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内城は大きく分けて官吏達が政務をおこなう官衙と皇帝の住む皇城の二つに分けられる。皇城はさらに皇帝が謁見など行う外朝と、皇帝やその妃達の住まいである内廷に分けられ、通常内廷にいる女官が官衙をうろつくことは少ないのだが……
「えっと……いかがされましたか?」
葉月は目の前にいる三人の女官を前に戸惑っていた。桃色の女官服を身にまとった彼女達は明らかに葉月よりも若い。互いに小突きあってもじもじする様子はまるで女子高生だ。
ひとりの女官が意を決したように顔を上げた。
「空読み師さんですか?」
空読み師なんてそんな大層な名前で呼ばれるとなんだかこそばゆい。日本ではまだ半人前の気象予報士だったのだ。首の裏をぽりぽりと掻きながら「ええ、まあ」と曖昧な返事を返す。
「私達、王妃様付きの女官です。実は明後日、王妃様と王子様が玉淵潭にいらっしゃいます。それで出発時の晴雨寒暖の具合を教えていただけないかと思って参りました」
葉月は首をかしげた。
「明後日ですか?」
「はい、毎年恒例の踏春の旅行なのですが、王子様はまだ一歳。寒暖の具合で着る物など準備が変わります。少しでも天気がわかればと思いまして」
几帳面にお辞儀をした女官から視線を外して、葉月は空を仰いだ。霞がかった空には刷毛ではいたような筋状の雲がいくつも伸びる。
「そうですね。その日、天気は坂を下るように悪くなるでしょう」
その答えに女官達は一様に肩を落とした。
「ちなみに出発は上午ですか下午ですか?」
「上午です」
「では、雨は免れるかもしれません」
「寒暖の具合はいかがでしょう」
「雨が降る前までは春の暖かさ、雨が降った後は冬の寒さが戻ります。出発時、穏やかな陽気でも雨の用意を、暖かくても寒さの準備を――」
葉月の言葉に女官達が「すごーい!」と驚嘆の声を上げた。
「どうしてわかるんですか?千里眼でもお持ちなのですか?」
「千里眼⁉︎」
千里眼とは千里の果てまで見渡すことができる能力。つまり、超能力のことだ。
「そんなものないないない。これは観天望気といって雲の形などから天気を予想する方法です」
「そうなのですか。いずれにしてもすごいです!」
女官達の目はキラキラと輝いている。葉月はなんだか誇らしげな気持ちになって、口角をきゅっと持ち上げ、小首を傾げた。
「明日になればもっと確実なことがわかるわ。気になるなら来てみて」
口調が若干おかしくなったのは、異世界ということで許してほしい。可愛らしい女官たちを前に、デキル女面をしてみたくなったのだ。そのとき、ふいに背後からクスクスという笑い声が聞こえた。
焦って振り返った先に立っていたのは、無精髭の奥で笑いを噛み殺す鄭之藻と、今日も爽やかな笑顔の高光啓だった。
「之藻さん、高課長いつからそこに!?」
見られたくない所を見られてしまった恥ずかしさから、葉月は赤面した。
「『空読み師さんですか?』の辺り?」
「それって最初からいたってことじゃないですか」
「まあ、そうとも言うよね」
高啓がにっこり笑うと、後ろから「キャー」と悲鳴に近い声が上がった。
何事かと思って振り向けば、黄色い声の主は先の女官達で、その瞳はイケメンスマイルに釘付けだった。つまりこの女官達も彼のファンということらしい。
「女官さん達にわざわざこんな所まで来てもらっちゃってごめんね。なんならこっちから行ったのに」
「そっ……そんな……わざわざ来ていただくなんて」
しどろもどろになりながら首を横に振る女官達の姿は、まるでアイドルを前にしたファンそのもの。しかし、当の本人にとってはそんなの慣れっこなのだろう。爽やかスマイルは崩れることなく、それどころか、
「こんな美人で有能な女官さん達に会えるんだったら、仕事なんか後回しで行っちゃうよねー」
などと言うものだから、彼女達の顔は沸騰したように真っ赤になった。勘違いラブレターが殺到するのも納得だ。
「明日になればもっと詳しい天気がわかるんだよね、葉月?」
名前を呼ばれたことに動揺しつつ、葉月は小さく咳払いをして「ええ」と答えた。
「じゃあ、明日はこっちから伺おうか?」
「いえ、こちらの用事なので私達が参ります」
「本当?悪いねー」
「いえいえいえいえいえいえ」
首を振る三人の声が二重三重にこだまする。否定の声までもが見事なハーモニー、さすが女官。
葉月が感心していると、女官達は誰からというわけでもなく姿勢を正し、流れるような所作で略式の礼をとった。
「「「失礼いたします」」」
その礼は一分の乱れもなくぴたりと合っていた。
