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「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。これから明日の天気を予想してみせましょう」
鳶国の首都 泰京。
外城南にある天壇の門口で、つぎはぎだらけの襤褸衣を着た葉月は声を張り上げた。
トレードマークだった長めの前髪は伸びすぎて、今では後ろ髪と一緒に結っている。手入れされていない眉毛はぼさぼさだ。
はっきり言って日本にいた頃より女を捨てている。
性格もずいぶんやさぐれ、神経は丸太のように図太くなった。これも苦労の賜物……ということにしている。
葉月が異世界に来て、すでに一年が過ぎた。あの時葉月は鳶国という国の首都 泰京の処刑場に落ちた……らしい。
そこからは散々な目に遭った。
牢屋に入れられ、三日三晩飲まず食わずで放置されたり、処刑場で本気で処刑されそうになったり。こうして五体満足で生きているのが不思議なくらいだ。
ちなみに、なんとか生き延びようと必死で勉強したこの国の言葉は、今では会話に困らない程度に話すことができる。
それでも悲しいことに、仕事には一切ありつけなかった。
その理由はまずこの容姿。この国の女性は皆、長い髪を綺麗に結い上げていて、おかっぱ頭に黒ぶち眼鏡という姿は全く受け入れられなかった。
次いで女子力。料理も裁縫もできなければ、女子の切り札、愛想すら振りまけない。
結局、この国で葉月ができたことといえば、天気予報くらいだった。
「そんなこと言って、昨日は外れただろ。お前の予想とやらは占いより当たらん」
どこかから野次が飛ぶ。
「そんなことはございません。昨日言った通り、今日はこの春一番の暖かさになったでしょう」
「でも、雨は降らなかった」
野次の声に、葉月はしめたとばかりに黒縁眼鏡を押し上げた。
「では、ずばり当てましょう。後、四刻もすると天が闇夜のように暗くなり、稲妻とともに雨が滝の如く降るでしょう。そして、その後には身を刺すような冷たい風とともに真冬が戻ります」
最後は秘密事を告白するような神妙な声で言う。
一瞬の沈黙の後、人垣からどっと笑いが起こった。
「お日さまが出てるってのに、後四刻で雨だと? しかも、こんなにあったかいのに寒さ? いかさま言うな」
「では、天の神に祈ってみましょうか」
葉月は瞳を閉じて左手を空にかかげた。
祈るようにゆっくりその手を下ろし、胸の前で十字を切る。刹那、野次が息を合わせたようにピタリと止んだ。
「信じる者のみ救われます。救われたい方はどうぞこの傘をお買い求めください」
深々とお辞儀をしながら足元に並べた傘を指差せば、再び笑いが起こった。
「なんだよ、そういうオチかよ」
「人を騙して商売なんかするな」
「そんなことばっかりやってると、天の神様とやらに大目玉くらっちまうぞ」
野次馬達は笑いながら四方八方へ散っていった。後に残るは短装に身を包んだ葉月と足元に並べられた傘ばかり。
葉月はポリポリと頭をかいて、黄塵に覆われた空を眺めた。
「降りそうなんだけどなあ……」
ぽつりとつぶやいた声は生ぬるい風に吹き消された。
葉月はこの世界で傘売りをしていた。
天気予報つきの傘売りだ。
思いついたときは最高にいい案だと思った。しかし傘などそう売れるものではなく、葉月は完全にその日暮らしを送っていた。
黄塵に紛れるように浮かぶ太陽はすでに西に傾き、日暮れが近い事を示している。
「今夜の晩ごはんどうしよう」
ホッカホカの白米が食べたい。おかずなんてこの際いらないから、白飯を思う存分食べたい。ああ、日本に帰りたい……でも、どうやって帰るのか全く想像がつかない。
空腹に耐えながら地面に座り込む。そのとき、頭上から落ち着いた鳶国官話が降ってきた。
「では、私が一本買いましょう。いくらですか?」
勢いよく顔を上げると、そこには柔和な微笑みの官吏服の男が立っていた。年のころは三十半ばくらいだろうか。
物腰柔らかでスマートで紳士的で。微笑みの貴公子という言葉がぴったりの男性だった。
しかし、微笑の貴公子様に葉月はなぜか似ても似つかぬ超絶美貌の死神男を重ねてしまった。見た目全く違うのにどうしてだろうと思ってその理由を悟る。
そっか、死神さんと同じ緋色の官吏服なんだ。
この国の官吏はその階級や職種によって、衣の色や帯の装飾が変わる。この一年で葉月が緋色の衣を見たのはあの死神男だけだった。
「本当ですか、ありがとうございます。一本銅五銭、良心的な値段でしょう」
「そうですね。詐欺まがいの売り方にしては良心的な値段ですね」
葉月のとびっきりの営業スマイルが一瞬で固まる。
ケンカ売ってるんですか?とはもちろん言わない。これでも社会人の端くれだ。
葉月は黒縁眼鏡を押し上げて、まっすぐ男を見上げた。
「お言葉ですが、私はまっとうな商売をしています」
「失礼。では雨が降るというのには、もちろんまっとうな根拠があるんでしょうね」
紳士然とした優しげな顔には不釣り合いな言葉に、首をかしげる。そして、よくよく男の顔を見つめて、気がついた。
この人、目が全然笑ってない!
