなら毎晩ウルリヒの部屋にイヴニングティーを運ぶのが彼女の仕事だったからだ。伯爵はティーワゴンの上のリネンを見て、明日の夜、きれいなやわらかい布を持ってきてくれるようにとアンナに頼み、ついにその日はウルリヒに会わなかった。
「翌日の夜、私は言われたとおりきれいな布を用意して、部屋の外で伯爵様にそれを渡しました。受け取るとき伯爵様の手は少し震えていました。緊張したような顔をしていらっしゃいました。そして部屋にお入りになり、私はなぜか泣きたいような気持になって急いでそこを後にしました・・・」
どう差し引いて考えても、これは二人がそういう仲になったということだろう。彼らがひどく親密で、親子にしては不自然な寄り添い方をしていたのも納得がゆく。だが、その行為はいったい何重の禁忌を犯していることになるのだろう?私は気が遠くなりそうだった。
「伯爵様はとても長いあいだ生きてきた方です。そんな方が扉の前で戸惑いこわばっていました。それでも自分から戸を開けて入って行かれました。伯爵様はきっとその時あらゆる決意をされたのでしょう。」
部屋はすっかり暗くなっていた。私は礼を言って外に出た。見上げると城はまったく静まり返っているようだった。伯爵はウルリヒに愛されそれを受け入れた。伯爵はすなわち死なぬ死者であり、寿命がない。ウルリヒの命は明日をも知れず、そして伯爵は彼を仲間にする気はない。伯爵がウルリヒを仲間にしない理由も、倒れるほど我慢してまで血を絶った理由も私にはわからないが、ウルリヒが死に掛けている今の状況は、伯爵にとって苦しいものに違いない。
伯爵は、見ず知らずの平民の、医者でもない私に、ウルリヒを助けてほしいと言った。しかしこの町はひどく中世的で、良い薬もなさそうだ。一度シビウの町に出て、なんとか薬を求めてみようと思う。
6月21日
シビウに着いた日(今度はちゃんとした道を通った)、ウィーンの実家に手紙を出した。ウルリヒの症状をできるだけ詳しく書き、良薬を探してシビウまで至急送るように頼んだ。しかし何日かかるか見当もつかない。一日でも早く何か届けば良いのだが。
6月23日
ウィーンからの便りはもう待つまい。私はどうやら滋養をつけるには最適という薬草・・・草ではないのかもしれないが何かを干して粉にした薬を手に入れた。教会の裏にある薬草園の作男がそんなものを持っていた。彼は、自分は回教徒だったのだと言った。改宗してここにいるのだそうだ。その昔トルコにいた時に、市場で異民族(彼の言う異民族というのがどのあたりの人々のことを指しているのか、私にはわからない)から買ったということだった。それを売っていた男はその薬を服めば体の弱った人間もすっかり元気になると保証したらしい。
この薬が効くのかどうか定かではない。だが迷っている時間はない。明日、さっそくドラクレアに向かおう。
6月26日
私は戻ってきた。だが町に入ってすぐ、何かが変わったと感じた。人々の緊張した表情が気になった。それに見知らぬ人間が歩いている。剣をさげ、最新式の銃を持った数人。それを率いているのは羽根のついた帽子をのせた見るからに立派な身なりの騎士、いや、本当は聖職者なのかもしれない。彼らの会話の中に「biserica(教会)」という言葉が聞こえたからだ。それどころか、私は彼らをどこかで見たことがあるととっさに思った。そうだ、初めてここに来る前にブラショフで見かけた武装した集団。南から来る悪魔の使いを征伐しにゆくのだと、魔物を斃すことを使命とし、ハンターと呼ばれる人々だと聞いたはずだ。
私は身震いを禁じえない。あの伯爵が今、どんな悪行をしているというのか。しかも彼は無力だ。あの城には門番以外には番兵すらいない。最新式の銃の前で何ができようか。しかも門番はすでにハンター団の側に秘密に雇われているのだという。城に行こうとしたら、その門番に押しとどめられた。ハンター団は教会の命を受けており、逆らえば異端とみなされるからというのだ。私は薬の包みを握りしめて焦ったが、どうにもならなかった。
