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……こいびとの……日?
「正確にいうと七夕。でも、若い男女の間では、七夕の夜は恋人達が愛をささやく日ってことになってるの。それにしても、あれだけ浮名を流しながらも特定の恋人を作ろうとしなかった高光啓様の本命が、まさか葉月とはねえ。うん、でも、ちょっと納得できるわ。ああいう人って意外と――」
その瞬間、葉月は勢いよく立ちあがった。
「雪涛さん、私、今から断ってきます」
「えっ?何言ってるの?」
「だって、恋人の日にただの仕事仲間と食事なんて、おかしいです」
「別にいいんじゃない?お互い恋人もいない同士だし。何そんなに焦って。もしかして、他に好きな人でもいるの?」
「いえ、そういうわけでは。ただ……」
先日告白されました。とは、この好奇心駄々もれの瞳を前に言えるわけがない。
「高課長は私みたいな誰にも誘われたりしない人間と違います。ほっといても女が寄ってくるイケメンモテ男なんです。私なんかと暇をつぶさなくたって、明日の夜を過ごす相手は――」
ごまんといるはずです!
そう言おうとした葉月の言葉は、鬼の形相で迫りくる美鬼、いや美姫の「ちょっと待って!」という一言に阻まれた。
「まさか、あなた断りに行くって、私なんかと過ごさないで他の女性と過ごしてください、とか言うつもりじゃないでしょうね」
えっと……言うつもりでしたけど、駄目ですか?
微苦笑で答えた葉月に、雪涛は呆れたとばかりに首を振った。
「彼は他の誰でもなく、あなたを誘ったのよ。そして、理由はどうあれ、あなたは一度承諾した。それを他の人を誘えなんていう理由で断るのは、相手に対して失礼だと思わない?」
……ごもっともです。
「行くわよね、葉月」
頬づえをつき、すうと目を据える様は、貴族の御夫人というよりも、修羅場を潜り抜けた極道の妻。女としての経験値がどちらが上かなど、今更問う必要もない。
「…………はぃ」
ああ、NOと言える日本人になりたかった。
※※※ ※※※ ※※※
「ねえ、君、今夜はひとり?なんなら一緒に食事でも――」
衣の袖に手を差し込みながら近づいてきた男に、水色の襦裙を着た妙齢の女性はさも不愉快だと言わんばかりの視線を投げた。視線を投げるというよりも、睨みつけると言ったほうがいいくらいの不機嫌さである。
「もしかして、待ち合わせ?だよね、七夕の夜だもんね」
半笑いでその場を立ち去った男を、女は鼻の頭に皺をよせて見送った。
あれは、いつも野次を飛ばしてくる飴売りの馬さん。自分が傘売りの田葉月だとは全く気づいていない。ちなみに、さっきは生花売りの李さんが花を片手に現れた。普段は葉月を汚れものでも見るような目で見る癖に、「美しい女性には花が似合います。おひとついかがですか?」などと歯の浮くようなセリフを大真面目で言ってきたもんだから、全身が総毛だった。
「結局女は見た目かよ」
そう毒づいて、葉月は自らの衣を見下ろした。水色に同じく水色の小花を散らした襦裙は、先ほど雪涛に着せられたものだ。普段着のままでいいと何度も拒否したが、もちろんその言葉が聞き届けられることはなく、爛々とした目の雪涛と気合の入った呉家の侍女達にあれよあれよという間に襦裙を着せられ、髪を結いあげられた。そして鏡を手渡された葉月は本当に目を白黒させた。そこに映っていたのは、綺麗に、着飾った、妙齢の、女性だった。
「はあ、どうしてこんなことに……あっ、そうだ、眼鏡」
外していた黒縁眼鏡を掛け直す。眼鏡がなかったら高課長に気づかれないかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、さっきからはずしていたのだが、とんだ弊害だ。
それにしてもこんな恰好で高課長に会うなんて、それこそ拷問だ。一度告白を断ったくせに、七夕の夜に誘われて着飾って現れる女とか喜色悪すぎる。
「やっぱり無理。帰ろう――」
そう呟いて歩き出した先に、甘さを含んだ爽やかな目元のいかにも洒落者といった風情の男が、長衣の袖口、襟帯をはためかせて現れた。天壇前に集まる女性達の視線が一斉に男のほうを向く。
ちょっ……ちょっと、イケメンオーラ、パワーアップしてる!!!
葉月は初めて、官吏服以外の光啓を見た。そして、そのお洒落な着こなしっぷりに、完全に圧倒された。咄嗟に黒縁眼鏡をはずす。
私服もイケメンって、どんだけハイスペックなんだ!
