第八章~挑戦
「で、どう?徹芯の試合を観て、何か感じた?」
周詠はやれやれといった表情で、ウタリに感想を求めた。
「うん。あの立ち方・・・三戦立ち?あれ、面白いよね」
「ああ、そうだ。先人は色々な工夫をして、様々な技術を編み出した。その技術を修行する、それ自体が楽しいんだ。俺の場合はたまたま、空手の技術を学ぶのが性に合ってたってことだ」
自陣に戻った徹芯が、マットに腰を下ろしながら言った。
「周詠さんが、正中線とか軸の安定が大切だとか、動きの源だとか、色々説明してくれたよ。思うんだけどさ、これって虎とか狼とかに襲われた時にやってることと、似てるんじゃないかな」
「ほう・・・どんな風に?」
「肉食獣に襲われた時って、部族のみんなが槍を持って迎え撃つんだけど、その時にね。獣の目とか足先とか、一部分だけを見ちゃうと、動きについていけなくなるんだ。だから、全体を何となく観るようにするんだけど・・・正中線を観るとか感じるとかっていうのも、そうなんじゃない?正中線だけを見ようとすると、かえって見えなくなるっていうか。部分部分と、その集まりとしての全体をちゃんと感じたら、結果的に正中線ってのが浮かび上がってくる、って感じじゃない?」
「その通りだ。全体と部分をどのくらいの比率で感じるかは、流派や個人差によって違ってくるがな。どちらかに囚われると、どちらも見えなくなる。・・・さすがはネイティブだ。こういうことが日常なんだな」
「でも、そういう技術的なこともだけど・・・宮城さんとしては、もっと他のことも見て欲しかったんじゃないですか?自分のポリシーを貫くこととか、戦いの中での男の友情とか」
劉翔が、少しじれったそうに横槍を入れた。
「はははっ。野暮だねえ、劉翔。そういうことはな、それこそ何となく感じてもらえりゃいいんだ。いちいち言葉にすることじゃねえよ」
「あなたの場合は、正確に言語化する能力がないだけでしょうが・・・さあウタリ、そろそろ出番よ。相手はあのカールなんだから、思いっきり動いていいわよ。ぜひ、あなたの真の力を見せてちょうだい」
「真の力?ウタリさんは、そんなものを隠してるんですか?」
劉翔が、ウタリの顔を覗き込む。
「隠してるっていうか、引き出すのがちょっと面倒なのよ。・・・ねえ、カール。トーマスもエレーナも、聞いてくれない?このウタリはね、本当に桁外れの身体能力を持ってるのよ。『人間業じゃない』って言葉は、彼女のためにあると言ってもいいくらい」
「おいおい、俺はそんな超人と戦うのか?」
カールは軽いジャンプで体をほぐしながら、周詠を睨んだ。
「そうよ。ウタリの真の力を見たら、それだけでELPの・・・人類の進化に関わる仕事をしてるんだって実感がわくわよ。どう?見たいと思うでしょ?」
「そりゃあ・・・」
「そうね」
「ああ」
周詠の熱弁で、ヨーロッパ・ブロックの面々のウタリを見る目が変わってきた。
徹芯や佳澄、劉翔も、あらためてウタリに視線を向ける。
「そうそう。その調子で・・・みんな、期待してちょうだい。ウタリの力はね、周りの人間が望まないと、発動しないのよ」
「ほう・・・それはユニークだな。しかし、ひょっとしたら、そのお嬢さんが力を発揮する前に、俺が倒してしまうかもしれんぞ?」
カールがゆっくりとトレーニングルームの中央へ進む。
「やってみなきゃわからないわよ・・・さあウタリ、行ってらっしゃい」
「うん」
向かい合ったカールとウタリの体格差は、大人と子供以上だった。ウタリも決して華奢ではないが、カールの比ではない。
だがウタリの目に恐怖の色はなかった。平常心の見本のような表情をしている。
ウタリにとっては、カールがいかに高密度の筋肉を搭載していても、人間であることに変わりはなかった。
何しろウタリは、牛や虎や熊を素手で倒しているのだ。
(油断はしない。それだけでいい)
ウタリはそう思っていた。もっともこれは、ウタリが常に心がけていることだった。
「第三試合を始めます。用意はいいですか?」
「うん」
「始めてくれ」
「OK・・・ファイト!」
ウタリは軽く腰を落として、全方位にダッシュできるような構えをとった。
カールもやはり軽く腰を落としていたが、こちらはいかにもタックルを狙った前傾姿勢だった。
カールも油断をしているわけではない。
だが目の前の、明らかに自分より・・・はるかに体格の劣る少女を、いきなり打撃で攻めるというのは、どうにも気が進まなかった。
カールはすり足で間合いを詰め、目と肩で軽くフェイントをかけると、不意に、しかし自然な流れでタックルを繰り出した。
そのままウタリの腹の辺りに抱きつく。
いや。
確かに抱きついたはずだった。
だが、カールの腕の中にウタリはいなかった。
(どこだ?)