全身にぞわぞわと悪寒が走る。
少しでも相手から距離を取りたく、体をのけぞらせた。そのとき――。
「そんな直球勝負じゃ、子猫ちゃんが怖がっていますよ」
固まる葉月の視線の先、緋色の官吏服の後ろから、イケメン青年が顔を覗かせた。
年は葉月とそれほど変わらないのではないだろうか。少し垂れた瞳とにこやかな顔が相手の警戒心を緩ませる。その効果は抜群で、葉月は思わずほっと肩の力を抜いた。
しかし完全に警戒を解いたわけではない。疑いたっぷりで見つめていると、そんな葉月の心情を察したのかイケメン青年がひょいと肩をすくめた。
「突然ごめんね。俺らさ、君の空読みの力に興味があって来たんだ。怪しい者じゃないよ」
「空読み?」
意味がわからず首をひねれば、イケメン青年が親指を空に向かって突き立てた。その先にあるのは鈍色の空。
なるほど。葉月は納得した。
どうやらこの世界では天気予報のことを空読みというらしい。人と交わることが少なかった葉月はそんな一般常識も知らなかった。
「それで、さっきのまっとうな根拠とやらを教えてくれない?」
イケメン青年は太陽の化身かと見まがうキラキラした笑顔で、一歩間合いを詰めてきた。
うわっ……。
この文系男子にありがちな、軽いノリの爽やかイケメンというのは葉月が最も苦手とする人種だった。いったい何を話せばいいか皆目見当がつかないのだ。
しかも隣の貴公子は裏にひと癖もふた癖もありそうで、こちらもお近づきにはなりたくない人種。
つまり葉月が取る道はーー。
「えっと……ごめんなさい、嘘です。雨が降るなんて嘘八百です。傘買ってほしかっただけです。すみません、許してください」
とにかく平謝りしてその場をやり過ごすことだった。
世の女性が放っておかないような美形どころに迫られて、女の中でも下の下の下を突っ走ってる自分が太刀打ちできるはずがない。しかも、普通の官吏じゃない匂いがぷんぷんする。こういうときは逃げるが勝ちだ。
どうやって逃げようかと葉月が算段している前で、妙なオーラを放つ微笑みの貴公子がその笑顔を一層濃くした。
「冗談はほどほどにしてくださいね。私にはあなたの仕事を根こそぎ奪うことなど簡単にできるんですよ」
きょ……脅迫か。
葉月は口をひくつかせた。横目で爽やかイケメン官吏に助けを求める。しかし、イケメンは今にも「ごめんね~」とでも言いそうな困り顔で笑うばかり。
ああ、あなたの笑顔は社交辞令なんですね。わかりましたよ、よおくわかりました。やっぱりあなたは私の苦手とする、軽いノリで事なかれ主義で笑顔だけは百点満点の爽やかイケメンさんだったんですね。ちょっとでも助けを求めようとした私が馬鹿でした。
心の中で盛大に毒づいて、葉月は黒縁眼鏡を押し上げ、空を見た。
「南風が強まってきました。この時期に南風が強まるのは荒れる前兆です。それから、玉泉山にも雲がかかってきました。上空は湿ってきている証拠です。おそらくそろそろ降ってくるでしょう」
言い終わると同時に、売り物の傘が飛んでしまうくらいの突風が吹いた。
「君、天気が読めるんですか」
「そんな大それたもんじゃありません。これは簡単な観天望気です」
「観天望気?」
「雲の形とか風の吹き方で今後の天気を予想する方法です」
「あなた名前は?」
葉月は一瞬戸惑った。この国で名前を聞かれる事などめったになかったからだ。小さな声で「田葉月」と答える。
この国では“はづき”という音の響きはない。名前を言うと必ず変な顔をされるので、音読みの“ようげつ”と名乗るようになった。ちなみに、姓も“小田”ではなくこちら風に“田”としている。
「仕事は?」
「……傘売りです」
貴公子然とした男は目の前に並べられた色とりどりの傘を一本手に取ってその場で開いた。
「悪くない。これをもらいましょう」
「えっ……あっ、ありがとうございます」
不信感を抱きつつ、今夜の飯が確保できたことに安堵する。
