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翌日も葉月は白い喪服に身を包んで、天壇前に立った。
「天はその御子である天子に逆らう勢力にひどくお怒りです。その怒りは海のように深く、空のように大きい。一刻も早く、今の政治動乱を鎮めなければ、天はさらなる怒りをこの地に落とすでしょう」
「それは、なんだ、また雷か?」
いいえ。と葉月は首を振った。
「――大寒波です」
寒波が来るなど半分でまかせだった。でも、昨日のような季節外れの暖かさの後に寒さが来るのは理論的に言ってよくあること。しかも、今年の夏は暑かった。夏暑い年は冬寒いとは経験則的によく言われることだった。
「オネガイ、アタッテ……」
思わず日本語でつぶやく。少しでも暴動を食いとめることができるなら、嘘だってなんだってついてやる。そんな気持ちで天に祈った。
幸運にも葉月の予想どおり翌日から寒波が泰京を襲った。外に出るのもためらうほどの凍てつく寒さの中、葉月は絹の喪服一枚で天壇前に立ち、天の怒りを叫び続けた。
喪服姿の千里眼持ちの噂は瞬く間に泰京中に広まった。一昨日より昨日、昨日より今日と天壇前に集まる人の数は増え、それに伴って身の危険を感じることも多くなった。しかし、そういう時には必ず助けが現れた。ある時、いつも助けに現れる小柄な男を見つけて呼びとめた。
「いつも助けてもらって、ありがとうございます」
えっ。と男は振り返り、そしてそこに立つ葉月の姿ににわかに慌てだした。
「いや、自分は違います。たまたま見張り……、いや、人間観察中で……」
……人間観察中?
わけのわからない理由を言って立ち去ろうとする男の袖を強引に引っ張る。
「ちょっと待って。湖長官に頼まれたんですか?」
握った衣を離す気配のない葉月に諦めたのか、男はぽりぽりと頬をかきながら遠くを見た。
「湖長官の手による護衛もいるようですが、自分は違います」
「じゃあ、誰に頼まれたんですか?」
「これ以上は勘弁してください」
「自分が助けられてるのに、それを依頼した相手がわからないなんてなんだかすっきりしないんです。もし私の立場だったらそう思いませんか?」
「いやー、あのー、その気持ちもわかるんですけど、自分も仕事なんで守秘義務が……」
「だ・れ・だ・よ!」
ドスの効いた声で迫る葉月に男は半身を仰け反らせ、そして観念したのか小さな声で「王妃様です」とつぶやいた。
「王妃様?」
「やべっ。これ以上は無理なんで。じゃあ――」
そう言って、男は忍者のような身軽さで天壇脇の木に登っていった。
「……っていうか、木に登る?普通」
軽い突っ込みを入れつつ、思いもかけない人の名に葉月の胸に感謝と申し訳ない気持ちが同時に湧きおこった。
自分は、自分が思うよりもたくさんの人に助けられているの……かもしれない。
※※※ ※※※ ※※※
冬至にはまだ十日以上あるというのに、こんな寒さは経験したことがない。市井の民たちがそう噂し出したその日、葉月はあまりの寒さに、呉家に帰るなり倒れこんだ。
「葉月、大丈夫?」
「雪涛さん。これくらい平気です。それよりも、文治帝と呉長官は明日には戻ってくるんですよね」
「その予定よ。葉月のおかげでこの前暴動を起こした天一道の教徒達に動揺が走っているらしいわ。文治帝が戻ってくれば万事解決よ。今日はゆっくり休んで」
本当にこのまま何もなければいいけど……
漠然とした不安が胸をよぎったが、そんな気持ちに蓋をして早々に寝床に入った。しかし、不安が的中したというべきか、その日はそれで終わりではなかった。
「葉月、起きて。大変だわ。門の前に天一道の教徒達が押しかけているわ」
えっ、門の前って……
「この家の前ってことですか?」
跳ね起きた先で、雪涛が頷く。葉月は着の身着のまま門まで走った。屋敷の使用人たちが不安そうに門の前で様子を伺っている。赤々と燃える松明で辺りは薄赤く光り、重なり合う声が今日が縁日ではないかと錯覚させるほどだった。
「改暦は大逆罪だ」
「礼部長官を罷免せよ。さもなくば、焼き討ちだ」
や、焼き討ち!?それって、この家に火を放つってこと!?
