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えっ、どういうこと?守るって言っておきながら、今後自分には近づくなって。なにそれ、意味わかんない。っていうか、はっきり言ってそんな優しさいらない!
葉月は怪我していない方の手で湖聖仁の衣を力まかせに叩いた。
「ちょっと、離してください。もう近づきませんから、だから、帰ってください」
最悪だ。さっきまでの嬉しくて、ちょっとだけ幸せだった気持ちはなんだったんだというほど、気分は最悪だ。
「離してって言ってるのに、人の話聞いてますか?」
「聞いてますよ」
ああ、そうだ。こいつはいつもそういうやつだった。人の話なんか全然聞かないで、人を勝手に侵略者扱いしたり、強引に自分の家に引き連れたり、ずけずけと傷をえぐるように人の心の中に入ってきて、そしてかき乱すだけかき乱して放りだす。そういうやつだった。
「いい加減に……」
してください!憤りのままに叫ぶつもりが、その声は喉の奥で止まった。男の顔が葉月の髪を撫でるように下り、うなじの後ろでピタリと止まったからだ。鼻先で髪をかきわけられて、体にぞくりと痺れが走った。
「もう少しこのままで」
なに言ってんの?
「近づくなって言いましたよね」
「ええ」
「勝手ですよ」
「わかっています」
「……愛玲さんともこういうことしてるんですか」
「しませんよ」
「腰に手、回してましたよね」
「……それは、嫉妬ですか?」
嫉妬!?
「はぁぁぁぁ?」
なわけないじゃん!たぶん、おそらく、きっと、違う……よね?
自己確認して一人頷く。首筋に顔を埋めながら男が溜息をついた。
「しませんよ――」
顔を上げた男に眼鏡をはずされた。
突然なにするんだ。そんな、子供のいたずらみたいなことやめてほしい。眼鏡がないと何にも見えな……
そこまで考えて、葉月の思考は電池が切れたようにぷつりと途切れた。
「こんなこと誰にも――」
そう言って、湖聖仁はその薄い唇を、葉月のそれに重ねた。
――だから、今後一切私には近づかないでください。
※※※ ※※※ ※※※
それから、一週間、葉月は呉家の自室でほとんどの時間を過ごした。さすがは泰京屈指のお貴族さまだ。毎日日課のようにやってくる医者のおかげで、葉月の傷は化膿することもなく順調に回復していった。しかし、体調に反比例するように気分は最底辺を運行中。そろそろ地下に潜りそうな勢いだ。理由はわかっている。あの、神か悪魔かと見まがう美貌の死神男のせいだ。
思わせぶりな態度をとっておきながら、今後一切近づくなとか、わけわかんない。しかも、理由も言わず帰りやがった。しかも、口に……チ、チ、チュウとかして……
「ぐわぁぁぁぁぁぁ」
葉月は頭からおもいっきり布団をかぶった。
一瞬触れただけで、すぐに離れていったけど、唇の感触は今でもはっきり覚えている。……思ったより柔らかくてあったかかった。って、なに思い出してんだ!恥っ。それよも、怪我した直後で、ただでさえ気が動転してるときに、あんなこと普通する?しかも、おでことかほっぺじゃなくて、口に……
ダメだ、思い出しただけで、息が苦しく……ってか、ほんとに苦しい。こりゃ、酸欠だ!
