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ソラヨミシ  作者: こでまり
6.秋分花香
43/63

7

「そういえば、雪涛せっとうさん、これから出かけるって言ってませんでしたっけ」

「あっ、そうだったわ」


 葉月は蝶柄の傘を差し出した。


「雨が降るかもしれませんから、持って行ったほうがいいですよ」

「えっ?日が差してるけど、雨になりそうなの?」

「愛玲さんでしたっけ。彼女の香りがまだ残ってるんですよね」

「たしかに彼女が匂い袋に入れていた桂花の香りが残ってるわ。でも、それがどうしたの?」


 中空を見上げてクンクンと鼻をならす。


「花の香り強ければ雨って言葉があるんですよ」

「花の香り強ければ雨?」

「ええ。香りは乾燥している状況だとすぐに拡散して消えるんですけど、湿度が高くなるとその場にとどまりやすくなって、より強く匂いを感じるんです」

「言われてみれば、愛玲が帰ってから結構経つのに、まるで今まで彼女がいたみたいに香りが残ってるわ」

「湿度が高くなってきた証拠です」


 じゃあ、雨が近いのかしら。空を見上げた雪涛が首をかしげた。


「なんだか面白い話ね。これから会う人にちょっと話してみようかしら。とりあえず、傘借りて行くわね」

「いえ、差し上げます。いつもお世話になってるんで」

「まあ、うれしい。ありがとう」


 じゃあ、言ってくるわね。そう言って、雪涛は院子なかにわを去って行った。


「花の香り強ければ雨――か」


 それは、職場の先輩 宮路京子から聞いた言葉だった。

 そういえば、宮路さんは香りはいつでも控え目で、近くに寄らないとわからないくらいだった。もしかしたら湿度で変えてたのかな、きっとそうだ。堂本さんは絶対そんなことしてないな。だって、いっつも甘い香水ぷんぷんで、雨の日なんかこっちが気持ち悪くなるくらいだったもん。あれが、大人女子力の差ってやつだな。覚えとこう。

 思わず口から笑みが漏れたが、視界に自らがまとう土色の短装が目に入って、笑いが一瞬で引っ込んだ。

 ああ、自分には関係ないことか。ここは異世界なんだから。

 不意に光啓の言葉がよみがえった。


『そのしがらみを解いたら、もっと葉月らしくいられるんじゃないかな』


 はあぁぁ。

 葉月は薄雲の広がる空を見上げて、ため息をついた。




※※※ ※※※ ※※※



「えっ、傘の追加注文?」


 それから一週間ほどたったある日、傘売りに出かけようとしていた葉月の部屋に雪涛が現れた。


「誰からですか?」

「ほら、この前、ここに来ていた愛玲あいれいからなんだけど、どうやら臨春楼で葉月の傘が評判になっているらしいの。傘に絵が描かれてたじゃない?あれが評判の元で、直接売りに来てくれないかって」


 たしかに、もともとただの茶色い殺風景な傘に、柄をつけようと思いついたのは葉月だった。牡丹の柄に蝶の柄、持っている人が少しでも楽しくなればと思ったのだ。でも、実際にはそんな派手な傘は売れず、結局人々が買い求めるのは柄のない茶色一色の傘。それが、まさか妓楼で日の目を見ようとは――


「さすが、妓女さん、見る目がありますね。じゃあ、さっそく今から行ってきます」


 商売はタイムイズマネー。明日にしようなんて言ってたらツキが逃げてしまう。威勢よく傘の入った竹籠を担いだところで、雪涛に呼び止められた。


「葉月、妓楼は夜からよ」

「あっ、そうでしたね」

「愛玲がまだそれほど込みあわない夕方に来てほしいって言ってたわ」


 夕方か。だったら、天壇での傘売りが終わったら、そのまま行けばいいな。それにしても、これはもしかしたら、傘が大量に売れるチャンス!?がっぽがっぽもうかったら、夕食は豪華ディナーとか!?うわー、どうしよう、何食べよう。肉?魚?うーんどっちも?でも、やっぱり白飯ははずせないな。

 そんなことを考えながら、葉月はいつもより弾んだ気持ちで呉家を後にした。




 ※※※ ※※※ ※※※




 臨春楼は泰京一の歓楽街 八大胡同の中ほどにあった。黒地に紅い花で縁取りされた豪華な看板に、眩いばかりの金色で臨春楼と書かれている。誰もが一度は振り返る、八大胡同の中でも殊更目立つ建物の前で、傘を入れた竹籠を担いだ葉月はぽかんと口を開けて立っていた。