しかし町の人々はいまの統治が続くことを望んでいるのではないか。皆が口裏を合わせて伯爵の正体を隠し通せばハンターたちは去って行くだろう。私は町の人々が伯爵に恩義を感じていると信じる。
6月27日
私はとても不安だ。町の人々に、伯爵の秘密を守ろうと呼びかけてみたが、誰もはかばかしい返事をしない。マリアをはじめ宿の皆は自分たちから何か言うつもりはないが、教会の名において真実を語れと言われれば、従うしかないという。
「伯爵様はいい方でこの町は恵まれていると思うけれど、教会にうそはつけないわ。」
「教会に逆らって異端者になれば地獄に落ちる。」
私はこの町に来て、税金の安さに、人々の生活の自由さに本当に驚いたのだ。ヨーロッパ中のどこに行っても、貴族は平民を自由にでき、たとえ殺しても罪にさえならないのが普通だ。なのにここでは人々が何を言っても伯爵は決して怒らなかったし、城を皆に開放してさえいた。民にとってこれほど住みやすいところはないだろう。にもかかわらず、誰も伯爵のために口をつぐもうとしない。何事も起こらないようにと望みながら、異端のレッテルを恐れてハンターたちを敬う。
失望した気分で宿に戻ると、ハンターの一人と行き合った。その男は夕闇の城を見上げて剣の柄をぎゅっと握った。かちゃりと金属の音がした。私はぞっとした。彼らは確信したのだ。明日はどうしても城に行かなければならない。
8月26日
6月28日、29日の事をまとめて書く。あまりにも多くのことがあって混乱し、とてもすぐには書けなかった。夢だったのだと思おうともした。しかし何もかもがあまりに胸に迫り、あそこから遠く離れたウィーンの自宅で何事もなかったように生活していても、まるで昨日のことのようだ。それに忘れたくはないのだ。なぜなら・・・いや、それを白状するのはすべて書き留めてからにしよう。
そうこうして城を訪ねられずにいるうち、ウルリヒの死が報じられた。27日の深夜に伯爵にみとられて自室で息を引き取り、28日朝に発表された。薬は、間に合わなかったのだ。私は落胆した。マリアは、ハンターたちがウルリヒ様は殺されたのではないかと疑っている、と耳打ちした。私は日暮れを待ってとにかく急いで城に向かった。前日までは門で止められたのにこの日は人がいなかった。城の中にも人影がなかったが、そのときは気づかなかった。誰もいない城は急に荒れた感じがした。私はまっすぐウルリヒの部屋に向かった。ほかの場所に彼がいるとは一瞬たりとも思わなかった。
伯爵はそこに、思ったとおりの様子でいた。眠っているようななきがらの傍に、彫像のように立っていた。声をかけると、ああ、と返事をしたがこちらを見はしなかった。私はかまわず近づいた。遠慮すべき人などいなかったからだ。
「ウルリヒ様にさし上げるために薬を求めていたのですが間に合わず、お役に立てなかった。残念です。」
伯爵はベッドの脇に立ち尽くしたまま、
「そうか。手間をかけた。だがどうでも良いことだ」
と言った。その諦めきったような言葉に余計にすまないことをしたと思った。しばらくの沈黙の後、静けさに耐えかねて、
「これから、どうするのですか」
と訊いてみた。自分でも何を訊ねているのかよくわからなかった。なんとなく、城の跡継ぎとか、そんなことを訊いたつもりだった。
「どうもしない。明日は葬儀で・・・私が出られるよう夕方行うことになっている。あとは」
伯爵の声は無感動だったが、急に途切れた。彼は息をつがずに呟いた。
「どうしたら良いのだ」
声の調子は乱れない、しかしそれは絶望的に響いた。私は伯爵の顔を盗み見て、それからその視線を追ってウルリヒの上に目を移した。彼は人間で、だから死に、その結果、伯爵は立ち尽くしている。私は訊かずにいられなかった。
「なぜウルリヒ様を仲間にしてしまわなかったのですか」
伯爵はゆっくりと首をめぐらせて私を見た。その瞳は相変わらず暗いままだった。私は、伯爵は問いに答えてくれないだろうと思ったが、彼は静かに語り始めた。
