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ソラヨミシ  作者: こでまり
1.春分
7/63

5

 極悪死神長官――名前は湖聖仁こせいじんというらしい。死神には似つかわしくない神聖な名前だ――は監視という名目で葉月を自分の家に連れて行った。


 ちなみに“とら住処すみか”とは、という姓とを掛けたネーミングだと後で之藻しそうに聞いた。


それよりも、これからは湖刑部長官の家に住むことになったと言った時の之藻の顔といったらなかった。恐怖に彩られた目でふるふると顔を震わせ「お前何をやらかしたんだ」と心底心配そうに肩をゆすられた。

 それはこちらがお聞きしたい。おそらくは、異世界からやってきてこの国を侵略しかねない要注意人物ということなのだろう。とりあえず「たぶん大丈夫」とだけ言っておいた。


 それにしてもどれだけ自分には災難が降りかかるのか、考えるのも馬鹿馬鹿しくなってきた。この際なら四六時中監視でも何でもつけて見張りやがれと言いたくなる。心穏やかに暮らしたい……そんな慎ましい願いすらもこの世界は聞いてくれないらしい。


 泰京たいけいにある邸宅の中でも殊更豪華な家が葉月を迎えた。ひとつ嘆息して朱塗りの大門の門首を叩く。すぐに無表情を絵にかいたような侍女が現れ「どうぞ」と無機質な声で葉月を案内した。

 この国の貴族の屋敷は院子なかにわを中心に東西南北にへやを構える四合院しごういんという造りが一般的だ。死神の家もその例にもれなかった。院子なかにわを挟んで西側の一つのへやに案内される。


 帳を開けて部屋に入った葉月はしばらく言葉を失った。螺鈿の卓を飾るのは指紋ひとつなく磨かれた漆器の花瓶。意匠を凝らした寝台を揺らすのは薄く落ちる垂簾カーテン。値段などわからない葉月だったが、どれもが一級品ということだけはわかった。

 やはりとでも言うべきか、死神刑部長官は超お金持ちらしい。しかし、驚いたことにその家に住む家人は長官だけで、他の家人は地方にある本邸に住んでいると聞いた。この豪華な部屋の数々は家人が首都泰京に来る時以外はほとんど使われていないというのだから、なんとももったいない。


「どうせ使う人がいないならありがたく使わせてもらいましょうか。まあ、人を勝手に不審者扱いする失礼な奴に遠慮もなにもいらないんだけど」


 葉月は鼻の頭に思いっきりしわを寄せ、紗の垂簾カーテンを勢いよく開けた。大きな寝台に頭から思いっきり飛び込む。柔らかい布団がふわりと葉月の体を包み込んだ。


ああ、ふかふかの布団、懐かしい。どうせ帰る方法もわからないんだから思い出さないようにしてたけど、日本にいるお父さんお母さん、元気かな。感傷に浸ってしまうのは、きっとこの国に来て初めて出会ったあの男に再会したからだ。明日になったら忘れるはず……。

 そんな事を思いながら、疲れ切った体は夢の中に落ちていった。


 どれくらい眠っていただろうか。ふいに柔らかい琴の音色が耳をかすめた。

 低くて、のびやかで優しい音色。なんだか癒される……

 瞳を開けると、ぼんやりした視界の先に燭台の灯りの下で琴を弾く死神の姿があった。長い睫毛が頬に影を作り、普段は烏紗帽の中に押し込めている漆黒の髪はゆるく下ろされていた。灯りに浮かぶその姿は全くもって人間離れした美しさだった。


 葉月は男の弾く楽器に目を凝らした。死神が奏でている物はこの国では珍しいギターの様な形の低音の琴だった。棹の先には馬の形の彫刻が彫られている。その楽器を葉月は子供の頃何かの本で見たことがあった。たしか――


「――バトウキン?」


 そう呟いた瞬間、優しく響くその音色がピタリと止んだ。卓に琴を置いた死神が近づいてくる。


「あなたはどこから来たんですか?この楽器を知っているんですか?」


 その瞳は暗い海の底のような闇色で、その声は今しがた聞いた音色に似て低く静かだった。


「私もわかりません。でも、こことは違う世界から来ました。その楽器は昔何かの本で見た事があります」

「あなた、名前は?」

田葉月でんようげつです」

「違いますよ。あなたの世界での名前です」


 どうしてそんな事を聞くのだろう。訝しく思ったが、優しい音色に誘われるように「ハヅキ」と下の名前だけを答えた。


「――ハヅキ」


 葉月の心臓が不穏な音を立てた。この一年誰も呼んでくれなかった名前。それをどうしてこの人が呼ぶのだろう。自分の本当の名前がこの国で生を受けてしまったら、もう二度と日本には戻れない……なぜかそんな気持ちになった。


