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ソラヨミシ  作者: こでまり
3.星願
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「明日の夜?星空?ええ、見えますよ。夜が更ければ更けるほど、雲がとれて綺麗な星空が見えるでしょう」


 灼熱の太陽が照りつける天壇の門口脇で、葉月は今日何度目になるかわからない問いに答えた。判決を待つ被告人のように思いつめた顔をした男は、答えを聞くなり「そりゃあよかった」と大仰に胸をなでおろした。


 今日来る客はそろいもそろって、明日の天気を聞いてくる。そして、葉月の答えに誰もが安堵の表情を浮かべ、足取り軽やかに帰っていく。もちろん、この男も例外ではない。

 不自然すぎるほどの営業スマイルが固まり、次いで仏頂面に変わる。


「なにが、そりゃあ、よかっただよ。そんなに嬉しいなら、お礼に傘の一本くらい買ったってバチは当たらないんじゃないの?」


 言っても無駄なことは百も承知で、葉月は嬉々として帰ってゆく男に悪態をついた。


「それにしても、明日の夜、何があるんだろ。祭りかな」


 岩のようにもくもくとわき上がる夏雲を見上げて、葉月は首をかしげた。

 この時期の空を彩る力強い雲は上へ上へと沸き上がり、天界に達する頃には激しい雨を降らせる。いわゆる夕立だ。しかし、夕立とは名の如く、その雲は日が沈むと同時に、しゅわしゅわと泡がしぼむように消えてゆく。夜は時間が経てば経つほど晴れるのだ。


 今日の雲は立派だ。夕方にひと雨来そうだ――


「――空読み師さん」


 空を見上げて、あれこれ考えていた葉月の耳に、若い男の声が届いた。

 

「明日の夜の天気を教えてくれない?」


 ……またか。

 男の顔を見るのも面倒で、葉月は上を向いたまま「晴れです。星空も見えますよ」と吐き捨てた。

 どうせさっきの男と同じで、炭酸の抜けたコーラのように締まりのない顔をしているんだろう。そして、傘になんか目もくれず、ルンルンランラン帰っていくんだ。

 完全なる妄想は今日に限っては外れない。そのままの体勢で男がいなくなるのを待っていると、青空に覆いかぶさるように、こげ茶色の柔らかな髪が視界を遮った。


「じゃあ、空読み師さん、明日の夜って暇?」


 空を斬って現れた男はわずかに垂れた甘い目を細めて、白い歯を見せて綺麗に笑った。


「こ……高課長!」


 葉月は勢いよく起き上がり、そして思いっきり後ずさった。


 ど……どうして突然現れたんですか?っていうか、この人が真昼間にここに現れるなんて、ろくな事がない。

 今まで依頼された無理難題を思い出した葉月は、咄嗟に男の後ろを見た。確認したのだ。緋色の官吏服の彼の上司がいないかどうか。


「安心して。今日はひとりだよ」


 葉月の内心を察したかのように、光啓こうけいがにっこりと笑った。


「それよりも、葉月ようげつ、明日の夜は暇?」

「暇じゃありません」

「もしかして、もう他の男と約束しちゃった?」

「――はいぃぃ?」


 適当に答えたら、とんでもない方向に話が行っちゃったんだけど。明日の夜って何があるんですか?他の男と約束ってなんですか?


「えっと、夕食はきちんと呉家でとらないと、呉長官に何を言われるかわからないので……」


 正確に言うと、呉長官というよりは、その奥方に何を言われるかわからないのだが……


「よかった。他の男と約束したわけじゃないんだ。じゃあ、呉長官が了解したら、明日の夜、夕飯でも一緒にどう?」


 いや、だからよくありません……。ああ、もっとうまい言い訳……じゃなくて理由を。あまりに突然現れたから、動揺して何も浮かばない。


「急に言われても困るよね」

「はっ……はい。そうです。困ります!」


 ぶんぶんと音が出るくらい勢いよく首肯した葉月に、目の前の男は「直球だなぁ」と声を立てて笑った。


 だって、あの告白を断ってから一月ひとつきしか経っていない。その間、一度も会うことはなく、もう二度と会うこともないだろうと、申し訳なさと一抹の寂しさを胸の奥に押し込んで、ようやく平常心を取り戻しつつあった。そんな矢先、突然現れたと思ったら「明日の夜暇?」なんて聞かれて、「はい、暇です」なんてしらっと言えるほど面の皮は厚くないし、かといって「あなたとはもう会いたくありません」なんて言えるほど気が強いわけでもない。

 答えに窮する葉月を前に、光啓が小首を傾げた。


「じゃあさ、もし俺と夕飯食べてもいいと思ったら、明日の夕方、とりの刻にここに来てよ。もし、その時間になっても葉月がいなかったら諦めるから」

「そ……そんな、課長を待ちぼうけさせるなんてできません」

「それ、来ないって前提?」


 えっ……と思わず息を飲む。


「大丈夫だよ。もうこの前みたいなこと言わないから。ただの仕事仲間として、夕飯一緒に食べない?」


 茶色い髪をかき上げて、光啓はにっこりと笑った。

 

 よ……余裕ですね。こっちは動揺しまくって返事すらまともに返せないってのに、高課長からは動揺のどの字も見当たらない。きっと女性とのつきあいなんて慣れたもので、一月ひとつき前の告白も、彼にとってはすでに過去の遺物なんだろう。執着している自分のほうが滑稽だ。動揺しているほうが馬鹿らしい。