「かつて、私は美しい女を幾人か愛した。愛し、欲するままに手に入れた。そうすれば彼女たちは私に従うようになった。女たちは愛を告げると喜んで私に首筋を差し出した。だが、配下になってしまうと生きていたころに美しいと思った瞳は空ろになり、私に関心すら失って血を求めて彷徨うだけになってしまう。・・・私が望みを達すると彼女たちは私を忘れる。私はそのたびにつぎの女を探した」
伯爵は遠くを見るような目をした。
「美しい女が好きだった。その美をあがめた。それは宿命的に欲望を伴い、私の欲望は美を破壊した。ジレンマに陥った。私はやがて、自らの欲望を遂げるべきかどうか悩むようになり、一人の女を口説き落として愛を語ることに時を費やすようになった。しかし、最後には抑えきれずに首筋を咬んでしまう。結末はいつもおなじだった。」
私は書斎に心理学や思想の書がたくさんあったことを思い出した。あれらは伯爵の自己分析の名残だと思われる。
「ウルリヒの母は、アルデアルで最高の美女だったと思う。土地の裕福な商人の愛人だった彼女に想いを寄せ、何か月も通った。ずっと欲望をこらえ、今度こそ真実の愛をかちえたと思った。けれどもやはり耐え切ることができなかった。」
伯爵はかすかに身を震わせた。悲しみのためか、恐ろしいことを思い出したからか、はかり知れない。
「配下になった彼女はウルリヒの血が飲みたいと言った。やさしく美しかったはずの婦人が息子の血を啜るさまは考えただけでも醜悪だった。私はその見るに耐えない事態をふせぐため、彼女を消した。…私は、怖くなった。人間を配下にすることが」
口調は相変わらず淡々としていたが、伯爵が右手を少し動かしたので、その手で心臓を抉ったのがわかってしまった。おぞましい行為のはずなのに、私が伯爵の横顔に感じたのは悲愴感だけだった。
「愛した女の心臓を握って、私は多くのことを疑問に思った。なぜ彼女は、とりわけ息子の血を望んだのか?なぜ私はその美を愛した女の血を望むのか?満たすと同時に失ってしまうのなら、何の為に望みを持つのだろう?」
彼は虚空に問い、答えがないのでそのまま話は終わりそうになった。私は続けるよう促した。
「その疑問は解けたのですか」
「いいや。…彼女が消滅した後、私は手を洗ってウルリヒを迎えに行った。正妻が愛人の所生の長男を疎んでいることから、母を失えばウルリヒはその町に居場所がないと知っていた。」
なぜウルリヒを迎えに行ったのかとは聞けなかった。伯爵はごく自然なことのように話したので、その行動には理由などなかったのかもしれない。
「ウルリヒには、お前の母は消えた、と教えた。」
「ウルリヒ様に、彼女を手にかけたと知られたくなかったからですか」
「私が手にかけたとき彼女はすでに人間ではなかった。死んだというのは正確ではないから消えたと言った。・・・些細なことだ。私はウルリヒに、あげられるものは何でもあげる、明日からの居場所も、と言った。ウルリヒは私の手をとった。つれてゆくために抱き上げたとき、その温かさにふれて、何があってもウルリヒだけは咬むまいと誓った。」
なぜか絶望的な響きをまた感じた。城につれてきてからしばらくの間、ウルリヒの世話はびっこの下男(当時はその男が城で唯一の人間だった)がしていたようだ。
「ウルリヒが配下の者に襲われないよう、城下で人間を襲うことを禁じた。間違いが起こってはならないから私は誰よりも早く起き、遅く寝た。従わない城の者達を消してしまうことはかまわなかったが、そのうち城の管理をする人手にも困るようになってしまったので、城下から人間を雇い入れることにした。私は平気でも、まだ子供だったウルリヒには世話をする者が必要だったからな」
これはアンナの話してくれたとおりだった。私はまた訊いた。
「あなた自身は人間を・・・襲いたくはならなかったのですか」
どうも伯爵に吸血鬼としての習性を訊くのは気がひけたが、知りたいことは山ほどあった。
「抑えられないほどではない、たいていの場合は。しかしあまり長いあいだ血を絶っていたのでだんだん体が重くなり、飢えに苛まれるようになった。あるとき、思わず侍女の一人に咬み付こうとしたのだが、ウルリヒの母のことが急によみがえってきて、恐ろしくなりわけがわからなくなった。気を失ったのだと思う」
