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たしかに彼だった。しかし、笑うと糸のようになる優しい瞳が、今は感情の読めない険しい瞳に変わっていて、ぱっと見同一人物に見えない。
トイレって感じじゃないし、道に迷った気配もない。むしろ、はっきりとした意思を持ってどこかに行くような。もしかして、何か緊急の事態が発生して下山するのかな。でも、そういう時って、誰かに声をかけて行くよね。
訝しみながら男の後をついて行く。はじめ下っていた山は、いつの間にか上りに変わっていた。これはもしかしなくても戻ったほうがいいのでは……。そう思って、振り返ったが、濃い霧に包まれた山の中ではいったい自分がどちらから来たのかもわからなかった。
駄目だ。ひとりで戻ったら、確実に遭難する。とりあえず、宋健さんについて行くしかない。こんな事になるんだったら、之藻さんにちゃんと言ってから来ればよかった。って今更か。
しばらく歩いたところで、宋健が突如立ち止まった。そこは――
断崖絶壁の崖だった。
まっ、まさか、自殺?あんな癒し系の顔して、実は何かに思い悩んでたとか。いや、癒し系の人も悩むことはあると思う。むしろ、おとなしそうな人ほど内に溜めるタイプで、爆発すると大変だったりする。うん。とりあえず、声をかけたほうがいいのは確実だ。
ひとつ頷いて、足を踏み出したところで、宋健の顔に光が差し込んだ。光の先、山の稜線に目を向ければ、霧の向こうで太陽の光が辺りを薄明るく照らしていた。
ああ、日の出だ。
なぜだかほっと胸をなでおろしたその時、
「――お前達!」
と辺り一帯にドスの利いた声が響き渡った。
「金目の物を置いて、ここから立ち去れ。さもなくば呪い殺すぞ」
声はまるで山びこのように、緩やかな稜線を描く山々に響き渡った。声の主は――
今まさに葉月の目の前にいた。
うっ、うそーーー。もしかして、私、妖怪の犯人見ちゃってます?まさかまさかの身内が犯人ってどういうこと!?とりあえず、之藻さん達に知らせなきゃ。というか、ここから逃げなきゃ。
葉月は息もつけないほど驚きながら、足だけを後ろに動かした。しかし、元々慣れない獣道だ。視線を宋健に据えたまま後ろ足で歩いていた葉月は、ぬかるみに足を滑らせ、ずるりと転んだ。
「うわっ!」
咄嗟に声が出て慌てて口を押さえる。糸のように釣り上がった瞳がゆっくりとこちらを向いた。
「誰ですか?ああ、空読み師さんでしたか。どうして、こんな所に?もしかして、私の正体に気づいていたんですか?」
いいえ、トイレに行っただけです。
ブルブルと首を横に振って否定する。
「ひとりで来たんですか?」
ぶんぶんと首を縦に振る。
「そうですか。まあ、見られてしまったのなら、しかたないですね」
宋健は口に笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてきた。逃げたくても恐怖で体が動かない。葉月は唯一動く口を必死に動かした。
「あの、どうしてこんなことを……」
「どうして?もちろん金が必要だったからです」
「でも、あなたは国家官吏で、お金になんて困っていないんじゃ……」
「普通に使っていれば、困りませんね」
「じゃあ、何に?」
「そんなこと、事細かにあなたに説明して、どうなるんですか?」
確かに、どうにもならないです。でも――
「もしかしたら、何か助けられることが、あるかもしれない……じゃないですか」
得体のしれない怖さに声が震えた。人形のように貼り付けた笑みを浮かべていた宋健が、突如喉を震わせて笑いだした。
「私はね、結構君のことを気に入っていたんですよ。知っていましたか?」
いいえ、知りませんでした。それよりも、宋健さん、マイナスイオンたっぷりの癒しオーラはどこにいっちゃったんですか?何かに取り憑かれたみたいに、狂気じみてるんですけど。
「子供のころから血のにじむような勉強の末、ようやく官吏になれたと思ったら、次は選良意識の強い官吏の中で常に出世争い。いつになっても競争競争で気が休まる暇もない。妻は自分の地位にしか興味はなく、たいした才能もない私は今の場所を確保するのに必死で、いつしか心がすり減っていたんです。そんな時に、あの人は現れた。そして、私の疲れ切った心を癒してくれた。だから、彼女のためならと、自分は、自分は……」
宋健は俯いて肩を震わせた。
えっと……つまりは、女にお金を使ったということでしょうか。なんだか、日本でも似たような話を聞いたことがあります。
「だったら、それをそのまま呉長官に話してみたら……」
言葉を最後まで言わないうちに、「無駄だ!」と宋健が金切り声を上げた。
「あの人は能力のない者には見向きもしない。どうせ、このまま官吏は続けられないとわかっている。南方へ逃げる手筈もすでに整えているんだ。だから、これで最後だった。それなのに、最後の最後で君に見つかるなんて――」
宋健が顔を上げた。と同時に、糸のような瞳がくわっと見開き、その勢いのまま葉月めがけて突進してきた。殺気に満ちた双眸に全身を緊張させた瞬間、宋健は片手で葉月の喉頸を押さえた。
「君みたいに能力がありながらも、地位なんていりません、自由に生きたいんです。っていう人間が私は一番嫌いでね」
えっ?さっき、私のこと気に入っているって言ってませんでしたっけ?その前に、苦しい。私、もしかして殺される?嫌だ。いつかは死ぬ日が来るかもと思ってたけど、こんな山奥で死ぬなんて嫌だ!
