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王妃の住む東宮の裏手には四季折々の花が植えられた御花園がある。その脇にある井戸の横で、葉月はつかの間の休息をとっていた。ちなみに、王妃はただいま一歳になる第一皇子との触れ合いタイム中だ。王妃くらいの身分になると、普段子供の世話は乳母がやるらしい。高貴な身分というのは決まりごとも多く、思いの外大変そうだ。
「あー、それにしても、ずっと緊張しっぱなしだから、背中がピキピキいってる。まあ、今日は雪涛さんも一緒だから、いつもよりは気が楽なんだけど」
腕を前後左右に回しながら、目の前の井戸を覗く。水道がないこの国では、今だ水は井戸からくみ上げている。
「それにしても、深いなー。ちょっと覗き込むと怖いかも」
あまりの深さに首をひょいとすくめた瞬間、背後から何者かの手で勢いよく背中を押された。
「うわっ!」
永遠に続く暗闇に落ちそうになって、慌てて井戸の縁を掴んで振り返る。そこにいたのは慈愛に満ちた笑みを浮かべた王妃だった。
「何か御用でしょうか?」
不信感丸出しで尋ねる葉月に、王妃は色白の頬にえくぼを浮かべ「いえ、何も――」と可愛らしく微笑んだ。
「では、なにか失礼なことでもしましたでしょうか?」
「いいえ」
だったら、なんで落とそうとしたんだよ!
と喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。それでもしかめっ面になるのは避けられない。なんとも言えない顔で王妃を見ていると、その背後から口に手を当てて笑いを堪える雪涛が現れた。
「葉月、王妃様はあなたに宮中で井戸の奥など覗いてはいけないとおっしゃりたいのよ」
「えっ、どうしてですか?」
「例えばの話よ。もしあなたが誰かを証拠もなくこの世から消し去りたいと思ったら、どんな方法が一番いいと思う?」
雪涛さん、突然何を言い出すんですか。そんなこと考えたことないですって。けど、証拠もなくっていったら、もしかして――
葉月は反射的に振り返って、井戸を見た。
「まさか、ここに落とす……とかですか?」
「正解。だから、宮中では用もなく井戸なんて覗いては駄目と、王妃様はおっしゃりたいのよ」
なんと慈悲深い王妃様だ。身をもって宮中の怖さを教えてくれたんですね。ありがたき幸せ。……って、思うわけないだろ!
百面相の末、不躾に王妃を見れば、王妃は扇を開いて顔をさっと隠した。肩がプルプル震えている。どうやら、こっそり笑っているらしい。
しばらく肩を震わせていた王妃が、おもむろに口を開いた。
「葉月、宮中には七十二の井戸があります。そして、毎年何人かは確実に行方不明者が出る。いったいいくつの井戸にその者達がいると思う?」
えっ、毎年何人か行方不明者が出るって……
葉月はとっさに井戸から飛退いた。
「まさかここに行方不明者が落ちているとか言わないでくださいよ。私、その手の話は本当に、ほんっとーに苦手なんですから」
「冗談よ。ここは毎年掃除しているから大丈夫。でも、後宮には曰く付きの井戸がいくつかあるのよ」
「西宮の北井戸は有名ですわよね」
間に入った雪涛の言葉に、王妃は「ええ」と返した。
「あそこはいつも幽霊の泣き声が聞こえるともっぱらの噂よ」
「昔沈められたお妃様達の泣き声でしたっけ」
一つ頷いて答えを返した王妃は、困ったように柳眉を寄せた。
「実は、最近それがひどいらしいのよ」
「ひどいって、泣き声がですか?」
「ええ」
「お祓いはなさいましたの?」
いいえ。と首を振った王妃は、次の瞬間、なにかを思いついたのか、扇で手の平をぱんと打った。
「そうね。今度、有名な術師達を呼んで、お祓いをしてもらいましょうか」
「あら、それは面白い企画ですわ。誰のお祓いが一番効果があるか興味深いですわね」
「そうね。せっかくだから同時にやってみるのもいいかもしれない。秋蝉、手配をお願いできる?」
後方で、すっかり寝付いた第一皇子を抱いていた秋蝉が、完璧な所作で「かしこまりました」と礼をとった。気づいた王妃が、皇子を自らの胸に抱きかかえながら、葉月達に向き直る。
「せっかくだから、あなた達も見にいらっしゃい」
見にいらっしゃいって、幽霊をですか?
葉月は無礼を承知で思いっきり首を左右に振った。
「ぜーーーったいに嫌です!」
「それは楽しみですわ」
えっ……と思って隣を見れば、雪涛が麗しい瞳を少女のようにキラキラ輝かせていた。
……雪涛さん、もしかしてお化け屋敷とか楽しんじゃうタイプですか?