「血を絶つと、死ぬのですか」
「死にはしない。ただ、体が冷たく、重くなり、動けなくなる。消滅するかもしれない」
「冷たく?」
「この体は冷たい。だから生きた人間の熱をいつも欲する。少しの間でも、体を温めたいのだ。その後、人間たちが新鮮な血を持ってくるようになったので、動くことくらいは支障なくできるようになった。彼らも、仲間が殺されるよりはいいと思ったのだろう」
伯爵は自分の行動が人々に敬意を抱かせたことなど知らないようだった。知ってもなんとも思わなかったのかもしれない。そして同様に、人々が自分を裏切ってもなんとも思わなかったのかもしれなかった。
「7、8年してウルリヒが大人になると、城下の施政をさせるようにした。人間のウルリヒが治めるほうが民もよかろうし、私は飽き飽きしていた。ウルリヒは頭が良かったから、通商だの町の整備を熱心に行って、何年かすると町は以前より豊かになった。私は興味がないので何もしなかったが、評判が良くなればウルリヒの為には良いだろうから、町の発展は喜ばしいことだと思っていた。
そんな頃、侍女の誰かがウルリヒにもそろそろ奥方が必要だと言い出した。確かに城には女主人がいたほうが良いのかもしれないと思った。ウルリヒにもそう言った。良いと思う娘がいたら結婚すれば良い、城下にいなければ他所を訪ねて探しても良いと。しかしウルリヒは結婚など考えたこともないと言った。私は城の者たちから成年の男は婦人を求めるものだと聞いて、ならばウルリヒにも必要だろうと考えて勧めたのに」
それはそうだろう。二十歳を越した男がちっとも婦人と触れ合わずに生活するのは不自然だ。
「確かに大人になれば婦人を愛し、また肉体的にも求めるのが普通です。修道士などは別ですが、我慢を重ねると気持がすさみ健康も損なうものです」
私は人間の男の代表のような気持でそう説明したが、伯爵は聞いていないかのように無関係に話を続けた。
「ウルリヒは、わたしを愛していると言った。わたしが母を殺したことを知っていたにもかかわらず」
私はウルリヒが伯爵と母のいきさつを知っていたことに驚いた。では、ウルリヒの告げた愛はなまなかなものではなかったのだ。
「そしてわたしを欲するといった。私にはそれがどういうことかわからなかったのだが」
伯爵は目を閉じ、何かを思い出すように少し顔を上げた。
「私を抱きしめてキスをした。ウルリヒの腕も体も唇もひどく熱くて、口の中に舌を入れられてわたしは物が考えられなくなり、もう少しでウルリヒの舌を咬んでしまうところだった。ひどく驚いて、私はウルリヒを突き放した。」
びっくりした時の話をこんなふうに落ち着いて話すのは何だか滑稽だと思いながら、私は笑えなかった。話を続ける伯爵の口元を見つめながら、そのキスの感触を想像し、私は自分がウルリヒになり替わったような錯覚を覚えた。なお悪いことに、その錯覚にすすんで意識をゆだねた。
「ウルリヒは言った。『私をあなたと同じ体にしてください。私はずっとあなたのそばにいたいのです』と。しかし私は拒否した。ウルリヒを、彼の母のようにしたくなかった。ウルリヒが私と同じように冷たくなり、かつての女たちのように空ろになって私から去っていってしまうのが嫌だった。だが彼はあきらめようとしなかった。私が昔、あげられるものは何でもあげると言ったことを憶えていて、私をほしいと言って・・・自分の言葉に酔ったようになって私を引き寄せてどこといわず触った。・・・熱い手で触れられて私はまた貪欲な気分になってきた。再び突き放して外に出たが、その晩、私は塔の上で夜通し悩んだ。あの熱い手に触れられたいと望みながら、それをすればウルリヒを咬んでしまうことがわかっていた。どうすれば咬まずにすむか、そればかり考えていた。きっかけは忘れたが自ら口を塞いでしまえば大丈夫だと思った。やや不安に思いはしたが、ある夜、布を持ってウルリヒの部屋に行った」
伯爵は自分が何をしゃべっているかわかっているのだろうか。私はすでに言葉もなかったが、聞いて想像するだけで体が落ち着かない感じになってきた。伯爵はその静かな口調で語りながら一つ一つ、その感覚を思い返していたのだろう。交わした言葉を一つとして忘れていなかったのだろう。