眼鏡の奥から瞳だけで必死に訴える。すると、首を絞める手が緩んだ。急に開放されて、すっと入ってきた空気に激しくむせる。視線を元に戻すと、宋健が目を細めて不気味に笑った。
「運がよければ、誰かが見つけてくれるかもしれませんね。まあ、その頃には私はすでに船の上ですけど――」
そう言って、宋健はいまだむせ続ける葉月を腰ひもで木に縛り付け、肩にかけていた手拭いで口をふさぎ、頭の後ろで縛った。
なっ、何するんですか!?まさか、木に縛りつけて、そのまま放置?そんなの嫌だ!
眼だけでそう訴えると、宋健は愛しい者でも見るようにその瞳を和ませた。
「君のその丸い瞳、ちょっとあの娘に似ているんですよ。だから、生かしておいてあげます。じゃあ、頑張って。助けが来るように、神様に根性で祈ってくださいね」
クスリと笑って、男は去って行った。
うそでしょ……。まさか、ここで木に縛りつけられたまま死ぬとか!?この世界に来てから絶体絶命のピンチは何度もあったけど、これは本気でヤバい。九割九分見つからない。どうしよう、どうやって助けを……
「うー、うー」
声は出ないし、体も動かせない。宋健さん、私のことほんのちょっとでも気に入ってくれたんだったら、もう少し助かる可能性を残してくれてもよかったんじゃないですか。殺されなかっただけましなんだけど。
ふいに先ほど喉を絞めつけてきた宋健の顔が浮かんだ。あれは確実に殺す眼だった。そう思ったら、急に体がガタガタと震えだした。
怖かった、怖かった、怖かった―――。でも、まだ怖い。ああ、神様、お願いします。どうか、助けてください。神棚絶対に作りますから、これから毎日拝みますから。どうか、神様、どうか、神様―――
「はいはい。今助けるぞ」
か……神様?
「はいはい。ちょっと待ってくんなされ」
えっ、本当!?
唯一動かせる目でぐるりと辺りを見回すと、突如、目の前に腰まで届きそうな白髪と、同じく長い白髭を湛えた老人が現れた。
神降臨!?っていうか、この人本当に大丈夫な人?まさかまさかのマイナスイオンさんが妖怪犯だったから、どんな人も恐ろしく見える。
警戒を露わにする葉月に、老人は笑いながらコキコキと首を鳴らした。
「安心しなされ。わしはこの近くに住んどる者じゃ。怪しいもんじゃない。山菜でも採りにと思って出かけたら、人が木に縛りつけられとるんじゃ。たまげたぞ」
山菜の入った籠を見せながら、老人は口を開けずに、ふぉっふぉっふぉっと笑った。
「とりあえず、この紐を外してやる。ちょいと待ちなされ」
老人は葉月の背後に回って、拘束する紐を解いた。
「ほれ、もう大丈夫だ。どうしてこんな所に張りつけられておったんじゃ?もしかして、今流行の痴情のもつれってやつか」
呑気に笑う老人を前に、葉月の体はなぜかわからないが、大きく震えだした。
「あっ、あっ、ありっ……」
ありがとうと言いたいのに声にならない。白髪の老人はそんな葉月の背中を優しく撫でた。
※※※ ※※※ ※※※
「ほれっ、これはどうじゃ?」
「いだっ」
「これは?」
「いだだっ」
滑った時に足をくじいたらしい。まともに歩けなかった葉月は、木の枝をつきながら近くにあるという老人の草庵に行って、薬草で作ったという塗り薬を塗られていた。
「ふむ。まあ、動かさなければ、二、三日でよくなるじゃろう。さすがに今日山を下るのは無理じゃ。ここで一晩明かしたらいい」
七十歳くらいにも見えるし、九十歳くらいにも見える。年齢不詳の老人は、老いを感じさせない機敏な動きで湯を沸かし、とれたての山菜を茹で、葉月の前にぽんと出した。そこでようやく葉月は自分が昨夜から何も食べていないことに気がついた。ぐうと鳴る腹の虫に負けて「すみません、いただきます」と言えば、老人は口を開けずに笑い、甕から汲んできた濁った酒を飲み始めた。
