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金木犀の甘い香りが充満する臨春楼の一室で、宋健は床に額をこすりつけた。
「で、殺してはいないのだな」
「はい、張震様。右腕に切り傷を負わせましたが、致命傷にはならなかったはずです」
「十分だ。あの女、呉桂成の庇護下にいるばかりか、湖聖仁とも通じていて少々厄介だったが、これで少しはおとなしくなるだろう」
宰相 張震はドジョウのような細長い髭を撫でながら、くわえた長煙管の先を隣に侍る女に向けた。
「愛玲、お前の方はどうだ?」
胸元が大きく開いた薄衣をまとった妓女愛玲は涼やかな瞳を細めて、妖艶に微笑んだ。
「後ひと押しといったところでしょうか。先日の様子だと、私が揺さぶりをかけるまでもなく、あの二人には何もなさそうでしたわ。ねえ、宋健?」
宋健は床に額を押し付けたまま、こくりと頷いた。
「田葉月は自分の気持ちすらよくわかっていないようでした」
「いい年して間抜けな女だな。では、湖聖仁はお前のものになりそうか」
「もちろん。私の内丹房中術を使えば、傾かない男などおりません」
「さすがは臨春楼一の妓女だ。でも、慎重にやれ。あの男はもともと道教に懐疑的だ」
「ええ。でも先日、今はもう道教にも道士にも遺恨は一切ない。むしろ、道教が世俗と融合するなら歓迎すべきことだと言っておりましたわ」
「本心かどうかはわからぬ。とにかく、あの男がこちら側につけば、改革派をつぶすこともたやすくなる。すべてはお前にかかっているぞ」
長煙管をうまそうにふかした張震の肩に、愛玲はたおやかな手を置いて、しなを作った。
「ねえ、それよりも宰相様。大事を成した暁には、あの方を私のモノにしていいんですよね」
「ああ。わしがほしいのは、この国だ。好きなようにすればいい。ただし、ミイラ取りがミイラにだけはなるなよ。我々のなすべきことは、改革派の全滅と道教の再興だ」
「わかっております」
愛玲の言葉に、張震は満足そうに煙草をくわえた。
※※※ ※※※ ※※※
「ねえ、おばあちゃん、好きってどういう気持ち?」
金木犀の香りが漂う縁側で、葉月は裁縫をする祖母の横に寝転がりながら、そう尋ねた。祖母は針を動かす手を止めて、微笑みながら眼鏡をはずした。
「そうだねえ。その人の事を考えるだけで、嬉しくなったり、幸せになったり、悲しくなったり、苦しくなったり、自分の気持ちがその人でいっぱいになる、そういう気持ちかねえ」
「ふうん。よくわかんないや」
くるんと体をうつ伏せにして、板張りの床に頬づえをつきながら口をとがらせる。それを見た祖母は優しく笑った。
「葉月もそういう人ができたらわかるよ」
「おばあちゃんはすぐにわかった?」
「ああ、わかったよ。出会った瞬間にね」
「それって、お父さんが生まれる前に亡くなったっていうおじいちゃんのこと?」
祖母はそれには答えず、庭に咲く金木犀を眩しそうに見た。なぜかそれ以上聞けなくて、葉月は目を閉じた。
「私にも、わかるかなぁ」
「大人になったら、わかるよ」
金木犀の甘い香りが葉月を包んだ。それは、小学生の頃の祖母との記憶。その時、どこからか自分を呼ぶ声がした。
――ハヅキ――
低くて甘いその声に胸がドキリとした。顔をあげて辺りを見回す。金木犀の黄色の花の下に、鮮やかな緋色の衣を見つけた瞬間、葉月の心が大きく震えた。漆黒の髪を烏紗帽の中にきれいに収め、皺ひとつない緋色の衣をきちりと身につける。全く隙のないその井出達が、ひどく懐かしかった。
「……シニガミ」
蚊の鳴くように細い声に、男が振り返った。
刹那、切れ長の秀麗な瞳が糸のような細い目に変わった。血走った瞳に狂気の色が浮かぶ。男がにやりと笑った。
「あの方は愛玲様のモノ」
ギャーーーーーーッ!!!