 うわ~、ゴージャス。さすが、泰京屈指の妓楼だ。


 そんなことを思いながら恐る恐る中に入った葉月は、更なる豪華さに息を飲んだ。二階まで吹き抜けの大広間の床一面にしかれるのは紅色の絨毯。大きな丸い柱も部屋に彩を添える提灯も視界に映るのは紅一色だった。さらに、意匠の凝った天井や柱の縁などは金色で装飾され、ところどころに金糸を織り込んだ紗のカーテンのようなものがかかっている。あまりの浮世離れしたその部屋を前に、葉月は竜宮城に行った浦島太郎のような気持ちで立っていた。


 しばらく呆然としていた葉月は、大広間にいる妓女達が奇妙なものでも見るような目でこちらを見ていることに気がついた。


「何か御用?」

「あっ、あの傘売りの者ですが、愛玲さんに呼ばれて来ました」


 挙動不審になりながら一礼すると、きれいに化粧を施した妓女たちが目をあわせ「あっ、もしかして噂の!」と声を上げた。


「わー、私もほしいと思ってたの」

「ちょっと見せて、見せて」


 色とりどりの衣を翻しながら近寄ってきた妓女たちに、葉月は圧倒されながら竹籠を下ろして傘を開いた。


「あの、こちらが牡丹柄、これが蝶の柄、それからこれが金魚の柄です」

「えー、すごいきれい。どれもほしくなっちゃう」

「本当。どれにしようか迷っちゃうね」

「一本なんて決められない」


 妓女たちはその艶やかな仮面を取り去って、楽しそうに傘を物色し始めた。結局、わらわらと集まってきた妓女たちによって、傘はものの数分で完売した。商売、場所が変われば売れ行きが変わるとはこのことか。今までの苦労はなんだったんだろう。


「ありがとうございました」

「じゃあ、新しい傘を仕入れたらまた来てね。今回買えなかった人もいるから」


 すっかり軽くなった籠を肩に担ぎながら、わかりましたと頷く。物が売れるというのはこんなに嬉しいものだったのか。初めて経験する多幸感ににやにやしながらお辞儀した葉月は、肝心の依頼主に会っていなかったことを思い出した。


「そういえば、愛玲さんにご挨拶――」

「彼女にはあなたが来たって言っておくわ。今、お客様が来ているの」

「そうですか。じゃあ、よろしくお伝えください」


 籠を担ぎながら深く頭を下げたところで、金木犀の香りが鼻先をくすぐった。

 

 ――あっ、愛玲さんの香りだ。


 視線を上げた先に、奥に続く回廊から大広間に向かって歩いてくる女性がいた。鮮やかな桃色の胸元が大きく開いたセクシーな薄衣を身にまとい、結い上げた頭の上に大きな花を飾ったぱっと目を引く華やかな装いだった。


 うわー、きれいな人だとは思ってたけど、化粧をすると別格だな。

 卵形の小顔に濡れた黒い瞳はもともとの可愛さを保ちつつ、柳のような細腰をゆるくしならせ、真っ赤な紅を引いた口で微笑む姿は、大人の妖艶さを醸し出していた。


 愛玲は涼しさの中に愛くるしさを湛える魅力的な瞳で隣に立つ長身の男を見た。男は艶やかな美女の横に立っても全く遜色がない色気をまとっていた。漆黒の髪に、艶を含んだ切れ長の瞳、すっと伸びた鼻梁。近寄りがたい硬質さの中で口元に薄く浮かべた微笑が人間的な色を加え、得も言われぬ色気を放つ。


 愛玲が笑いながら男の衣の袖と叩き、それに反応するように男が白い歯を見せて笑った。


――ドクンッ


 心臓が電気ショックを受けたかのように跳ね上がった。その拍子に、肩に担いだ竹籠が床に落ち、中に入れていた銭袋から銅貨が派手な音を立てて散らばった。

 音に気づいた二人が同時にこちらを向いた。口元に手を当てて驚きを露わにする愛玲のとなりで、男の口元が――ハヅキ――と形作った。まるでスローモーションのように流れるその一部始終を、葉月は瞬きすることも忘れて、ただ呆然と見ていた。


「大丈夫?」


 隣にいた妓女に声をかけられて、我に返った。


「あっ、すみません」


 床に散らばったお金が目に入って、慌てて拾う。どうしてこんなに動揺してるんだろう。そう思いながら銅貨を集めて袋の中に入れていると、視界に桃色の薄衣の裾が現れた。


「葉月さん、来てくれたのね。ごめんなさいね、出られなくて」


 華やかで涼やかなその声は紛れもなく愛玲のものだった。いつもなら平然と立ち上がって挨拶をしただろう。でも、その時、葉月は顔を上げることができなかった。最後のお金を銭袋に入れて立ち上がる。


