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ソラヨミシ  作者: こでまり
5.光輪
36/63

5

 失礼……じゃないと思うんだけどな。私だったら、熱出してうんうん唸っている時に、どうでもいいやつに見舞いになんか来てほしくない。気を使うくらいだったら、ひとりで寝ていたい。


 葉月は西瓜の乗った皿を手に、帳の前で立ちつくしていた。


 西瓜だけ置いて帰ろうと湖家の門を叩いた葉月に、現れた侍女 可欣かきんはにわかに慌て、顔だけでもいいから見ていってください、と無理やり葉月を家の中に引きずり込んだ。


 普段、無表情な侍女が必死な顔で懇願してくるって、この家の主人はどれだけ恐ろしいんだ。そんなことを思いながらも、どうにか帰る方法を考えていた葉月に、可欣は一口大に切った西瓜を渡した。


「旦那様をよろしくお願いします」


 戦場に行く兵士を見送るような鬼気迫る顔の可欣に、色々つっこみたいところではあったが、葉月はおとなしく四合院しごういんの最奥にある家主の寝室に向かった。

 可欣には悪いが、西瓜を置いてさっさと帰ろう。そういえば、この部屋に入るのって初めてだ。ちょっと緊張するな。


「――長官」


 帳の前で呼んでみたが、声は聞こえない。恐る恐る帳を開け、部屋の中をぐるりと見回した。赤や黄色で彩られた豪華絢爛な部屋を想像したが、意外にも落ち着いた色で統一された室内になぜかほっとして、足を踏み入れる。寝台に視線を移せば、横になっている男の足が見えた。


 ……寝てる?


 音を立てないように寝台に近づく。湖聖仁こせいじんは白地の内衣だけを身につけて――正確に言えば、腰紐から下はしっかり見につけていたが、上半身は半分衣を脱いだ状態で――寝ていた。綺麗な弧を描く眉は今は苦しそうに歪められ、すっと伸びた首筋には玉のような汗が浮かんでいる。ほどよく筋肉のついた胸から腹のラインが男の呼吸に合わせて波打つ様を思わずじっと見つめてしまった葉月は、急に襲ってきた羞恥心に顔をそむけた。


 ちょっと、薄着すぎでしょ!目のやり場に困るんですけど。いや、その前に、病人目の前に、なにじっくり見て、恥ずかしくなってんのよ。

 鼓動を速めながら、葉月は男の方を見ないようにして、寝台脇の袖机に西瓜の皿を置いた。可欣さんに状況を伝えて帰ろう。そう思った矢先――


「ハッ……」

 

 寝ているはずの男がうわごとのように何かをつぶやいた。自分が呼ばれたような気がして振り返ったが、男は瞳を閉じたままだった。眉間には大きな皺が寄って、先ほどよりも苦しそうに見える。

 ――長官?と名前を呼ぶと、切れ長の瞳を彩る長い睫毛がひくりと動き、ゆっくりと持ちあがった。現れた漆黒の瞳が潤んでいるのは熱のせいだろうか。いつもの冷たさを感じない。


「ハ……ヅキ?」


 だから、その名前で呼ばないでください。そう言おうとして顔をしかめた瞬間、葉月の体は強い力で寝台に引き寄せられていた。


 えっ……?


 葉月の思考は急ブレーキがかかったかのように、突然停止した。頭が真っ白で何が起こったのか理解できない。肩に回った手が微かに震え、頬にあたった胸が激しいリズムを刻んでいることだけはわかった。


「……無事、だったか」


 喉の奥から絞り出された掠れ声に、ようやく思考が戻った。

 無事?って、それはこちらが聞きたい台詞ですけど、夢でも見てるんですか?熱で意識が朦朧ですか?って、ちょっと、この人、体、熱い!

 

「長官、すごい熱じゃないですか」


 勢いよく起き上がれば、湖聖仁は呆けた顔で瞬きをひとつした。

 まだ夢から覚めてないって顔ですね。今抱きしめましたけど、意識混濁中の不可抗力ってことでいいんですよね。そう思わないと、心臓いくつあっても足りそうにありません……


「風邪ひいたって聞いたんですけど、大丈夫ですか」


 極力見ない様にして尋ねれば、湖聖仁はため息とともに「夢か……」とつぶやいた。


「どうしてあなたがここに?」

「呉長官から熱を出したって聞いて、見舞いの西瓜を届けに来たんです。可欣さんに切り分けてもらって持ってきたんですけど、すみません起こしちゃって」

「足は……よくなりましたか」


 足って、この前ひねった所のことだろうか。


「もう完治しましたよ。この通り、痛みも全然ありません。長官こそ大丈夫ですか」

「……全く問題ありません」


 目も開けられないくらいぐったりしながらそんなこと言われても、説得力ないんですけど。それにしても、額の汗、すごいな。このままでいいのかな。衣も汗ばんで……っていうか、ほぼ半裸だし。やっぱり、無理だ、服だけはちゃんと着てもらおう。


