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「日食終了時間、午正半(12時半)です」
「了解」
およそ三時間に及ぶ日食が終わった。体から一気に力が抜け、葉月はへたりと草の上に座り込んだ。
疲れた。なんだか、色々疲れた。
鉛のように襲ってきた疲労に目を閉じていると、背後から上品な鳶国官語が聞こえてきた。
「素晴らしい日食でしたね」
歩いてきたのは礼部長官 呉桂成だった。
「お疲れ様です」
「おや、君も来ていたんですか?」
「はい。どうしても気になったので」
「そうですか。では、せっかくなので、君も一緒に聞いてください」
そう言って、呉桂成はいまだ作業中の光啓と之藻を呼びよせた。葉月も立ち上がって、二人の横に並ぶ。
「まずは、予想的中おめでとうございます」
とりあえずという風に述べられた賛辞に、光啓は硬い表情で「ありがとうございます」と返した。
「先ほど文治帝と改暦の件を話し合いました。結果、君たちを主体として現暦法の改修作業を本格的に始めようということになりました」
小春日和ののどかな草地に、似つかわしくない緊張が走った。
「いいんですか。保守派は改暦を進めるなら、現王政に反旗を翻すと……」
呉桂成は一分の乱れもない完璧な微笑みで「ええ」と頷いた。
「保守派に政権を取られるわけにはいきません。向こうがその気ならこちらも真っ向勝負する構えです」
つまり、お前らなんかに政権渡さねえぞってことですね。呉長官、相変わらずおば様卒倒の素敵な微笑みで、恐ろしいことを言いますね。
「でも、この件は君達には関係ない。君達は修暦作業に専念してほしい」
固まる葉月の隣で、光啓がこぶしを顔の前で組んで礼をした。わずかに遅れて之藻も同様に礼をとる。
「わかりました。我々は正確な暦法を作ることを誓います」
あれっ、私も礼をするべき?
慌ててこぶしを合わせたが、呉桂成に止められた。
「ああ、君はしばらくこの件には関わらないほうがいいでしょう」
「えっ、呪術祠祭課の手伝いは……」
「今日で雇用期間終了です」
「…はい?」
「今回は軽症で済みましたが、君に万一のことがあったら、私が殺されかねませんからね」
それは誰に……。って、その前に、予告なしでいきなりの解雇通知ですか。リストラ間際の窓際族もびっくりの突然っぷりなんですけど。それに、私さっきようやくこの世界で生きていこうって決意したところで、正直リストラとか困るんですけど。
葉月はその場で思いっきり首を振った。
「私は平気です。今まで通り手伝わせてください」
「――いや、俺も呉長官の意見に賛成だよ」
葉月の言葉を遮ったのは光啓だった。
「今の礼部はなにかと物騒だ。女性がひとり歩きまわる場所じゃない。それに、これ以上この件に関わっていると、腕の怪我どころの騒ぎじゃなくなるかもしれない」
そんな……、だったら高課長や之藻さんだって十分危険だってことじゃないですか。
不満な気持ちが顔に現れていたのだろう。呉桂成が条件を出した。
「では、状況が落ち着いたら再雇用ということでどうですか?」
それは具体的にいつからですか?って聞くほど馬鹿じゃない。これは遠回しなリストラ発言だ。葉月は喉まででかかった言葉を飲み込んで「わかりました」と頷いた。
※※※ ※※※ ※※※
「別にやりたくてやった仕事じゃないし、突然のリストラだって痛くもかゆくもない。これまで通りただの傘売りに戻るだけじゃないか」
声に出して言ってみたが、なんだかむなしくなった。なんだかんだ言っても、呪術祠祭課での日々はそれなりに充実したものだったのだ。
雪が降れば傘売りもできなくなる。そうしたら、どうやって毎日を過ごせばいいんだ。それに収入は……。雪涛さんは全然気にしなくていいって言ってくれるんだけど、やっぱりただで居候って申し訳ないんだよな。別の仕事でも探してみる?