『これで私を縛るが良い。そうすればお前を咬まずにすむ』
『嫌です。そんなことをするくらいなら、無理は言いません、今までどおりお傍に』
『触れて欲しいのだ、その手で。一度きりでなくずっと、お前の熱が欲しい。』
ウルリヒは伯爵の口をその布で猿轡をかませるようにして塞ぎ、抱き上げてベッドへ運んだ。伯爵はその行為を語るのに羞恥すら感じていないようだった。ほとんどうっとりと、と言っても良い顔をしていた。それが返って痛々しかった。私は喉が痛くなってきて、ただ耳を傾けていた。
「私はウルリヒのその部分の熱さと固さに驚いた。私の体はそういう反応を示さないので、そんな風になると思ってもいなかった。ウルリヒははじめ私のことも反応させようとしてしきりに触れていたが、そのうち気づいたようだった。それでも彼は止めることなくあるところに急に指を入れた。痛みに耐えかねて布の下から叫ぶと今度は唾液で指を濡らしてしばらく慣れさせてからウルリヒのそれをそこに入れた。はげしい痛みと熱さにそのまま消滅するかと思った。」
「・・・痛いとか熱いだけ、だったのですか」
「そうだが。人間は何か別のことを感じるのか?・・・そんなことはどうでも良い。私は」
私はひどく打ちのめされた気分になった。伯爵はウルリヒのしたことの意味をちっともわかっていなかった。私は大声でそうではないと言いたくなった。
「どうでも良くなどない。まさか、ウルリヒ様があなたに痛みを与える為にそんなことをしたとでも」
「ウルリヒは、私に何かを与えたかったのか?私は、ウルリヒはそうしたいからするのだと思っていた」
私は言葉に詰まった。何かが違うのだが否定もできなかった。
「たとえ私を苦しめる為にそうしたのだとしても良い。熱い腕に包まれ、熱いものを体に入れられて私はひどく昂ぶり、一時だけではあったが日ごろの冷たい飢えを忘れ去った」
思い出すように目を細める顔を見て、ますます何も言えなくなった。
「わたしは、血を貪る以外の方法で熱を感じることができるのを知った。どちらかと言うと体はむしろ重くなったが、私はもうウルリヒの温もりなしではいられなかった」
痛みは耐えられるからかまわないのだ、と伯爵は言った。痛いからといってどうなるわけでもない、と。
「本当に体が裂けてしまったとしても死ぬわけではない。ただ裂けたままになるだけで、だから痛みなどは比較的どうでも良いのだ」
また喉が詰まる。やはり吸血鬼の体は死体なのだ。傷は癒えない、快感もない。たとえば手足がもげても死にもしないが治りもしないのだ。それでも傷ひとつないところを見ると伯爵はそれなりに用心してやってきたのだろう。その彼が痛みに耐えても得たかったのは何か?痛みよりも耐えがたいそれまでの日常とはどんなものだったのか?
「あなたは愛を求めたのですね。」
「愛を求める?わたしはただ、温もりに惹かれただけだ」
私の言葉は伯爵に通じなかった。彼にとって、愛とはかつての女たちに感じた「美への愛」のことらしい。しかし彼は、ウルリヒのことは「無しではいられない」と言ったのだ。その感情の意味もわからず、ウルリヒの気持も知らず、すべて欲望のための行動としてしか捉えられず、それでいて、ウルリヒを失って伯爵に残ったのは空虚と絶望だけだった。私は何か言わずにいられなかった。失った人に替わって誰かが・・・たとえば私が・・・
「もしあなたが、誰に関わらず生きた人間の熱に惹かれるのであれば、行きずりの誰かにも、同じように求めることはできる。」
伯爵はちょっと考えて、
「いや。私はそうしたいとは思わない」
と答えた。私は、今度は自分が、などと言い出しかけたことに自分であきれた。しかも誰でも良いような言い方をしたことに自分で嫌気がさした。伯爵にその意味が通じなかったことだけが救いだ。
どこかで烏が鳴いた。朝が近づいているのだと思った。
伯爵は話のあいだじゅう、一歩も動かなかった。