葉月ようげつと呼んでください」


 固い顔でそう答えると、死神が「葉月ようげつ」と言い直した。

 これでいい。この世界に自分を残してはいけない。そうしないと、元の世界に帰れなくなってしまう。


 沈黙の中、死神が琴を手に取った。


「明日は内城までの道を教えます。逃げるなんて考えないでくださいね」


 手元の灯りをふっと吹き消して、死神は音もなく部屋を出て行った。




※※※ ※※※ ※※※




 翌朝目覚めると、螺鈿の卓の上に綺麗に折りたたまれた鶯色の衣が乗っていた。恐る恐る広げた葉月はそれが女物であることに目をぱちくりさせた。


「えっと、これに着替えろってこと?」


 葉月は自らの衣を見下ろした。元の色がわからないくらい煤けて変色した衣は短装と呼ばれる下層労働者が着る服だった。しかも、スカートなんて動きにくいもの履けるかと選んだのは男物のズボン。これが男に間違われた一因なのはわかっているが、動きやすいのだからしかたがない。でも、たしかにボロボロのその衣は内城で働く国家官吏の中では浮いていた。


「しかたがない、着替えるか。って、女物の衣の着方がわからないし……」


 上衣を先に着るのか下衣を先に履くのかもわからない。着ては脱ぎ着ては脱ぎを繰り返すがさっぱりだ。しまいには鶯色の衣を脱ぎ捨てて元の短装に着替えようとした矢先、部屋の帳がかさりと開いた。

 薄衣一枚の葉月の視線の先にこの家の主が眉を大きく寄せて不機嫌そうに立っていた。


 ……無言で入室ですか?


 普通の女子ならキャーという声でも上げるところだが、如何せん今の葉月は女を捨てすぎていた。


「すみません、お目を汚してしまって……」


 口から出たのは悲しいかな下層労働者がお貴族様に向ける、陳謝の言葉だった。

 死神は苛立たしげにこめかみを指で押さえた。


「何をしているんですか?もう出発の時間ですよ」

「衣の着方がわからなくて……」

「まさか襦裙じゅくんを着たことがないんですか?」


 襦裙じゅくんっていうんだ……などと言ったら、瞳だけで射殺されそうだ。


「こんな綺麗な衣、着る機会がなかったんですよ」


 憮然と答えれば、死神は呆れて物が言えないとばかりに盛大に嘆息し、こめかみを指先でぐりぐり揉みながら部屋を出て行った。


 時をおかず現れたのは無表情な侍女だった。無言のまま部屋に入り、機械の様に無駄のない動きで葉月に襦裙とやらを着せた。去り際にお礼を言うと、侍女は答えることなく無表情のまま去って行った。かなりコミュニケーション能力が欠落した侍女だ。犬は飼い主に似るというが、使用人も主人に似るのだろうか。


 そうして襦裙を着て、死神とともに家を出た葉月は四方八方から下手物げてものでも見るかのような奇妙な視線を浴びた。

前から来た官吏は慌てて道を空け、通行書を確認する武官は葉月の顔と名前を交互に見比べ、さらには死神のほうをちらりと窺って、信じられないという風にかぶりを振る始末。


 いったいあんた周りからどんな風に思われてるんですか。


 胡乱げに仰ぎ見たが、死神はその超然的な美貌を一分も乱すことなくゆったりと歩く。それはこういう視線を向けられるなど百も承知だという余裕さえ感じさせる態度だった。


 官衙街かんががいに辿り着いた所でこれから朝議に出席するという死神と別れた。

これで奇妙な視線から解放されると胸をなでおろした葉月だったが、日課の気象観測をしてから建物内に入った後も不躾な視線が減ることはなかった。葉月は思わず鶯色の衣を見下ろした。もしかしてこれが原因だろうか。


