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ソラヨミシ  作者: こでまり
序章
1/63

 世界中が一番静かな夜明け前、薄暗い空を見ながら葉月はづきは赤いマグカップを傾けた。


 そういえば夜明けのコーヒーなんて言葉あったよね。モーニングコーヒーだっけ?どうしてそんな言葉があるか子供の頃はわからなかったけど、今ならわかる。たしかに、眠気覚ましにこの一杯は効く。


「――葉月さん」


 ふいに名前を呼ばれて振り返る。空きが目立つデスクの先からシルバーの細眼鏡をかけた青年が顔をのぞかせていた。


「もう放送まで一時間切ってるよ」


 へっ、もうそんな時間!?

 葉月は黒縁眼鏡を押し上げて部屋の中央に掛けられた無機質な時計に目をやった。時計の針は五時半を指している。ほんの五分ほどのつもりが気づけば十五分以上経過していたらしい。

 

「い、いま戻ります!」


 底にわずかに残ったコーヒーを飲みほして、葉月は慌てて自分の席に戻った。


「相変わらず余裕だね」


 隣に座る理系青年佐藤が神経質そうな顔に似合わない飄々とした笑顔を向ける。いつも時間ぎりぎりに仕事を仕上げることを知っていての嫌味なのは百も承知だ。葉月はその言葉に苦笑いで答え、パソコンのマウスを人差し指で叩いた。


 ☁ ☁ ☁ ☁ ☂ ☂ ☂


 画面に天気マークがずらりと並ぶ。


「昨日の予想通り今日は午後から雨。けっこう降りそう」


 ひとり事のようにつぶやけば、シルバーの眼鏡の真ん中をグイと押し上げた佐藤が背後に並ぶ天気図に目を光らせた。


「大気の状態はかなり不安定。雷の可能性もあり」

「じゃあ、急な雨、落雷、突風に注意ってとこかな」


 天気図から視線を外し、葉月は勢いよくキーボードを打ち出した。


 ここは某テレビ局内の気象センター。葉月は気象会社経由でここに配属されている新米気象予報士だ。といってもテレビに出ているわけではない。仕事はもっぱらテレビに出る気象キャスター、いわゆるお天気お姉さん用に天気の原稿を作ること。


 えっ、自分がテレビに?そんなの無理無理。

 だって、典型的な理系女子の天気オタクなんだから。

  

 黒縁眼鏡と長めの前髪が顔の半分を覆い隠しているおかげで、早勤の時はノーメイク。どうせ誰に見せるわけでもない服はお決まりの黒カットソーにデニムジーンズ。オシャレよりも天気について語り合っているほうが百倍楽しい。


「今日は大気の状態が不安定、急な雨、落雷、突風に注意と。よしっ」


 朝の情報番組用の天気原稿を完成させ、葉月は弾むようにエンターキーを押した。時計の針は六時十分。なんとか間に合ったことに自然と安堵のため息が漏れた。とその時、

 

「おはようございまーす」


 入り口付近から甲高い声が聞こえてきた。視線を上げれば、そこにはこれからデートですか?と問いたくなるようなオフホワイトのワンピースに身を包んだ女性が立っていた。ばっちりメイクが寝不足の葉月の目をこれでもかと刺激する。


「葉月さん、おはよー」

「おはようございます、堂本さん。今日の巻き髪も竜巻並みのクルクル度ですね」

「さすが葉月さん気づいてくれた?ありがと~」


 バサバサ睫毛とキラキラ笑顔でそう答えたのは朝の情報番組のお天気お姉さん、堂本美香どうもとみか。現役大学生で去年はミスなんたらをとったらしい。


「でも堂本さん、今日は湿度が高いから、外での中継中に巻き髪崩れるかもしれませんよ」

「うっそ~、葉月さんそれ早く言ってよぉ。今からまとめ髪にする時間あるかな?」


 綺麗にまかれた茶色い髪を片手で払って、堂本美香は手元を彩るゴールドの腕時計を見た。


「ああ、時間ないかも。でも、やっぱりまとめ髪にするから、葉月さんすぐに原稿ちょうだい!」


 若干上から目線はいつものこと。

 葉月は仕上げたばかりの原稿を渡した。


「今日は午後から雨です。小道具に折りたたみ傘を準備するといいかもです」

「さっすが。ありがとう。じゃあ、いってきます」


 にっこり笑った堂本美香は巻き髪を翻して慌ただしく気象センターを後にした。去り際に片方の瞳をぱちりとつぶって――。


 ウ……ウインク!?初めてされたけど破壊力抜群。自分には絶対できない芸当だなぁ……。


 半ば放心、半ば感心して堂本を見送っていると、背後から声をかけられた。


「葉月ちゃん、口半開きよ」


 再度呼びかけられて我に返る。慌てて口を閉じて振り返った先にいたのは、先輩気象予報士、宮路沙希みやじさき。ショートボブの髪にパンツスーツがさまになっている。

 くすくすと笑いながら近づいてきた宮路に、佐藤がすかさず予報資料を差し出した。


「佐藤君、いつも悪いわね」

「いえ。今日は不安定度が高いです」

「じゃあ、雷雨?」

「その可能性が高いですね」

「いつもありがとう。朝は時間がないから資料をまとめてもらえると本当に助かるわ」


 無造作にまくられたスーツの袖、わずかに立ったシャツの襟まで絵になるなんて、デキる女は違う。自分がやったらよれよれ具合に拍車がかかるだけだ。


 宮路はクリップでまとめられた予報資料をざっと眺めた後、「――そういえば」と思い出したように視線を上げた。


「葉月ちゃん、明日からの休暇で中国に行くんだって?北京?上海?」


 突然矛先を向けられて、葉月は慌てて「北京です」と答えた。その答えに宮路は僅かに驚き、すぐに面白がるような視線を向けてきた。


「冬の北京は寒いわよ。ダウンに股引ももひき必須、帽子も持たないと耳が凍っちゃうかもよ。ところで、中国語はできるの?」


 そういえば彼女は元国際線のスッチーだ。海外の事はかなり詳しい。

 

「えっと、全然。でも、今回はツアーなんで」


 えへらっと危機感のない笑みで答える。そんな葉月にわずかに眉を寄せた宮路が、机の上にあるボールペンを掴みながら言った。


「そういう日本人が騙されちゃうのよ。ほらこれ。“不要”って書いて、ブーヤオって発音するんだけど、いらないっていう意味。後は、ありがとうの“謝謝シエシエ”。とりあえず、これだけ覚えておけばなんとかなるわ」


 メモ帳にさらさらと文字を書く宮地から、柔らかで爽やかな香りが漂う。

砂糖菓子をまぶしたような堂本美香の甘い香りとは違う。本当に近づいた時にわずかに香る程度の匂い。それは決して押しつけがましくなく、相手に対する気遣いすら感じさせた。こういう所作も葉月があこがれる所以だ。


 宮地は書き上げたメモ用紙をぴりっと破いて葉月に渡しながら話を続けた。


「ところで、準備は終わったの?」

「いえ、まだこれからです」

「ずいぶん余裕ね」

「今回の旅行はひとりだし、安心安全のパックツアーですから」


 危機感ゼロの答えに、宮地は呆れを通り越してクスクスと笑いだした。


「ツアーが安心安全とはかぎらないと思うけど。何が起こるかわからないのが旅行なんだからね」


 冗談交じりでそう言われて、笑いで返す。


「いくらなんでも、それは大げさですよ」


 まさか、そんなことはありえないだろうと、そのときは冗談で流したのだが--。

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