階下にかすかに足音がしていた。聞き間違いかと耳をすませたが物音は遠ざかるどころかだんだん大きくなってきた。荒々しい足音、ドン、ドン、という打ち付けるような振動。ばりばりと不吉な音がして、城の扉が破られたのがわかった。ハンターたちは人のいなくなった城に襲撃を始めたのだ。私は夢から覚めたように辺りを見回した。夜の闇が青く薄れてきていた。伯爵は私のほうを見た。
「君が呼んだのか」
「とんでもない。私が町に戻ってきたときにはもういたのです」
変わらぬ沈み込むような調子に微塵も怒りは感じられなかったが、なぜか疑いを晴らそうと懸命になった。
「彼らの狙いはあなたです、伯爵。」
「そうだろうな」
伯爵はまるで他人事のようだった。
「彼らはウルリヒ様の死もあなたの仕業だと思い込んでいる。ここに踏み込んできたら遺体に杭を打つ気でしょう。」
「それはだめだ」
静かに、しかし思いもかけないすばやさで伯爵は私を通り過ぎ、ドアに向かった。
「私が説明してこよう。」
「危険だ」
「話をするだけだ。君は」
伯爵はウルリヒに目を向けた。
「傍についていてくれ」
そう言って出て行ってしまった。私はその場から動くことができなかった。ハンターと伯爵の間に入って楯になる勇気はなかった。
少しして、階下の人声が何か騒いでいるのが聞こえた。伯爵の声は聞こえず、やがて、数発の銃声と、「魔物め!」という叫びがあがった。いくつかの物音がした。最後の物音は重いものが落ちるような音だった。何があったのだろうか、伯爵は討たれたのだろうかと、私は凍りついたようになった。それからの数秒は百年にも感じられたが、まもなく伯爵は窓から入ってきた。今思えば飛んできたに違いないのだが、その時はそれどころではなかった。いつの間にか明るくなっていた。伯爵は朝の光を浴びて重そうに体を引きずり、ベッド脇へ戻った。腕に傷があったが血は流れていなかった。おそらくもともと血が通っていないからだろう。それでも私は動揺した。
「怪我をしている」
うわずった声でそう言い、側にかけよった。
「やつらは私の話を聞こうとしない。」
伯爵の声は震えていた。それは怒りだったのだろうか?傷が痛んだからだったのだろうか?それとも恐れの為だったのだろうか?
「通路の一部を塞いだが、じきにここへ来るだろう。」
先ほどの落ちるような音は通路を塞ぐ仕掛け扉の音だったようだ。私は伯爵を逃がさねばならないと思った。
「逃げて下さい。いまならまだ逃げられる。」
伯爵はゆるく首を振った。ああ今でも思い出せる。まるでそこに縫いとめられてでもいるかのように膝を折り青白い手を床について、私に嘆願するような目を向けていた。
「私はどこにも行かない。…君の事を、捕らえた人間と言っておいた。やつらが来たら、ウルリヒは人間だと説明してほしい」
手を伸ばして机の引き出しから小さな剣を取り出し、私に差し出した。
「これで私を刺すのだ。心臓の場所はわかるのだろう?」
なんと残酷なことを彼は言ったのだろう!私は受け取るのを夢中で拒否した。伯爵の胸にそれを突き立てるなど恐ろしくてできないと思った。何が恐ろしいのか?誰かを刺しころすことが?かれがしぬことが?・・・
「できない、人を殺すことなど私には」
伯爵は淡々と返したものだ、
「人ではない。生きていないのだから殺すことにもならない。さあ」
私は無言で、必死に首を横に振った。伯爵はそんな私をしばらく眺めて剣を下ろし、燃えつきかかっている、火のついたろうそくを床に落とした。火は敷物を焦がし始めた。伯爵は体の向きをかえて剣をウルリヒの手に握らせ、その手を自分で握った。私は震える声で訴えた。
「あなたが死ぬことはないんだ、伯爵。」
「死にはしない、消えるだけだ」
「あなたは充分に長い間、善いことをしてきた。なのになぜ責められる」
そういうと彼の暗い色の瞳がもう一度私を見た。
「なぜ?善いこと?誰に対して?いや」
伯爵の視線はすぐにすいと遠ざかっていった。
「どうでも良いのだ。階下の者たちがわたしのことを何と言って責めようと、いままでしてきたことが善きことであろうと悪しきことであろうと、町の人間がわたしが消えてどう思おうと。」
