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「葉月、誕生日の礼物、何がほしい?」
土ぼこりにまみれた顔で楊柳はそう尋ねてきた。
「えー、何もいらないよ」
「そんなこというなよ。葉月には世話になってんだ。俺だって何か返してえ」
そういって楊柳は口をつんと尖らせた。どうやら気分を損ねたらしい。
「わかった。じゃあ、何か甘い食べ物がいいな。干し林檎とか蜜棗とか」
「そんなんでいいのかよ。女っつうのは手巾とか髪飾りとかを喜ぶもんじゃねえのか。おめえ、そんなんだから結婚できねえんだよ」
「どうせ、色気より食い気とか言うんでしょ。その通りですよ。お腹が満たされれば、それでいい人間なんですよ」
「ダッセーな」
「楊柳に言われたくありませんよーだ」
憎まれ口を叩く楊柳に憎まれ口で答えたのは、つい五日前。そういえば、あれ以来、楊柳を見ていなかった。
※※※ ※※※ ※※※
葉月は雷が落ちたという事件現場に来ていた。建物も何もない空き地に一本の杉の木が立っていた。雷の影響だろう、幹の上半分が折れている。
「楊柳はあの杉の木の下で雨宿りしてたんだよね。で、雷に打たれたっていう官吏はあそこから六尺って言ってたから、二メートルくらい離れた土の上に倒れたってことか……」
うーん……
思わず首をひねる。その時――
「ここに来て何かわかりましたか?」
背後から、耳に心地いい流麗な鳶国官語が響いた。振り返らなくたって誰だかわかる。ようやく逃れたと思ったのに……どっかにGPSでもつけてるのか?
「何もわかりませんでした」
うつむいたまま口を開く。
「では、何か思い出しましたか?」
「何も思い出しませんでした」
「あなたはこの事件に一枚かんでいるんですか?」
「何もかんでいません」
「この国を――」
「侵略するわけありません!」
黒縁眼鏡を押し上げて、振り返る。夕日に染まる景色に負けないくらいの、燃えるような緋色の衣が目に飛び込んだ。
「楊柳に会わせてください」
駄目と言われるのは百も承知だった。駄目だったら他の方法を探す。それでも駄目だったら他の方法を。とにかく、裁判の前に楊柳に会いたかった。
そんな葉月の決意を感じ取ったのか、湖聖仁は何のためらいもなく「もちろん、いいですよ」と了承した。
※※※ ※※※ ※※※
何が、どうなってこんな展開に……
葉月は目の前に広がる豪華な料理の数々に、目をぱちくりさせた。
「今日も豪華な飯だな。葉月、遠慮しねえで食え。どうせ、あまるんだから」
隣に座った楊柳を横目で見る。風呂に入ったのだろう。土まみれの髪は黒い艶を取り戻し、埃まみれの顔は剥き卵のような輝きを放っていた。
楊柳、今まで汚すぎてどんな顔かわかんなかったけど、パッチリ二重で、けっこうかわいい顔してんじゃん。イケメン予備軍ってやつ?先物買いのお姉さま方が泣いて喜びそうだ。って、そんなことよりも、この状況でそんなうれしさ全快の顔できるって、あんた、どれだけ怖いもの知らずなの?もしかして、将来大物?
葉月はこっそりと、自分の前に座る冷たい美貌の男を見た。
ああ、本当に、何がどうなって、こんな展開に……。
楊柳に会いたいと言った葉月は、翌日湖聖仁の家に来るように言われた。不審に思いながらも言われた通りの時間に湖家に足を運ぶと、嬉しそうな顔の楊柳が出迎えた。
話を聞くと、裁判までの間、楊柳はこの家にいることになったらしい。つまりは、監視付きの居候。以前の葉月と全く同じ立場だった。葉月と違うのは、彼にはこの家を出る自由がないということくらい。毎日、豪華な食事を腹いっぱい食べているらしい。
「おい、葉月、顔が固まってるぞ。大丈夫だ、この女みてえな綺麗な顔して、人ひとり殺すくらいなんとも思ってねえ長官様は、意外にも心が広くてよ。好きなもんを好きなだけ食っても嫌な顔一つしねえ」
ちょっと、楊柳!発言が地雷踏みまくってるって。死神を前にそんなストレートすぎることを素面で言えるなんて、あんたどれだけ大物なの。私なんて、全身縮みあがって、気を抜くと震えが来るんですけど。
その場で固まる葉月など視界に入っていない楊柳は、次々と菜を口に運びながら「これがうめえぞ」とか「これも食ってみろ」とか、大口を開けながら言っている。
その白身のお肉がおいしいの知ってるよ。それは、そのまま食べるよりも、隣にあるごまだれにつけたほうがおいしいよ。とか、心の中でアドバイスしてる場合じゃないって。なぜ、どうして、楊柳と一緒に死神の家で昼御飯、食べなくちゃいけないんだ!?