※※※ ※※※ ※※※
「葉月、葉月、大丈夫?」
体をゆすられて、葉月は目を開けた。視線の先には、三日月形の眉をゆがめ、心配そうに見下ろす雪涛がいた。
「……雪涛さん」
「うなされてたけど、大丈夫?」
うなされてた?
思考がまとまらないまま瞳だけでぐるりと周囲を見回せば、そこは見慣れた呉家の自分の部屋だった。
「私……」
体を起そうとして、右腕に激しい痛みを感じた。
「つっ……」
「駄目よ、まだ起き上がれないわ。覚えてる?あなた屋敷の近くで倒れたのよ。誰かに刺されて」
ああ。そうだ、刺されたんだった。
「……生きてる」
「ええ。命に別条はないわ。お医者様に診てもらったのよ。傷は思ったほど深くないから、安静にしていれば一月ほどで完治するだろうって」
「色々すみませんでした」
「何言ってんの。葉月は被害者なんだから、謝ることなんてないわ」
窓に目を向ければ、外は宵闇に包まれていた。
「もう、夜ですか?」
「ええ。気を失っていたのよ。なにか食べられそう?お粥でも持って来ようか」
その問いかけに葉月は緩く首を振った。
「今は何も……」
ぽつりとそうつぶやいたところで、部屋の帳がかさりと音を立てた。
「様子はどうだ?」
「今、目を覚ましたところ」
柔和な声の主はこの家の主人 呉桂成だった。
「意識はしっかりしているのか?」
「ええ、大丈夫そうよ」
「そうか。安心した」
呉長官にも心配をかけたんだ。申し訳なかったな。
ぼんやりとそんなことを考えていた葉月は、落ち着いた声とは対照的な性急な足音に違和感を感じた。
あれっ、呉長官だよね。それにしては、勢いよすぎる気が……
そう思って、音のするほうに視線を移して、驚きのあまり息を飲んだ。仕事帰りなのだろう、緋色の官吏服を着た男は、全身から冷たい怒りの炎を立ち上らせていた。
「――シニガミ」
つぶやいた言葉に、湖聖仁は眉間の皺を険しくした。怪我をした右腕に視線が注がれる。
「誰がやったんですか?」
それは、地の底からわきあがるような低い声だった。
冷血無慈悲に断罪する刑部長官 湖聖仁は内城の官吏達から“虎長官”と呼ばれて、恐れられていた。葉月自身も苛立ちを露わにされたことは日常茶飯事だったし、冷酷な言葉と表情で突き放されたこともあった。それでも、こんな風に抑えきれない怒りを前面に出した姿を見るのは初めてだった。
突然現れたかと思ったら、超怒ってるとか、怖すぎるんですけど……
口の端を引くつかせて男を見上げていると、もう一度低く押し殺した声で尋ねられた。
「誰がやったか見ましたか?――田葉月」
ひどく他人行儀な呼び方に、頭が冷水をかけられたように冷えた。
そっか。こんな夜更けにこの男がこの家にいる理由。それは、一刻も早く犯人が知りたい、それだけだ。
葉月はごくりとつばを飲んで、口を開いた。
「はい、見ました」
「誰でしたか?」
「宋健さんでした」
名前を言った瞬間、帳の前に立っていた呉桂成が「宋健だと!?」と驚きの声を上げた。
「どういうことだ?」
「わかりません。ただ、湖長官との関係を聞かれました」
「関係?」
「つまり……」
言い淀むと、湖聖仁は視線だけで後ろを振り返った。
「少し、彼女と二人きりにさせてください」
※※※ ※※※ ※※
蝋燭の明かりが仄かに揺らめく部屋で、葉月は冷たい怒りをまとう男と対峙していた。
「何を聞かれたんですか?」
尋問する刑事のように淡々としながらも威圧に満ちた物言いに、葉月の体は板のように強張った。ただ事実を伝えればいい。そう思って、小さく息を吐く。
「私があなたの事を好きなのかと聞かれました」
二人の間に、一瞬だけ気まずい沈黙が落ちた。
「それ以外で、何か感じたことは?」
男の声は少し硬かった。
これ以上は言わないほうがいいのかもしれない。でも、事実を言うことが正だとするならば、言うしかないだろう。
葉月は意を決して口を開いた。
「宋健さんから金木犀の香りがしました。それから、私を刺した後、あの方は愛玲様のモノと言っていました」
しんしんと降る雪のように部屋に沈黙が降り積もる。それに耐え切れなくなって葉月はなんとなく怪我した腕を擦った。しばらくして、湖聖仁が深い溜息を吐いた。
「わかりました。こちらで片をつけましょう」
緋色の衣の裾が翻り、闇に溶けていく。
――えっ、行っちゃう。
そう思った瞬間、葉月の手は男の腰を一巡する飾り帯を掴んでいた。
「――まだ、何かありましたか?」
男の声は冷ややかだった。我に返った葉月は、真っ赤になって手を離した。
「いえ、ただ、背中に蝿が……」
「蝿、こんな季節に?」
「ご、ごみでした」
「ごみ?眼鏡をかけてない割には目がいいんですね」
えっ、眼鏡?……って、眼鏡してなかったのか!!!
