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「完全にこっちの反応を見て、楽しんでた……」
脱兎のごとく光啓のもとを去った葉月は、卓子の上で頭を抱えた。
そりゃあ、高課長が今まで口説いてきた女性達からしたら、私なんて赤子の手をひねるくらい簡単なんだろうけど、あんな爽やかフェロモン顔で、
『俺が慣らしてあげようか』
なんて、言う?普通?そして、そんなこと言われて素面で返せる女性なんているの?
自分には無理。許容範囲、完全に超えてた。ひとっ言も返せなかった。しかも、絶対にパニック丸出しの変顔してた。あー、もう恥ずかしい。
とにかく!これからは不意打ちフェロモン攻撃を仕掛けてくる男とは、半径二尺どころかその倍の距離を取らなきゃ無理だ。
「半径四尺以内、進入禁止!」
黒縁眼鏡を押し上げて、葉月は固く誓った。
そんな日が何日か続いて、葉月の周りでは不可解なことが起こるようになった。
机の上に置かれた箱の中から大量の毛虫が出てきたり、差し入れと書いた饅頭から縫い針が出てきたり。今日は雲一つない天空からバケツをひっくり返したような大量の水が――葉月の頭の上にだけ――降ってきた。
これだけ連続して続けば、さすがの葉月も気がつかないわけがない。
「これっていわゆる嫌がらせってやつ?」
考えられることは二つ。ひとつは葉月を悪の手先だと思い込んでいる死神刑部長官による仕業。しかし、死神がこんな回りくどいことをするようには思えない。残る一つは最近の高課長の過剰なスキンシップを見たファンによる仕業。
「こっちがビンゴだろうな」
彼には悪いが、ここはきっぱりはっきり近寄るなと言っておいたほうがよさそうだ。
葉月はびしょ濡れの衣の裾を雑巾のように絞り、呪術祠祭課の扉を勢いよく開けた。
「高課長、今日という今日ははっきり言わせてもらいます!今後半径四尺以内に近づいたら、内城に来るのをやめさせてもらいます。空読み師の仕事も一切引き受けませんからね。わかりましたか?わかったら、はいと言いやがれ!」
語尾が荒々しいのは、このずぶぬれ姿に免じて許してもらわなくちゃやってられない。伊達にイケメン歴長くないんだから、ファンクラブの女子くらいちゃんと管理しろ!
心の中でさらなる怒りをぶちまけて、部屋の中をぐるりと見回したが、八畳ほどの部屋の中には人っ子一人いなかった。
「あれっ?」
イケメン課長 高光啓どころかいつもは床で寝ている鄭之藻の姿もなく、さすがに不思議に思った葉月の視線は、卓子の上に乗った一枚の紙に向けられた。
「欽天監に行ってきます。今日は戻らないので適当に帰っていいよー。だって?」
ハートマークつきの文を読んで、葉月の肩から思いっきり力が抜けた。
罵声を浴びせようと思っていたのに……まあいいか。どうせびしょぬれで仕事をする気にもならないし、適当に帰っていいというならさっさと帰ろう。
葉月は手元にあった毛巾で濡れた頭を拭きながら、部屋を後にした。
※※※ ※※※ ※※※
さすがは泰京一の繁華街である。泰京大街は平日の昼間だというのに人であふれかえっていた。濡れた衣が体にまとわりついて早く着替えたかったが、忙しなく行きかう人波にもまれていると、そんなことはどうでもいい様な気がしてきた。
湖聖仁の屋敷は泰京大街を西に曲がり、鳶国各州の公館が立ち並ぶ賑やかな一角にあった。しかし、葉月はふと思い立って、屋敷には向かわず来た道を戻るように内城に入った。
西官衙街にある小高い丘に登る。途中石造りの重厚な建物があったが、それは見ないふりをして、ずっと下を向いて歩いた。
丘のてっぺんが見えた所でようやく視線を上げた葉月は、鼻の頭に思いっきりしわを寄せた。
