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なぜ、こんなことになってるんだ!?
葉月は金色の玉座を前に目を白黒させた。玉座に座るのはこの国の皇帝、文治帝。そして、そこから数段下、玉座を挟むように左右縦方向に列を成すのは、宰相や各部の長官達。それに続いて高級官吏が並ぶ。葉月はその最後尾に饅頭の袋を手に立っていた。
光啓と一緒に呪術祠祭課に戻った葉月は、待ち構えていた礼部の官吏に急きたてられて、この場所に連れて来られた。そこには既に之藻もいて、襦裙姿の葉月に顎が外れるくらい驚いていた。それでもかろうじて声を出さなかったのは、この部屋の緊迫した雰囲気を感じ取っての事だろう。
つばを飲み込む音さえ響きそうな緊張の中、宰相の張震が小肥りな顔を持ち上げた。
「文治帝もご存じの通り、昨夜の月食では、欽天監の月食予測が大きく外れました。それについて、欽天監監長に尋問したいと思います」
文治帝の頷きを見て、張震は居並ぶ官吏達の中央で叩頭したままの欽天監監長に歩み寄った。
「今回の月食、なぜ予測はこのように大きく外れた?」
監長は平伏したままだ。自らに降りかかる処罰を前に、恐れおののいているのだろう。それでも、このまま沈黙を保てるわけがなく、監長は病気かと思うほどの青白い顔を持ち上げた。
「私どもの計算に一分の狂いもございませんでした。これは国に予測不可能な災いが発生する予兆、一刻も早く祈祭を行うべきだと思います」
えええっ!
葉月は思わず声をあげそうになって、慌てて飲み込んだ。
自分たちが予測をはずしたくせに災いのせいにするなんて、さすがに驚くんですけど。インチキ占い師もびっくりだよ!まさか、超難関試験を突破したエリート官吏達が、今言ったことを鵜呑みにしちゃったり……するわけないよね!?
確認するように前方に並ぶ官吏達に目を走らせる。すると、玉座を挟んで右側に立つ礼部長官 呉桂成が微笑みながら一歩前に出た。
「一官吏が国の災異にまで言及するとは世も末ですね。この者は官吏の資格はく奪でよろしいでしょうか、文治帝」
言い方は丁寧だが、内容は辛辣だ。さすが、微笑み長官。今日も目は笑っていない。
木が揺れるようなざわめきの後、部屋に沈黙が落ちた。誰もが、文治帝の裁可を待っていた。とその時――
「お待ちください」
葉月の傍から力強い声が上がった。隣を見れば、光啓が真剣な顔で前に進み出て叩頭した。
「僭越ながら、礼部呪術祠祭課 高光啓が申し上げます。今回月食の予測をはずした罪は欽天監の官吏にはございません。ましてや、この国に災いが起こるわけでもございません」
膝をついたまま、真っ直ぐ皇帝を見据えた光啓が静かに口を開いた。
「原因は、――暦の狂いにあります」
こ……高課長、何言いだしてんですか!?暦について言及するのは厳禁だったんじゃないんですか!?万が一聞かれても、ここはしらを切って、わかりましぇんえんとか言って逃げるのが正道ですよね。事なかれ主義のくせに、何、正論ぶちかましてんですか!
驚いたのは葉月ばかりではなかった。あまりの衝撃的な発言に、官吏達の間にどよめきが起こった。波の如く次々沸き起こるざわめきをいなして、呉桂成が靴音を鳴らしながら中央に歩み出た。
「光啓、私はあなたの上司として言わせてもらいます。歴法は何千年もの昔に起こったこの国の伝統。これに触れるのは重大な罪だということは、知っていますよね」
「はい、知っています」
「では、なぜ、現暦法を否定するような発言をしたんですか?」
光啓が静かに立ち上がった。
「日月の運行には規則性があり、日月食には周期があるのは、皆さまもご存じの事。ただ、現暦法が作られたのは四百年も昔。四百年使っているうちに、暦の中の小さな誤差が時間とともに増大して、今回のような大誤差に繋がったのです。このままでは、新年に起こるとされている日食の予想も大きく外れるでしょう。今は暦その物を見直す時期。ひいては、天体運動の根本を見直す時期に来ていると思います」
「天体運動の根本を見直す時期?」
呉桂成が真顔になった。それとは対照的に、光啓は真剣な表情を緩め、それどころか顔に笑みまで浮かべてみせた。
「万物の中心は鳶国。鳶国の周りを天が動いている。皇帝は天の子。天の意思を受けて、国を動かす存在。そうですよね、監長?」
光啓の問いに、倒れそうなほど顔色をなくす欽天監 監長は、それでも律義に頷いた。
「では、月食はなぜ起こるのですか?」
「……」
「まさか、日夜や天体を観測している欽天監が、悪龍が月を食ったなどとは言いませんよね」
一回り以上も年上の監長に対して、光啓は臆することなくそう尋ねた。
こ、こ、こ、高課長、笑顔が……ブラックコーヒーどころの騒ぎじゃない。腹黒すぎる。腹黒福造になってる。呉長官が普通に見える!
驚愕のあまり饅頭を落としそうになって、葉月は慌てて持ち直した。部屋の中央で膝を床につけたままの欽天監 監長は震える唇でポツリと言った。
「月食は……、太陽の光が月に届かないときに起こる」
「では、太陽の光をさえぎるものは?」
俯いたままの監長が「……大地」とつぶやいた。その瞬間、光啓のわずかに垂れた瞳が閃光のようにきらりと光った。
「つまり、この大地もまた月と同じように動く天体のひとつだということですね。天が動くなど幻想にすぎず、この大地こそが動いている。そうおっしゃりたいんですね」
部屋に再びどよめきが起こった。
うっそー!高課長が爆弾発言、かましちゃってるんですけど。之藻さん、之藻さんったら。
葉月は之藻の緑色の衣の袖をぐいぐいと引っ張った。しかし、之藻の顔はすでにこうなることを予想していたかのように、静かに場の中央を見ていた。
もしかして……、そっか、之藻さんはこうなることを知ってたんだ。ということは、まさか呉長官も?