「いえ、お仕事中だったようなので、今日はこれで失礼します」


 なぜだろう。愛玲の顔が見られない。自分のみすぼらしい姿を見られたくない。早く、この場から立ち去りたい。

 結局、葉月は一度も顔を上げることなく、逃げる様に臨春楼を後にした。

 

 にぎやかな八大胡同を人波にもまれながら頼りなく歩いた。心臓がドクドクと激しいリズムを刻む。勢いよく流れる血液のせいで体中の血管までもが脈動しているみたいだった。おかしい。どうしてこんなに動悸が激しいんだろう。逃げなきゃ。早く、安全な場所へ――

 唇をかみ締めて駆け出したところで、「――待ってください」と呼びとめられた。

 

 その声を聞いた瞬間、背筋がこわばった。

 振り返りたくない。このまま逃げ去りたい。でも、ここで逃げたら負けな気がする。誰にとか何にとか、そんなのわからない。ただ、動揺した自分を認めてしまったらなにかが崩れる。そんな気がした。

 葉月は腹の底に力を入れて顔に笑みを作り、ゆっくりと振り返った。


「なんでしょうか?」


 目の前には紺色の長衣を着た刑部長管 湖聖仁こせいじんが肩で息をしながら立っていた。緋色の長官服じゃないことに疑問を感じたが、すぐに納得した。お忍びで妓楼に行くのに目立つ長官服を着ていくこともない。葉月の表情を見るなり、男は眉間にきつくしわを寄せた。わずかに視線を外して、言いにくそうに口を開く。


「さっきの事は……」

「大丈夫です。お忍びで行くくらいですから、それなりの事情がありますよね。今日見たことは忘れますので、安心してください」


 内心の動揺を隠して営業スマイルを浮かべる。湖聖仁は険しい顔を崩すことなくこちらを見た。


「神に誓って、他言はいたしません。だから、また牢屋になんて入れないでくださいよ」


 最後に冗談めかしてクスリと笑う。男はさらに眉をしかめて、不快感をあらわにした。

 あー、もう、冗談も通じないし。忘れてやるって言ってんだから、それでいいだろ。

 内心毒づきたいところをグッとこらえた。


「じゃあ、失礼します」


 笑顔のまま一礼して男に背を向ける。一歩、二歩。不自然にならないようにゆっくり歩きだしたその時、「――ハヅキ」と名前を呼ばれた。いつもならなんとも思わないよく通る低音の声に、なぜか嫌悪感からぞわりと肌が粟立った。


「私の名前は田葉月でんようげつです。その名前で呼ばないでください」


 想像以上に冷えた声が自分の口から出たことに驚いた。それでも振り返ることなく、葉月は歩き出した。


「――待って、ください」


 背後から焦った声がした。それとほぼ同時に、熱湯のように燃える手が葉月の手をつかんだ。男から漂う金木犀の甘く芳醇な香りが体に絡みつく。脳裏に濡れた瞳で男を見つめる愛玲の姿がよぎった。

 イヤだ。この匂い、この手の感触、この存在、すべてが――


「いやっ、さわんないで!」


 気づけば、葉月は絶叫とともに、男の手を振り払っていた。自分自身の行動に驚いて、思わずびくりと身をすくませる。ゆっくり視線をあげると、男は呆気にとられたようにこちらを見ていた。


「えっと……すみません。私、帰ります」


 濁流に飲まれた一葉のように心が翻弄された。このままだと自分を見失う。そう直感して、葉月は逃げるようにその場を立ち去った。


 大好きだったおばあちゃんの家。秋になると庭に植えられた金木犀の花から、甘い匂いがした。姉はトイレの芳香剤の匂いみたいでなんだか嫌だと言っていたけど、私は嫌いじゃなかった。だって、あれはおばあちゃんの匂い。大好きなおばあちゃんを思い出させてくれる懐かしい香りだったから。その思いに変わりはない。それなのに、今あの香りを想像しただけで吐きそうになる。


 胸の中をどろりとした感情が流れた。それは男がハヅキと呼んだ瞬間沸き上がり、そして手を触れた時に一気に増幅した。今だって、ちょっと思い出しただけで、胃の中をせり上がる。この感情に名前をつけるなら――


 八大胡同から泰京大街に出た。人の波に逆らうように内城に向かって歩く。その時、にぎわう大通りに歓声のようなざわめきが起こった。


「なに、あれ?」

「うそだろ。今日は十五夜のはずだ――」


 誰かの発した声に導かれるように葉月は顔を上げた。東の空に浮かぶのは煌々と光る満月。しかし、驚いた事に、その左上がわずかにかけていた。

 もしかしてこれは――


「……月食」


 そう呟いた葉月の言葉は、喧騒の中に消えた。




 《秋分花香 完》

※(改めまして)桂花=金木犀です

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