「あの、そのままだと体が冷えてしまいそうです。着替え持って来ましょうか」


 薄眼を開けた男が、わずかに頷いたことを確認して、葉月は長椅子に置いてあった内衣を持ってきた。


「ここに置いておきますから、着替えてください。私、濡れた毛巾タオルでも持ってきます」


 葉月は駆け足で部屋を出て、可欣から濡れた毛巾タオルをもらった。状況を言ったら薬湯を渡されたので、それを持って部屋に戻った。着替えた男が毛巾タオルで顔や首を拭くのを確認して、薬湯を飲ませた。その間、ほとんど無言だったが、思ったほど沈黙はつらくはなかった。いつもの鋭い視線がなかったからかもしれない。弱った死神は怖くない。普段もこれくらい素直だったらいいのに――

 服を着たことで安心して男の寝顔を見る。憔悴したその様子に、急に罪悪感が湧き上がった。


「私の、せいですよね。雨の中私を背負って山を降りたから。すみませんでした」


 どうせ聞こえないと思って囁くと、男がそれに反応するように唇を動かした。ほとんど聞き取れなくて、えっと聞き返す。すると、男は目を開けて口の端を少しだけ持ち上げた。


「だったら、褒美のひとつでもください」


 褒美?もしかして、これはいつもの皮肉……なのか?弱った死神の皮肉、わかりにくすぎる。力なく崩れた笑いが、ちょっとだけかわいいとか思っちゃったし……って、なに考えてるんだ。これって病気マジック!?

 一瞬、パニックになりかけた葉月だったが、気を取り直して、黒縁眼鏡を押し上げた。


「わかりました。じゃあ、目を閉じてください」


 一瞬瞠目した男だったが、素直に目を閉じた。


「ご、ご褒美です」


 なんだよこの羞恥プレイ。そう思いながら、葉月は男の口元に近づいた。


「口、開けてください」


 長いまつげを微かに揺らし、濡れた唇を薄く開けたその姿はあまりにも無防備で、腰のあたりにざわりとした甘い痺れを感じた葉月は、その正体を脳が正しく理解しないうちに、勢いをつけて男の唇にくっつけた。赤く色づいた瑞々しい、――西瓜を。


 しゃりっと西瓜をかじった男が、薄目を開けた。


「甘いですか?」

「……ええ」

「ご褒美です」


 したり顔でにっこり笑う。湖聖仁は物言いたそうに瞳を眇め、そのまま思考の闇に戻るようにすうと瞳を閉じた。微動だにしなくなった男に、再び眠ってしまったのかと葉月が拍子抜けした、次の瞬間、男は西瓜をつまんだ葉月の手首を片手でつかむと、葉月が驚く暇もないくらいの速さで、指ごと残りの西瓜にかぶりついた。


「なっ!!!」


 西瓜を掴んだ手を離そうとしたら、逆に口の中に引き込まれた。そうして、最後の一滴までおいしそうに西瓜を咀嚼した男は、ついでに葉月の指を付け根まで丁寧に舐めて、壮絶な色気を含んだ瞳で微笑んだ。


「ご褒美、おいしく、いただきました」


 おいしく、いただき……って、


「何してるんですかーーー!」

 

 顔を真っ赤に、それこそ茹蛸のように真っ赤にして葉月は椅子から立ち上がった。つかまれた手を離そうとぶんぶんと振るが、離れない。

 弱ってくるくせに握力強すぎだし、全然離れないし。絶対に反応見てからかわれてるし。とりあえず、冷静にならなきゃ。

 葉月は椅子に座り直して、深呼吸した。


「病人なんだから、おとなしくしてください」

「わかっています」


 でも、この手は離さないんですね。

 葉月は諦めて、腕の力を抜いた。


「さっさと寝てください」


 わかりました。そう言って、湖聖仁は一旦手を離し、そして今度は手のひらを重ね合わせるようにして葉月の手を柔らかく握った。


「あの、私はどうすれば……」

「私が寝たら帰ってください」

「じゃあ、早く寝てください」


 仏頂面で視線をそらせば、「冷たいですね」と男がつぶやいた。

 ……なんですと?かなーり優しくしたつもりですけど。


 つんと鼻を上に向けて開けっぱなしの窓に視線をやる。蝉の声に交じって、かすかに秋の虫の音が聞こえてきた。暑い暑いと思っていたが、季節は確実に移ろっている。

 

「……本当に、無事でよかった」


 虫の音に紛れて聞き逃してしまいそうなその声は低く掠れていた。切なさを帯びた声音に、胸がきゅっと締めつけられた。

 もしかして、眉山でのことを言ってるのかな。


「私は無事です。ぴんぴんしてます。それよりも、人のことはどうでもいいんで、病人は病人らしく、自分がよくなることだけを考えてください。ちゃんと、安静に寝てくださいよ!」