カールは左右を見渡した。
いない。
「ボス!下だ!」トーマスが叫んだ。
カールが慌ててマットに視線を走らせると、ようやくウタリが・・・転がりながら遠ざかっていくのを発見した。
(ふん。俺のタックルをダッキング・・・というより、倒れてかわしたのか。タイミングが見事すぎて、見えなかったな。だがファイターのよけ方じゃない。それじゃただ逃げてるだけだぞ、お嬢ちゃん)
ウタリはゴロゴロと転がり続けて・・・カールから五メートルほど離れた所で立ち上がった。
カールはその間に、ゆっくりと息を吐いて気持ちを落ち着かせた。
「ウタリは相変わらず、いい目をしてますね」佳澄が嘆息する。
「うん。・・・でも、カールもすごいね。あのタイミングでタックルをかわされたら、バランスを崩してつんのめってもおかしくないのに」
劉翔が、無表情なままでカールを褒めた。
「そうだな。周詠、これはきっと、お前への対策だぞ」徹芯がニヤリと笑う。
「そうみたいね。・・・本当に研究熱心だわ」
カールはまた、腰を落として間合いを詰め・・・タックル。
今度はさっきより低い。
ウタリはまっすぐに退がる。
カールの手が伸びる。
ウタリが上に跳ねる。更にカールが追う。
・・・その太い両腕を、ウタリが踏みつけて跳んだ。
反動でカールがバランスを崩す。が、片手でマットを軽く叩いただけで、すぐに立て直した。
着地したウタリは、少し驚いていた。
「ウタリは、カールが転倒すると思ってたんでしょうね」
劉翔が身を乗り出しながら呟いた。
カールはもう一度、タックルをしようと前傾姿勢に・・・なろうとしたところへ、ウタリが絶妙のタイミングで踏み込み、カールの頭を上から押さえた。
体を沈める動きを加速されたカールは、そのまま腹這いに・・・なりそうだったが、右足を強く一歩踏み出してこらえた。
こうなると、小柄なウタリは分が悪い。カールは自信満々で抱きつこうとした。
だが一瞬早く、ウタリはマットを蹴ってカールの頭上で片手倒立をすると、反転して背後に着地した。
「・・・確かに人間業とは思えんな」
カールは振り返りながら、首を左右交互にゆっくりと倒した。
頚椎がゴキ、ゴキと威圧的に鳴り響く。
「どうやら、タックルだけで捕まえるというわけにはいかんようだな・・・」
カールは腰をひねりながら、歩くように両腕をブラブラと振り、両手を軽く握ったり開いたりを繰り返した。
そしてまた、腰を落として前傾姿勢に・・・なろうとしたところへ、またウタリが跳びこんだ・・・が、途中で弾かれたように飛び退いた。
ウタリの鼻先を、右のロングフックが通過していた。
ただし、拳ではなく掌で打っていた。
カールはウタリが着地する前にダッシュして、左ストレートを放つ。
これも掌だった。
ウタリは右斜め前に入り身をしてかわす。
(このままバックを取りにくる)と判断したカールは、右回りに旋回しながら右の手刀を水平に振った。
その読みは当たっていたが、いちはやく手刀に気づいたウタリは、バックステップで距離を取っていた。
「・・・ふん」カールはその場でフットワークをしながら、呼吸を整えた。
「相変わらず、カールは冷静ね」周詠がポツリと呟く。
「そうですね・・・でも、宮城さんとトーマスの試合を観た後だからかもしれませんけど、カールの打拳って、キレが今ひとつじゃありませんか?私なら、カウンターを狙うし・・・ウタリだって、その気になれば・・・」佳澄が首を傾げる。
「それがカールの狙いなのよ。ウタリが打ち返してくるか、自分の打撃をブロックするか・・・とにかく、ウタリと接触するのが目的なの。触りさえすれば、そのまま掴んで固めるなり絞めるなりするつもりだわ。だからほら、掴みやすいように拳じゃなくて掌で打ってるでしょ?」
「あ・・・それで・・・」
「もっとも、掌を使ってるのは、カールの甘さもあるでしょうね」
今度は劉翔が呟いた。
「え?そうなんですか?」
「彼はまだ、心のどこかでウタリのことを、か弱い少女だと思ってるんですよ。そんな少女に、グーパンチを当てるのは気が引けるってことです。・・・まあ、だからって掌なら思い切り打てるってわけでもなさそうだなあ。だから打撃は、あくまでもウタリを捕まえるための『餌』としてしか使ってないね」
「そうだな・・・だが、カールもそのうち気付くだろ。本気でやらなきゃ、いつまでたってもウタリは捕まらねえってな」
「あら。徹芯は本気でやっても捕まえられなかったじゃない?」
「ふん。そういうお前は手も足も出せなかったじゃねえか」