そして、深くお辞儀をしたところで、頭上からぽつりと雨粒が落ちてきた。
「驚きましたね」
微笑み以外の表情を忘れたかのようだった男の顔が驚愕に彩られ、大きく開いた瞳がゆっくりと葉月に向けられた。
※※※ ※※※ ※※※
結局雨は本降りとなった。買ったばかりの傘を広げる男達を横目に、葉月は売り物の傘を手早く竹籠にしまい、雨よけの大きな布でくるんだ。首からさげた銭包が時々チャランと音を立てて、思わず口元が緩む。
「これで、明日の朝飯も食べられる」
誰に言うでもなくこっそりと呟いた言葉は、しかしながら男達の耳にしっかり届いていた。
「ねえ、君さっきから飯がどうとか言ってるけどお金に困っているの?」
「ええ、まあ」
「じゃあさ、もっと割のいい仕事をしない?」
割のいい仕事。そんな仕事がこの世界にあるとは思えない。それはこの一年で葉月が骨身にしみて感じた事だった。
女子がキャーキャー言いそうな爽やかイケメンを完全に無視して、葉月は竹籠を肩に担いで立ち上がった。
雨も本降りさっさとこの場を立ち去ろう。
そう思って一歩踏み出したところで、葉月の行く手は緋色の衣に阻まれた。
「私は礼部長官の呉桂成と言います。君には礼部に来て、二週間ほど天気を予想してもらいたいんです」
視線を上げると、そこには微笑みを完全にどこかに置き忘れた貴公子が立っていた。
微笑みの貴公子さん、微笑み忘れないで、怖さ倍増だから。って突っ込んでいる場合じゃない。
葉月は男の言葉を反芻した。微笑みの貴公子は礼部長官で、自分に天気予報をしてもらいと言った。
「……えっ、長官!?」
思わず素っ頓狂な声を上げるとともに、衣が泥だらけになるのもかまわず両ひざを地面につけ、頭を伏せた。
鳶国内城で働く国家官吏はこの国のエリートだ。しかも、目の前の御仁は国家官吏の中でもトップにあたる長官だという。
つまり見たことがないと思った緋色の官吏服は長官職の者が着る衣だったのだ。しかも、この国に一握りしかいない超お偉方が、わざわざ足を運んで自分に仕事を依頼してき。いったいどうして自分に!?
その場に体を伏せ、微動だにしなくなった葉月に、礼部長官、呉桂成は声を弾ませて笑った。
「今さら礼など不要です。それに私はしゃちこばった挨拶が苦手でしてね。それよりも先ほどの件、考えていただけますか?」
考えているからこそ頭が上げられない。
疑心渦巻く葉月を察してか、隣に立つイケメン官吏がしゃがみこんで下から覗いてきた。
「もちろん給金もはずむからさ、どうかな?」
にっこりと人好きのする笑顔を向けられたが、葉月の気持ちは流されない。
「……いくらですか?」
「一年遊んで暮らせるくらいの額だって言ったらどうする?」
一年遊んで!?それはおいしい話だ。白飯、焼き魚、もしかしたら肉までいけるかも。
豪華な食卓を想像して、葉月の腹の虫は無情にもぐぅぅと鳴った。心が揺らぐ。でもーー。
しばらく考えて、葉月は立ち上がった。
「魅力的なお話ですが、お断りします。私はその日の飯にありつければそれでいいんです」
葉月だってお金はほしい。でも高すぎる給金には絶対に裏がある。もう処刑なんてまっぴらごめんだ。
十字の梁を思い出し、歩き出す。しかし、数歩進んだところで、葉月の肩は男の手によって強引に引かれた。
「何度も言いますが、私には君の仕事を根こそぎ奪うことだってできるんですよ」
恐る恐る振りかえる。そこには菩薩のような慈愛に満ちた微笑があった。
ああ、やっぱり脅迫ですか。
視線一つで月日をも動かす長官様にとって、自分の仕事を奪うくらい屁でもないのだろう。
呉桂成は人差し指と中指を立てて「二週間です」と言った。
「それであなたを解放しましょう」
「天気を予想するのに百パーセントはありません。望むような仕事はできないかもしれません」
「もちろん承知しています。給金は変わりなく差し上げます」
ここまで逃げ場なく追い込まれては否とは言えまい。葉月は渋々頷いた。