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「今日はありがとうございました」
湖聖仁が食卓に着くなり、葉月は頭を下げた。
「何がですか?」
表情を少しも変えずにそう問われ、葉月はわずかに頬を強張らせながら「楊柳の仕事の件です」と答えた。
「ちょうど使用人の話があっただけです」
視線を全く合わせず、男は傍で控えた侍女に「水を一杯」と頼んだ。
ふぅ。と葉月は聞こえないくらいのため息をついた。会話したくないオーラがバシバシ出てる。でも、ここからが本題なのだ。
葉月はゆっくりと黒縁眼鏡を押し上げた。
「それから、私の嘘を見逃していただいた事も――」
男の視線がようやく葉月のほうを向いた。ずっとその切れ長の瞳で見据えられるのが怖かった。心の奥底まで見透かされていそうで。でも、今は冷たく冴える瞳がただ綺麗だと思う。
「私は今日嘘をつきました」
葉月は静かにそう切り出した。
「楊柳の証言は気象面からみると、でたらめでした」
湖聖仁は瞳をわずかに細めて「どういうことですか?」と聞いた。
「死亡した官吏が倒れていたのは、木から六尺離れた地面の上でした。実はその位置で官吏に雷が落ちることは、現実的には考えにくいんです。雷は高い所に落ちる性質があります。その状況なら、雷は確実に十尺以上ある杉の木に落ちたでしょう。つまり、おそらく誰かが――」
一拍置いて、男の瞳を真っ直ぐに見る。
「いいえ、楊柳が木の下で落雷した官吏を木から離れた場所に移動させたんだと思います」
「なぜ、そんなことを?」
「たぶん……倒れた官吏からお金を盗ったんじゃないかと……、でもそれは、わたしのせいなんです。誕生日が近いって話したから。彼は私に礼物をあげたかったんです」
「礼物?」
はい。と言って、葉月は白い手巾を出した。きれいに刺繍が施された子供が買うには高級なその手巾に、男は眉を寄せた。
「おととい、楊柳にもらいました。たぶん、盗んだお金で買ったんだと思います。私が誕生日が近いなんて話さなければ、楊柳はこんなことしなかった。だから、わたしのせいなんです」
一息にそう言って、葉月は顔を上げた。目の前の涼やかな美貌をじっと見つめると、それを避けるように湖聖仁は瞳を閉じた。長い指がこめかみを苛立たしげに揉みこみ、眉間には深いしわが刻まれた。
案の定、相当お怒りだ。でも、今回に限ってはそれも当然だ。
「それを私に言ってどうするつもりですか」
「罪を償おうと……」
「罪を償う?あなた馬鹿ですか」
緊張しながら小さな声で「はい」とつぶやく。男にしては長い睫毛がゆっくりと持ちあがった。その瞳は先ほど見惚れていた事など一瞬で吹き飛ぶほど、冷やかだった。
「私に言って罪を償ったつもりですか。それで自分が許されるとでも思っているんですか」
「いいえ、そんなつもりじゃありません。それ相応の罰を受けるつもりです。処刑するならそれでもいいと――」
「なに甘い事を言っているんですか」
甘い事?罪を償う事のどこが甘いっていうんだ?
自分の言葉が届かない悔しさに、葉月は卓上で拳をぎりりと握りしめた。
「あなたは楊柳を助けるために嘘をついた。よかったですね。そのおかげで彼は助かりました。でも、考えてみましたか?彼は今回の事で、嘘をついても世の中生きていけると思ったかもしれませんよ。また同じような嘘を繰り返して、もっと大きい罪を犯すかもしれませんよ」
葉月の心臓がどくんと鳴った。
「あなたがやったことは、ただの偽善です」
冷たく突き放された言葉に体の芯が冷えた。そんなこと考えもしなかった。瞬きもせず次の言葉を待つ。じゃあどうすればいいか。その先を教えてほしかった。しかし、男はそれ以上何も言わず、黙々と食事をしだした。
葉月は全く味のしない菜を喉の奥に詰め込んだ。頭の中は真っ白で、ただ胸だけが刃物で刺されたかのように痛んだ。
「私は、取り返しのつかないことをしてしまったんでしょうか」
食後の茶が出されたところで、葉月はぽつりとつぶやいた。それを聞いた湖聖仁は疲れた風に嘆息した。
「その自覚があるなら、軽々しく罪を償うなどと言わないことですね」
「……帰ります」
「じゃあ、送りましょう」
「けっこうです」
「送りますよ」
「けっこうですって」
自分は――
ただ楊柳を犯罪者にしたくなかった。