※※※ ※※※ ※※※
先帝の側室だった仙貴妃は自らの子供を次代の皇帝にしたいがために、他の妃や皇子達を次々と暗殺した。その数は十とも二十とも言われる。その中の何人かが確実に落とされたのが、西宮の北井戸と呼ばれる場所だ。湿った風が吹き抜けるその井戸からは今でも女の泣き声が聞こえるという。
直前まで嫌だ嫌だと駄々をこねていた葉月だったが、「王妃様の誘いを断れると思っているの!」という雪涛のまっとうすぎる一言に、異議など唱えられるわけもなく、不承不承の態で北井戸にやってきた。
華やかな宮中において、井戸の周りは全く整備されていなかった。草木が鬱蒼と生い茂り、苔におおわれた井戸からはぴちゃりという不規則な水音が聞こる。
こんな所で幽霊の泣き声とか、想像するだけで震えが来る。体の血が冷えてゆく感覚に、葉月は自らの体を抱きしめた。と同時に、どこからかひゅるひゅると不気味な音が鳴りだした。
「雪涛さん、もしかしてこれが噂の幽霊の泣き声ですか?」
隣にたつ雪涛に小声で囁く。雪涛は頬を高潮させ興奮気味に頷いた。
「そうよ。今日集まっている術師の中で、誰かこの声を止められるものがいるかしら。なんだか楽しみね」
「全然楽しみじゃないですって」
むしろ、さっさとここから立ち去りたいです。
心の中で更なる反論を繰り出していると、回廊の先に視線を移した雪涛が、おやと眉をあげた。
「ねえ、あそこにいるの愛玲じゃない?」
葉月は雪涛の指さすほうを見た。盲目の道士の肩を支えて歩いてきたのは、藤色の襦裙を着た愛玲だった。
「本当だ。こんな所にどうしているんですかね」
「わからないわ」
愛玲は涼やかでいて愛くるしい瞳を細めて、道士に向かって微笑んだ。それは、以前妓楼で死神と微笑みあっていた彼女の姿を彷彿とさせて、葉月の体の底に鉛のような感情が沈み落ちた。
いけない、いけない。考えないようにしようって決めたんだった。
葉月は陰鬱とした感情を振り払うように空を見上げた。雲が西から東へ次々と流れて行く。その間を縫うように、ひゅるひゅると泣き声が駆け抜ける。葉月は首をかしげた。
「これって、本当に亡き妃達の泣き声なんですかねぇ」
※※※ ※※※ ※※※
土の上に設けられた、茣蓙というには上品すぎる敷物に、三人の術師が座った。
ひとりは白絹の巫女装束を身にまとった巫師の王婆。その身に霊を宿すことができるらしく、先ほどから神がかったように体をゆすってお経を唱えている。その隣にいるのが、陰陽師の徐老師。呪文のようなものを唱えながらしきりに宙を指で切っている。そして、その隣にいるのが道士の呉神仙。目をつぶって令牌とよばれる象牙製の用具で香草を叩いている。
うーん。正直どれも怪しい。そう思った葉月だったが、周りで見守る女官達の顔は真剣そのもの。間違ってもインチキ占い師などと言える雰囲気ではない。
その内、陰陽師の徐老師が突然立ち上がって、宙を大きく手で切って、叫んだ。
「魔物よ出てこい!」
ピリッとした緊張が辺りを包んだ。誰もが息を飲んで魔物の登場を待った。しかし、魔物どころか虫一匹現れなかった。どうやら、失敗したらしい。
しばらくして、呉神仙が黄色いお札を取りだし、赤い液体で呪文を書き出した。
「雪涛さん、あの赤いのなんですか?」
雪涛は小さなそれでいて興奮を抑えきれない声で「鶏血よ」と答えた。
「鶏血?」
「にわとりの血よ。道教では悪霊を退ける力があると言われているの。おそらく呉神仙は悪霊が出たら、呪文の書いたあの札を悪霊に張り付けて、動きを封じるつもりなんだわ」
なるほど、悪霊の動きを封じるためのお札ってことか。なんだかそういうホラー映画を昔見たことがある気がします。怖すぎて、ほとんど見られなかったけど。
「雪涛さん、私とりあえずここから去ってもいいですか?」
「何言ってるの、これからが面白いところじゃないの」
いえ、私、ホラー映画とか見られない人間なんです。こんなリアルホラーなんて耐えられそうにありません。
抜き足差し足でその場を立ち去ろうとしたが、雪涛に逃がさんとばかりに衣の後ろ襟をつかまれた。しかたなく、雪涛の背に顔をうずめる。そして、両手で耳をふさぎ、切に祈った。早くこの奇怪な催しが終わることを――
※※※ ※※※ ※※※
「葉月、終わったわよ」
雪涛に肩を叩かれて、葉月は顔を上げた。先ほどまで漂っていた薄気味悪い緊張感がなくなっていることに、ほっと胸をなでおろす。
「雪涛さん、幽霊は?」
「出なかったわ。どうやらこの音は幽霊の仕業じゃないらしいわね」
落胆をにじませた雪涛の言葉に、葉月は思わず「――やっぱり」とつぶやいてしまった。
「えっ、やっぱりって何か心当たりがあるの?」
「いえ、えっと別に……」
「心当たりがあるのね」
凄みのある声でロックオンされた葉月は、しかたなく「実は――」と小声で耳打ちした。すると、雪涛は嬉しそうに顔を上げ、葉月の腕をむんずと掴むと、制止の声も聞かず王妃の前に連れ出した。
「王妃様、お待ちください」
「あら、雪涛。どうしたんですか」
「葉月がこの音の犯人に心当たりがあるそうです」
「幽霊のしわざではないというの?」
「違うらしいです」
「では、犯人はいったい誰なんですか?」
詰問するような王妃の視線に、葉月は思わず及び腰になった。その背中を雪涛がぐいっと押す。前には王妃、後ろからは雪涛と完全に逃げ場を断たれた葉月は、しかたがないとばかりに口を開いた。
「おそらくこれは虎落笛です」




