弱みに漬物
「うちのお兄ちゃんてばさ、いつまでも昔好きだった女を好きなわけっ。でぇ、今もまだ追いかけてるんだってさー」
「なにそれ。お兄さんから直接聞いたの?」
「そーなの。酔って帰ってきて、なんかいいことあったっぽかったから聞いてみたんだけどね、その女の人と飲みに行ってて、で、好きだわーっていうのを再確認したんだってー。もう考えらんない」
そう言う悠子はぷくーっと頬をふくらませてる。
僕の気持ちなんか知らずに。
放課後の学校で、教室でだらだらと日直の仕事の一つである日誌の残りを書いていた僕に、もう一人の日直の悠子が愚痴ってきたのだ。
きっと話を聞いてもらえるなら誰でも良かったんだろうかと思う。
悠子とは仲が良い。初めて日直が一緒になったときから距離が一気に近くなって、よく喋るようになった。
「お兄さんだっていい歳なんだし、別に恋をしてたっていいんじゃないの?」
「こんなに可愛い妹がいるのに、他の女に惹かれるってどういうことなのっ、って話よ!」
「ハハハ……」
自分でそれを言っちゃうか。
悠子はブラコンだ。お兄さん大好きで、こうやって放課後に残るといつもお兄さんの話ばっかりだ。
「悠子だってもう高校2年なんだし、そろそろ好きな人の一人や二人でも作ってみたら?」
「馬鹿ね。これだから淳平はダメなのよ。お兄ちゃん以上の人なんてそうそう見つかるはずないでしょ」
「これだからブラコンは……」
「妹として当然の愛よ!」
どうしてこうも包み隠さずブラコンアピールをしてくるのだろうか。
悠子がブラコンを打ち明けているのは、僕と悠子の親友の二人だけである。その親友にはもっと言っているらしいのだが、これ以上っていうことはどういうことなのだろうか。想像もできない。
「お兄さんとは結婚できないじゃん」
「結婚とかじゃないのよ。お兄ちゃんが幸せになるためには、どんな女と付き合っていくかが人生の分かれ道になるのよ。それを見届けるまでは妥協はできない!」
グッと拳を握りしめてそう言う悠子。
僕は小さくため息をついて日誌に今日の5時間目の内容を書いた。
「それにね。その昨日会ってた女には彼氏がいるらしいの」
「よく調べたね」
「電話で言ってたのよ。愚痴聞いてるっぽかったんだけど、内容がそんな感じの内容だったの」
「へー……」
なんでこんな子を好きになってしまったのか。
人が恋をするのには理由なんてない。そう言うけど、どこかで惹かれているのだと思う。
例えば僕は、彼女の笑い方が好きだ。悠子は笑うときに『ニシシシ』と笑う。
どこかいたずらっぽくて、そこに悠子らしさが垣間見えているような気がして、とても好きだ。
だから僕は悠子の笑顔に惚れているのかもしれない。
そして知ってか知らずか、その惚れた弱みに漬け込むかのようにこうしてノロケ話に似たような愚痴を聞かされる。
話す機会が増えるのはいいことなのだが、これを喜んでいいのか悪いのか。悩むよりも、今この時間を延ばしてもらいたいと考えてしまう僕はずるいような気がしてならない。
「でね……って聞いてる?」
「えっ? 聞いてなかった。ごめんごめん。で?」
「はぁ……もういい。どう? 日誌書けた?」
「あとは今日の出来事を書くだけ。悠子もちょっとは書いてよ」
「淳平のほうが字綺麗じゃん。だからお願いします」
「んもぅ……」
照れる。どうしようもないところで褒められても照れる。
僕は赤くなりそうな顔を隠すために日誌に顔を近づけて書いた。
惚れた弱みにつけこまれているのか、それともつけこませているのか。
漬物かよ。きっと味がしみていて美味しいんだろうな。
「今日なにがあったっけ?」
「今日?」
「悠子のお兄さんの話でほとんど忘れた」
「人のせいにするのは良くないと思いますー」
「だってずっと横でお兄さんの話されてたら、わかるものもわからなくなるって」
「私のせい!? いや、お兄ちゃんのせいか」
「すごい責任転嫁だ」
「ちょっとはバツを与えてあげないと」
「それは八つ当たりでしょうに」
「いいの。なんか適当に『今日は授業に集中できた』とか書いておけば?」
「それでいっか。ダメなら書き直そう」
「その意気よ」
悠子に言われた通りに書くと、サッと日誌を取り上げられた。
「じゃあ職員室にレッツゴー!」
「ほとんど僕が書いたのに」
「細かいことは気にしなーい。ほら。さっさと行って帰るわよ」
そう言って、右手を差し出してくる彼女。
これは……手を繋いでいこうということか?
僕は何も考えずに差し出された手に自分の手を伸ばした。
すると彼女の手がスッと引いた。
そして疑わしげに僕を見て一言。
「……なによ」
「こっちのセリフだよ。今のはどう考えても誘ってるようにしか見えなかったっての」
「そ、そーゆーわけでやったんじゃないの。なんとなくよ、なんとなく」
「そのなんとなくでどれだけ振り回されているか……」
「ん? 今なんて?」
やべっ! 思わず口に出してしまった!
「えっと、手を取って振り回す気だったんでしょって言ったんだよ」
「何それー。私そんなことしないでしょー。それともそんなことするように見えるわけ?」
悠子ははにかむように笑って、先に教室を出て行ってしまった。
しかし、その一瞬見えたはにかみスマイルだけで僕には十分で、顔が一気に赤くなるのが分かった。
本当は告白とかしたいけど、こんなブラコンな彼女に対して告白をしても、成功率なんて目に見えてる。
だけどその告白をきっかけに……って考えるとしてみてもいいのかもしれないとも考える。
でもでも、最終的には、この今の関係をもう少しだけ楽しんでいたいという結論にたどり着く。
漬物もたくさん漬け込んだほうが味が染み込みやすいし。
……関係ないか。
僕は心を落ち着けるために、自分のオデコをペシペシと何度か叩いて気持ちをごまかしてから、彼女の後ろを小走りで追いかけた。
おしまい