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「要するに、あの男は自分の仕事に関わること以外には関心がないんだよね」
全くもって不可解だった死神の思考回路が最近少しだけ読めてきて、それもまた嫌なことだと思いながら、葉月はもう一度水銀の高さを測った。
「高さは変わらず二尺半。やっぱり明日も晴れか。ああ、それよりもお腹すいたなぁ」
天を仰いで、瞑目した拍子、
「また昼食を抜かしたんですか」
背後から低いながらも良く響く鳶国官語が飛んできた。そういえば、今日は官語をよく聞く日だ。
振り返った先には先ほどまで脳裏を占めていた男が、仕事から帰ったばかりなのだろう、緋色の官吏服のまま立っていた。葉月はすぐに視線を戻して、無言のまま水銀を片づけだした。この話題は何回も男との間で繰り返されてきた。もうまともに答えるのすら面倒だ。
「明日こそは昼食を準備させますから持って行きなさい」
「けっこうです。私が昼食をどうしようが関係ないと思いますけど。って、この話何回もしましたよね」
周りが聞いたら卒倒するような口のきき方だが、湖聖仁は気にした様子も見せず院子に置かれた琺瑯の椅子に腰かけた。緋色の衣が夕日を浴びて赤みをまし、目に眩しく飛び込んでくる。
“虎長官”“虎の住処”などと揶揄されて、内城の官吏達から恐れられているこの男は、葉月がどんな口調で話そうがあまり意に介していないようだった。
一度「口が悪くてすみません」と言ってみたら、「悪いという自覚はあるんですね」と冷笑された。全くいい性格をしている。元はといえば、こいつがあられもない理由で監視という非人道的な事をしているわけで、こっちが丁寧に話す必要などないのだ。
男の秀麗な顔に夕日が落ちて、長い睫毛が影を作った。椅子を背に物思いにふけるその姿は、相変わらず絵になる美しさだった。
これで性格がよければ女性のハートをわしづかみにすること間違いないんだろうけど、如何せん怖い、笑わない、人殺しだもんな。それでもこいつはやっぱり長官で、本来なら敬わなければいけない人物なのだ。
葉月は緋色の衣に向かって「湖長官」と声をかけた。
「変な誤解をされないうちに話しておきますけど、明日銀ちゃんを持って礼部に行くことになりましたから」
夕焼け空を眺めていた切れ長の瞳がゆっくりとこちらに向いた。眼光が鋭くなった気がするのは、気のせいではないだろう。
「ですから、この国を侵略しようとか、王を暗殺しようとか、そういう物騒なことは考えていません。ただ、天気を予想してほしいって言われただけですからね」
「天気を予想?こんな時期に?」
「わたしもよくはわからないんですけど、とにかく今日礼部長官直々に言われましたので、文句があるなら礼部長官に言ってください」
葉月は先手必勝とばかりに一気にまくしたてた。
「何日間行くんですか?」
「えっと、それもまだわからないんですけど……」
「何も知らないまま仕事を引き受けたんですか?」
「だからそれは礼部長官が威圧感丸出しでですね、私みたいなノミの心臓の小市民には断ることなんてできなかったんです」
湖聖仁の怜悧な瞳がため息とともに和らいだ。
「あなた馬鹿ですか?それとも馬鹿なふりをしているんですか?いずれにせよ、仕事内容も聞かずに引き受けるなんて今どき小さな子供でもしませんよ」
馬鹿と言われて言い返すべき所なのだろうが、あまりにも正論すぎてぐうの音も出ない。死神といい呉長官といい月日をも動かす長官様は、相手の逃げ場をこっぱみじんに打ち砕く話し方が得意なようだ。
せめてもとばかりに緋色の衣を睨みつけた葉月は、そこではたと気がついた。
もしかして、死神だったらあの呉長官に太刀打ちできるんじゃない?それどころか、長官同士だからけっこう仲が良かったりして、水面下でお断りなんていう芸当ができたりするかもしれない。ここは低姿勢で慎重にお願いをしてみる価値ありかも。
葉月は黒縁眼鏡を押し上げ、冷たい双眸を極力見ないようにして頷いた。
「おっしゃる通りでございます。実は私ももう内城での仕事はしたくないと思っていまして、できたら湖長官の方から断っていただけたらありがたいというか、助かるというか……」
その瞬間、刃物のような鋭い視線が葉月の言葉を断ち切った。
「子供じゃないんですから、自分の始末は自分でつけなさい」
……ですよね。ごもっともすぎて返す言葉がございません。
葉月の打算は呆気なく打ち砕かれた。
そして翌日、葉月は一メートルほどもある長細い硝子管と水銀を携えて再び内城に足を踏み入れたのだった。
※※※ ※※※ ※※※
「礼部長官、出てこい!今日という今日は一言言ってやらないと気が済まねえ」