敷物をなめながら炎が広がってゆく中で、私は呆然と立ったままだった。伯爵は私に背を向けたまま無感動に呟いた。
「そして君がそこに突っ立って焼け死のうと、走って逃げ出そうと、どちらでも良いことだ。」
どうでも良いといわれたことがショックだった。彼は私のことなど、はじめから終わりまで本当にどうでも良かったのだ。
伯爵は切っ先を胸に向けた。彼はもうウルリヒしか見ていなかった。私は部屋の外へ走り出した。彼が塵になるところなど見届ける気にはなれなかった。だから、わたしが最後に見たのは刃がその胸を深く貫き、ウルリヒに折り重なるように倒れてゆく光景だった。
城は焼け落ちた。貴重な数々の書物も灰になった。焼け跡からはウルリヒのものと思われる骨が見つかり、それは棺に納められて教会の墓地に埋葬された。
わたしはそんな心無いことをする人々に嫌気がさし、ドラクレアを後にした。帰路のトランシルヴァニアの記憶はほとんどない。
あれから2ヶ月がたっても私の心は悲しみにふさがれたままだ。伯爵を救うことができるなら救いたかった。もう一度会えるなら私は異端に落ちてもかまわない。告白しよう、私は彼を、「老伯爵」ミフネアを、愛しかけていたのだ。吸血鬼であれ、伯爵に魂がなかったなどとはとても信じられないので、私は彼が、神の目を逃れたどこかで、彼の望んだウルリヒと二人だけの安らぎを手に入れていることを願った。
…願った。
あれから十二年がすぎた。私は今も伯爵のことを考える。
出会ったはじめから、伯爵が何もかもに、どうでも良い、と言っていたのは、長い時間を過ごしてきて全てに飽いていたからではなく、愛する人が、いや、彼にとって唯一の存在が、命の瀬戸際にあったからであると、私は確信する。いったい誰が、わが全てである人が死にかけているときにほかのことにかまっていられるだろう。
あのことで私が最も怖気をふるったのは、伯爵の青ざめた顔色や冷たい手などではなく、また考えようによっては死姦ともいえる吸血鬼と人間の肉体関係でもなく、半世紀もの間、文句のない善政を享受しておきながら、町の住人たちが残酷な狩をだまって眺めていたことだ。しかもかれらは全てが終わった後、何食わぬ顔をしてハンターたちに礼まで言ったのだ。
ほんの数日あそこにいただけのよそ者がそれを憤るのはおかしなことだろうか?伯爵ならそんなことさえ、どうでも良いというのだろう。
それにしてもウルリヒは、伯爵に愛しているといいながら自分の人間そのものの欲望を彼に向け、それどころか、心まで食らい尽くしてついに彼を消滅させてしまった。
欲望にかられ、本能のままに他者を貪っていたのは少なくとも伯爵ではあるまい。彼は誰よりも理性的で心の穏やかな人物だった。
伯爵。あなたは一度も私を名前で呼ばなかったし、私もあなたの名を口にしたことはなかった。でも今一度だけ、あなたが愛する人にそう呼ばせていたように、私にも呼ばせてほしい。
・・・ミフネア。
あるミュージカルを見て、吸血鬼を題材に書いてみようと思い立ちました。
が、そもそも吸血鬼についてあいまいな知識しかないことに気づき、民俗学的吸血鬼、文学的吸血鬼について数冊の本を読み、ルーマニアの歴史について調べ、吸血鬼文学の代名詞『ドラキュラ伯爵』を読み、・・・結果、都合の良いところだけ作中に使いました(すみません)。
調べ物の成果はところどころ、ディテールに生きております。
話の筋はロマンス(BLですが)、しかし視点は第三者に置く、という試みでもあります。手記形式もはじめて用いました。
ヨーゼフは18世紀の知識人らしく、大いに理屈っぽく考えているつもりでどこかまが抜けています。行動の伴わないへたれなのですが、本人は気づいていません。名前は、オーストリア人としてありがちな名前を選んだ結果、ヨーゼフになりました。「A」は・・・考え付かなかったのでアルファベットのトップを・・・(ひどすぎ)
吸血鬼たるミフネアの最期は無力です。魔物という存在よりも人間の敵意や欲望のほうがずっと恐ろしい、そんなイメージで書きました。
暇つぶしにお楽しみいただければ幸いです。




