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――月食――
lunar eclipse。地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象。
まあ、これくらいは、ネットで調べればすぐにわかること、なのだが……
「月食は天の戒め、国政に乱れが起こっている証拠だ」
「国に災異が起こる前触れだ」
この国では依然日月食の災異思想が根付いている。
この秋一番の冷え込みとなったその日、葉月は月食談議に花を咲かせる人々を横目に足早に歩いた。この世界に来て一年と八カ月。ちょっとやそっとのことじゃ驚かなくなった。月食は悪龍が月を食べる現象だ。とか言われても、ふーん。ところで、悪龍ってなんですか?くらいの反応しかしないだろう。郷に入れば郷に従えだ。
葉月は白い息を吐きながら薄手の短装の襟をかきあわせた。さすがに、もう外套を買おう。そう思いながら、扉を開ける。
「おはようございます。昨日の月食……へっくしゅん」
部屋に入ったと同時に盛大なくしゃみが出た。ずるずると鼻をすする音に、珍しく朝から机に向かっていた呪術祠祭課課長、高光啓が片方の眉を上げた。
「おはよう。風邪でもひいた?」
「今朝は寒いですね。さすがに、もう外套を買わなくちゃ駄目ですね」
「まだ買ってなかったの?」
「もう少しいけるかなとか思って……」
半笑いを浮かべた葉月に、光啓は目にも明らかに眉を寄せた。持っていた筆を硯に置く。
「身なりに無頓着なのはまだ許せるけど、体調に無頓着なのはちょっと許しがたいな。よし、これから買いに行こう」
とりあえず俺の外套を貸してあげる。そう言って立ち上がった光啓の言葉に、葉月は猛然と首を左右に振った。
「けっこうです。帰りにでも自分で買うんで。それよりも仕事しましょうよ、仕事」
「仕事より葉月の体調のほうが心配だよ」
いえ、仕事のほうが大事です。っていうか、高課長の外套なんて羽織って外歩いて、万が一にでも高課長ファンの女官さん達に見られたら、それこそ身の危険だ。ぼっこぼこに殴られて川へぽいだ。誇張とかじゃなく、あの人達ならマジでやりかねない。
以前の監禁騒動を思い出した葉月は、頑なに外套を受け取るのを拒否した。
「しかたないなぁ。じゃあ、俺も外套は着ないで行くよ。葉月だけ薄着させるなんてできないからね」
「いえいえいえいえ。高課長は着てください。いや、その前に、私一人で行ってきますんで、仕事しててください」
はっきり言わせてもらうと、高課長と並んで歩くのだって、十分身の危険を感じる。女の嫉妬は怖いのだ。矢のような視線をビシビシ受けて、何食わぬ顔で歩く肝っ玉はあいにく持ちあわせてはいない。ここは、ひとまず穏便に断って……って、高課長もう部屋を出ちゃってるし。まていっ!
「ちょっと、あれ、光啓様じゃない?」
「一緒に歩いてるの誰?変な眼鏡掛けて、男かしら」
「違うって。ほら、いつも男みたいな格好してる空読み師よ」
「あー、あれが。光啓様と並んで歩くなんて厚かましいわね」
「たしか、今、呪術祠祭課に働きに来てるらしいよ」
「女なのに官吏まがいの事してんの?図々しい」
「しーーっ。聞こえちゃうって」
……もう、聞こえてます。丸聞こえです。だから、高課長と並んで外なんか歩きたくなかったんだって。心折れそう……
顔を隠すように下を向いて、なんとか女官達の棘視線攻撃に耐えて内城を出た。ほっと息をついたのもつかの間、次は市井の女子たちの熱視線攻撃を浴びた。黄色い悲鳴が聞こえた気がするが、気のせいということにしておこう。
「葉月、どんな外套がほしい?あの帽子つきの赤い外套なんて、葉月に似あいそうだね」
光啓は赤地に白い毛で縁取りされた鮮やかな外套を指差した。
えっ、まさかあのド派手な外套を着ろと!?赤に白なんてどっからどう見てもサンタのコスプレじゃないか。たしかにあれでクリスマスケーキ売ってると、可愛いなーなんて思ったりもするけど、それはあくまでイベントとしてだ。自分は絶対に着たくない。
「……絶対に似あいません。もっと地味なのにしましょう」
後ろ髪を引かれている光啓を無視して、葉月はずんずん歩いた。あっちからもこっちからも視線を感じる。この視線を受けて平然と歩いているなんて、やっぱりイケメンは違う。
「ところで、高課長、昨日の月食見ました?」
背後にいるとばかり思って話しかけたが、返事が聞こえない。おや?と思って振り返ると、光啓は数メートル後ろで、うら若き乙女達につかまっていた。それはまるでファンに囲まれるアイドル状態。いやー、壮観……って、感心している場合じゃない。
「これは、助けるべきなのか、待つべきなのか。うーん……、まあ、いっか。この隙にさっさと外套買っちゃおう」
葉月は人ごみにその身を隠すように滑り込ませ、活気あふれる泰京大街の軒先をぶらついた。
大通りから一本路地に入ったところに、門構えからして高級そうな服屋があった。
「あれ、ここって見覚えがある……」
記憶をたどった葉月は、以前ここで無理矢理襦裙を着せられたことを思い出した。
たしか、あれは、祈雨祭の前、高課長ファンの女官に水をかけられて、びしょびしょになって刑部裏の処刑台に行った日だ……