葉月は愕然として、隣に立つ雪涛を見た。呉家の女主人はまるで戦地に赴く兵士のような顔で、使用人達を掻き分けて前に出た。
「この場は私が収めてきます」
覚悟を決めたその声その表情に、胸の中にえもいわれぬ感情が渦巻いて、気づけば葉月は「待ってください」と雪涛を呼び止めていた。
「私が行きます」
「葉月、何を言ってるの?あなたは関係ないわ」
「いえ、実は策があるんです」
「……策?」
葉月はにこりと微笑んで「ちょっと着替えてきます」と部屋に戻った。
月明かりだけの暗い部屋の中、王妃に譲り受けた喪服を手にとる。白い喪服のような服が必要だと言った葉月に、王妃は何のためらいもなく自らの喪服を手渡し「間違えないでちょうだい。これは死に装束じゃない、戦闘着よ」と笑った。
もしかして、王妃様はこういう日が来ることを予想していたのかもしれない。そう思いながら着替えようとした葉月だったが、奮い立たせた気持ちとは裏腹に、両手ががたがたと震えてうまく衣が着られなかった。右手を左手で包んで握りしめる。
――策など、なかった。
口からでまかせだった。それでも、あの時、あの瞬間、雪涛を行かせてはいけない、死なせてはいけないと思った。
自分なら、この世界に元々存在しない自分だったら、悲しむ人も少ない。もしかしたら、自分の命なんて飛行機事故のあの瞬間消えていたのかもしれない。ここにはたまたま偶然落ちてしまっただけなのかもしれない。元から帰る場所なんてなかったのかもしれない。だったら、この世界でお世話になった人達のために命を使う。それに、何の迷いがあるっていうんだ。
「ダイジョウブ、デキル」
言い聞かせるようにつぶやくと、震えは自然と収まった。喪服に着替えて、棚に置いた小箱を開ける。いくつかの装飾品の中から、珊瑚の簪を手に取った。それは以前、あの男にもらったものだった。
「シニガミ……」
脳裏に口の端をゆがめて皮肉気に笑う男の顔が浮かんだ。葉月はその残像を振り払うように首を振って、上半分の髪を紐でひとつにまとめて珊瑚の簪を挿した。
※※※ ※※※ ※※※
裏口から外に出ると、呉家の門前は物々しい雰囲気に包まれていた。何十本もの松明に照らされるのは斧や鎌を手にした黒山の人だかり。今にも打ち破らんばかりの勢いで、呉家の前を埋めていた。
黒縁眼鏡をはずして衣の合わせ目に隠す。怯む足を叱咤して、男達の前に歩み出る。誰かが「白装束の千里眼持ちだ」と声を上げた。葉月は手にした鈴を振りながら空を振り仰いだ。
「愚かな者たちよ。天の怒りを無視して、さらなる謀反を働くつもりですか。このようなことをして、天罰が下らないとでも思っているのですか?」
斧を持った男たちが息を飲んだ。
今一瞬ためらったかも。でも、これからどうやって撤退させればいいのか、全くわからない。元々策なんて何もないんだから。ああ、神様、今まで一度だって望みを聞いてくれたことはなかったけど、本当にこれで最後にしますから、どうか、どうか、――助けてください。
祈るように胸の中でそう唱えた瞬間、無風だった空に一陣の風が吹いた。目の前で燃える松明が風に吹かれてゆらゆらと揺れる。風はこの時期としては珍しい東風だった。――これは使える。
「神風が吹きました」
「神風だと?」
「ええ。東風は神の風です」
突如吹いた突風が葉月の髪を揺らした。男達のひとりが「嘘だ!」と叫んだ。
「嘘だと思うなら、火を放ってみてください。その火はどうなるでしょう」
「燃えるに決まってるだろう」
「ええ。そして、燃え盛る火は東風に乗って広がる。その広がった先にあるのは……」
葉月は空に向かって掲げた指を東から西にまっすぐ伸ばした。呉家の真西にあるもの、それは鳶国皇城だった。
「天子の住処を燃やしたあなた方を、天が許すと思いますか?」
男達がごくりと唾を飲んだ。さすがに皇城を燃やすことには戸惑いがあるらしい。勇んでいた男達の体がわずかに竦む。誰もがどうするべきか迷っているようだった。正確にいえば、指示を待っていたのかもしれない。誰かが一言撤退と言ったら撤退するし、突入と言ったら突入する。でも、その判断は自分にはできない。そんな奇妙な静寂が辺りを包んだ。
お願いだから、撤退して!