「一緒に飲むか?」
「足が痛いので、止めときます」
「なんだ、残念じゃの。最近は訪ねて来る者もおらぬ。もっぱら酒の相手は月に照らされた自分の影くらいでの」
そう言って老人は濁り酒をぐびぐび飲みだした。こんな昼間から酒かと思ったが、この老人にとっては時間など関係ないのだろう。
「おぬし、どこから来たのじゃ」
「えっ、どうしてですか?」
「言葉も雰囲気も何か違う」
葉月は一拍置いて考えた。どうせ、明日になったら別れる相手だ。
「実は、こことは違う世界から来ました」
驚かれることを想定したが、意外にも老人は相好を崩して、ふぉっふぉっふぉっと笑うだけだった。
「驚かないんですか?」
「実はそうじゃないかと思っておった」
「ええええっ!」
それって、どういうことですか?異国人っていう意味ですか?それとも、まさか……異世界人?
驚く葉月の前で、老人が酒をぐいっと飲んだ。
「昔会ったことがある。異世界人とやらに」
「異国じゃなくて、異世界ですか?」
「ああ、異世界人と言っておった。まだ、わしが下界におった頃じゃがな」
下界って……完全に仙人の域に達している。
「お主と同じような、珍妙な形をした眼鏡をかけておった」
この国には基本的に眼鏡を作る高度な技術はない。現在ある眼鏡はほとんど西域からの渡来品だ。そのせいで、この世界に来た時はずいぶん驚かれた。異国から来たと言ったらあっさりと納得してもらえたけど。
「その人は、元の世界に帰れたんでしょうか」
興奮から半身を乗り出して老人に訪ねる。老人は長い顎鬚をくるくると指に絡めながら「――はて」とつぶやいた。
「忘れてしまったわい」
がくっと音が出るくらいの勢いで葉月は肩を落とした。
すっごい有力情報のはずが、忘れたの一言で終わってしまった。でも、それでもこの世界に来て初めての異世界人情報だ。
「あの、その人について何か覚えていることはありませんか?」
「そうじゃの……」
そう言って、老人は草庵から見える森に目をやった。
「ああ、そういえば。そいつはある日、この世界に来た意味を見つけたと言っておったな」
この世界に来た意味を見つけた?
「それって、どういうことでしょう」
「はて。忘れてしもうたわい」
そう言って、老人は口を開けずにふぉっふぉっふぉっと笑いだした。
なんだか三歩進んで二歩下がる会話だけど、それでも十分だ。自分以外にもこの世界に来た人がいたってことがわかっただけでも、大きな前進だ。
「おじいさん、出会えてよかったです。あの、お酌させてください」
「おお、すまんの。若い息子ができたみたいで、うれしいぞ」
……息子。女ですけど、もういいです。
「おい、息子。おぬし歌か踊りはできないのか?」
「歌は全然。踊りは盆踊りくらいしかできません」
「じゃあ、そのぼのどりとやらを披露しなされ」
「ぼのどりじゃなくて、ぼんおどりです。それより、私、足をけがしているんですけど」
「おお、そうじゃったの。じゃあ、琴か笛はできるか」
「すみません、何も……」
「芸がないやつじゃのぉ。しかたがない、そこで合の手でも打っておれ」
興が乗った老人は、腰まである白髪を振り乱し、トントンと軽快なステップを踏みながら歌いだした。
「二人そろって酒飲めば、山の花がふわりと開く。一杯一杯もう一杯」
「よっ、男前!」
「おぬしもなかなか男前じゃぞ」
「いえ、私は女です」
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
そんなやり取りをしながら、二人の宴会は夜まで続いた。