「・・・うるさいわね」
そして数分後。
カールは決断をせまられていた。
(駄目だ。捨てパンチの餌など、いくら撒いてもこの娘は捕まえられん。・・・ナックルを握るのか・・・こんな娘に?だが、スピード・パワー・リーチの全てにおいて、オープンハンドでは分が悪い・・・やむを得ん)
苦渋の決断だった。
この時代の「街」には、脳が全壊しない限りは、どんな怪我をしても五体を元通りに治せるだけの医療技術がある。
そうでなければ、カールは試合放棄を選択していただろう。
「・・・ふわ?」
試合が始まってから、ウタリが初めて驚きの声をあげた。
カールのパンチのキレが、急に良くなったからだ。
・・・拳を握っていた。
ボクシングのように、ジャブやフェイントから繊細に組み立てていくようなコンビネーションではない。
全部、倒すパンチだ。にも関わらず、その連打の回転数は、軽量級のボクサーにもひけを取らなかった。
ウタリはパンチのほとんどを、まっすぐ退がってかわすしかなかった。
だが、三発か四発に一回、一瞬ではあるが、連打に隙間があった。
ウタリはそれを見逃さずに、素早く踏み込んでサイドに回る。
しかしカールも凄まじい回転力で、流れをほとんど途切れさせずに追撃した。
「うわ・・・私、カールの打撃はトーマスより下手みたいなこと言っちゃいましたけど・・・撤回します」
「そうね。パンチだけなら、トーマスより上手いかも」
「パンチそのものもだが、バランスがとにかくいいよな。嬢ちゃんがあれだけギリギリでかわし続けてるのに、息も切れなきゃ姿勢も崩れない。大したもんだ」
「そう。・・・でも、ウタリはもっとすごい」
劉翔の呟きを聞いて、周詠が頭を抱えた。
「そりゃ・・・すごいことはすごいけど、これじゃ昨日と同じだわ。私が見たウタリの真の力ってのはね、本当にこんなものじゃなくて・・・あら?」
隣にいたはずの劉翔が、消えていた。
と。
「おわっ?」カールの叫び声が響く。
カールの目の前に、劉翔が涼しい顔をして立っていた。
その手はカールのロングフックを掴んでいた。
「えっ?」
「お?」
「あ・・・」
「うわ」
「はあ・・・」
トレーニングルームの方々から、驚きと困惑の声が上がった。
ウタリと劉翔が、瞬時に入れ替わったような錯覚を感じたのだ。
カールは伸びのあるロングフックを飛ばし、ウタリはそれをまっすぐに退がってかわした。
動きの流れから、その展開を読んでいた劉翔は、ウタリが退くタイミングで両者の間に入り、カールのパンチを掴んだのだ。
カールはもちろん、トーマスにエレーナ、佳澄に徹芯も、試合中の二人の動きにばかり注目していたので、劉翔の乱入にはギリギリまで気付かなかった。
「何のつもりだ?劉翔。試合の途中だぞ」カールが低い声で唸った。
「試合なら止めませんけど・・・これは、試合じゃない。レフェリー?時計を止めてください。中断です」
「・・・了解しました」
「さて・・・カール。あなただって、本当はやめたいと思っていたはずです。ウタリが女の子だとか、それ以前に・・・ウタリには、戦意がまったくない。あなたは戦意のない者を攻め続けられるような人じゃありません」
「ん・・・」
カールは、ゴクリと喉を鳴らすと、右拳を静かに下ろした。
「というわけで・・・選手交代か、無効試合か・・・周老師、どうします?あ、それより先に、すいません。勝手に試合を止めちゃって・・・でも、続けても無意味だと思ったから」
「そうね。・・・私のミスだわ。ごめんなさい、カール。ルールのある試合で、周りの期待を浴びれば、ウタリの力が発動するかと思ったんだけど・・・甘かったわ。ウタリにとっては、勝ち負けなんてどうでもいいのよね。試合時間いっぱいまで、お互いに傷つかずに、どれだけスリリングに遊べるかってことのほうが、ずっと大事なのよ」
「そうか・・・どうも噛み合わないと感じてはいたが・・・いや、正直言ってホッとしたよ。劉翔の言う通りだ。俺も試合を続けたものかどうか、迷っていたところだ」
「じゃあボス、結局この試合はどうなるんだい?」
周詠が、申し訳なさそうに立ち上がった。
「そうね・・・ウタリには退がってもらって、私が出るわ。もちろん、カールがそれで納得してくれるなら、よ。納得してもらえないなら、この試合はカールの勝ちだわ」
「おいおい、冗談はよしてくれ・・・勝利というものは、戦って得るから価値があるんだ。周詠が出るんなら、それでOKだ。相手になろうじゃないか」
「へへ、さすがはボスだ」トーマスが満足そうに笑った。