心の中で強く強く祈った。その時――
「すばらしいご高説でしたわね」
闇の中から華やかな声が上がった。人だかりの奥、男達の影から現れたのは薄紫色の襦裙を身にまとった愛玲だった。
えっ、なんでここに、愛玲さんが!?っていうか、その後ろに宰相いるし、前見た時より肥えてるし。っていうか、うそっ、シニガミもいるじゃん!!!どうなってんの!?
内心、激しく動揺する葉月の前で、愛玲が涼やかで印象的な瞳を細めた。
「それにしても、初めて聞きましたわ。あなたが千里眼持ちだなんて。眼鏡を取って、髪を下ろして変装したおつもり?空読み師の田葉月さん」
斧を持った一人の男が「空読み師だと、改革派の犬じゃないか!」と叫んだ。
「こいつの言うことに騙されるな!」
「そうだ、そうだ!」
男達はにわかに勢いを取り戻した。その勢いに後押しされるように宰相、張震が肥えた体をゆすりながら歩み出た。
「田葉月、久しぶりに楽しい余興を見せてもらったぞ。だが、それもこれまでだ」
「何を言ってるんですか?こんなことして、呉長官が許すとでも思ってるんですか?」
「呉桂成はなかなか有能で隙のない男だが、改暦擁護の発言はやりすぎたな。しかも、今は国境を脅かす異民族対策にかかりっきり。この場にいない男にいったい何ができるというんだ?権力はもはや我が手中にある」
腸詰めのようにぱんぱんに張った指が、葉月の顎を持ち上げた。
「今ならまだ間に合うぞ。命乞いでもしてみるか?」
はあぁ?この威張り散らした狸じじい。お前の手の内になんてなるもんか。
葉月は勢いのまま目の前の手を払った。
「命乞いするくらいなら、死んだ方がましです!」
もう無理。知恵を使ってほしいものを勝ち取るとか、策を練って暴動を食い止めるとか、頭で色々考えてみたけどもう無理。冷静になんてなれない。怒りで神経がはち切れそうだ。
「痩せ馬の声おどしだな」
張震が見下した薄笑いでそう言ったところで、遠くからゴーンゴーンと、子の刻を告げる鐘が鳴り響いた。
「――時間ですわね」
愛玲が艶を含んだ流し目を隣に立つ長身の男に向けた。
「聖仁様、あの女はどうしましょうか。この場で死んでもらいます?それとも捕らえて拷問にかけます?」
ちょっ、ちょっと待て、なんでそこでシニガミが出てくる?っていうか、腕に手を添えるな、色目使うな!拷問とか絶対嫌だ。あーもう、頭にきすぎて、なに考えてんだかわけわかんない。でも、シニガミなら――
「そうですね。捕らえて拷問にかけましょう」
えっ……。
沸点に達した怒りが、冷水をかけられたかのように一瞬で冷めた。葉月は瞬き一つできず、さも可笑しそうに喉を震わせて笑う男を見た。
なに……笑ってんの?拷問にかけるって本気?もしかして今までずっと騙してた?助けるって言った言葉は嘘だった?
自分の心を差し出した相手に裏切られる。それは、絶望の闇に突き落とされるような感覚だった。視界が真っ黒く塗りつぶされていく。
「さすがですわ。誰か、その女を捕らえなさい」
愛玲の声が、意識のずっと遠くのほうで聞こえた。
ああ、そっか全部嘘だったんだ。はじめから自分に気持ちなんてなかったんだ。なに浮かれてたんだろう。騙されていたことにも気づかないなんて、終わってる。なんかもう全部どうでもいいや。なにも考えたくない。
静かにまぶたを下ろす。そして、思考を完全に止めようとしたその時、地の底から湧き上がるようなぞっとする笑い声が静寂を打ち破った。
「冗談はやめてください」
声の主、いまだ口に笑みを浮かべる湖聖仁はゆっくりと長いまつげを持ち上げた。現れたのは氷の刃のように鋭利で冷酷な瞳。
「捕らえられるのは、李愛玲――あなた方ですよ」