「やっぱり男ばっかの官衙で女物の衣は目立つか。明日は絶対短装にしよう」


 そう決心した葉月が呪術祠祭課の扉を開けた瞬間、いつもは床に突っ伏して寝ているはずの之藻が待ってましたとばかりに椅子から立ち上がった。黒目がちな大きな瞳がキラキラ輝いている。そして、開口一番、


「お前、虎長官の情婦になったっつう噂は本当か」


 とのたまったものだから、葉月の頭は混乱を通り越してすっかり機能を停止した。


 虎長官って死神の事?情婦って……


 葉月はそこでようやく不躾な視線の意味を悟った。 


「何ですか、その噂は!!!」


 どうやら国家官吏さえも恐れる男色家の極悪死神刑部長官が朝から女を連れて歩いていたという噂は、疾風の如く官衙街を駆け抜けたらしい。


「情婦だなんて、死んでもありえません!」


 その後、葉月が誤解を解くために膨大な労力を使ったのは言うまでもない。



※※※ ※※※ ※※※




 泰京大街から西に百足むかでの足のように伸びる路地は俗に八大はちだい胡同フートンと呼ばれ泰京一の歓楽街だ。飲食店や劇場などと共に妓楼も多い。


「まさか、葉月が虎長官の情婦に間違えられるとはなぁ」


 妓楼のひとつに之藻のだみ声が響く。その日の夜は光啓のおごりで『春分祭頑張ろう会』が開かれた。


「ですから、あれは……」

「でも、そうやって襦裙着てると、一応女に見えるぞ」


 一応って……相変わらずデリカシーゼロ男だ。

 がははと大笑いする之藻を無視して、葉月は白濁した酒を飲んだ。この国の酒はどれもこれもアルコール度数が高い。お世辞にも酒に強いとは言えない葉月にその酒はきつかった。思わず顔をしかめた、そのときーー


「まあ、女の子に無理やり飲ますなんて、近頃のお役人さんは野蛮になったのね」


 小さな笑い声とともに視界に白いたおやかな手が映った。隣を見れば、妖艶にほほ笑む妓女が小さな徳利を差し出していた。


「これは、芙蓉ふようさん。こんな場所に来るなんて珍しいっすね」

「そりゃあ、いつも忙しそうな礼部の精鋭さん達がいらっしゃるなんて、何事かと思って野次馬で来ちゃいましたわ」


 うわー、すっごい美人!

 葉月は不躾なのは承知で隣に座る妓女を上から下まで舐めるように見た。艶やかな装いの妓女は大輪の、それこそ芙蓉の花のように他を圧倒する美しさだった。


「こいつ俺より年上ですから、女の子とか言わなくていいっすよ」


 その答えに芙蓉は目を丸くした。どうやら次の言葉を考えているらしい。


 いやもう何も言わなくていいです。ナイスバディを地で行く目の前の妓女さんには、妙齢の女性がどうやったらこんなガリガリになるのか想像もつかないんですよね。

 微苦笑で答えた葉月に、芙蓉はすまなさそうに柳眉を下げた。


「ご気分を悪くされたらごめんなさいね。肌がきめ細かくて化粧をしなくてもこんなにきれいだから、てっきりもっとお若いのかと思ってしまいましたわ」


 な……なんて素敵なフォロー。

 素敵な大人女子はフォローも素晴らしい。先ほどの鬱々とした気分など一瞬で消え失せ、羨望の眼差しで隣の美女を見る。それに気づいた芙蓉が白くたおやかな手で葉月の黒縁眼鏡を取り去った。


「それにほら。眼鏡を取ると綺麗な顔をしてるわ」


 葉月は羞恥で真っ赤になる顔を俯けた。自分の容姿を褒められるなど生まれてこのかた経験したことがない。お世辞だとわかっていてもなんと答えていいかわからない。

無言になる葉月の前で「たしかに……」と相槌を打ったのは、顔色を全く変えずに酒を飲む光啓だった。


葉月ようげつって眼鏡ないほうが断然綺麗だよね」


 二度目の綺麗発言――しかも男性から――に、葉月の顔は沸騰寸前になった。


「おっ、お世辞はいいです。もう止めてください」


 もげるくらいの勢いで首を左右に振る葉月の隣で、之藻が吹き出した。


「お前の顔、蛸みてえに真っ赤っか」


 ……リミッタ―切れた。

 気づけば葉月は、隣に座る之藻の体を思いっきりグーで殴っていた。

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