「単純な男ね・・・このままチーフの勝ちってことにしとけば、二勝一分けでこっちの勝ちだったのよ?」エレーナが毒づいたが、目は笑っていた。
「ごめんね、ウタリ。せっかく楽しそうにしてたのに止めちゃって。でも、こっちにも色々事情があるのよ。あのまま続けてたらカールに悪いし」
「あ・・・いや、私はもう、かなり楽しかったし・・・ていうか、何かまずかったの?」
ウタリは状況を理解していないようだった。
「いえ、ウタリさんは全然悪くありませんよ。むしろ悪いのはこっちです。そうでしょ?周老師」
「そう。そうなのよ。もう落ち込んじゃいそう」
「あはは・・・じゃあ、老師の元気回復とウタリへのおわびに、あとで僕がウタリと遊びますよ」
「本当?そうしてくれる?」
「あ、そういえば劉翔って、周詠さんの『元弟子』だっけ」
「・・・何かその、元ってのが嫌な響きだけどなあ」
「そんなこと、いちいち気にしないの。・・・じゃ、私とカールの試合が終わったら、すぐにね」
「周詠、まだか?」
「あ、ごめんなさい。でもカール、もっと休まなくてもいいの?」
「攻撃を受けたわけじゃないからな。ノーダメージだし、あまり休み過ぎると体が冷えちまう。周詠こそ、ウォームアップはいいのか?」
「それは御心配なく。基本的に武術家は、ウォームアップは必要ないのよ」
周詠は氣を整えながら、トレーニングルームの中央へ歩を進めた。
「時間は、さっき劉翔が止めたところからでいいか?」
「そうね。そうしましょう」
「じゃ・・・レフェリー、試合再開だ」
「OK。・・・ファイト!」
再開の合図がかかってすぐ、カールはクラウチングスタイルで構えた。
ガードは上げていない。
ウタリと戦っていた時より、構えがサマになっている。今度は周詠が相手だから、迷いがないのだ。
最初から全開でいくつもりだ。
周詠はひっそりと立ったまま・・・のようで、ユラユラと揺れながら、カールを誘っていた。
その周詠の揺らぎに合わせるように、カールが揺らぎ・・・次の瞬間、出鱈目な加速から、右のロングフックが飛んだ。
空気を切り裂く拳を、しかし周詠は余裕をもってかわす。
「え?チーフが、かわした?」佳澄は驚いていた。
周詠は、間合いの調整の天才だった。
相手が打った時には、もうその場所にはいない。打った本人にも周りの人間にも、周詠がいつ回避行動をとったのかがわからないほどだ。
だから打ったほうは勢い余ってバランスを崩し、周詠はその崩れを加速させて倒す。
それが彼女のファイトスタイルだった。
だが今、周詠は確かにカールのパンチをかわしていた。
カールにも、それ以外の者にも、その動きがはっきりと見えていた。
「チーフ、どうしちゃったんだろう?カールやウタリに悪いことしたとか、そういうのがメンタル面から影響してるとか・・・」
「いえ。周老師はそんなことで動きが悪くなるような、慎ましい精神構造はしてませんよ。そうじゃなくて、カールの動きがいいんです。正確に言うと、ついさっき良くなったんです」
カールは、自分の変化に驚いていた。
(見える。・・・周詠の動きが、見える。そうか・・・このタイミングで、踏み込んでいると見せかけて、退がっていたのか・・・今度は左か。無駄のない、いい動きだ・・・だが少なくとも、何をしているのかは、わかる)
カールは三年前に、周詠と試合をして敗れていた。何をされたのか、全くわからなかった。
狙い済まして放ったはずのパンチが空を切り、その勢いに引き摺られるように、体が傾いていた。
ただ突っ立っているだけの周詠が、いつの間にか側面にいた。
危ない、と思った瞬間、顎にしたたかな衝撃を受けて、意識が半分がた飛んでいた。
続けて後頭部に何かが打ち下ろされるのを感じて、残り半分の意識も消し飛んだ。
試合開始から六秒。
見事なKO負けだった。
後で試合の映像を観たカールは、首を捻った。
カールのバランスが崩れてから、サイドポジションを取った周詠が、顎への膝蹴りと後頭部への肘打ちの連続技を出していたが、これはまあ、いい。
何をされたのかは、見ればわかる。
問題は、なぜ崩されたか、だ。
どう見ても、カールが自分からバランスを崩しているようにしか見えなかった。
そもそも、当たるはずのない距離でパンチを出していた。
試合中は、当たると確信して打っていた。それが空振りしたために、バランスを崩した。それは小さな崩れだったが、周詠は上手く誘導して、大きく崩していた。
掴んではいない。
パンチを突き出した腕に軽く手を添えて、崩れを加速させているだけだ。