葉月は勢いよく布団から顔を出し、ぷはーと盛大に息を吐いた。
「はーーー、死ぬかと思った」
呼吸を整えて、乾いた唇を手でそっと押さえた。
別にこの年まで大事に取っておいたわけじゃない。ただ、単にそういう機会がなかっただけだ。まあ、焦りがなかったかというと嘘になるけど、でも、その場しのぎの相手とするくらいならって思っていた。でも、まさかこんな形で……
「初めてのチュウ……だったんですけど」
ファーストキスがイチゴのような甘酸っぱい味がするなんて幻想は抱いていないけど、これでも一応女子なので、どんな感じなのかな?くらいの想像はしていた。実際のところ、はっきりいって全然甘くなかった。それどころか、激苦だった。直後に今後自分には近づくなと、思いっきり突き放されたんだから。なにこれ、飴と鞭作戦?それだったら、鞭のあとに飴のほうが効果的……って今はそういう問題じゃなくて。つまりあれだ、近くで守る相手は他にいて、自分は保険的な、現地妻的な、二号さん的なやつだ。って、待て待て。たかだか、キスくらいで二号さんとか、三号さんとか、四号さんとか、五号さんとか……。うん、ないな。結局何もないんだ、自分と死神の間には。
「はぁぁぁ」
なに、この負のスパイラル思考。こんなうじうじする自分に、正直嫌気が差す。
「だって、気づきたくないけど、気づいちゃったんだもんな」
あんな優しさの欠片もない男のことが、好きなんだって――
その時、部屋の帳がかさりと開いた。突然の物音に布団の上で飛び上がって、音のするほうを見る。入ってきたのはこの家の家主、呉桂成だった。
「百面相してましたけど、何に気づいたんですか?」
呉長官、なんというタイミングでの登場……って、まさか、さっきのチュウのくだりは見てませんよね。
「初めてのチュウだったんですか?」
って、見られてたし、恥ずかしいし、これ以上、突っ込まれたくないし!
「あの、それは多分聞き間違いです。それよりも、呉長官、どうしたんですか?」
「雪涛が怪我をしてからあなたの様子がおかしいというものですから、様子を見に来たんですが……初めてのチュウだったんですか?」
だから、そこを蒸し返すな。
恥ずかしくなってうつむいていると、呉桂成は寝台脇の椅子に腰を下ろした。
「先ほど家の前に飴細工屋が来たんでいくつか買ったんですが、ひとついかがですか?」
串に刺さった動物や人形の形をした飴細工は精巧な工芸品のような美しさだった。
「うわー、きれいですね」
「どれがいいですか?」
「えーっと、じゃあこの豚が玉乗りしてるやつで」
あっ、向こうの象がお手玉しているのも捨てがたい……って、ちょっと待て待て。用事もなく呉長官がただ甘い物を持ってくるなんて、そんなことあるわけない。だいたいこの流れは、甘いものを餌に無理難題を頼まれるいつものパターンだ。
「呉長官、用件を先に言ってください」
伸ばしかけた手を引っこめてそう言うと、呉桂成は嬉しそうに笑った。
「相変わらず、鈍い割にそういう勘だけはいいんですね」
「……」
「でも、今日は本当にただ様子を見に来ただけです。暇なら、昔話をひとつしてもいいですか?」
「昔話ですか?」
むかーし、むかーし、あるところにって、あれですか?私子供じゃないんですけど。
そう思ったが、完璧な微笑みが恐ろしすぎて、そんな挑発的な発言はできなかった。
「私には昔、親友と呼べる男がいましてね――」
呉桂成は兎が逆立ちした飴細工を手に語りだした。
「私より五歳年下だったんですが、驚くほど聡明で一言えば十も二十も理解するような男でした。そして、虫一匹殺せないような優しい心を持った男でした。その当時、この国は怪しい術を使って国を動かそうとする道士達が幅を利かせていて、内政は腐敗の極みでした。そんな中、私達は夜な夜な語り合い、この国の再興を誓い合いました。互いに切磋琢磨し、死力を尽くし、そして現皇帝の即位をもって、その誓いを現実のものとしたんです」
昔話って自分の話かよ。っていうか、呉長官にもそんな清廉潔白、血気盛んな時代があったんだな……って、あれ?この話前に誰かに聞いたことがあった。確か之藻さんが言ってたんだ。なんだっけ……あっ!