「葉月、食わねえのか?もしかして、あんな男と一緒に飯なんて食えねえとか?」
今、死神の睨みがパワーアップした……。いや、だから、勝手に食べたらだめなんだって。死神が食べてもいいですよって許可してからじゃないと駄目なの。まあ、確かに一緒に食べたいかって言われたらノ―で間違いないんだけど。
「私まだお腹が……」
「おめえ、いつも色気より食い気って言ってるくせに、何しおらしくなってんだよ」
「しおらしくなってないって。まだ、シニガ……、湖長官が食べてないのに食べられるわけないでしょ」
はああ?と素っ頓狂な声を上げた楊柳が前方を見る。弓形の美しい眉をわずかに歪めた湖聖仁は、長い指先でこめかみをぐるりと揉みこんだ。
「――遠慮せず、どうぞ」
ほら。あんなに不機嫌丸出しで、どうぞとか言われて、食べられるわけないでしょ。
「長官もああ言ってるし、葉月食えって」
楊柳、違うって!ああ、胃が痛くなってきた。誰か、胃薬プリーズ。
しばらくして侍女が現れた。まさか、自分の心の声が伝わって、胃薬でも持ってきたのかと思えば、侍女は無表情で「葉月様、おかわりは?」と告げた。
ああ、おかわりですか。
「いえ、結構です」
「お体の具合でも悪いんですか?」
私って、この家にいた頃、そんなにがつがつ食べてましたっけ?そんな思いをこめて侍女に視線を向けると、無表情の侍女がわずかに首をかしげた。
……きっと食べてたんだな。
「いえ、ただお腹がすいてないだけです」
そう答えると、侍女は納得したように一礼して、部屋を去っていった。
「おめえ、あの侍女と知り合いか?」
「ん?別に――」
以前この家に住んでいました。とはなぜか言いたくなくて、葉月はお茶を濁した。冷たい家も笑わない侍女も、葉月が去った時と全く変わっていなくて、その中で楊柳だけが時の流れを教えてくれた。
「それよりも、楊柳、その鶏肉はタレに直接つけるんじゃなくて、この皮に乗せて、タレも一緒に乗せて、こうやって巻いて食べるんだよ」
北京ダックのような食べ物を実演しながらそう言うと、楊柳は「へっ?そうなのか?」と驚いた顔をした。いや、自分も確信はないのだが、たぶん――
「そう……ですよね?」
って、思わず同意を求めてしまった。しかも、相変わらずの無表情、無回答だし。もういいや、食べちゃえ!