「こんなものさえなければ、見晴らし最高のロケーションなのに」
葉月の視線の先にあるのは、高さ五メートルはある大きな十字の形をした木の梁。強い陽光を浴びて黒々と光る様は、異様な威圧感を放っていた。
この場所に来るのは飛行機から落ちて、運よくこの梁に引っ掛かって、運悪く処刑されかけたあの時以来。
「一年と……三ヶ月ぶり?」
葉月は不思議な気持ちで十字の梁を見上げた。
何度も夢に出てうなされ続けた十字架。もう二度と見たくないと思い、絶対に来るものかと思っていた。それなのに……実際に目の前にした葉月はなぜかわずかな懐かしさを感じていた。どんなに最悪な所でも、この十字架こそが、葉月が初めてこの世界に来て降り立った場所なのだ。
一歩二歩と近づいていくにつれて、十字架はその存在感を増した。
「よくあんな所にひっかかってたよな」
もし今、五メートルはあるあの木の横梁に人が引っ掛かっていたら、自分だって死ぬほど驚くに違いない。思いあまって十字の梁をよじ登った自殺志願者かと、即刻人を呼びに行くだろう。しかも、聞いた事もない不思議な言葉をしゃべっていたら……
「間違いなく、特A級の不審者だ」
冷静に考えてみると、あの時の自分は殺されなかっただけ運がよかった。
目の前に迫った梁をよくよく見れば、十字の梁の中心から下部分がペンキで塗ったようにべっとりと黒光りしていた。それはここに人が貼り付けられた事を容易に想像させ、
「まさか、この黒いのって血!?」
そう思考が行きついた瞬間、葉月は両手で口を押さえた。胸の奥からわき上がるのは強烈な嘔吐感。懐かしさは感じても、馴染みは全く感じない。
やっぱり来るんじゃなかった。
そう思って踵を返した葉月の視界に、陽光を浴びて鮮やかに輝く緋色の衣が映った。思わず息を飲んで足を止める。
「……シニガミ」
慣れた風に丘を上がってきた男が視線を上げた。
「あなたがここに来るなんて珍しいこともあるんですね」
「来ちゃいけませんか?」
憮然とした顔でそう問えば、湖聖仁は口の端を持ち上げて「いつでも歓迎しますよ」と冷たく笑った。
……それはいつでも処刑しますよと同義語でしょうか。
思わず背筋を駆けあがった寒気を隠して、何でもない顔をする。そんな葉月に気づいているのかどうか、湖聖仁は視線を十字の梁に向けた。
「あなたにとっては故郷も同然でしょうから」
……今日も嫌み抜群ですね。
誰が処刑台を故郷と思う人間がいるって言うんだ。でも、そんなこと言ったらこいつの思うつぼだから絶対に言ってやらないけど。
こちらの顔など伺う気もない男に思いっきり睨みをきかせて、葉月はその脇をすり抜けた。
「どうしたんですか?」
不意に、濡れた後ろ髪をゆるくつかまれた。
「……別に」
どうせあなたに言ったって、わかってもらえないでしょうから。
そんな気持ちを暗に漂わせて、掴まれた手を振り払えば、逆に手首を掴まれた。
「言いたくないならかまいません。でも、まずはその濡れた服を着替えてください。いくら夏とはいえ風邪をひきます」
けっこうです。と言いかけた葉月の言葉は、「否定の言葉は聞きませんよ」という冷たい一言に遮られた。
本当に長官というやつは……
逃げ場を完全に奪われた葉月は、黒縁眼鏡の奥からこれでもかというくらいの睨みで答えてやった。
※※※ ※※※ ※※※
湖聖仁に引きずられるまま、一軒の店で襦裙に着替え、濡れた髪をその店の女主人に整えてもらった。上の髪は結い上げ、下の髪は下ろすのが最近の流行らしい。女主人には何度も『その眼鏡なんとかならないの?』と言われたが、これがなくちゃあ一寸先も見えないのだ。女主人の忠告を丁寧に断って、葉月は店を後にした。
