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「そんなことがありえるのが、旅行のようです……」
ガーガーと盛大に威嚇するカラスを前に、葉月はそうひとりごちた。
あの後、仕事から帰ってから準備をした。
そして、今朝飛行機に乗ったはずが、気づいたらここにいた。
色々端折ったけど、簡単に言えばそういうことだ。
目の前のカラスは刃物のように尖ったくちばしを大きく開けて、明らかに「俺の縄張りを荒らすな」と叫んでいる。
葉月だって彼の縄張りを荒らすつもりはサラサラない。
「っていうか、ここ……どこ?」
おそらく地上じゃない。たぶん、空中……。
ふわふわと安定感のない足元に、頼りなく体を支える物体。どういうことかと意を決してあたりを見れば、葉月は巨大な十字型のオブジェの横棒部分に体をくの字に曲げた状態で引っかかっていた。
地上まではおそらく三メートル以上はありそうで、恐怖から思わずヒッと声が漏れる。
こ……怖いよーーー。
泣きそうになりながら視線を宙に戻して、必死で木の梁にしがみつく。
なぜ、どうして、自分は今、木の梁に引っかかっているんだ!
しかも、どうやってここから降りればいいんだ!!!
猿のようにスルスル降りるのは無理そうだし、かといって飛び降りる勇気なんてない。どうやら、ここは丘の上のようだけど、大声で誰かを呼んでみたところで、辺りに人の気配はない。
どうしよう……。
途方に暮れながらしばらく考える。すると、葉月がいる丘に向かって黒い衣を纏ったひとりの男がやってきた。
漆黒の髪に、冷たい切れ長の瞳。すっと通った鼻筋に、薄く形のいい唇。恐ろしく整った顔の男だった。
丘を登り切った男は、十字型のオブジェの下まで来ると、葉月を見るなり大きく眉を顰めた。
なんだか、すっごい睨まれている気がする……。
それでも、とりあえず声をかけてみようと思い、「すみませーん……」と言ってみる。けれど、男の表情が和らぐ気配はない。
もしかして、言葉が通じていないのかもしれない。
「えっ、エクスキューズミィ……?」
語学力がないのがバレバレだけど、緊急事態だ。下を見るのも恐ろしかったけど、引きつりながら笑顔も作ってみた。
それでも、冷たい表情はピクリとも動かない。
この国際化の時代にあって英語もダメ? いや、自分の発音がダメなのか。とりあえず、ここは中国語でなにかを話しかけなくちゃ。
そう思ったところで、宮地に教えてもらった中国語が頭に浮かんだ。たしか――。
「ブーヤオ」
その声に反応して、男がなにかを話しかけてきた。
でも、何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
首をかしげる葉月に、男は呆れたと言わんばかりにこめかみを揉みこみ、一緒に来た若い男と何かを話し出した。
ああ、何を言っているんだろう……。
ここがどこかわからない不安。助けてもらえるかわからない不安。今の状況を説明できない不安。
改めて、ここが木の梁の上だということに、葉月の体は恐怖で震えた。
とにかく、一刻も早く助けてほしい!
そんな心の叫びが聞こえたかのように、男が切れ長の瞳を向けた。
「ブーヤオマ?」
今、ブーヤオって言った?
意味のある言葉を投げかけられたことが嬉しくなって、葉月はコクコクと頷きながら、「ブーヤオ、ブーヤオ」と繰り返した。
会話が通じたことに、知らずと安堵の息が漏れる。わずかに冷静になった頭で、ブーヤオの意味を思い出す。たしか、宮地は――。
『ブーヤオは、いらないっていう意味よ』
そうだ。ブーヤオはいらないだ。
「ブーヤオ、いらない。ブーヤオ、いらない」
そうして何度か呟いてから、はたと気がつく。
ちょっと待って。この状況でいらないって、助けがいらないってこと!?