その反動で、周詠自身もカールの側面に移動していた。
無駄のない見事な動きだった。
だが・・・手を添えられてからの動きの流れは、理解できた。
わからないのは、やはり「なぜあのタイミングでパンチを出したのか?」だった。
(単なる俺のミスか?・・・そんな馬鹿な)
納得できなかった。
カールは、それまでの周詠の試合の映像を調べた。
どれも同じパターンだった。
ある者はタックルを。
ある者はキックを。
周詠めがけて・・・実際には、周詠より数センチから数十センチ手前の空間めがけて、繰り出していた。
(おそらくは、全員が・・・自信を持って技を出したはずだ。それが当たらない。受けられたわけでも、かわされたわけでもない。ただ、単純に当たらないんだ。バランスが崩れるはずだ。あとは各々の崩れ方に応じた技で、仕留められているに過ぎない)
そこまでは突き止めた。・・・が、何度映像を見直しても、一番肝心なことがわからなかった。
(なぜ、当たらない攻撃を出してしまうんだ?いや、どうやって出させているんだ?)
ついに、その答えには辿り着けなかった。
しかし、だからといって勝負を諦めるようなカールではなかった。
(要は、自分からバランスを崩さなければいいんだ。空振りしようが当たろうが、まずは自分のバランスを完璧に保つ。最初の小さな崩れさえなければ・・・周詠は、その小さな崩れをキッカケにして、大きく崩しているんだ。キッカケさえ与えなければ、彼女の細い体でヘビー級を崩すのは不可能なはずだ)
それがカールの出した結論だった。
カールはスピードとパワーを上げるトレーニングだけでなく、バランスや柔軟性を高めることにも相当な時間を割いた。
空振りしても勢いが余ってたたらを踏んだりしないように、パンチやキックのフォームも改善した。
バランスが良くなると、技のひとつひとつの回転力が上がり、よりコンパクトでシャープな打撃を繰り出せるようになった。
エネルギーのロスも減り、疲れにくくなった。
いつしかカールは交流戦で、対戦相手を圧倒して勝利を収めるようになっていた。
実績と自信を積み重ねながら、カールは周詠との再戦を待ち望んでいた。
(ぜひ彼女に、今の俺を見てもらいたい。そのためにレベルアップしてきたんだ)
カールのその想いは今、現実となっていた。
「・・・周老師は、相手の距離感を狂わせる天才だから・・・相手は目測を誤って、自滅してしまう。だからカールは考えたんだ。まずは自分自身のバランスだって。ヘビー級のファイターって、突進力にまかせて打撃を出す傾向があるんだけど・・・ほら、カールは体幹の捻りを上手く使って、軸の安定を優先させてる。切り返しも速いな・・・あれなら、空振りしてもほとんど崩れないはずだ」
「でも、バランスが良くなっただけで、チーフの動きを捉えられるなんて・・・」
「うん。それはそれ、だね。カールはさっきまで、ウタリと遊んでたでしょう?それで目が鍛えられたんだ。ウタリは武術のノウハウこそ知らないけど、視力とか反射速度とか、諸々の身体能力は周老師より上だから。見切りなんか、はっきり言って僕より上手い。そんなウタリの動きを、目の前でじっくり観た後なら・・・周老師の動きだって見えますよ」
「あら、まるで劉翔のほうが、チーフより強いみたいな言い方ね?」
佳澄が口を尖らせた。
「あ、こりゃ参ったな・・・まあいいや、白状します。僕は周老師より強いよ」
「ふうん・・・じゃ、どうしてチーフは、あなたをウチのスタッフに加えないの?」
「さあ、なぜでしょうね」
「その辺にしとけ、二人とも・・・大体な、佳澄・・・お前、周詠が強いか弱いかってだけで、俺やお前を仲間にしたと思ってんのか?」
徹芯が、のんびりした口調で二人を制した。
「いや、それは・・・」
「強い奴ってのは、幾らでもいるんだよ。劉翔が周詠より強いってのも、本当だ」
「え・・・?」
「だが今はそんなことより、目の前の試合だろ。カールは確かに周詠の動きが見えてるな。追いつきこそしてねえが、釣られてねえ。このままだと周詠の奴、いずれは捕まる・・・あっ」
「え?」
珍しいことに、周詠が自分から攻撃を仕掛けていた。
カールの連打のほんのわずかな隙間を狙っての掌打だった。
だが、ほぼ真正面から繰り出されたその掌打は、カールにとっては脅威でも何でもなかった。
カールは余裕を持って掌打をブロックし、素早く手首を返して周詠の細い腕を掴んだ。
(捕まえたっ・・・!今まで、対戦相手が触れることさえ敵わなかった太極拳マスターを、俺がっ・・・この手で!)