そして、粽がおいしいと評判の飯屋に連れて行かれ、ひとつで十分と言ったのにふたつも粽を食べさせられ、腹いっぱいで刑部衙門裏の丘に戻ってきた。
日が西に傾いたその丘を、涼やかな風が吹き抜ける。視界の先には内城や皇城が見えた。もちろん背後には夢にまで見るあの処刑台があるのだが、なぜだか先ほどよりも気持ちは軽くなっていた。
どうやら現金なもので、自分は身ぎれいにして腹を満たせば、嫌なことも忘れる性格らしい。
薄紅色の襦裙の裾が揺れる。結い上げられなかった襟足の髪が風になびいた。ここに来た頃は顎のあたりだった髪は、いつの間にか肩の下まで伸びていた。
不意に、結いあげられた髪に何かを差し込まれて、葉月は視線を上げた。そこには相変わらず無表情の秀麗な顔があった。切れ長の目にいつものような冷たさを感じないのは、腹が満たされているからだろうか。
「これ、なんですか?」
葉月は今しがた差し込まれた物に手を添えた。
「仕立屋の女主人に無理矢理買わされました」
手にあたった金属の感触に、それが女性の頭を彩る髪飾りであることがわかった。
「簪ですか?」
「私が持っていても使い道がありませんからね」
「こんな、いただけません。その……愛人の方々にでも差し上げたほうが使い道もあるかと……」
先ほど入った仕立屋は貴族向けの高級品ばかりを扱っていた。この簪だって一級品に違いない。
慌てて抜こうとしたら、男の冷たい手に阻まれた。
「私の噂は知っていますか?」
噂?虎の住処とか虎長官とかいって官吏達から恐れられていることくらいしか……
ぐるり頭を巡らせて、葉月ははっと息を飲んだ。
そういえば初めて刑部衙門に行くことになった時、之藻に慌てて止められたっけ。
その理由って、確か――
「……同性の方が、お好きなんでしたっけ?」
之藻はたしか死神の事を『男色家で若い官吏を食い物にする』と言っていた。大変なことがありすぎてすっかり忘れていたけど。
「知っていましたか」
「ずっと男に間違われていたんで、刑部に行く時、周りの官吏に忠告されました。……食われるなって」
突如落ちた沈黙に、ごくりと唾を飲み込む。
……やっちゃった。さすがに、食われるは言いすぎた。
死神の冷酷な視線を思い出して、恐る恐る視線を上げた葉月は、次の瞬間、思いっきり赤面した。
まっ、まさか、笑ってる!?
そう。男は目を伏せ口元を緩めて、――笑っていた。
それは、全くの意識外で不意に零れ落ちた、というようなささやかな微笑みだった。
ああ、これはダメだ。反則だ。
いつだったかこいつも少しは笑ったらいいのにと思ったけど、あれ訂正!こんな色気駄々もれの笑顔を日常的にふりまかれたら、イケメン免疫ゼロの私、命がいくらあっても足りるわけがない。そんな笑顔は好きな女……いや、男にだけ向けてくれ。
「笑わないでください」
赤くなった顔を隠して俯く。思ったより声が大きくなってしまったことに、内心はらはらしていると、視界に映った緋色の衣の裾がふわりと揺れた。
「とにかく私が持っていても使い道がありませんから、あなたが煮るなり焼くなり好きに使ってください。では、私は仕事がありますので、これで」
男は踵を返して、来た道を戻って行った。
最近は夕食を一緒にとることが多かった。沈黙が落ちる食卓で、冷たい視線を送られながらする食事は味など楽しめるわけもなく、誰かこの暇長官に残業させろと心の中で叫び続けていたが、どうやら暇なわけではないらしい。
「だったら、私なんかにかまわず仕事すればいいのに……」
相変わらず訳のわからない男の姿が見えなくなってようやく、薄紅色の襦裙の裾をぎこちなく持ち上げて葉月は坂を下りた。