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ソラヨミシ  作者: こでまり
1.春分
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3

「どういうことですか?」


 礼部長官 呉桂成ごけいせいは長官室に置かれた栴檀の机に両肘をかけ、ゆったりとした微笑みを浮かべた。相変わらず目は全く笑っていない。


 こ…こわい…


 この人だってけっこうな美形なのに、今となっては怖さの方が先だって全くその微笑みを堪能できない。

 葉月は黒縁眼鏡を押し上げながら「つまりですね――」と口を開いた。


「春先、風が出るのは日中。それも正午頃と決まっています。それなら時間をずらして、夜明け前または日没後に祭祀を行えばと思ったんです」

「風はいつでも出るのでは?」

「いえ、そんなことはありません。この時期の風は日差しで地面が暖まって、空気に温度差が生じることで起こります。日が沈んで気温が下がると、風は自然に収まってきます」


 一気に話しきった所で目の前に座る男がだんまり口を閉じていることに気がついた。

 話すのが速すぎただろうか。どこから説明し直そうかと自分の言葉を反芻していると、呉桂成は葉月の隣に立つ男に視線を移した。


「光啓、どう思う?」

「正直自分にはその案は思いつきませんでした。ただ、問題はないと思います。現に冬至祭は日の出時間に行っていますから」


 光啓が葉月を見下ろした。


「さすがだね」


 にっこりと自分だけに向けられたその笑顔は破壊力抜群で、葉月の胸は不覚にもドキリと鳴った。

 ああ、心臓に悪い。こんな時サラリと返す恋愛テクなんか持ち合わせてはいない。早く帰りたい。早く帰してほしい!!

 今年二十四歳になる世間的に見ればいい大人の部類に入る葉月だったが、恋愛偏差値は中学生並みに低かった。


 頬をわずかに赤らめた葉月の先で、呉桂成が「本当ですね」とつぶやいた。


「時間をずらすとは新しい案です。これなら文治帝も納得するでしょう。しかも素晴らしいことに、準備の手間は変わらないとは――」


 言葉を止めて一瞬思案した呉桂成は、次いでポンっと勢いよく机を叩いて立ち上がった。


「決定です。春分祭の時間を変更します」

「じゃあ、吉兆を示す時間を調べておきますね」

「いやあ、よかったよかった。これで一安心」

「長官の首も繋がりましたね」


 思慮深い大官の仮面を外し、呉桂成は喜色満面手を打ち鳴らした。それに合いの手を打つのはもちろん爽やか笑顔の高光啓。


 そこまで喜ばなくてもと思ったが、この際どうでもいい。ひとまずこれで自分の仕事も終わりそうだ。不要な胸の動悸からも解放されるし、処刑台行きも免れたし、給金ももらえそうだし、これでしばらくは心穏やかに過ごせそうだ。


「えっと……じゃあ私これで帰っていいですか?」


 葉月の言葉に、小踊りしていた男達がそろって振り返った。


「何を寝ぼけた事を言っているんですか?君には春分祭当日までしっかりと天気を予想してもらいますよ」

「乗り掛かった船だもんね」


 その乗り掛かった船を今降りようとしていたのだが、そうは問屋が卸さないらしい。


「春分祭が終わった後に給金は差し上げましょう」


 呉桂成は葉月の前まで来ると、右手をすっと差し出した。その横から合わせたように光啓の日焼けした手が伸びる。


「あらためてよろしく、ねっ」


 太陽の化身のような眩しい笑顔でそう言われて、葉月は曖昧に笑った。拒否の言葉は許されていないらしい。そして、やっぱり――と思う。


 苦手です、あなた達。

 ……とは口に出しませんよ、もちろん。




 ※※※ ※※※ ※※※



 その日から、葉月は礼部衙門れいぶがもんに通うことになった。

 驚かされたのは、官衙かんが横の空き地に高さ十メートルほどの物見台があったこと。おそらく天体観測に使われていた物だろうということだった。ちなみに、現在天体観測はもっぱら内城東にある欽天監きんてんかん、現代日本でいう天文台で行われている。


 この国は昔から皇帝は天を司るものという考えがあって、星の運行や月の満ち欠けといった天体観測は盛んに行われていた。それに反して天気はというと、明日は明日の風が吹く。つまり全くといっていいほど発展してこなかった。


 そんな中で空読み師として内城に呼ばれた葉月は、毎正時ここに来て天気を観測するのがもっぱらの仕事となった。

ちなみに天気を観測する以外はやることがなかったので、雑用の仕事も手伝った。硯に墨をすり、紙を補充する。必要ならば、他の部署に届け物をしたりもする。


「なあ、お前字は書けるか」

「一応は……」

「じゃあさ、これ写しておいてくんねえ」


 髪を無造作にかきむしった之藻しそうが葉月の横でパタリと倒れた。ただでさえ似合わぬ無精髭で男ぶりを落としているというのに、ぼさぼさ髪がそれに拍車をかけている。


「之藻さん、男前が台無しですよ」

「んあ?どこぞにきれいな女がいるってんだ。こんなむさくるしい男所帯で着飾ってどうする。あぁ、たまには美女を侍らせて酒でも飲みたいっつうもんだぜ」


 えっと……ここに女がいるんですけど。たしかに綺麗じゃないですよ。伸びっぱなしで後ろで一つに結っただけの髪はぼさぼさだし、手入れしていない眉毛はぼうぼう、胸はまな板、体は棒っきれのようですが……。


