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「あれ?水銀の高さが微妙に下がってる気がする……」
葉月は水銀柱を前に首をかしげた。もう一度測り直したが、やはりわずかだが水銀の高さが前日より下がっていた。
「でも、観測には誤差がつきものだし……昼にもう一回測ってみよう」
体を起して水銀を片づけようとした時、短装の襟もとからポロリと光るものが落ちた。それは珊瑚の簪だった。
「こんなものもらっても使い道がないって」
死神の顔を思い出して顔をしかめた葉月は、そのまま胸元に簪を戻した。
午前中の雑務をこなし、太陽が天頂近くに達する頃、葉月は呪術祠祭課に戻った。荒い息を吐きながら扉を開け、目的の物に視点を定める。
しかし、そこにあるはずのものが見当たらなかった。
「あれ?銀ちゃんが……ない」
黒縁眼鏡を押し上げて目を凝らしたが、やはり机に置いたはずの水銀の瓶がその場所になかった。
「まさか高課長か之藻さんが持ちだしたとか?」
口に出してみたがその可能性が低い事は初めからわかっていた。銀ちゃんに触って万が一でも壊したら、弁償させた挙句、後生恨み続けてやると脅していたからだ。
「もしかして外に置き忘れたかな」
夕方まで礼部衙門の周辺を探したが結局見つからず、葉月は日が落ちた気象観測所に再びやってきた。
今日が満月でよかった。月明かりで辺りが薄明るく見える。
「本当にどこ行っちゃったんだろう」
もし気圧が下がったのなら、それは雨が近いということ。しかし、見切り発車で祈雨祭を行うのは危険だ。しっかり雨が降る確証を得なければ。とにかくもう一度気圧を測りたい。葉月は藁をもつかむ気持ちで辺りを見回した。
その時、視界の先、薄明るい月灯りの下に人の姿が浮かび上がった。ゆっくりとこちらに近づくのはおそらく女。一人、二人……、暗い色の衣が闇に浮かび上がる。目を凝らせば、それは女官の衣だった。
「誰ですか?」と硬い声で問いかけたが、女官の名前など知っているわけがない。それでも聞いたのは恐怖心から自分を奮い立たせるためだった。
闇の中、女のひとりが口を開いた。
「あなたいつまで光啓様に張りついてるつもり?目ざわりなのよ」
……はっ?
高課長に、張りつく?そんなことした覚えは……って、もしかして、高課長のファンに脅されてる!?
「官吏でもないくせに、官衙街を我が物顔で歩き回って、そんなみすぼらしい恰好で光啓様の隣を陣取るなんて、見ているだけで虫唾が走るわ」
甲高い怒声とともに女達が闇の中から姿を現した。数人いる女官は綺麗に身なりを整えた美女ぞろい。しかしながら、柳のように整った眉は今は剣のように釣り上り、熟した果実のような唇からは辛らつな言葉がこぼれおちる。
ああ、なんか面倒なことに……
「あの、お言葉ですが、私は張りついたことも隣を陣取ったことも一度もございません。むしろ、高課長の方が金魚の糞――」
「お黙りなさい!あなたみたいな小蝿が光啓様の周りをうろついてると、はっきり言って目ざわりなのよ。光啓様と話すなんて百年早いわ!」
コ……コバエですか。
いや、ブスとかストレートに言われなかっただけマシか。
葉月は数歩後ろに下がった。距離を取ったことで少しだけ頭が冷静になれた。
一、二、三、四。女官は全部で四人。さっきから先頭でまくしたてている、殊更綺麗なあの人がボスというところだろう。こんな夜中に、わざわざ皇宮から内城の南の端まで足を運ぶなんてご苦労なことだ。自分が夜中にこの辺をうろつきまわることを予想していたとしか思えない。
……ん?まてよ、それって――
「もしかして、銀ちゃん隠したのあなた達ですか?」
「銀ちゃん?」
柳眉が思いっきり寄せられた。美人さんの睨みは迫力満点。ああ、一刻も早く立ち去りたい。でも、銀ちゃんの行方が気になる。
「ええ、水銀の瓶です」
「――これのことかしら」
子分のように背後に侍っていた女官が、水銀入りの瓶を掲げた。
「銀ちゃん!!」
葉月は恐怖も忘れて女官に飛びついた。しかし、水銀まで後一歩という所で葉月の手は先頭に立つ女官に掴まれた。
「何するんですか。銀ちゃんを返してください」
「返してほしいの?」
「当たり前です。それがないと天気を予想できません」
「おあいにく様。私達はあなたに天気を当ててほしくないの。意味わかる?」
葉月のこめかみに青筋が浮いた。高課長に近づくなと牽制しに来ただけならまだしも、葉月の仕事さえも邪魔するなんて、陰険陰湿にもほどがある。
澄ました顔で意味わかる?って言われたって、これっぽっもわかるもんか。こんな女の下の下の下を突っ走ってる自分でも、一応プライドってもんがあるんだ。
「天気とあなた達と何が関係あるんですか?」
相手に負けないように、黒縁眼鏡を押し上げて低い声で凄んだ。先頭の女官は一瞬気押されたように顔色をなくし、しかしすぐに苛立たしげに背後の女官から水銀の入った瓶を取り上げた。
「本当に鈍いのね。あなたが天気を当てて、これ以上光啓様の関心を引くなんて耐えられないの。さっさといなくなってほしいのよ」
そう言った女官は見せつけるように葉月の目の前に瓶をかかげ、天女のように艶やかに微笑んだ。そして、次の瞬間、スローモーションのようにゆっくりとその手を離した。
--パリン--
重力に従うように落下した硝子瓶が音を立てて砕け、中から銀色の液体が玉のように弾け飛んだ。
「なっ……なにするんですか!!」
「雨が降るまであなたには消えてもらうわ」
そんなことしたら、大好きな光啓様の首が飛んじゃうかもしれませんけど、いいんですか?