「そっか……、死神に連れて来られたんだ」
その瞬間、湖聖仁が愛玲に向けた楽しそうな笑顔が脳裏をよぎった。男が葉月に見せる笑顔は、大抵が口の端を持ち上げただけのものか、喉の奥で噛み殺したようなものだった。あんな風に白い歯を見せて笑う姿は一度も見たことがなかった。
別にあの男がどんな風に笑おうが関係ない。そう理性ではわかっているのに、なぜか昨日からあの笑顔が頭から離れなかった。それは、振り払っても、振り払っても、しつこくまとわりつく蝿のように葉月の思考に入り込んできた。
「もしかして、これは死神の呪い……?」
「呪いがどうしたの?」
「死神の笑いが頭から離れないのは、もしかして呪いなのでは……って、高課長いたんですか!?」
振り返った葉月は思いっきりのけぞった。
「いやー、集まって来た女の子たちをようやく解散させて、辺りを見たら葉月がいないから焦ったよ。そしたら、この店の前でぼうっと立ってるから。この店が気になったなら、入ってみる。なんかいい品置いてそうだよね」
親指をくいっと向けて店に入ろうとした光啓を、葉月は慌てて止めた。
「待ってください高課長、違う店に行きましょう」
「えっ、とりあえず入ってみようよ」
「いえいえ、違う店に行きましょう。ほら、あっちの店の方が品ぞろえが豊富ですよ」
「あそこは男物だよ。葉月がそんなに焦ってるのを見ると、余計この店が気になったりするんだけど」
……さすが勘は悪くない男だ。必死すぎると、逆に怪しいってやつか。
葉月は黒縁眼鏡を押し上げて、もっともらしい言い分を考えた。
「えーっと、この店、高級そうです。私の給金ではちょっと手が出ないので、別の店のほうがいいと思うんですよね」
そう言って視線を戻す。しかし、そこにいるはずの光啓の姿はすでになかった。
オーマイガーーーッ。高課長、すでに店の中に入ってるじゃん。これって私も入らなくちゃ駄目なのか。駄目だよな。あぁ、これはもう店の人が以前来たことを覚えていないのを祈るしかない。
「あら、あなた。以前来てくれたわよね。そのヘンテコな眼鏡、よく覚えてるわ」
……一瞬でばれた。
こそこそと店の中に入ったのが逆に怪しかったのか、こちらを見た女主人がぱっと目を輝かせて近づいてきた。しかたなく葉月は「その節はどうも」と一礼した。
「あの時はびっくりしたわよ。女嫌いで有名な湖刑部長官が女性を連れて店にやってきたんだから。しかも、お金は気にしないから綺麗にしてやってくれなんて言って、こっちは内心ぶったまげたわよ。一点ものの簪を買った時には、これは結婚秒読みだと思ったけど、あれからどうなったの?」
そこまで言って、女主人は葉月の斜め後ろに立った光啓に気がついて、「あら、失礼」と肩をすくめた。
あら失礼じゃないですよ、女将さん!今一瞬の間に、ジャブ、フック、ストレートと連続攻撃かまされて、私のHPゼロです。ゲームオーバーって気分です。頭全然動きません。
回復不能な思考のまま呆然と立ち竦む葉月の肩が、背後からやや強引に引かれた。
「なんだ、葉月この店来たことあったんだ。それならそうと言ってくれたらよかったのに」
斜め上を見れば、光啓がにこりと笑った。いつもより笑顔に余裕がなく感じるのは、気のせいだろうか。
「葉月、俺も君のこと綺麗にしていいかな?最高に素敵に――」
「はっ……?」
思考が復旧しないまま、葉月は光啓が選んだ薄黄色の襦裙を着せられた。「上半分は結って、下半分は下ろすのが今の流行よ。それにしても、その眼鏡、なんとかならないの?」と女主人は、前回来た時と全く同じ事を言って、葉月の髪を綺麗に結い上げた。
「うん。悪くないね」
仕上がった葉月を見て、なぜだかご満悦の光啓は、最後の仕上げとばかりに、毛皮を裏打ちした外套を肩に掛けた。
「これだったら、普段着ている服にも合いそうだね」
たしかに、落ち着いた榛色の外套はいつもの短装に合わせても、違和感がなさそうだった。
「あの、代金、払います……」
「もうもらったよ」
「へっ……?」
「君のその姿には銀百両の価値がある」
普通なら赤面するようなことを平然と言ってのける男だ。
あー、なんか色々面倒になってきた。もういいや。この姿が代金というなら、
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。まあ、今日一日限りなんで、どんどん見てください」
「いいね。その勢い。じゃあ、このままどっか行っちゃう?」
「いえ、早く呪術祠祭課に戻りましょう」
「なんだ、そこは真面目なんだね」
真面目とかじゃなくて、ただ、この姿で高課長と並んで歩いてる所を誰かに見られて、ぼこぼこにされたくないだけだ。
「之藻さんもそろそろ起きる頃でしょうし。泰京大街の饅頭でもお土産に買っていきましょう」
「それいいね。でも、之藻にこの葉月を見せるのはちょっと癪だな」
なぜ、癪?
言っている意味がわからず、首をかしげながら葉月は店を出た。
その後、葉月達は饅頭を買った。之藻を起して、ホッカホカの饅頭をはふはふ言いながらみんなで食べよう。そう思っていたのだが……
※Special Thanks to ちか様