興奮するカールの体内を、アドレナリンが駆け巡る。
左手の中でもがく周詠の右腕は、思った以上に細く、弱々しかった。
(落ち着け。落ち着くんだカール。見かけの細さに騙されるな・・・こいつは強い。恐らく交流戦において、周詠を捕まえたのは俺が初めてだろう。だがそれは言い換えれば、ここから先、周詠が何をするかは誰も知らないということだ。まさか、ここから崩しにくるとは思えんが・・・)
そう思った瞬間、カールの腕を波のような衝撃が襲った。信じられないほどの力だった。
周詠は腰を素速く切り、体を捻ってうねるように力を伝達させ、右腕を震わせていた。
その振動には周詠の全身の力が込められていた。
「震い・・・?」佳澄が呟いた。
「空手でも内歩進なんかは、ああいうのが得意だな。しかし・・・」
カールは動かなかった。
(くっ・・・大したパワーだが、俺を振りほどくには、足りない!)
カールは腕の筋肉を怒張させ、振動を力で押さえつけていた。
そのために限界まで張り詰めた左腕は、金属の塊のように固まっていた。
そしてそれが、周詠の狙いだった。
「ふっ!」
鋭い吐気を発しながら、周詠は左掌で自分の右腕を・・・ちょうどカールに掴まれている部分を、その指の上から打った。
カールは周詠の腕の振動を握り潰すために、左肩から指先までを硬直させていたので、周詠の放った浸透勁は、その腕をダイレクトにすり抜け、胸腹部を直撃した。
「うがっ?」
体内で何かが爆発したような衝撃だった。
カールは自分の肺が縮み、背骨が軋むのを感じた。意志とは関係なく、カールの左手が開いていた。
「鎧徹し・・・なの?」
「原理は同じです。あれは擠といって、太極拳の技ですよ」
劉翔の言葉が終わるより先に、周詠はカールの懐に跳びこんでいた。
すかさず両掌をカールの胸板のすぐ下・・・大胸筋と腹筋の間の肋骨がむき出しになった部分に添える。
「はっ・・・!」
また鋭く息を吐きながら、周詠の全身がブルン、と震えた。一瞬遅れて、カールの全身も細かく振動していた。
そして・・・操り人形の糸が切れるように、カールはその場に崩れ落ちた。
「ダウン。ワン、・・・ツー、・・・」カウントが淡々と進む。
「・・・で、今のが按。基本技三つで倒しちゃったな」
「三つ?」
「掴まれた腕を震わせたのが、掤。鎧徹しみたいなのが擠。最後の両掌打ちが按。双按です。そのまま教科書に載せられそうな連続技だな」
「見事だよなあ。その、擠への繋ぎ方なんか、鎧徹しの仕掛けにも使えるんじゃねえか?振り打ちをわざと相手に掴ませて、震いで硬直させて、鎧徹しで決める、とか」
「そうですね・・・本当にチーフは、自由に戦うんだ」佳澄が溜め息をついた。
「KO。第三試合、勝者・・・周詠」レフェリー・プログラムが、事務的に試合終了を告げた。
「でも周詠さん、ちょっと悲しそうだよ」
ウタリが心配そうに呟く。
「カールのダメージが心配なんでしょう。浸透勁の類は加減が難しいから。でも、上手く調節してたみたいだから・・・ほら、もう立ち上がりかけてる」
その場の全員が立ち上がり、トレーニングルームの中央に集って、お互いの健闘を讃えた。
「一勝一敗一引き分けで、ドローだな。エレーナ、トーマス、すまん。俺個人が勝てないまでも、時間いっぱいまで踏ん張れば、チームとしては勝てたんだが・・・」
「ま、こういうこともあるわよ」
「エレーナは勝ったから、余裕だな。・・・ボスは試合にゃ負けたけど、周詠の攻め手を引き出したんだから、成果ありっすよ。そこいくと俺は、イマイチだったな・・・」
「自覚してるんなら、鍛え直すことね」
「きついなあ」
「そうだぞ、エレーナ。トーマスにハッパをかけるのも、ホドホドにしてくれ。でないとこの次試合したら、俺が一方的に殴られちまう」徹芯が苦笑いを浮かべた。
「その可能性は大アリね。せいぜいあなたも鍛え直せば?」
「おいおい。人ごとじゃないぞ、周詠。今日でお前のマジックのタネは割れたんだ。その後に出した技は見事だったが、何をされたのかはわかった。この次やる時は、対処してみせるぞ」
「その可能性も、大アリね・・・せいぜい私も精進するわ」
「あの・・・それでチーフ。これから、スペシャルマッチをやるんですよね?」