 葉月は意を決して、黒縁めがねを押し上げた。


「わかりました。じゃあ、明日の夕飯、一緒に食べましょう」


 太陽の化身のような眩しい笑顔がわずかに固まった気がしたのは、気のせいだろうか……


「本当にいいの?」

「もちろんです」


 仕事仲間としてなら、高課長とは何度も食事に行ったことがある。なにも間違ったことはないはずだ。

 漠然とした不安を払拭するように、葉月は勢いよく首を縦に振った。




※※※ ※※※ ※※※




――七夕――

 昔、天帝の娘 織女と牽牛は密かに愛し合った。しかし、天帝の怒りに触れ、織女は人間の世界から追放されてしまう。その後、織女と牽牛は一年に一度、七月七日のみしか会うことを許されなくなった。


「まあ、明日の夜、食事ですって?」


 泰京の中でも殊更大きな四合院しごういんに、驚愕と感嘆の入り混じった女性の声が響き渡った。葉月は何品もの食事が並ぶ大卓の前で背を丸めた。


雪涛せっとうさん、なにもそんなに驚かなくても、仕事仲間と食事に行くだけです」


 葉月の前には薄紫色の仕立てのいい襦裙を身にまとった、艶やかでいて品のいい女性が座っていた。誰もが振り返る白皙の美女は、並みいる男を釘づけにする流麗な瞳をぱちくりさせた。


「葉月、明日、何の日か知ってるの?」


 驚きを隠せないという表情でそう言ったのは、呉桂成夫人 雪涛せっとう。詩歌を詠ませたら、泰京で右に出る者はいないというほどの詩才を持つ、才色兼備な女性である。


「えっと、実は何もわからないんですが、なにかのお祭りですか?」


 その答えに、理解できないとばかりに首を振った雪涛は、すぐに目の色を変えて、葉月の肩を掴み上げた。


「ところで、相手は誰なの?」


 い……痛いです、雪涛さん。

 葉月は妍麗な美女が有無を言わさず迫りくる迫力に怖気づいた。 




※※※ ※※※ ※※※




 ちょうど一月ひとつき前、葉月は監視付き居候から解放されて、呉桂成ごけいせいの屋敷にやってきた。


 呉桂成宅は皇城の東側にある閑静な胡同フートンにあった。涼を運ぶ柳の数を数え、灰色の土壁をたどって行った先に見えた豪華な朱色の大門に、葉月はごくりと唾を飲み込んだ。訪問者を知らせる金色の門首は眩い輝きを放ち、門脇に置かれた獅子の像が訪問者を威嚇する。それは葉月がこれまで見た屋敷の中でも、殊更大きな四合院だった。


 死神の家もでかかったけど、こっちはさらにでかい。長官って貴族の名誉職なのか!?

 そう思わずにはいられないくらいの仰々しい門構えに緊張しながら門首を叩くと、中から豪華な家になんともぴったりな麗しい佳人が現れた。少し近寄りがたい印象の美女は、葉月を見るなりその美しい顔を盛大に崩して、「葉月ね、待ってたわ」と満面の笑みで出迎えた。

 それが今目の前にいる呉桂成夫人 雪涛せっとうだった。

 

 話を聞けば、雪涛は自分と同い年だという。それゆえ会う前からどんな娘が来るのか楽しみにしていたそうだ。こんな女らしさの欠片もない眼鏡女が現れて、さぞやがっかりしたことだろうと思いきや、「思ってた通りだわ」とほくほく顔で言われた。


 雪涛が同い年ということは、つまり……

 おば様悩殺の微笑み礼部長官、実はロリ……いや、年下好きだったのか。


 とにもかくにも、葉月はすっかり友達認定された呉夫人に招かれる形で、この家に居候することになった。




※※※ ※※※ ※※※




「で、葉月、相手は誰?」


 ああ、そういえば、話の途中だった。美女を前に物思いにふけるなんて、自分もかなり綺麗な顔に耐性がついたもんだ……って、それより、雪涛さん、迫りすぎ!顔が怖いですって!

 葉月は目の前の皺ひとつない衣をやんわりと押した。


「雪涛さん、ちょっと距離近いです」

「そうやってはぐらかすつもりでしょう。いつも肝心なことは曖昧にかわすんだから。今日という今日は――」

「言います。言いますから、とにかくちょっと離れてください」


 仰け反りながらそう言うと、鬼気迫る勢いの美女は意外にもすんなりと引き下がった。しかし、茶器の向こうからじっと見つめてくる瞳が……怖い。


「えっと……、明日は元上司と食事です」

「元上司って?」

呪術祠祭じゅじゅつしさい課の――」

「まさか、高光啓様?」


 はい。と肯定するよりも早く、雪涛は跳ねるように椅子から立ち上がった。


「それは本当なの?」

「……はい」


 なぜかこちらの答えが尻すぼみになってしまったのは、完全に雪涛の勢いに負けているからだ。好奇心旺盛な乙女のように目を輝かせる雪涛に「落ち着いてください」とたしなめ、ようやく彼女が椅子に腰かけたところで、葉月は気になっていたことを聞いた。


「で、明日って何があるんですか?」


 真顔でそう問えば、雪涛はわずかに呆れ、それでも興奮を隠しきれずに半身を乗り出した。


「明日の夜は恋人の日よ」

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