「呉湖の請?」
口をついて出た言葉に、呉桂成は片眉を上げた。
「知っていましたか?」
「十年くらい前に腐敗した官の糾弾を、呉長官が成し遂げたんですよね」
あれっ、でも、それだと一緒にやった相手って……
首をひねった葉月に、呉桂成はただ小さく微笑んで、飴細工をくるくる回した。
「私はうれしかった。浮かれていたと言ったほうが正しいかもしれません。これから二人力を合わせて、新皇帝を支えていこうと彼に話したんです。そうしたら、あの男は言ったんです。物事には必ず光と闇がある。光が強まれば、それによってできる闇も必ず深まる。綺麗なだけの政治などない。正義感だけじゃ国は動かせない。お前は新皇帝を支えて、光の道を進め。俺は闇の一掃を誓う。信念は一緒だ。けれど、俺はお前と違う道を進む。だから、今後一切俺に話しかけるなと」
胸がどきりとした。
やっぱり、呉長官の言う親友って、死神のことだ。
「そして、男は汚職に手を染める官吏、罪を犯した官吏たちを一切の情もかけず、冷酷に断罪していった。いつの間にか男の周りから人は消え、“虎長官”と呼ばれて恐れられる存在になった。私は心の中でずっと思っていた。誰か、あいつの孤独を救ってくれ。血の涙を流し続ける男なんだ。本当は虫一匹殺せない男なんだと」
いつの間にか呉桂成の顔から微笑みは消えていた。淡々とした中に、悲痛な心の叫びが混じっていて、葉月の胸はキューっと締めつけられた。もう聞きたくない、これ以上無理。そう思うのに、全身が耳になったかのように言葉の一つ一つを確実に拾いとる。
「だから、私は驚いたんですよ」
声に明るさが戻ったことに顔を上げれば、呉桂成は豚の飴細工を差し出していた。豚の顔はなぜか寂しそうだった。どうしてこれを選んだんだろう……そう思いながら、葉月はその飴細工を受け取った。
「本当に驚いた。君があの男の家に居候をしていると聞いた時。誰一人、親友と思っていた私でさえ自分の懐に入れなかった男が、初めて自分の近くに置いた人間。とても興味を持ちました」
「えっ、いや、あれはただ不審者だと決めつけられて、監視されてただけで」
葉月の言葉に対して、呉桂成はイエスもノーも言わず、少しだけ笑みを濃くした。
あれっ、もしかして違った……とか?
「全くあの男らしいですよ。君を手元に置くのに、君さえも騙して完璧な予防線を張らないと不安だったんでしょう。君はあの男の最大の弱みだ。敵の多いあの男が理由もなく君を手元に置いていたら、確実に君の身が危険にさらされる」
「そんな、まさか……」
「まったく信じられない話です。でも、そういう男なんですよ」
だったら、この前の今後私に近づくなって言ったあの言葉は……
「チュウしたんですよね」
「へっ!?」
「湖聖仁と――」
「いや、あれは、その……」
怪我していないほうの手をパタパタと振る。呉桂成は珍しく微笑みを崩して、逆立ちする兎の飴細工も葉月に手渡した。兎は楽しそうに笑っていた。
「あいつの心の支えになってくれませんか」
心の支えに、私が?
そう思った瞬間、火照っていた頭が一気に冷えた。
それは到底無理な話だ。なぜなら――
「私もこの前、今後一切自分に近づくなって言われました」
呉桂成が驚いた風に眉を上げた。
「あなたにも、そう言ったんですか」
諦めの混じった声が胸にずしりと響く。
近くにいることさえ拒否されたのに、支えることなんてできるわけがない。呉長官は何か大きな勘違いをしたんだ。
葉月は手にした飴細工の棒を意味もなく前後に揺らした。豚と兎が交互に揺れる。それはまるで、兎が寂しそうな豚を元気づけているみたいだった。
「それにしても、いい天気ですね」
突然話題が変わったことに視線を上げれば、呉桂成は帳を開けてその先に広がる青空を見ていた。
「明日もこの天気は続きますか?」
「あっ、はい。天気は安定していますから、晴れると思います」
「日食は……起こるでしょうか」
明日は呪術祠祭課が日食の予想をした日だった。葉月はなんと言葉を返していいか迷った。この世界で例え日食が発生したとしても、それが見られる地域は限られている。
「私にはわかりません。けど、高課長と之藻さんの努力が報われたらいいなと思います」
こちらに背を向けたまま呉桂成はなにかを考えるようにじっと中空に視線を這わせ、そして、ゆっくりと振り返った。
「今朝、宰相 張震と刑部長官 湖聖仁が文治帝に弾劾文を提出しました。これ以上改暦を擁護するなら、現王政に反旗を翻すと――」
葉月は目をぱちくりさせた。
えっ、それってつまり――
「……すみません。よく意味がわからないんですけど」