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「之藻さん、おはようございます。昨日月餅食べましたか?」
「んあっ?月餅?ああ、あれお前からだったのか。うますぎて夕飯代わりに全部食っちまったよ」
頭からふわふわとフケか埃かよくわからない物体を漂わせて、之藻は長椅子から体を起した。どうやら、昨夜も職場に泊まったらしい。いったいこの男に家はあるのだろうか。
「そういえば、この前、大丈夫でした?高課長に礼部裏まで来いとか言われた日。高課長ちょっと怒ってませんでした?」
「ああ、あれな……」
之藻は何かを思い出すように頭をかきむしった。と同時に、フケっぽいものがふわりふわりと飛んできて、葉月はとっさに壁際に移動した。
頼むから、頭を掻くのだけはやめてくれ。
「実はな、あれから、眉山でのことを詳しく説明させられてよ。お前が、刑部長官に背負われて山を降りたって話までさせられた」
「えっ!?湖長官に背負われたことまで話したんですか?」
あれは、完全に之藻さん達が見捨てた結果じゃないか。いうなれば、生贄だ生贄。
「……で、どうなったんですか?」
「別に喧嘩したわけでも、怒られたわけでもない。仕事をちょこーーーっとだけ増やされたくらいだ」
「それは、よかったですね」
「全然よくねえ」
間髪いれずにつっこまれた。
別にボコボコに殴られたわけでも、罵られたわけでもないんだから、よかったじゃないか。
そう言いたいのをぐっと飲み込んでいると、之藻が大欠伸をして立ち上がった。
「あー、眠い。とりあえず、仕事行ってくる」
「えっ?仕事って、どこに行くんですか?」
扉に向かった之藻が振り返った。物言いたそうな目でじーっと見つめられる。
もしかして、もうひとつの仕事とやらに行くんですか?なにしてるか、実はすっごく気になってたんですけど、教えてくれるんですか?
ちょっと期待を込めてニコリと笑うと、ため息とともに「――阿呆女には教えねえ」と吐き捨てられた。
……また阿呆女って言われた。そして、やっぱり教える気はないんですね。まあ、でも、大体こういう話は聞いてよかったためしがない。知らぬが仏。パートはパートらしく与えられた仕事だけこなします。
葉月は諦めて書類の並んだ棚に向かった。今日はたまった書類の分別をする。必要な書類は高課長に渡して、どうでもいいのは雑紙へ――
ふんふん鼻歌を歌いながら、紙をめくっていると、
「あー、人間完璧すぎると逆を求めるものなのかよ。ぜんっぜん理解できねー」
と、之藻が捨て台詞を吐いて、部屋を出て行った。
なんなんだ!?こっちが全然理解できねーっつうの。
内心突っ込みながら振り返ったが、之藻の姿はすでになかった。しかし、時をおかずしてすぐ、開けっぱなしの扉に驚くほどの巨体が現れた。
「空読み師殿、秋分祭の天気はどうなりそうだね」
葉月は思わず二度見した。
兵部長官、昨日の今日でまた来たんですか!?一週間後に来いって言ったの、聞いてなかったんですか!!!
「ですから、季節的に晴れる確率は高いですけど、どうなるかは一週間後じゃないとわかりません」
「それでは昨日と変わっていないだろう」
「すみませんが、そんなにすぐには変わりません」
一週間後に来いって言ったのに。だからこの手の二者択一タイプは苦手なんだって。話し全然聞かないんだもん。
「いやー、娘がな……」
そして、二言目には娘と来る。親ばかも程々にしてあげないと、娘さん婚期逃しちゃいますよ。もしかして、娘が結婚なんて言ったら、そんなどこの馬の骨ともわからんやつに娘はやれないとか言って、ちゃぶ台ひっくり返すタイプですか?
「娘さんのことを思えば、はやる気持ちは十分にわかります。私も空に何か変化があったら、真っ先に伝えに行きますので、とりあえず……」
一週間後なんていったら、面倒なことになりそうだ。
「明後日また来てください」
「わかった。娘の新しい襦裙を作らくてはならないゆえ、少しでも早く天気が知りたい」
わかりました。と言って、葉月は縦にも横にもでかい兵部長官を扉の外に押しやった。数々の武勲をあげて兵部長官に任命されたと聞いたが、今この親父から娘を取ったらいったい何が残るんだろう。
深く礼をして見送っていると、廊下の先で兵部長官が振り返った。
「ところで、襦裙は何色がいいだろうか」
そんなの知らんっつうの!
