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この国の首都 泰京は大きな城壁に囲まれた街である。
七つの門に囲まれた内城の中心に皇城があり、その周りを囲むように政を行う官衙や官僚貴族の邸宅が並ぶ。さらに内城の南側には五つの門で囲まれた外城があり、こちらは主に一般庶民が住む下町となっている。
葉月は昨日男たちに説明された通り崇文門から内城に入り、迷いながらもなんとか礼部衙門に辿り着いた。ちなみに礼部というのは礼楽儀仗・教育・国家祭祀・外交・国家試験などを司掌している、現代日本でいう文部科学省のような所である。
「ここか……」
その部屋は活気ある礼部の建物の一番奥にあった。蜘蛛の巣がはった扉に、そこだけは毎日触られているのだろうドアノブだけが異様な光を放つ。埃をかぶって灰色に変色した立板にはうっすらと字が書かれていた。葉月は黒縁眼鏡を押し上げて、埃まみれの文字を確認した。
「呪術祠祭課。名前自体が怪しいんだよなぁ」
祠祭というのがすでに意味不明なのに呪術までついて、もはや怪しい宗教集団としか思えない。今すぐにでも逃げ出したい気持ちをなんとか奮い立たせて扉を叩こうとした矢先、それを察したかのようにドアが内側から開いた。
「ああ、子猫ちゃん、昨日はどうも。迷わなかった?とにかく、入って入って」
扉の奥から現れたのは昨日会った片割れ、眩しい笑顔の爽やかイケメン官吏だった。
子猫ちゃんって何なんですか……!?と突っ込みを入れる間も挨拶する間さえも与えず、イケメン官吏は葉月の背中を押して無理矢理部屋の中に入れた。
そしてそこに広がる光景を見て、葉月は本当に言葉を失った。
そこは八畳ほどの広さに机が三つあるだけの殺風景な物置部屋だった。
「あの……他に人は?」
「いるよ、ここに」
親指を突き立てて指された方を見る。そこにいたのは緑色の官吏服を着たぼさぼさ頭の男だった。といっても容姿年齢などは全くわからない。男は床に突っ伏して死んで――いや、寝ていたからだ。
「えっと、他には?」
「もうひとり祭司がいるけど今日は休み。っていうか、必要な時しか出て来ないから実質二人かな」
二人かな?なんて爽やかな笑顔で言わないでほしい。本当にここは何の仕事をしている所なんだ?
葉月の疑惑たっぷりな瞳など気にかける素振りもなく、イケメン官吏は床で寝ているぼさぼさ頭をげんこつで殴った。
「いでっ……」
「おい、之藻起きろ。空読み師が来たぞ」
「俺昨日も徹夜でしたから、もうちょっと寝させてください。空読み師さんはじめまして、では、おやすみなさい」
男に起き上がる気配はない。この埃だらけの床で寝られるのだから、自分以上に図太い神経をしているのだろう。
「あいつは鄭之藻。俺は高光啓、一応この課の課長。よろしく。で、君の仕事だけど――」
人好きのする爽やかな笑顔で高光啓と名乗った男が仕事内容を説明し出した。ーーが、当の葉月は「この人相当女子にもてるな」と全くもって場違いな事を考えていた。
なぜなら、この世界で恋愛なんてするつもりのない、ただ生きることに必死な自分でさえこの爽やかイケメンスマイルに乗せられそうになってしまったのだ。恋愛モードの若い女子はこの笑顔で一発ドキューンと心臓を撃ち抜かれるにちがいない。
でも……と葉月は思う。このまま相手のペースに流されてはいけない。それくらいの警戒心はこの一年で身につけた。
葉月は黒縁眼鏡を押し上げて「その前に」と口を開いた。まずは敵情視察、じゃなくて状況把握だ。
「この課って何をする所なんですか?」
「ああ、知らない?じゃあ、まずそこから説明しよっか」
そうして爽やかイケメン官吏ーーもとい高光啓はこの課について説明し出した。
礼部呪術祠祭課はおもに祭祀を行う課で、元は五十人ほどの大所帯だった。しかし、現王がとことん現実主義で呪術紛いの祈祭を毛嫌いしているため、現在は三人のみの幽霊課となったらしい。一応形式的に冬至祭、春分祭、夏至祭、秋分祭の四大祭祀は行うが、それ以外は全くといっていいほど仕事がない。
「こんな暇な所なんて内城広しといえどもないだろうねぇ。昼寝もし放題だし、こんなんで給金もらってるなんて幸せでしょ」
光啓はそう言って爽やかに笑った。
いやいや、幸せでしょって笑いますけどねぇ、要するにここは礼部の掃溜め課ってことなんじゃないですか?左遷の最有力候補なんじゃないですか?そんなに呑気に笑っていていいんですか?