と反論する間も抵抗する間もなく、目と口を布で一気に覆われ、葉月の体は荷物でも運ぶようにずるずると容赦なく引きずられた。
いっ……痛いって。
あまりの痛みに叫んでみたが、布でふさがれた口からはくぐもったうめきしかもれず、両手足を拘束された状態では逃げることもかなわない。
そして、気が遠くなるほど引きずられて手も足も感覚がなくなり、意識さえも遠のいてきた頃、突如葉月の体は物でも投げるかのように放りだされた。
「この牢に入ってなさい」
牢という言葉に、体がピクリと反応する。
嘘でしょ。まさか二度目の牢屋行き?
目隠しをされて前が見えなかったが、葉月は渾身の力でもがいた。それでも多勢に無勢。前からは腕をひかれ、後ろからは背中を押されてしまえばなにもできやしない。葉月はしかたなく唯一動かせた左手を胸元に差し込んだ。
ただ心穏やかに暮らしたいだけなのに、どうしてこんな目にばかりあってしまうんだろう。
葉月は胸に差し込んだ手をだらりと地面に下ろした。
※※※ ※※※ ※※※
いつの間にか目隠しは外されていた。石造りの牢の床にごろりと寝ころびながら葉月は高窓から覗く夜空を見上げた。
今までの自分の人生、およその女子らしいこととは真逆のところにいた。料理も裁縫もできなければ、オシャレにも恋バナにも興味はなし。高校の時はクラスの中で目立つ綺麗系または元気系女子グループに入ることはなく、ひっそりと過ごしていた。唯一の楽しみといえば、放課後地学部の部室に行って、理系オタク達と語り合うくらい。もちろんそこには恋愛感情なんて存在しない。
そんな理系女子だけど、これでも一応は女子なので、漫画で学園のヒーローが目立たない女子に声をかけて、周りに嫉妬されながら付き合うみたいな王道ストーリーに仄かな憧れを抱いたりもした。あくまでも、自分には一生起こらない事だという前提でだが――
それなのに、まさか現実に起こってしまうとは!あっ、正確に言えば、そのヒーローとは別に恋愛関係になったわけでもなく、ただ空読みの知識に興味を持たれて近づかれただけだけど。それでも勘違いした綺麗系女子達に嫉妬されて、嫌がらせされて、監禁までされてしまった。彼女達は本気でこんなまな板ガリガリの眼鏡女があの爽やか笑顔のイケメン課長と、あはーんうふーんな関係になると思っているんだろうか。
「アリエナイ……」
思わず日本語で呟いたが、どうせ誰もいないのだから問題ないだろう。
それよりも銀ちゃんを壊されてしまった。その事の方がショックは大きい。大金はたいて買ったのに……。
「まさか弁償なんてしてくれないだろうしなー。これからどうしよう……。っていうか、私ここから出られるよね。出られないなんてことないよね」
このまま誰にも気づかれずに牢屋で朽ち果てる、という最悪の事態を想像して、葉月は身震いした。高窓から逃げるなんて忍びのような芸当ができるわけもない。
全く。どうしてこの世界では次々と困難が降りかかってくるんだろう。飛行機から落ちたと思ったら処刑台に引っ掛かり、そのまま牢屋に入れられ、ようやくこの世界に慣れたと思ったら、内城で天気予報をする羽目になって、極悪死神刑部長官に目をつけられて監視されて、そしてイケメン課長のファンに監禁される。
「これがわずか一年ちょっとで起きたことだなんて人生濃すぎ……はあ、日本に帰りたい」
ため息とともに葉月は高窓を仰ぎ見た。
今何時くらいだろう。満月が天頂を横切り、西に傾いているので夜明けが近づいているのはわかる。いつものように茜色の朝日が昇る様を想像して、葉月はなぜだか死神の顔を思い出した。葉月が帰っていない事はとうに気づいているはずだ。
「逃げたとでも思ってるかな」
わずかな罪悪感が胸を通り過ぎて、そんな自分自身に苦笑いをこぼす。
あんなに逃げたいと思ってたんだから、むしろラッキーじゃん。
それよりも――と思って辺りを見回す。地下に造られた牢には他に人の気配がしない。もしここが刑部の牢なら、女官達が簡単に使えるはずがない。ここは別の牢なのだろう。しかし、葉月にはその別の牢がどこにあるのか皆目見当もつかなかった。
「はあ、お腹すいた……」
葉月は高窓から覗く空を見上げ、そしてはっと息を飲んだ。
太陽が地上に顔を出すその時、空は茜色に染まる。しかし、葉月の視界に映った空は黒みがかったピンク色をしていた。
「お腹すき過ぎて、幻覚見ちゃってる?」
そう言葉に出して葉月は乾いた笑いを零した。そんな訳がないと自分自身が一番よくわかっている。不気味なピンク色の空、それが意味する事は――
「ホントに雨降っちゃうよ」
葉月はため息とともに瞳を閉じた。