神様、どうか高課長が気がつきませんように。っていうか、本当に本当に本当に自分になんか気がつかないで!回れ右っ!回れ左!どっちでもいいから、さっさとここから立ち去って。間違っても、待たせてごめんねとか言わない――
「――待たせてごめんね」
……。
えーっと、空耳……じゃないですよね。もしかしてお隣の女性ですか。彼女さっきからずっとここで待ってて……って、誰もいないし。
葉月は諦めて顔を上げた。そして、天壇前の女性達の視線を釘づけにする、その端正な顔が目の前にあることに絶望した。
ああ、神様。今日も私の願いは聞き届けてくれないんですね。
「誰かと思ったよ。見違えたね」
「えっと、これは呉夫人に、無理矢理やられたというか、気づいたらこんなにされてたというか……」
「へえ、さすが呉夫人、いい仕事をしてくれるね。それよりも、眼鏡どうしたの?」
ああ、眼鏡。すっかり忘れてた。っていうか、眼鏡がなくてもわかったってこと?やっぱり女を手玉に取ってる男は違う。
葉月は狼狽しながら黒縁眼鏡をかけた。クリアになった視界の先で、光啓が目を細めて笑った。
「やっぱり、そのほうが葉月らしくていいよ」
なっ、なにを言い出すんですか!?いや、別に歯が浮くようなセリフじゃないんだけど、むしろ何気ない一言なんだけど、心拍数一気に上がった!さすがイケメンモテ男、女心をくすぐるセリフを知り尽くしてる。
赤らむ顔を悟られないように両手で頬を挟んだ瞬間、涼やかで男性的な香りが鼻孔をくすぐった。伸びた腕にふんわりと背中を押される。
「行こうっか」
さりげないエスコート。何気ないスキンシップ。拒否したら自分の方が自意識過剰だと思われそうだ。女性として扱われることが、なんだか気恥かしい。
「高課長、ホストになったら絶対一番人気ですよ」
「ん?ホストって何?」
「私の国で女を手玉にとってお金を稼ぐ仕事です」
「何それ、心外だなあ。葉月、俺の事そんな風に思ってるの?」
だって……とつぶやく。
「女性の扱いに慣れ過ぎです……」
「これでも結構緊張してるよ」
あなたの結構って、常人のちょっとに相当するんでしょうね。
「で、葉月は何が食べたい?新しくできた海鮮料理の店とか、雑技を見ながら食事ができる所とか――」
端正な顔に浮かぶ爽やかな笑顔は、周りの女性など目に入らないという風に自分にだけ向けられている。高課長ファンの女官達に監禁されてから一月しか経っていないのに、危機感なしかと言われればそれまでだけど、甘い視線を独占していることが少しだけ心地良かったりする。自分でも能天気すぎるという自覚はある。でも、今夜は普段と違う格好で、誰も傘売りの葉月だとは気がついていない。だから、ちょっとだけ開放的になっているんだ――たぶん。
「えっと、泰京大街の饅頭なんてどうですか?」
「えっ?そんなのでいいの?」
「せっかく雲も取れて涼しくなってきたし、星でも見ながら食べませんか?」
空を見上げると、昨日の予想通り、日中もくもくと沸いていた雲は空気を抜かれたように小さくなりはじめていた。今夜は綺麗な星空になるだろう。
「ほら、七夕だし」
虚をつかれたように目を見開いた光啓は、次いで困ったように笑った。
「葉月がよければ――」
「じゃあ、行きましょう」
葉月は恥ずかしさを隠すように、光啓の袖をむんずと掴んで歩き出した。
※※※ ※※※ ※※※
「あっ、織姫星みっけ。って、この国でも織姫星ってあの星なのかな?」
葉月は東の空に輝くひときわ明るい星を見ながら、首をかしげた。
「高課長知ってます?」
隣に視線をやると、その端正な顔は真っ直ぐ自分に向けられていた。
なぜ凝視?っていうか、私の話聞いてます?おーーーい。
目の前で、手を左右に振ってみたが反応がない。
「高課長?」
もう一度問い返せば、ようやく目の前の男が瞬きした。
「ごめん。ちょっと聞こえなかったんだけど、もう一回言ってくれる?」
聞こえなかった?聞いてなかったの間違いですよね。
「別にどうでもいいことだから、もういい――」
「ごめん。全然どうでもよくないから、もう一回言って?」
「だから、この国でも織女星は東の空に輝くあの星ですかって聞いたんですけど、どうでもいいですよ」
投げやりにそう言うと、光啓は慌てて東の空に目をやった。
「東の空に浮かぶ四つ星のこと?たしかにあれは織女という星座だよ」
へえ、星座の名前が織女っていうんだ。
「私の国ではあの星座は琴の形に似ているから、こと座っていうんです。で、こと座の中で一番明るい星が織女星。やっぱり星座の言い方もちょっと違うんですね」
星を見上げる葉月の隣で、光啓が草の上にごろりと寝ころんだ。
「この国では、北辰を天の皇帝として、そこから、皇族、官僚、軍隊、庶民という風に星座が広がっているんだよ。北辰はわかる?」
「北極星、北天の動かない星ですよね」
「そう。北辰の周りの星達は紫微垣と言って、天帝の居場所とされている。その周りを天帝が政治を行う太微垣、天の王都にあたる天市垣が囲んで、さらにその外側、つまり東西南北に庶民の星達があるんだ」
へー、さすがエリート国家官吏。立て板に水のごとく、スラスラ答えやがった。でも、こんな専門的な知識、使う場所があるとは思えない。さすが、THE宝の持ち腐れ。
「高課長ってなんでも知ってるんですね」
「そんなことないって、わからないことだらけだよ」
「例えば、わからないことってなんですか?」
「そうだなあ。好きな子の気持ちとか?」
えっ……。
思わず隣を見る。星を見ているとばかり思っていた光啓の視線はまっすぐと自分のほうを向いていた。




