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ソラヨミシ  作者: こでまり
1.春分
8/63

6

「あー、体が揺れるー。なんか、すんごい飲んじゃった」


 厠所へ立った葉月はふらつく自分の体を自覚していた。火照る頬を少しでも冷まそうと、院子なかにわに出て夜風にあたる。廊下の向こうからは男女の笑い声と楽の音が風に乗って流れて来た。それを聞いていると、本当にここが異世界なのだと実感させられる。

人と縁を作りすぎるのは怖い。元の世界に帰れなくなりそうでーー。


「自由気ままな傘売りが一番だ」


 自分を納得させるようにつぶやいて歩き出したところで、視線が釘付けになった。薄暗い廊下の先で、妓女が男の首に手を掛けていたのだ。


「光啓、今夜こそは泊っていって」


 華やかな装いを纏い、麗しい瞳を潤ませて男を見上げているのは先の妓女、芙蓉。そして、視線の先の男はもちろん爽やかスマイル健在の光啓だった。


「んー、まだ仕事残ってんだよね」

「なあに、つれないのね。でも、春分祭まで一月ひとつきないものね」

「うーん、それもなんだけど……」


 光啓は思い出したように口元を緩めた。


「子猫の面倒もあるし」

「まあ、私、猫に負けたの?」


 芙蓉の白くふくよかな手が男の両頬を挟み込む。


「しかたないわね。じゃあ、今夜はこれで我慢するわ」


 そう言って、女は紅が取れるのもかまわず男に口づけした。

 その一部始終を見てしまった葉月は数メートル手前で完全に固まっていた。


 こ……こんな所でキス!?どこの世も美男美女はやることが違いすぎる。見ている方が恥ずかしくなる。

 

そんな心の声が届いたかのように、光啓の視線が葉月へと移った。芙蓉の頭髪越しにのぞくまっすぐな瞳は少しも笑っていなくて、葉月の体はビクリと跳ね上がった。


 えっと、これは覗き見じゃないですから。たまたま偶然ですから。


 心の中で思いっきり弁解して体を反転させる。そしてひとつ息を吐いた後、葉月は脱兎のごとくその場を立ち去った。


「いやー、恥ずかしい。恥ずかしかった」


 回廊を曲がった先で葉月は赤らむ頬を両手で挟んだ。別に自分が恥ずかしくなることは全くないのだが、あんな濃厚キスシーンを近くで見せられて素面しらふでいるほど葉月の経験値は高くはなかった。ちなみに、何事もないようにその場を通り過ぎるという上級テクは持ち合わせていない。

 先ほど芙蓉の頭髪越しに見た光啓の鋭い視線を思い出す。


「っていうか、あんな場所でキスなんかするなぁぁぁ」

「あんな場所でキスなんかしちゃってごめんね」


 えっ?と思い振り返る。そこには濃厚キスシーンの片割れが欄干に片肘を乗せて立っていた。藍色の官吏服の胸元が少し肌蹴ていて無駄な色気を放つ。口元には相変わらず百点満点の笑みが浮かんでいたが、いつもの爽やかさは影を潜めていた。


「まさか葉月ようげつに見られるなんてね」

「えっと、厠所に行った帰りにたまたま見ちゃっただけで、他意はござません。他言もいたしません。見たことすら忘れます」


 なぜ自分の方が低姿勢なのかはこの際置いておこう。思いつく限りの言い分を言って、葉月はほっと息をついた。


「見た事忘れられるの?」

「善処します」


 そして、近いです!色気だだもれです!

 いつの間にか目の前に迫っていた男から距離を取ろうと、半歩後ろに下がる。しかし、それを逃さないとでもいうように伸びた男の指に顎を掬われた。甘さを含んだ端正な顔と無理やり対面させられて、葉月の心臓は爆発寸前になった。

 間近でイケメンを拝むなど一生ないだろうが、免疫のない葉月には限界だった。


「ごめんなさい、高課長!」


 その言葉と共に葉月は光啓の体を思いっきり突き飛ばしていた。とはいっても、所詮は女の力。大の男に敵うわけもなく、光啓の体は数歩後ろに下がっただけだったが。


「えっと、すみません。私、こういうのに免疫ないんですよ。だから……」

「こういうのって?」

「だから、高課長みたいなモテモテの爽やかイケメンとか、今までの人生でお近づきになることなかったんで、これからもたぶんないんで、あんまり近づかないでください」

「あんまりってどれくらい?」

「両手を伸ばしたくらいですから、半径二尺以内ですかね」


 両手を横に広げて円を描くように回ってみた。あっ、もうちょっと遠い方がいいかもしれないなどと思いながら。だから、葉月は気がつかなかった。その両手を避けるように伸びた腕に、腰を引き寄せられたことを――