葉月は思いっきり北京ダック風の物を口に運んだ。甘いタレと鶏肉とそれを包む皮が絶妙に絡み合って、やっぱりこの食べ方で間違いないと大仰に頷く。
そんな葉月の横で、楊柳がぷっと吹き出した。
「口にタレつけて自慢げに言われても、説得力ねえけど」
「ぶへ?ぐちにダレ?」
「言えてねえ。葉月笑える」
そう言って楊柳は腹を抱えて笑いだした。
「ちょっと楊柳笑いすぎ!」
「だって、葉月が口にタレつけて自慢げな顔するから――」
「そういうあんたこそ、口にタレついてるって」
「えっ、マジで?」
短装の袖口で口を拭こうとした楊柳は、シミひとつない新しい衣に気づき、慌てて手の平で口元を拭った。
お互いに口にタレつけて話してるなんて、どんだけアホなんだ。こんなしょうもない会話、よりによって死神の前で繰り広げてしまうなんて……。どうせ、やつは頭の悪い奴らが低レベルな会話してると、冷たい目で見てるんだろう。
やけっぱちで葉月が笑うと、楊柳もつられたように笑った。
この家に来たのが初めてなふりをしていることも、楽しくもない食事で爆笑していることも、全てが茶番に思えた。そう、これは楊柳を楽しませるための茶番。だったら、思い切り笑ってやれ。
葉月は箸が転んでもおかしがる女子高生のごとく、ケラケラと笑い続けた。
しばらく笑って、ふと視線に気がついて、黒縁眼鏡を押し上げる。目の前の男が、呆けた顔でこちらを見ていた。
「……どうしたんですか?」
葉月の言葉に我に返ったようにひとつ瞬きした男は、手元の茶を勢いよく飲んで、そしてゴホゴホと盛大にむせた。
どうしたんだ、死神……。ちょっと人間っぽいぞ。
そう思ったのは葉月ばかりではなかったらしい。楊柳も笑いを止めて、
「大丈夫か?なんか変なもん飲んだのか?」
と目の前の男に言葉をかけた。
むせたせいで頬が仄かに上気している。作り物のような整った顔に人間らしい色が加えられた瞬間、そこには言葉にできない色気が沸き上がった。
死神に関しては、いっそ人間離れしてくれていたほうが精神衛生上助かる。
全くの不本意ながら鼓動を速めて葉月がそんな事を考えていると、湖聖仁が片方の手で口元を覆いながら、
「――珍しいですね」
とつぶやいた。
「何がですか?」
と問えば、男はふいっと視線をはずし、
「あなたが笑うなんて……」
と小さくこぼした。
……珍しい?私が笑うのが?
葉月は思わず首をひねった。そんなのいくらだって見せてきたはずだ。そう思って、死神の冷たい瞳を思い出す。そういえば、人ひとり殺せそうなあの瞳を前に笑ったことなんてあったっけ。――たぶん、ない。
「そう言えばそうだな。葉月今日はえらく緊張してんもんな」
ああ、楊柳、ここにいてくれてありがとう!
この息苦しいほど気づまりで雁字搦めになりそうな空間を、一瞬で変えた彼の存在に感謝した。――のはつかの間で、次に、
「まさか長官、葉月に惚れたのか?」
と言い放った楊柳の言葉に、葉月は脳天まで駆け巡る、得体のしれない熱に意識を奪われそうになった。
「ちょっと、何言ってんのよ。そんなことあるわけないじゃん」
「そんなん、誰にもわかんねえだろ」
「いや、絶対にないって」
「でも、俺、おめえら二人が恋人同士になったら、しかたねえけど祝福してやる」
「はいぃぃぃぃ?」
恋人同士?誰と誰が?そんなの絶対に絶対にぜぇーったいにありえないって。ああ、目の前から思いっきりブリザード吹いてる。ここにいてくれてありがとうなんて言ったさっきの言葉撤回!もう、余計なこと言うな、楊柳!
葉月は卒倒しそうになりながら、とりあえずその場で頭を下げた。
「楊柳が変なこと言ってすみませんでした」
「なんで、謝んだよ」
「だっておかしいでしょ。私なんてあんたに毛が生えたくらいしか稼ぎがない下層労働者だよ。それがこの国を牛耳る長官様ととかって絶対にないって。第一、接点だってゼロで今後会うこともないだろうし、それに――」
この長官は女には食指が動かない男色家だ。とは、未来ある少年には言わないでおこう。
背中に大汗をかきながら、とにかくこの場が収まることだけを祈った。だから、目の前の男がクスリと笑ったことになど気がつかなかった。そして、その後に続けられた言葉の意味など考えたくもなかった。
「それも、悪くないですね」
恐る恐る視線を向ける。目の前の男はその秀麗な顔を歪め、どす黒い顔で笑っていた。
だあーーー!死神を悪乗りさせたじゃないかーーー!