 そこまで思考を巡らせて、葉月ははたと気がついた。これでは人の事は言えない。自分だって元々ない女っぷりを地の底まで落としている。


 自分の容姿を改めて言葉にして愕然とした葉月の前で、寝ていた光啓こうけいが突然起き上がった。


「それ賛成。春分祭までこの殺人的な忙しさが続くと思うと、嫌になっちゃうよ。瑠璃楼の牡丹ちゃん、元気かなぁ」


 遠くを見つめる光啓の顔は疲れ切っていた。垂れ目の下には大きな隈ができ、心なし頬もこけている。しかし、イケメンはそれくらいでは廃らない。だるそうに髪をかき上げるその仕草もまた様になっている。乙女のようにときめくわけじゃないが、やはり目で追ってしまう。そしてこういう人達は人に見られることに慣れているというか、じろじろ見ても全く気にしないのだ。

 しかし、さすがに不躾に見続けていたらしい。宙を眺める垂れた瞳が葉月の方を向いた。


「俺の顔に何かついてる?」

「――いえ、別に」


 葉月は慌てて俯くと忙しいふりをした。その隙を逃さぬように、キラキラオーラ全開の笑顔がグイと迫る。


「ところでさ、春分祭の日、天気よさそう?」


 今このタイミングでその話?と心の中で思ったが、この数日で突拍子もないことには耐性がついた。葉月は別段驚くこともなく、白紙に数字を書き、そのひとつに丸をした。


「ここが晴れる可能性の高い日です。春分祭の日は晴れてから二日目になります」

「根拠は?」


 光啓は片眉を上げて、差し出された紙に目を走らせた。いつの間にかキラキラ笑顔はなりを潜めている。

 どうやら仕事スイッチが入ったようだ。

 葉月は身を乗り出して、今しがた渡した紙を指差しながら説明を始めた。


「ここしばらくの天気傾向をみると、六日周期で移り変わっています。それでいくと、次に晴れそうなのが明後日。その次に晴れそうなのが春分祭の前日という事になります。春分祭は今のところ晴れてから二日目ですから、雲は多いながらも、大風は免れると思います」


 葉月の言葉に光啓はひとつひとつ頷き、最後にその紙を之藻に投げた。


「天気はよさそうだし、後は吉兆を示す時間を決めればいいだけだよ。がんばってね、之藻」

「えー、俺がやるんですか?光啓さんがやってくださいよ」

「部下の仕事とっちゃったら駄目じゃん?」


 既にいつもの爽やか笑顔に戻った光啓は机の中をごそごそかき回して、そろばんと一冊の本を取り出した。そこには“暦算書”という文字が大きく書かれていた。

 げんなりした顔の之藻がしかたなしという風にその本を手にする。


「そろばんはいりませんけど、正直無理っす」

「無理って、それ面倒の間違いでしょ」

「だから、面倒だから無理っす」


 押し問答のように繰り返される会話はとてもじゃないが上司と部下のやり取りとは思えない。それでも、この二人にとっては日常茶飯事なのだろう。諦めたようにひとつため息をついて、光啓が言った。


「わかったよ。それができあがったら、妓楼にでも何でも連れてってあげるからさ。完全おごりで――」


 そう言い終わるやいなや、それまでやる気ゼロだった之藻が瞳を輝かせて暦算書を開いた。


「期限は、今日宵の内まで」

「ういっす!」


 葉月はをちらりと隣を見た。

細かい数字が無数に書かれたその本は、よく見ると月や日の出入り時刻や吉兆などがびっしりと書かれていた。これをパソコンなしで計算、しかも数時間でやるなどどう考えても無理だ。さすが掃溜め課の課長、言うことが無謀すぎる。


 呆れた葉月が「手伝いましょうか?」と言おうとした矢先、ひとつ大きく伸びをした之藻がそれまでの雰囲気を一変させ、一心不乱に筆を走らせた。横に置かれた紙に、凄まじい勢いで数字が刻まれていく。


 な……何この豹変ぶり。

 葉月は呆気にとられながらその様子を見た。いつの間にか隣に来ていた光啓が葉月の肩をちょんちょんとつつく。


「大丈夫だよ。之藻はこれでも算術家の家系だからこんなの朝飯前。それよりも、暇だから三時のおやつでも食べに行かない?」


 驚き過ぎた葉月の口からは「へっ?」と素っ頓狂な声が漏れた。一応自分の名誉のために言っておくが、三時のおやつに驚いたわけではない。もちろん三時のおやつも食べたかったが……問題はその前の“算術家の家系“とかなんとかいうところだ。


「えっと……この国では誰でもこんな計算ができる……わけなですよね。どうしてこんな特技を持った人が年に数度しか仕事がないこの課にいるんですか?もっと、その計算能力を活かせる場所があるんじゃないですか?」


 人間驚き過ぎると何をしでかすかわからない。心の中でつぶやいたはずの言葉は見事に声に出ていた。そしてそれに対して、課長である高光啓は爽やか百点満点の笑みで「だよねー」と全くの他人事な答えを返したのだった。

 いや、だから上司はあなたで……とは、このわけのわからぬ人達を前にして、もはや言う気力もなくなっていた。


「とりあえずさ、おやつ食べに行こうよ。泰京大街の饅頭がいいなぁ」


 郷に入れば郷に従え。葉月はそれ以上深く考えることを止めて、光啓に促されるまま部屋を出た。


 そして、数刻後。葉月達は夕飯までしっかり食べて腹いっぱいで帰ってきた。苦しさを隠して「ただいま戻りました」と明るく部屋に入る。しかし部屋はすでにもぬけの殻。之藻の机の上を見れば、そこには白紙に収まりきらない、というよりも収める気が全く感じられない馬鹿でかい文字が書かれていた。


 ――春分、卯の初刻、吉兆を示す――


 卯の初刻とは午前五時頃を示す。それは葉月が提案した『日の出前か日没後に祭事の時刻を変更すればいい』という条件にピタリと当てはまっていた。

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