 思ったより語気が強くなってしまったことに、急に不安になって、こっそり寝台を見ると――

 男は切れ長の目を細めて、とろけそうな甘い笑みを浮かべていた。


 ちょっ…ちょっと、なに、そのうれしそうな笑い。なに、赤くなってんのよ、私。それよりも、やっぱりこの男、ドМか!?……いや、そんなわけはない。これはただ弱ってるだけだ。でも――、弱った死神は案外悪くないな。この際だから、ずっと、ずっと、ずぅーーーっと熱が下がらなきゃいいのに。


 寝息が聞こえてきたのでわずかに手を引いてみたが、握られた手が離れることはなかった。葉月は諦めて、作り物のように整った、それでいていつもより陰を帯びた寝顔を眺めた。


 「早く、よくなってくださいね」



※※※ ※※※ ※※※




 空が秋の気配を感じさせたその日、葉月は埃まみれの扉を開けた。


「お久しぶりです。って、誰もいないか」


 久しぶりに訪れた八畳ほどの物置部屋をぐるりと見回して安堵の息を漏らす。人がいないことをいいことに、そそくさと部屋に入った葉月は、袋から細長い物体を取り出して、机の上に載せた。近くにあった、筆を手に取る。


「気圧計、かなり正確に測れました。これで秋分祭の天気もばっちり当てられますよっと。これでいいかな」


 葉月は呉桂成にパート(?)の打診をしつこくされて渋々ここへ来ていた。どうやら本当に人手が足りないらしく、一月ひとつきでいいから手伝ってほしいということだったが、これ以上面倒事には首を突っ込みたくなかったので、直接断りに来たのだ。とりあえず、がんばってください。とでも書いておこう。

 そう思って筆を持ち上げた瞬間、部屋に爽やかな香りが舞い込んだ。


「葉月、無事だった!?」


 もしかして、この声は――

 筆を片手に振り返れば、そこには日に焼けた端正な顔があった。


「高課長!帰ってたんですか?」

「うん。昨日ね。それよりも、葉月が山で遭難したって聞いて心臓が止まるかと思ったよ。大丈夫だった?怖かったでしょ」


 心配そうに覗きこまれて、思わずドキリとした。小麦色に焼けた顔が精悍さを増し、下顎に生えたひげがワイルドさを加えている。


「……って、ひげ!?」

「ああ、これ?どうせ内城に出仕しないからって、ちょっと伸ばしてたんだけど、変かな」


 いえ、変じゃないです。っていうか、イケメンっぷり、上がってます。垂れ目と顎ひげのバランス絶妙すぎます。でも、二ヶ月前と別人みたいで、ワイルド系の免疫なんてゼロどころか、マイナスなんで、近づけません。


 首を左右に振りながら後ずさると、すぐに壁に背中がついた。もう逃げられない。そんな葉月を追い詰めるかのように、光啓はにっこり笑いながら近づき、その逃げ場を奪うように両手を壁につけた。甘い瞳に見下ろされる。


「元気そうで安心した。ところで、ひげは嫌い?」

「いえ、いいと思います」

「その割には逃げるね」

「あの、ひげ男子の免疫はないんです」

「之藻も生やしてるけど?」


 ああ、之藻さんもひげ男子か。って、あれはイケメンからは限りなく遠い、ただの無精ひげだ。第一、清潔感が……。その前に、距離近い。とりあえず、逃げたい。


「高課長、いきなりこの距離は、近すぎだと思うんですけど」


 動揺しながら視線を彷徨わせれば、光啓はくすくすと笑って葉月を包囲する腕をはずした。


「まあ、どうせ出仕するようになったら剃ろうと思ってたんだけどね。それよりも、葉月がここにいるってことは、もしかして、手伝ってくれるっていう話、本当?」


 いえ、嘘です。

 男に見つめられながら、葉月は首を小さく左右に振った。

 

「すっごい助かるよ。俺もずっといなかったから、仕事がたまりっぱなしで。昨日呉長官から話を聞いたときは正直ほっとしたよ」


 いえ、それを今断ろうと思ってたんです。

 今度ははっきりと首を振った。おそらく、気づいているだろうにそれを完全に無視して、男はこげ茶色の髪をかき上げてにっこりと笑った。


「要領は前と同じだからさ、気楽にやってくれていいから。よろしくね」


 いえ、よろしくありません。って、なんだか全然断れる気配がしないんですけどーーー。

 一言も発しないまま、葉月はその場でブルブルと首を大きく振った。


――翌日、緑や藍の官吏服が行き交う礼部衙門に、土色の短装を身にまとった小柄な人物が、黒縁眼鏡を押し上げながらくるくると駆けまわっていた。




《光輪 完》

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