そんな事を考えながら、葉月は皇城の東側にある呉桂成宅へ戻った。泰京の中でも殊更大きな屋敷。威風さえ感じさせるその門構えを見上げる。
「改めてみると、やっぱりでかい家だよな」
朱色の大門を彩る金色の門首がきらりと輝き、門脇に構える二体の獅子像が訪問者を威嚇する。初めの頃は置物だとわかりつつもびくびくとしていた葉月だったが、今ではお気に入りのぬいぐるみの如く名前までつけて愛でていた。
「シシ丸、シシ子、ただいま」
少しだけ覇気のない声で挨拶して、対になる獅子の頭をくりくりとなでた。
「今日も威圧感は絶好調だね。君たちのそのつんつんしたところ嫌いじゃないよ。でも、たまにはデレも見せてくれてもいいと思うんだよね。渋谷のハチ公って知ってる?めっちゃ癒し系でみんな思わずそこで待ち合わせしちゃうんだよ」
牙をむく獅子達はまっすぐ前を向いたまま答えない。当たり前だ。置物なのだから。
「はあ、とりあえず、雪涛さんの前では元気でいよう」
ああ見えて、意外に心配性なのだ。落ち込んだ姿など見せれば、変な気を使われること間違いない。葉月は口角をきゅっと持ち上げて、屋敷に入った。
「雪涛さん、ただいま戻りました」
母屋に顔を出すと、雪涛は厨房で中華の料理人の如く大鍋を盛大に振っていた。
「おかえり、葉月。日食すごかったわね。もうすぐ晩ごはんができるから、食堂に来てね」
普通これだけのお屋敷では、食事の準備は使用人の仕事だ。でも、この家の女主人は時々こうして厨房に入って、自ら鍋を振る。単純に料理を作るのが好きらしい。
「わかりました。じゃあいったん部屋に戻ってから行きます」
そう言って葉月は傘の入った籠を部屋に置いて、食堂へ向かった。
「呪術祠祭課の日食予想、見事当たったわね」
「ええ、完全に太陽が隠れましたね」
「私、あの瞬間ちょっと怖くなったわ。文治帝になにか悪いことが起こらなきゃいいんだけど……」
雪涛は憂い顔で頬に手を当てた。
天子とも呼ばれる皇帝は、太陽と結びつけて考えられることが多い。太陽が隠れる日食は皇帝に対するマイナスの出来事が起こる前兆だと言われる。日食の仕組みがある程度解明されてもなお、このような考えは人々の意識から完全に排除されることはなかった。
「本当に何もなきゃいいですけどねー。あっ、それよりもこれ白菜ですか?おいしそうですね」
「今日は初物の白菜が手に入ったから、卵あんかけにしてみたのよ」
葉月はさっそく目の前の白菜料理を箸でつまんで口に入れた。口の中に優しい味がふんわりと広がる。
「うん。おいしいです」
「そう、よかったわ」
雪涛は麗しい瞳を和ませて、嬉しそうに笑った。
「そういえば、この白菜を買いに行く時、私財布を持たないで、出かけちゃったのよ」
「あぁ、サザエサンですね」
「サザエサンってなに?」
「私の国で、おっちょこちょいな女性のことを言うんです」
「じゃあ、私サザエサンだわ」
はははっと声を立てて笑って、雪涛は自分のおっちょこちょい話を始めた。いつも会話の主導権を握るのは雪涛だ。葉月はそれに相槌を打ったり突っ込んだりする程度。もともと自分のことを話すのが特別好きではない葉月にとって、雪涛との会話は苦にならなかった。最近では居心地がいいとさえ感じている。
「話は変わるけど、前に葉月が雨と香りの話をしてたじゃない。あれを王妃様に話したらすごく興味を持って、今度葉月と直接話したいって言ってたのよ」
突然の雪涛の発言に、葉月は食べていた白菜を喉に詰まらせた。ウンガッ、ンッグゥ。
「雪涛さん、王妃様とも交流があるんですか!?」