「なっ!!」


 何するんですか!と言葉を発する前に、光啓の薄い唇が葉月の頬をかすめた。触れるか触れないかのかすかな接触。それは逆に葉月の感覚を敏感にした。爽やかでいてわずかに甘い男の色香に思考を奪われる。心臓が爆発寸前の大音量を鳴り響かせる。瞬きすらできずにその場に立ち尽くす葉月の耳に男の唇が寄せられた。


「無防備すぎ。そんなんだと悪い男にひっかかっちゃうよ」


 吐息とともに囁かれたその言葉に、葉月の顔は羞恥で真っ赤に染まった。体中から汗が噴き出る。


「なっ……」


 何か言い返したかったがショートした頭ではうまい言葉が思いつかない。結局葉月はくつくつと喉を震わせながら去ってゆく男に一言も言い返すことができなかった。


 なっ……なんなのーー!半径二尺以内に近づくなって言ったのに!それを一瞬で破って、頬に キ……キス。キスーーーー!?信じられない、信じられない、信じられない!頬にキスってこの世界では普通なの?いや、そんなわけ、えっと、どうだったっけ。ひとまず、私の中では全然普通じゃない。


「何するんですかー!」


 ようやく思考が回復したのは男がすっかり視界から消えた後で、葉月は誰もいないのは百も承知で叫んだ。


 ――しかし、いた。予想だにしない男が。


 漆黒の闇の中から浮かび上がる緋色の衣。作り物のような秀麗な顔。冷たい瞳。


「……シニガミ」


 思わずつぶやけば、眉間にしわを寄せた死神刑部長官 湖聖仁がゆっくりと歩いてきた。どうしてこの男がこの場にいるんだ?などと冷静に考えるよりも早く、男は葉月の前でぴたりと止まった。すらりと伸びた指が葉月の頬に向けられる。


「色仕掛け中でしたか?」


 混乱と動揺でふわふわと宙に浮いたような気分だった葉月は一気に現実に引き戻された。鼻の頭に思いっきりしわを寄せて睨みつける。


「違いますよ」


 視線をそらせて頬にのびた手を払いのけると、今度はその手を掴まれた。

 だから、どいつもこいつも勝手に人に触るな!

 言い返してやろうと思ったが、先ほどのやり取りで正直疲れていた。すべてがどうでもいい気分になって、葉月は投げやりな視線を男に向けた。


「なんですか?まさかこれも監視ですか?」

「ええ……と言いたいところですけど、私も今日は私用でこちらに来ていまして。それよりも、まさかあなたの色仕掛けが通用するとは思いませんでした」

「だから、してませんって。あれは向こうが勝手に――」

「向こうが勝手にですか。詐欺師の常套句ですね」


 湖聖仁は冷たい瞳のまま鼻で笑った。

 相変わらず死神の凝り固まった頭には自分の言葉は通じないらしい。誰がどう考えても、あのイケメンモテ男を自分が落とせるわけがない。なんだか、こいつと話していると自分の人生が悪い方へと転がっていく気がする。いい加減解放してほしい。


「この際詐欺師でもなんでもいいんで、ほっといてくれませんかね」

「――帰りますよ」

「だから、ほっといてくれませんかって、私の言葉聞こえてますか?」

「聞こえています。だから、帰りますよと言っているんです」


 葉月は黒縁眼鏡の奥から思いっきり睨みつけた。しかし、百戦錬磨の刑部長官には全く通じていないらしい。つかまれた左手をグイと引かれる。


「行きますよ」

「どこへ?」

「もちろん、私達の家です」


 はあ?私たちの家?私はいつからあんたの家人になったんだ。

 思いっきり突っ込んでやりたかったが、反対側の手で肩を抱かれて葉月の体はぐらりと揺らいだ。


「ふらふらですよ。どれだけ飲んだんですか」


 肩を掴む手からは温かさなんて微塵も感じない。棘を含んだ言葉は優しさの欠片もない。それなのに、どうしてこの手を払いのけられないんだろう。


「高課長に一言言わないと」

「私の部下に行かせましたから問題ありません」

「……そうですか」


 さすがは極悪死神刑部長官。根回しの良さも、逃げ場を完全に奪うやり方も堂に入っている。

 しかたがなく葉月は引き寄せられるままその肩に身を預けた。酔っ払っているからしかたがない。と心の中で言い訳しながら――



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