葉月は自分の顔をぺたぺた触り眼鏡がないことを確認した。次に、寝台の周りをきょろきょろ見回す。
うーん。見えん。駄目だ。
「……すみません、眼鏡どこですか?」
素直に呟くと、湖聖仁は寝台脇の卓から眼鏡を取って、葉月に渡した。
「どうぞ」
「ありがとうございます。あっ、よく見えました」
改めて男の顔を見上げる。クリアになった視界の先、湖聖仁はその冷淡な言葉とは裏腹に、口の端を持ち上げて呆れたように笑っていた。
うっ……。笑顔でのフレームインって、レアすぎて破壊力ありすぎだ。一瞬、心臓が止まりそうになった。それにしても、こんな近くで死神のことじっくり見たのって、久しぶりな気がする。目があわせられない。
「えっと……、あっ、ごみ、気のせいでした。すみません。どうぞ、お帰り、あっ、出口はあちらです」
出口はあちらって……入ってきたんだから、知ってるよな。なに、当たり前のこと言ってんだろ。動揺しすぎだって。
うつむきながら目の前の男が動くのを待つ。しかし、どうしたことか全く動く気配がない。不思議に思って顔を上げると、湖聖仁の視線は帳を指差した葉月の手でピタリと止まっていた。
んっ、手がどうかした?
そう思って自らの手を見た葉月は、ギョッと目を瞠った。暗い蝋燭の灯りに浮かび上がる自らの手は、薄明かりでもはっきりわかるくらい、――震えていた。
うわっ、やだっ、見られた。
咄嗟に手を引いたが、その手を男の長い指に捕らえられた。
「大丈夫ですか?」
はい、大丈夫です。いえ、大丈夫じゃないです。って、どっちだ。自分でもわけがわからない。なんで、こんなに震えてんの!?
言葉をなくして俯いていると、握られた手を少し強引に引かれた。
ふわりと男の香りがして、緋色の衣が頬に当たった。激しいリズムを刻む心臓の音が鼓膜を震わせる。これって自分の心音?そう思った葉月は、次の瞬間、自らの状況を理解した。
これ、死神の心臓の音だ。っていうか、私、抱きしめられてる!?
「怖かったですか」
背後に回った男の手が葉月の背中をさすった。
怖かった?――ああ、怖かったのか、私。
そう認識した瞬間、体がぶるりと大きく震えた。
「もう大丈夫です」
なだめるように優しく背中をぽんぽんと叩かれて、強烈な懐かしさになぜだか泣きたくなった。
自分は、……たぶん、ずっと、こうしてほしかったんだ。
ふわりと舞い込んできた男性的で少し甘い香りも、耳元にダイレクトに聞こえてくる心音も、たまらなく心地よくて、強張った体は紐を解くようにゆるゆると弛緩した。
怪我した腕を庇って、柔らかく抱きしめられた。「――ハヅキ」そう呼ばれた声に対して、自然に「はい」と答えていた。
「あなたのことは必ず守ります。――だから、今後、私には近づかないでください」