「交流って、義理の妹の所に行っただけよ。そんなに驚くことかしら」
そりゃあ、驚きます。いくら義理の妹だからって――
「えっ、義理の妹!?」
「えっ、もしかして葉月知らなかったの?」
ええ、知りませんでしたけど――
こくりと頷くと、雪涛が部屋中に響き渡る声で「うそでしょー」と叫んだ。
「葉月、この家に来てずいぶん経つわよね」
「ええ、かれこれ五ヶ月ほどお世話になっています」
「まさかとは思うけど、王妃様の名前は知ってるわよね」
……すみません。勉強不足で、全く言葉を返せません。
気まずく肩をすくめて否定を示す。それを見た、雪涛が呆れた風に首を左右に振って「ごきょうくん」とつぶやいた。
「ごきょう……くん?どっかの男の子の名前ですか?」
「そんなわけないでしょ。呉、暁君っていうのよ、王妃様の名前」
ああ、王妃様の名前か。呉さん家の暁君さんってことか。やっぱり王妃様になるくらいだからお貴族様なのかなぁ……。えっ、ちょっと待って。
「呉って、まさか……」
「ええ、現王妃はこの家の出よ」
うっそーーー。でかいでかいとは思ってたけど、この家、王妃を出した家だったんかい。
あまりの驚きに、飲んでいたお茶を噴き出しそうになった。……いや、ちょっと噴き出した。
「ってことは、私は今王妃様の実家に居候してるってことですか?」
「そういうことになるわね」
日本で考えてみたら、皇后さまのご実家に居候している状況って事?アリエナイ。無知って恐ろしい。
「じゃあ、呉長官って王妃様の実兄ってことですか?」
「ええ、そうよ」
「だったらご両親は?この家にいませんよね」
「お母様が体調を崩していて、夫婦で今は泰京の南にある別荘にいるわ」
さすが大貴族、別荘持ちか。
「じゃあ、王妃様はこの食卓でご飯を食べて、あの院子で遊んでってことですか?」
「もちろんじゃない。ちなみに、今葉月が使っている部屋は昔暁君様が使っていた部屋よ」
えーーーーーー!そんなレアな部屋に住んでたんですか、私。
「えっと、とりあえず部屋移動しましょう」
咄嗟に立ちあがった葉月をなだめるように、雪涛は開いた茶器に清茶を注いだ。
「今更、何言ってんのよ。それに、暁君様があの部屋を使ってたのは十六までよ、ずいぶん昔だわ。なかなかこちらには戻れない身だから、私が月に一度話相手に行ってるのよ。今度は葉月も一緒に行きましょうね」
今度食事にでも行きましょう。くらいの軽いノリの雪涛に、思わずはいと頷きそうになって、慌てて否定した。
「ちょっと待ってください。こんなみすぼらしい恰好の傘売りが王妃様に会うなんて、そんなことあっていいはずありません」
「大丈夫よー。ほら、この前着てた薄黄色の襦裙があるじゃない。あれ、葉月に似あってたわよ。自分で選んだの?」
あれは高課長が見立てたやつで、代金は受け取らないって言うから、後で贈り物をすることにしたんですけど。……って、
「待ってください。服の問題じゃないんです。心持ちの問題というか、身分の問題というか……」
「そんなこと気にする人じゃないわよ。とにかく、連れてくって約束しちゃったから、一緒に行くわよ」
「いやいや、無理ですって」
立ったり座ったりおろおろする葉月に、すうっと目を眇めた雪涛がとどめの一言を放った。
「葉月。この国の至宝でもいらっしゃる王妃様のご依頼を断れると思ってるの」
もちろん、できま……せんね。ああ、もうなんだか、キャパ超え過ぎて、話についてけない。とりあえず、自分はとんでもない家に居候していたらしい。