※※※ ※※※ ※※※
そんなこんなで忙しい日が過ぎた。相変わらず之藻は別件の仕事でほとんど呪術祠祭課にいない。光啓はあっちもこっちもで忙しそうだ。結局、秋分祭の細々した雑務は葉月がやっていた。
「これってパートの域を完全に超えてる。値上げ交渉でもしようかな」
天気の観測のために、礼部脇で空を見上げる。秋晴れの空を乾いた風が吹きぬけた。今年は夏の暑さの影響か秋になっても高温が続いていた。それでも、空は日増しに高くなり、風は日増しに乾いてきた。
うーんと背伸びをして爽やかな秋晴れを堪能していると、風に乗って焼いた芋の香ばしい匂いが漂ってきた。どうやら焼き芋屋が近くにいるようだ。
「あー、いい匂い。お腹すいてきたなぁ」
天高く私肥える秋。どうにもこうにも食欲が止まらない。最近ちょっと下っ腹が気になってきた。やっぱりここは我慢。……って無理だよ。女子にとって芋栗南瓜ははずせない。
「やっぱり、買いに行こう」
葉月は匂いの先をたどるように歩き出した。数分歩いて崇文門が見えたところで、天秤棒を担いだ流しの焼き芋屋を見つけた。
「すみませんが、ひとつください」
「はいよ。蒸したてほかほかだからうまいぞ」
「うわー、うれしい」
代金を払って熱々の芋を受け取った葉月は、手で転がしながらその場で一口頬張った。
「あつっ、ほふっほふっ……」
芋のうまみが口いっぱいに広がる。あー最高においしい。やっぱりこういうのはできたて熱々を食べるのが一番だ。家に帰ってからゆっくり……と思って持ち帰って、すっかり冷え切った芋を食べた時の残念感といったらない。
そんなことを考えながら、もう一口頬張ったところで、頭上から鳥の鳴き声が聞こえてきた。
クワンクワワン クワンクワワン
見上げれば、雁がV字形に隊列を組んで北から南へ飛んでいた。
「おや、今年は雁の渡りが早いな」
焼き芋屋のオヤジが呟いた。
「早いんですか?」
「ああ、いつもの年なら秋分が終わってから初雁が渡ってくるもんだ」
雁のような渡り鳥は越冬のために秋になると北の国から渡ってくる。その雁がいつもの年より早く渡ってくるということは――
「あっ、やっぱりお芋、後三つください」
とりあえず、ダイエットは明日から。なんて名言なんだ。
※※※ ※※※ ※※※
葉月は追加で三つも買った芋を抱えて、崇文門から礼部衙門までの間をあてもなく歩いた。せっかくだから、散歩しながら食べようと思ったのだ。
礼部衙門は内城の中でもどちらかというと外城寄りにあって、辺りは人通りも多くにぎやかだ。学問や外交を扱う部署のため、異国風の人や学生風の人もいて、さながら大学街の様な開放的な雰囲気がある。
「そういえば、礼部の裏なんて行ったことないんだけど、何があるんだろう」
探検気分で裏側に回ると、そこは草地になっていた。人目につかないその場所は小さな公園のようになっていて、鉄や石でできたいくつかのオブジェがあり、奥に小さな建物があった。
「礼部裏にこんな場所があったなんて知らなかった。せっかくだから、ここで食べようっと」
どこに座ろうかと、焼き芋を手にぐるりと見渡した葉月は真っ青な空の下、肩を寄せ合いながら俯き合う二人の男に気がついた。ひとりは藍色の官吏服を、もう一人は緑色の官吏服を着ている。
ちなみに、この国では衣の色で階級が分かれる。緑色が一般官吏で、藍色は高級官吏。緋色はもちろん最高級官吏つまり長官のみが着られる。いずれも正式には青黒色の羅紗でできた烏紗帽をかぶらなければいけないのだが……
二人ともかぶっていない。もしかして、あの二人って――
「高課長に之藻さん?」
葉月の声に驚いた二人が同時に振り返った。
「おっ……おう、葉月、なんでこんなところに来たんだよ」
勢いよく立ち上がった之藻が、両手を鳥の羽根の様にばたつかせた。
なんだかすごく動揺してますね。もしかして、もうひとつの仕事の最中ですか?って、真面目に聞いても答えなさそうだな。ここは冗談で返してみよう。
「まさか、二人ってそういう関係だったとか?」
冗談まじりにそう言うと、只今絶賛動揺中の之藻の隣で、光啓が肩を震わせて笑いだした。
えっと、つっこみは……なしですか。って、マジな話じゃないですよね!?女子にモテモテの爽やかイケメンがそっち系とか、腐女子の皆さまが泣いて喜びそうな設定ですけどまさかの坂ですよね。
之藻が必死で両手を広げる後ろには大きな石像のようなものがあった。その隣には青銅でできた丸いオブジェもある。
あれ?あの、丸いやつ、どこかで見たことがあるな。もしかして――
「……天体観測?」
黒縁眼鏡を押し上げて目を眇めると、之藻がぎくりと肩を揺らした。
「いや、ちょっと話をしてただけで……。って、光啓さん何ずっと笑ってるんですか。とりあえず、さっきのところはちゃんと訂正しましょうよ。きっと、こいつ変な誤解したままっすよ」
変な誤解というのは『二人はそういう関係?』と言ったあの部分のことだろう。そうに違いない。そうであってほしい。
懇願を込めて二人を交互に見る。すると、うつむいて肩を震わせていた光啓が数歩体を横にずらした。
そこには大きさ一メートルくらいの地球儀のような丸い金属性のオブジェがあった。外側をひとつの輪が覆い、それに直交するようにさらに二重の輪が掛けられている。葉月はその奇妙なオブジェを昔、地学の本で見た事があった。
名前はたしか……、地球儀じゃなくて、天球儀でもなくて、
「……渾天儀?」
確認するようにつぶやいた瞬間、之藻の顔から色という色がすべて消えた。
「光啓さん、こいつ……」
「だからこの前言ったじゃん。葉月だったらきっと気づくって」
「いや、でもまさか渾儀まで知ってるなんて」
「俺のあの質問に正確に答えたんだよ」
「ああ、空の際はどこだ――ってやつですか。でも、だからって。あー、もう面倒になってきた」
そう言って之藻は頭をガシガシとかいた。
えっと、なんだかよくわからない会話をしてるんですけど、いったい私は何を見ちゃったんでしょうか。空の際って、もしかして七夕の時に高課長に何気なく聞かれた『空の際ってどこだと思う?』っていう、あの質問のことでしょうか。たしかあの時、空の際は無限だって答えましたけど、それと今のこの状況とどういう関係が……
狐につままれたように葉月は茫然と二人を見るしかなかった。