屈託のないあの笑顔を守りたかった。
彼の未来をつぶしたくなかった。
でも、果たしてそれは、本当に彼のためになったのだろうか――
すべてから逃げるように葉月は勢いよく食堂を出た。しかし、その足は院子に続く石段で、何かに引き寄せられるようにピタリと止まった。
「手を……離してください」
葉月の腕は男の熱い手に掴まれていた。
「彼には釘を刺しておきました。嘘をついてまで助けてもらったのだから、その恩を忘れるなと」
えっ……
思考が一気に現実に引き戻された。瞠目したままゆっくりと振り返る。思ったより近くに、感情の全く読めない冷たい瞳があった。
死神が楊柳に釘を刺したって……
「やっぱり気づいていたんですね」
「あなたが嘘をついて楊柳を守ろうとしていたことは――」
「どうして、さっきその事を言わなかったんですか」
ああ、これじゃあただの当てつけだ。死神は別に何も悪くない。ただ自分の仕事をしただけだ。むしろ、嘘をついたことを知りながら楊柳を無罪放免にしたんだから、感謝すべきだ。でも――
胸の奥から湧き上がる怒りが止められない。怒り?違う、これは悔しさだ。精一杯大人ぶって楊柳を守ろうとしたこのちっぽけなプライドを、一瞬にして握りつぶした男に対しての。
「人がもがいている姿を見るのは、楽しかったでしょうね」
目がしらにピリリとした痛みが走ったが、それに気づかないふりをして男を睨みつけた。
「人を追い詰めるだけ追い詰めて、ボロボロになる姿を見て、それで満足ですか?」
男の表情はピクリとも動かなかった。
そう、いつだってこの男には自分の言葉は届かない。感情をストレートにぶつけたってなにも帰ってこない。人の血が通わない、冷徹な死神長官。
「自分のやったことは反省しています。牢屋に入れるなり処刑するなり、好きにしてください。でも、もうこれ以上――」
――私の心を傷つけないで。
なけなしのプライドで、最後の言葉を飲み込む。
「失礼します」
葉月は完全に男に背を向けた。石段を降りて院子を足早に歩く。
ああ、もう嫌だ。優しさの欠片もないこの男も、素直にお礼が言えない自分も、何もかもが嫌だ。
「――ハヅキ」
その名前で呼ぶな!
「あなたを追い詰めるつもりはありませんでした」
いまさら、弁解ですか?
「嫉妬したんですよ」
嫉妬?ああ、そうですか。それはよかったですね。
「あなたがあまりにも鈍感なので」
へー、私が鈍感だから嫉妬したんですか。
…………。
「……えっ?」
気づいた時には、声の方を振り返っていた。遠くにいると思っていた男は、意外にも葉月のすぐ後ろに立っていた。衣の裾一つ、息一つ乱さず、視線だけが物言いたげに揺らいでいた。
こ……怖い。この何されるかわからない感、超怖い。
「えっと、嫉妬するって意味がわからないんですけど」
「わからないですか?」
つっと細めた男の瞳に激情が走った。
「あなたは鈍感すぎます。ここにも」
男の指先が葉月の額に触れた。
「ここにも」
左の頬にも指が伸びた。
「唇を許して――」
ヒエーーーー。今めっちゃくちゃぞわっときた。手も足も、心臓にも鳥肌立った!それよりも、唇を許してってなにそれ、唇なんか許してない……って、あれ?もしかして。
わずかに冷静になった頭でその場所を確認する。左頬とおでこ。それは光啓と楊柳にそれぞれキスっぽいことをされた場所だった。
まさか、今日の楊柳とのやりとり見られてた?いや、その前にあれは本当に唇だったのか、それすらわからないんだけど。……でも、それがどうして死神に関係あるんだ?だって、こいつは私の事をこの国に害をなす不審者だと決めつけていて、好意の欠片も抱いていないはず。いや、その前に、こいつは男が好きで若い官吏を食い物にしてて、だから嫉妬なんて……。あっ、もしかして!?
「楊柳のことが好きなんですか?」
黒縁眼鏡の奥から見上げれば、湖聖仁は形のいい眉をわずかに寄せた。
「どうしてそういう思考になるんですか」
「えっ、だって、男性が好きなんですよね」
長い指がこめかみに伸び、ぐるりと揉みこんだ。
ああ、なぜか怒らせてしまった。もしかして、そこはデリケートな部分で触れられたくなかった?
「……すみません」
気まずく頭を下げると、視界の先、長衣から覗く男の手がゆっくりとこちらに伸びた。何されるんだ?そう思って、体をわずかに引いた瞬間、その手が葉月の腰をぐいっと引き寄せた。