皇帝や宰相に背を向けて立つ呉桂成は、顔を見られないようにうつむいていた。しかし、口元がわずかに緩んでいることに葉月は気がついた。
やっぱり……。高課長と呉長官はあらかじめ口裏を合わせていたんだ。つまりこれは予定調和的なやりとり、いわば台本のある芝居だ。目の前で体を震わせる欽天監の監長はただ、この大芝居に巻き込まれた被害者にすぎない。
その時、宰相の張震が「反国論者だ」と叫んだ。
「太陽も月もあまたの星もこの鳶国を中心に動いている。この者の言うことは、反国論者の暴言だ。免官どころの騒ぎじゃない、断罪だ」
「私は反国論者などではありません。愛国心から出た本当の言葉です」
淀みない瞳でまっすぐ答えた光啓に対して、張震は聞こえないくらいの小さな声で「この不良官吏め」と罵った。それでも、表情を変えない光啓に痺れを切らして玉座を仰ぎ見た。
「この者は反国論者の可能性がありますゆえ、投獄したほうがよろしいかと。湖刑部長官、あなたはどう思いますかな」
瞑目したまま事の成り行きを見守っていた刑部長官 湖聖仁に官吏達の視線が集中した。宰相と礼部長官が中央に歩み出た状態で、王の最も近くにいるのがこの男だった。
葉月はその時、初めて湖聖仁を視界に収めた。末席にいる自分から一番遠い所に立つ男。その距離に現実を突きつけられた気がした。
遠い……、遠い存在。もともと普通に会話することさえない人物だ。あの人が誰に笑顔を向けたって、自分ごときが心を乱す相手じゃない。
葉月は冷えた饅頭に視線を落とした。しんと静まり返った部屋の中、誰もが刑部長官 湖聖仁の答えを待った。表情の読めない冷たい美貌が出す答えは、果たして断罪か免罪か。
湖聖仁が切れ長の瞳をゆっくり開けた。
「ええ、もちろん。今の発言は王に対する謀反とも取れます」
張震の肥えた顔が愉快に歪んだ。ドジョウのような長い口ひげを撫でながら嬉しそうに王に向き直る。
「文治帝、刑部長官もこのように申しております。高光啓は謀反の疑いありということで、投獄してもよろしいですかな」
それまで沈黙を守っていた文治帝は、考える風に視線を官吏達に向け、その視線を最奥でぴたりと止めた。
「そこにいるのは空読み師だな。お前の国ではどういう考えなのだ。天が動いているのか、地が動いているのか」
えっ、えっ、このタイミングでまさかの自分ですか!?いやいやいやいや、私なんて皇帝相手に物申すなど……。ああ、みんなの視線が怖い。逃げるなんてできそうにない。之藻さん、どうかこの饅頭、全部あげますから、助けてくださいよ。
そう思って之藻を見る。険しい表情でこちらを見た之藻は、葉月にしか聞こえない声で「――天だ」とつぶやいた。
うそっ、之藻さんが珍しく助けてくれた。ちょっと感動……って、今は感動に浸ってる場合じゃない。そうだ、そうだよ、動いているのは天なんだ。今までだって、何度も自分に言い聞かせたじゃないか。そう言えばいいだけだ。
葉月はごくりと唾を飲み込んで、まずは文治帝に向かって叩頭しようと一歩前に出た。しかし、慣れない襦裙姿である。ロングスカートのように裾まで広がる襦裙の裾を、葉月は内側から思いっきり踏んづけてしまった。体が前につんのめり、床に顔から倒れ込む。
「うわっ!」
咄嗟に両手をついたと同時に、床に袋ごと大きな饅頭がいくつも転がり落ちた。
「ああっ、大事な饅頭が!」
思わずそう叫んで、自分の失言に気がついた。恐る恐る視線を上げれば、官吏達はポカンと口を開けて葉月を見ていた。さらに向こう側、礼部長官呉桂成は呆れたように額を押さえている。
ああ、まずい。こんな時に食い意地を出してしまった。えっと、とりあえず饅頭……じゃなかった、叩頭だ叩頭。
ようやく理解して、葉月は体を起した。床に両ひざをつけて、玉座に向かて叩頭する。
「大変、失礼いたしました。田葉月が申し上げることをお許しください」
「面を上げよ」
文治帝の言葉に体をゆっくりと起こす。目の前にはおいしそうな饅頭が転がっているが、今はそれどころじゃない。
ごくりと唾を飲み込んだ。目の前に立つ光啓と視線がぶつかった。わずかに垂れた瞳にいつもの甘さはない。口こそ開かないまでも、その目は雄弁に物語っていた。変なことを言うなと――
うん。わかってる。私はここで知らぬ存ぜぬで通せばいいんだ。之藻さんだってさっきこっそり言ってくれたじゃないか、天って言えばいいって。そう、動いているのは天だ。よしっ、オッケー!
葉月は大きく息を吸い込んだ。ゆっくり息を吐きながら、心に決めた言葉を言う。――と、その時、居並ぶ官吏達の最前から自分に向けられた、切れ長の瞳と視線が絡み合った。
あっ……、こっち見てる。
そう思った瞬間、心臓が早鐘となって体中を突き上げ、思考まで浸食した。
「動いているのは、この、だ、大地です」