「ちっがーーーう。違う、違う、いらないんじゃなくて、いるんです。助けがいるんです。NOブーヤオ、NOブーヤオォォォ」
最後は半分絶叫していた。
中国語と英語と日本語がミックスしていたけど、気にしている余裕はまったくない。全身全霊、身振り手振り総動員で下ろせと喚きまくる。
暴れた反動で掛けていた黒縁眼鏡が落ちそうになって、慌てて押し上げ、バランスを崩して頭から落ちそうになって、とっさに両手で木の梁を抱える。
そうして、なんとか体勢を立て直したところで、自分に向かう冷めた視線に気がついた。
葉月の一挙一動をずっと見ていたらしい。
無表情で見上げていた男は、目が合うなり口の端を歪めて、虫けらでもみるように冷笑した。
ぞわり――。
足元から頭のてっぺんに向けて、今までと違う震えが駆け上がる。どう見ても、眼下にある冷酷な笑みには善意の欠片も見当たらない。
悪代官……。いや、そんな生ぬるいもんじゃない。表情が読めない笑いとでもいうか、人間らしさがないというか……。
そうだ、死神だ!
死神に十字架。これじゃあ、本気で処刑人だ。
自らの首が死神の大鎌で呆気なく切られる様子が目に浮かんで、葉月はもうどうにでもなれと、渾身の力で足をばたつかせた。
この際、落ちても怪我してもいいから、この状況から抜け出してやる!
その一心で空中を蹴り続けた葉月の上半身は、十字型の横棒部分からするりと抜け落ち、地面に向かって勢いよく落下した。
途中で、掛けていた眼鏡が外れたけれど、かまっている余裕はない。次に来る衝撃に、ギュッと目をつぶる。
――しかし、予想に反して、痛みも衝撃もやってこなかった。
恐る恐る目を開ける。
ぼんやりとした視界の先にあったのは、超絶美貌男の無表情な顔。下を見れば、葉月の体は男の腕にしっかりと抱き留められていた。
どうやら、落ちたところを、うまくキャッチしてもらったらしい。
「助かった……?」
両脇を支えながら、ゆっくりと地面に下ろされる。けれど、腰から下はすっかり力が抜け落ちていて、不覚にも、目の前の体に自ら抱きつく形になってしまった。
刹那、男の視線がまるで殺傷力の高い刃物のように飛んできた。
「あー、いやー、これは、そういう意味ではなく……」
助けてもらったには違いないけれど、男の顔は険しく、立ち昇るオーラは氷のように冷たい。
それでも、お礼だけは言っておこうと思って頭をひねる。
たしか、ありがとうは――。
「シエシエ」
ついでに、引きつる頬の筋肉を無理やり動かして、笑顔らしきものも作った。
この際、恐怖政治の絶対君主みたいな極悪顔を和らげるためなら、なんだってやってやる。スマイル0円、万歳!
そんな葉月の表情を見て、男はわずかに瞠目し、そして何を思ったのか、幼子をあやすようにその背中をポンポンと叩き出した。
えーと、えーと、えーと……。
状況がまったく理解できない。少しでも冷静になろうと頭をフル回転させたけど、なにも浮かばない。
今はこの「大丈夫だよ」とでも言うように、優しく叩かれた手のぬくもりしか感じられない。
そして気がつけば、葉月の涙腺は、大雨の後の堤防のように派手に決壊していた。
「助かった、よかったよー。ありがとう、死神さーん」
目の前の皺ひとつない衣に頭をあずけながら、葉月は子供のようにわんわん泣いた。
本当に本当に死ぬかと思った。言葉が通じなくって不安だった。ここがどこかも、これからどうすればいいかもわからないけど、とりあえず助かってよかった。死神なんて言ってごめんなさい。助けてくれてありがとうございました、死神さん……。
男の胸を借りて泣き続ける葉月の様子を、後ろにいた男がこの世の終わりだとでも言わんばかりの蒼白な顔で見ていた。……のだが、泣きじゃくる彼女が気づくことはなかった。
そして、ここが正真正銘、処刑場だと知ったのは涙が枯れた後で、ここが中国でもなんでもなく鳶国という中国語が通じる異世界だと知ったのは、さらにずっと後のことだった。