と、喉まで出かかった言葉をなんとか飲み込んで、ずれた眼鏡を押し上げる。
「で、どうして内城一暇な閑古鳥が鳴いている課に私が呼ばれたんでしょうか」
「実はさ、去年の春分祭は散々だったんだ。祭祀中に突然暴風が吹いて、神火があわや王の所まで届きそうになって――」
そこまで言って光啓はげんなりした顔で中空を見つめ、そのまま固まった。
どうしたのかと葉月が心配になった矢先、その言葉を補うように、背後から訛りの混じった濁声が飛んだ。
「大官どもが慌てたのなんのって。俺なんて火を消すために桶を片手に走り回りながら、笑いをこらえるのに必死だったっつうの。あの大官どもの顔、今思い出しても笑いが止まらなくなるって」
振り返った先には、小柄な男が埃まみれの頭を掻きむしりながら立っていた。窓から差し込む日の光に当てられ、頭からは埃かフケかわからない物質がふわふわ浮いている。
「ああ、之藻、珍しく起きたのか」
「なんか面白い話してんなと思って――」
小柄な体躯に無精髭ぼうぼうという何ともアンバランスな容貌の男は、想像よりもずっと若かった。ぼさぼさの髪から覗く黒目がちな瞳が彼をさらに幼く見せていたが、微妙にやつれた雰囲気から察するにおそらく二十歳は超えているだろう。
「俺は鄭之藻、改めてよろしく。っつうか、お前ガリガリすぎねえか。ちゃんと飯食ってるか?」
葉月は思わず眉を寄せた。
初対面でいきなり体形批判か。たしかに、こちらの世界に来てからは、その日の飯にもありつけないような貧しい生活している。日本にいる頃はそれなりに気にしていたお腹の肉もすっかり落ちて、今ではあばら骨まで浮いている。でも、レディーに対して、年齢と体型に関してはタブーな話題だ。まあ、レディーといっても下の下の下を突っ走る葉月はさして気にしないが。
「ご心配ありがとうございます。お陰さまで、三度の飯にも困るような生活をしております」
棘を残しながらそう答えた葉月の横で、光啓がくつくつと喉を鳴らして笑い出した。
どうやら相当おかしいらしい。そして、葉月をかばおうなどという優しさはこれっぽっちもないらしい。そういえばこの人、昨日礼部長官に迫られた時も助けてくれなかった。事なかれ主義男決定。
笑顔だけは百点満点の事なかれ主義男にデリカシーゼロ男。さすが掃溜め課にいるだけある。どう考えても出世しなそうだ。
とりあえず、もうこの人達に遠慮するのは止めようと葉月はその場で決心した。
※※※ ※※※ ※※※
彼らの話を要約すると、葉月への依頼は二週間後に迫った春分祭の天気を予想してほしいということだった。
「暴風は避けたいんだけど、どうにかできる?」
「その前にひとつ質問したいんですけど、去年の春分祭は何時頃にやったんですか?」
「正午だけど?」
なるほど。と葉月は思った。それならば対応策はあるにはある。
「ちなみに、もし今年も暴風で火事が発生なんてことになったらどうなるんですか?」
「俺達の首は軽く飛ぶだろうねえ。ああ、それから昨日会った礼部長官も良くて左遷、悪ければ打首の刑かな」
打首の刑……。
葉月は深いため息とともに「――できないことはありません」と答えた。
刹那、光啓の顔がすうと真顔になった。わずかに冷えた声で「どういうこと?」と言葉を促される。
先ほどまで部屋に漂っていた気だるげな雰囲気が消えたことに体を強張らせたが、今更引き返すわけにもいかない。葉月は意を決して口を開いた。
「案はありますが、それを実行できる可能性は低いということです」
「実行できるかどうかはこっちで判断するから。それは君が気にする事じゃない。とりあえず教えてよ」
ああ、もう逃げ場はないな。
葉月は黒縁眼鏡を押し上げ、しっかりと男を見据えた。
「――時間をずらすんです」
簡潔に言い放ったその言葉は狭い部屋に殊更大きくこだました。