「さっさと雨を降らせろ、このままだと旱魃だ。大飢饉だ!」
久しぶりに足を運んだ礼部衙門は人でごった返していた。
どうやら雨が降らない事への苦情らしい。たしかにこのまま雨が降らないと本格的な旱魃になりかねない。現代日本のようにダムがあるならまだしも、そのような巨大貯水施設はないのだから旱魃はすぐに飢饉に繋がる。
「まあ、いくら言っても雨は降りませんけどね」
男達の野次にこっそりつぶやきながら葉月は人の波をかいくぐった。気圧は相変わらず高めキープ。雨の元となる低気圧など近づきそうにもない。
次々とぶつかってくる男達から水銀気圧計を守っているうちに、いつの間にか人の波から押し出されていた。よろめきながらもほっと息をついた葉月の視界に暗い扉が入りこんだ。
――呪術祠祭課――
もう二度と来ないと思っていたのに結局来てしまった。自分は決して意志が弱い方ではない。それでもおばさま卒倒の柔和な笑みで、その筋の人もびっくりな脅迫まがいの事を言ってくる礼部長官に、反旗を翻す事などできるわけもなかった。
扉に手をかけてため息をつく。
面倒な事になんて首を突っ込みたくない。とにかく用件だけ聞いて帰ろう。
「できません、できません。絶対にできません」
呪文のようにそう唱えて扉を押そうとした時、まるで自動ドアのように扉が内側から開いた。
「ああ、葉月、よく来たね」
現れたのは今日もキラキラスマイル全開の高光啓だった。すっと通った鼻筋に甘さを含んだ瞳。今日は珍しく烏紗帽をしっかりかぶっていて、それがまた凛々しさを加えて、相変わらずのイケメンっぷりは健在だ。
「どうも。なんだか、大変なことになってますね」
「そうなんだよ。とにかく入って。之藻、葉月が来たよ」
促されて中に入れば、陽光が当たった部屋の床には、白いほこりがうっすらと積もっていた。二ヶ月前に葉月が掃除したっきり誰も掃除をしていないんじゃないかと思われるその床に、死んだように突っ伏して寝ているのは、ぼさぼさ頭の鄭之藻だった。
いったいこの男は家に帰って寝ているのだろうか。
「熟睡中のようですね」
「だね。まあ、そのうち起きるだろうからさ。大変だったでしょ。ひとまず座って座って」
そう言って光啓は椅子に降り積もった埃を手で払って差し出した。二ヶ月前は確かに自分の席だったその場所に当然のように座るのは癪な気がして、葉月は机の上に革袋を置くだけにした。
「それで、どうして私は呼ばれたんでしょうか」
外の喧噪から薄々感づいてはいたが、葉月はそれをおくびにも出さずそう尋ねた。
さっさと要件を聞いて絶対不可能と言って帰ってしまおう。それしかない。
葉月がそう決心した横で、光啓が水銀の瓶を興味深そうにつついた。
「これで天気を予測するの?」
「そうですけど。って、まず先に用件を教えてくれませんか」
「ああ、ごめんごめん。久し振りに葉月に会ったから舞い上がっちゃったよ」
相変わらず女子を手玉に取っていそうな軽い口調も大健在のようだ。
表情なく横目でじっとり見据えた葉月に気づくことなく――いや、気づいているのかもしれないがそんな気配は微塵も感じさせず――光啓は親指を突き立てて扉を指した。
「外見たでしょ」
「……ええ」
「もう、一月も雨が降っていない。それで、国民の不満が大爆発しちゃってさ。これは文治帝が祈雨祭を行わないからだって、礼部に苦情殺到中。いつもは暇な俺らも休みなしで対応してるってわけ」
へえ、それはよかったですね。さすがに仕事しないで給金もらうのは申し訳ないですもんね。
心の中でそんな毒を吐きながら葉月は無表情を決め込んだ。
「自然現象だからしかたがないんじゃないですか?」
「文治帝もそう言って相手にしてなかったんだけど、天を治められないのは帝に天子の器がないからだっていう輩が出てきちゃって」
この国で皇帝は天子とも呼ばれ、天を司る者という思想が一般的だ。つまり、少雨による旱魃や大雨による川の氾濫などは、皇帝が天を支配できていないが故。皇帝の力不足とみなされる。
「それでついにあの呉長官が切れちゃって、文治帝に祈雨祭をやれって鬼の形相で直談判したってわけ」
おばさま卒倒の微笑みが怒りに変わる様を思い浮かべて、葉月は一度しか見たことがないこの国の皇帝に同情した。
「国民と呉長官の怒りを収めるための雨乞い、たしかに必要ですね」
「必要も必要。俺らの健やかな生活のためにも是が非でもやらなくちゃなんないと思わない?」
「ええ、思いますとも。――じゃ、がんばってください」
私は部外者ですから。そういうニュアンスを残して水銀の瓶を持ち上げた瞬間、葉月の手に日に焼けた男の手が乗った。
「力、貸してくれるよね」
いや、無理です……。ってその前に、
「手を離してください!」