佳澄が遠慮がちに、だが少しイライラしたような口ぶりで訊いた。
「ああ・・・そうだわ。ウタリ、劉。これからひと試合、お願いできる?」
「はい」
「わかった」
ウタリと劉翔をトレーニングルームの中央に残して、各々が壁際に退がる。
「これは見ものだな。天才同士の激突だ。まあ、ウタリにぶつかる気があればの話だが・・・何にせよ、トーマスもエレーナもよく見ておけよ」
「OK、ボス」
「ええ」
「佳澄、どうしたの?さっきから劉を睨んでるけど・・・あ、ひょっとして好みのタイプ?」
「違いますっ!・・・あの人、自分がチーフより強いなんて言うんですよ。だから・・・ウタリに翻弄されて息切れしたところで、笑ってやろうと思って」
「それはどうかしら。だって劉は、本当に私より強いのよ」
「・・・え?」
「例えばさっきの試合。私は掴まれた腕を震わせてカールを固めたけど・・・劉ならあの技だけで、カールを頭からマットに叩きつけられるわ」
「ええ?」
「そういや佳澄は、劉翔が戦うのを観たことなかったな」
「宮城さんは、見たことあるんですか?」
「ああ、一度な。お前がここに来る前さ。ここのスタッフだったシラット使いの爺さんが、定年退職してな。その穴を埋める人材を探してたら、あいつが立候補してきたんだ。周詠の弟子だったっていうから、俺は入ってもらえばいいと思ったんだがな。周詠は『じゃあ試験だ』っつって、それで試合になったのさ」
「それで・・・結果は?」
「一方的だったよ。周詠の、間合いを幻惑する体術が、全く通用しねえ。劉翔は周詠にピッタリ貼り付いて、的確に急所への打撃を繰り出すんだ。それがまた寸止めだってのに、当たったらこりゃ死ぬなってのが、はたで見ててもわかるような勁力でな。逆に周詠が攻めると、その度に劉翔は背後を取るしで、もう・・・」
「あれね、私が攻めたのって、たたの苦し紛れだったのよ。ほとんどは攻めの形になる前に、動きを潰されてたから」
「そんな・・・」
「映像は残ってるはずよ。あんまり恥ずかしいから公開してないけど。後で観る?」
「いや、それは・・・」
「観といたほうがいいぞ。・・・まあ、今は映像より、生の劉翔を観ようや」
ウタリと劉翔は、五メートルほどの距離をおいて向き合っていた。
ウタリは試合用のタンクトップとスパッツを着用していたが、劉翔は普段着の、綿のシャツとパンツのままだった。
「あ、そうだ劉。その格好なんだけど・・・」
周詠が思い出したように声を上げた。
「ああ・・・僕は、この服のままで構わないけど。必要なら着替えますよ?」
「うーん。とりあえずね、ベルトはしてる?」
「え?・・・はい」
劉は、出しっ放しのシャツの裾を上げて、ベルトを見せた。
「それ、外したらズボンはずり落ちちゃうかしら?」
「大丈夫だと思いますよ。サイズはぴったりだから・・・ああ、そうか。ウタリの突きや蹴りが当たったら、手足を怪我するかもしれませんね」
「そう。あなたが打たれるなんて、考えたことなかったから、今まで気付かなかったわ。怪我自体はすぐに治せるけど、それで試合にハンデがついちゃったら面白くないでしょ?」
「確かに。それじゃ・・・」
劉翔はベルトを外して部屋の隅に置くと、軽いジャンプや駆け足をしながら開始位置へ戻った。
「僕は問題ありません。始めますか?」
「そうね。・・・ああ、それから、レフェリーは起動させる?」
「いや、いいです。適当に初めて、適当に終わりますよ。そのほうがいいでしょう?」
「そうね。じゃ、早速・・・適当に、始めてちょうだい」
「はい」
周詠を始めとして、その場の全員が、ウタリの真の力を見たいと願っていた。
だが、その願いが一番強かったのは、ウタリの前に立つ劉翔だった。
劉翔は、ユラユラと体を揺らしながら、呼吸を整えた。
ウタリはその場で軽いジャンプを繰り返していた。
劉翔は、ウタリのジャンプをうっとりと眺めながら、そのリズムと自らの揺れを同調させた。
ウタリが跳んで、着地して、また跳び上がる。
(心地よいジャンプだ・・・落下のエネルギーが、ほぼ完全に上昇に転化されている・・・あのしなやかなバネは、どれほどの破壊力を生み出すのだろう?)