葉月は女官というものを初めて間近で見たが、なかなかに厳しい訓練が施されているらしい。国家官吏試験ほどではないものの、女官試験もかなりの高倍率だというのも納得だ。
しかしながらくるりと踵を返した瞬間、キャッキャと声を上げて駆けていく姿はやっぱり女子高生だった。
あの女子パワーには逆立ちしたって勝てる気がしない。
「ねえ、葉月。どうやって明後日の天気がわかったの?」
いつの間にか隣に来ていた光啓がそう尋ねた。葉月は少し考えて、空を指差した。
「雲ですよ」
「雲?」
「今日の雲は刷毛で掃いたような雲です。この雲は擾乱が近づいた時一番初めに現れる雲で、この雲が現れたら一日半後に擾乱本体が近づいて雨が降ることが多いんですよ」
空を見ながら葉月の説明を聞いていた光啓がゆっくりと視線を戻した。
「なるほど。さすがだね、葉月」
葉月の心臓がトクリと跳ねた。
「いえ、簡単な観天望気です。ってその前に、葉月って名前で呼ぶの止めてください」
「どうして?」
どうしてって、ファンの方々に変な誤解を与えたら……そう言おうとして、葉月は自らの容姿を思い返した。黒縁眼鏡に手入れしていない髪。眉毛はぼうぼうでしかもすっぴん。極めつけは棒っきれのような男か女かわからない体型。男だと間違われるのが関の山で、変な誤解など生まれるわけがない。
「えっと、言われ慣れていないので……」
「じゃあ、言われ慣れればいいじゃん。それに之藻だって葉月って呼んでるし」
葉月は振り返って之藻を見た。之藻に名前で呼ばれた記憶などなかったが、仮に名前で呼ばれたとしても何とも思わないだろう。何が違うのだろうと首を捻って考える。
顎髭を撫でていた之藻の目がニヤリと葉月の方を向き、次の瞬間、背後からガシリと肩を掴まれた。
「お前まさか?」
「違います!絶対に違いますから!」
なぜだかわからないが、葉月は猛然と否定していた。
「まだ何にも言ってねえだろ」
「いえ、之藻さんが言うことなんて、十中八九よからぬことですから」
「そんなのわかんねえだろ」
「わかりますって。それよりも、肩組まないでください」
「なんだよ、お前まさか潔癖女か?」
隣に立つ之藻の顔を睨みつける。
「そうなのかもしれません。之藻さん限定で!」
なぜ之藻と話すと喧嘩になってしまうのだろう。
葉月は肩におかれた手を払いのけて、歩き去った。
※※※ ※※※ ※※※
王妃様御一行は雨にあたらず無事、玉淵潭に着いたらしい。「着いたと同時に雨が降り出して本当に予想通りでした」と帰ってきた女官達に興奮気味に言われ、葉月は苦笑いしながらも胸をなでおろした。
「それで、これ信封なんですけど」
女官のひとりから手紙を渡された。裏返してみれば、そこにはしっかりと――高光啓様へ――と書いてあった。手紙といっても自分宛じゃないらしい。全くあの男は何枚もらえば気が済むんだ。
「じゃあ高課長に渡しておきますね。それにしても、どうしてあんな掃溜め課の男がいいのやら」
最後の完全ひとり言に女官のひとりが「掃溜め課?」と首をひねった。
「ああ、ごめんなさい。ほら、呪術祠祭課っていつ左遷されてもおかしくない仕事がない課でしょう?そんな所にいる官吏なんて将来性ゼロ――」
才色兼備な女官さん達が相手にするわけが――。
そう言いかけた言葉は、猛然と左右に振られた三人の顔によって阻まれた。
「それ完全な誤解です」
「そうです。高光啓様は翰林院の出でいらっしゃいます」
「将来の職を約束されたも同然です」
へっ?翰林院?将来の職を約束された?
「えっと、ごめんなさい。内城について詳しくなくて。翰林院って何?」
その刹那、女官達が「え―!」と軽い悲鳴を上げた。
「翰林院を御存じないんですか?」
葉月が微苦笑で肯定の意を示すと、女官のひとりが翰林院について説明し出した。
翰林院とは書物の編纂、詔書の起草などを行う、いわば皇帝直属の秘書室。国家官吏試験の上位合格者などの有益な才能は間違いなくここに配属され、勉強や実習の見習いをさせ、必要がある時に中央官庁や要職に任命される。つまり、鳶国の学問や政治の最高人材がそろっている場所らしい。つい数年前まで高光啓もここで見習いをしていたとのこと。
「つまり、高課長って選良?」
「選良なんてもんじゃありません。選良中の選良です」
「もしかして、将来を嘱望されていたのに皇帝の不興を買うとか、なんか思い切りヘマしたの?」
「いえいえいえいえ。その才を認められて、呉礼部長官に引き抜かれたという話です」
「その割には毎日暇そうだよ」
「それはきっと呉長官に何かお考えがあるのではないでしょうか」
葉月の脳裏に礼部長官室で小躍りする呉桂成と高光啓の姿が浮かんだ。あれはどう見ても、事なかれ主義男が使いやすいだけだ。
興奮気味に話す女官達を前に、葉月は信じられないとかぶりを振った。