そんな想像をするだけで、劉翔の背中はザワザワとあわ立っていた。
(さて・・・ウタリがカールへの戦意を持てなかったのは、結局のところ、『逃げ切れる』と判断したからだ。逃げればそれで済むのなら、無理に戦わずに遊んでいればいい・・・実に合理的な考え方だ。ならば・・・僕からは逃げ切れないということを、まずは理解してもらおうかな)
劉翔の揺れが止まった。
ウタリも着地したまま静止した。
唐突に、劉翔が歩き出した。ウタリは動けずにいた。
劉翔は、ごく狭い歩幅で歩いているように見えた。その場で足を上げて、下ろしているだけのようだった。
その足取りは、あくまでも跳ぶように軽く、しかしひとたび意を込めて踏み下ろせば、地をも揺るがすほどの勢いをはらんでいた。
実は劉翔の動きは、歩くというより走る、走るというより跳ぶというほうが近かった。
ただ、上下動がほとんどない。
足で地を蹴って走るというよりも、腰を切り返す動きと、足を上げ下ろしする力の合成で、下腹部を基点に推進していた。
だが、その腰の切り返しがあまりにも鋭く、あまりにも一瞬で、それでいて手足の動きは緩やかなので、歩いているように見えてしまう。
もっともウタリは、劉翔の歩みが実質的には跳躍だということをすぐに見抜いていた。
その上で、動けずにいた。
見とれてしまった、というのもある。初めて見る動きに、体が反応できなかった、というのもある。
これは劉翔の狙い通りだ。・・・だがウタリは、動けないという以前に、動く気力を失くしていた。
ウタリは、見てしまった。
劉翔の背後に。
武に憑かれた亡者の群れを。
強い敵を、技の研鑽のための犠牲者を求めて、彼方を見つめ続ける修羅たちの眼光を。
その足元に、技を極めることなく朽ち果て・・・或いは、技を窮めてなお、更に強き者に遅れを取り、魂まで砕かれた求道者たちを。
そんな、おびただしい数の骸が累々と重なる屍の道を、劉翔はあくまでも涼しげに、軽い足取りで進んでいた。
そんな劉翔を迎えるウタリの心に、戸惑いと恐怖と・・・いや、それよりも、やり場のない怒りがこみ上げてきた。
「どうして?」
ウタリは仁王立ちのままで、叫んでいた。
その目は劉翔を真正面から睨みつけていた。
その時劉翔は、既にウタリの眼前まで間を詰めていた。
お互いに、手を・・・伸ばさずとも、上げるだけで触れることができる。
そんな距離だった。
だが劉翔もまた、そこでただ棒立ちになっていた。
「うーん・・・」
劉翔は低く唸りながら、自分を刺すように睨み続けるウタリの瞳を覗いた。
何かを探っているようだった。
まるで時間が止まったかのように、その場の誰もが動けずにいた。そして・・・
「うん」と、吐息とも呟きともつかない声を発して、劉翔が戦闘態勢を解いた。
その途端に、観戦していた全員の姿勢が、ある者はガックリと、ある者はズルズルと崩れた。
「周老師、申し訳ありません。・・・どうやら僕にも、ウタリの力を引き出すことはできないようです。そもそも・・・ウタリと、同じフィールドに立っている気がしないんだ」
劉翔は首をゆっくりと左右に振りながら、残念そうに告げた。