第七章~交流
試合開始のゴングが鳴ると同時に、佳澄はスッと踏み込んで、左拳を突き出した。
ジャブというよりも、倒すパンチだ。
ここから左右の拳を振り回して間合いを制するのが、佳澄のスタイルだ。
だがエレーナは、拳が回転を始める前に体を沈めて、地を這うような低空タックルを仕掛けた。
勢いのついたタックルは、普通のパンチやキックでは止められない。ましてやエレーナと佳澄には倍以上の体重差がある。
多少の被弾は無視して、早めに連打を潰すつもりだ。
だがそのタックルは、佳澄を捉える前に止まっていた。
佳澄が、エレーナの首筋に肘を落としたのだ。
エレーナは、佳澄の腰より更に下を狙ってタックルを仕掛けていた。佳澄がエレーナと似たような体格だったなら、一瞬にして両脚を刈り取られていただろう。
だが40センチ近い身長差が、かえってエレーナに災いした。頭がちょうど肘を落としやすい高さになってしまったのだ。
エレーナの視界が真っ白になり、膝がマットについた。
「ダウン」
レフェリー・プログラムのアナウンスが流れる。
ただしこれは10カウント開始の合図であって、佳澄のポイントにはならないし、試合を止めるものでもない。
決着はあくまでもKOかギブアップだ。
だから佳澄は追撃のために、エレーナの髪を掴んだ。そのまま顔面に膝蹴りを叩き込もう・・・としたが、エレーナの両手が蛇のように伸びてくるのを察知して、素早く跳び退いた。
(これだけの体格差があれば、捕まったら終わりだ)と佳澄は考えていた。
エレーナが頭を振りながら立ち上がる。
カウントは1で止まっていた。
ウタリは、佳澄の躊躇のない攻めに驚いていた。
「うわっ・・・佳澄、危ないことするなあ。エレーナって人があんなに大きくなかったら、大怪我してるよ」
「そうね。でもあれは、エレーナがヘビー級だからやったのよ。思いっきり打っても大丈夫って、わかってるから」
周詠は、佳澄の判断は正しいと思っていた。
だが同時に、いくら何でもエレーナは不用意に突っ込み過ぎだ、とも思った。
エレーナは自分のリズムを取り戻そうと、少し強めに息を吐いた。
佳澄はそれを見逃さなかった。
エレーナの吐気が終わった瞬間・・・吸い始めのタイミングを狙って跳びこみ、右拳を斜め上から打ち下ろす。
エレーナが左前腕でブロック。左脇が空く。
佳澄はその左脇を打つ。
中指の第二関節を突き出した、中高一本拳だった。
肋骨に点撃の鋭い痛みが刺さり、エレーナは思わず左腕を下げてピッタリと脇を閉じてしまった。
佳澄は、その左腕・・・肘の少し上辺りに手刀を叩き込む。
筋肉の装甲が薄い場所だが、このぐらいの打撃ではエレーナはびくともしない。
(今のうちに、捕まえて・・・)右手を伸ばそうとするエレーナ。
その瞬間。
「ふんっ!」
佳澄は鋭い吐気を発して、右手刀を斜め上から・・・まだ、エレーナの左肘に貼り付いたままの、自分の左掌に切りつけるように叩きつけた。
その衝撃はエレーナの左肘を貫通し、ピッタリと閉じられた脇を伝わって、胸の内部で爆発した。
「うぶっ」
エレーナの口から、内蔵を絞ったような声が洩れた。
佳澄が使ったのは、心眼流の「鎧徹し」だった。
その衝撃は文字通り、エレーナの筋肉の鎧を突き抜け、体内に浸透したのだ。
・・・しかし。
エレーナはフラつきながらも、右足を軸にして体の左右を入れ替え、右手を伸ばして佳澄の左腕を掴んだ。
「あっ」
佳澄が小さく叫んだ時には、もうエレーナの左足が佳澄の右脇に絡みついていた。
エレーナはそのまま後ろに倒れるようにして、左手をマットにつき、逆立ちするように右足を振り上げた。
その右足が佳澄の視界をふさぐ。
そこからエレーナは肩でマットに着地して、体重を佳澄にあずけた。
佳澄がバランスを崩し、仰向けに倒れる。
見事な飛びつき腕十字だった。
周詠は、感嘆していた。
(ふうん・・・エレーナは、不用意に突っ込んでたんじゃなくて、佳澄を捕まえることに専念するために、覚悟して突っ込んでたってわけね)
佳澄の左腕は、完全に伸びきっていた。
「佳澄」周詠が声をかけるのと、佳澄がエレーナの脚にタップするのがほぼ同時だった。
「ストップ。・・・勝者、エレーナ・クニス」アナウンスが響き、エレーナが腕十字を解く。
佳澄は立ち上がって、倒れたままのエレーナに一礼すると、肩を落として周詠たちの所へ戻った。
「すみません。チーフ・・・負けちゃいました」
「仕方ないわよ。ウチの方針としては、あれでいいわ。負けは負けだけど」
「はい。やっぱり口惜しいです」
「ふふ・・・腕を折られても、続けたかった?」
「ちょっとだけ、そんな気もします」
「えええ?それは駄目だよ。折れたら大変だよ」ウタリが大袈裟に首を振った。
「あら。でもウタリ、街では折れた腕ぐらい、簡単に治せるのよ?」
「えっ?あ、そうか。でもなあ・・・」
「そう。治せるからって、打たれたり、折られたりすることに鈍感になっちゃうと、戦い方まで雑になっちゃうのよ。特に見切りが甘くなるわ。だからウチは、極められたら素直にタップすることにしてるの」
「実際、ダメージらしいダメージはないんだろ?武術家なら、それが最優先事項だぜ」
「そう。徹芯の言う通りよ」
「・・・はい」
うなだれる佳澄の肩を、周詠がポンと叩いた。
「だから、仕方ないって・・・それに、もしこれが・・・勝負にもしもはないけど・・・もし『試合』じゃなくて『死合』だったら、どうなってたかわからないわよ」
「え?」
「死合なら、腕が極まっただけでギブアップはないでしょ?そしたら、エレーナがあなたの腕を折れたかどうか」
「折れたかどうかって・・・エレーナが私の腕を折らなかったのは、タップするのを待ってたんじゃないんですか?」
「どうかしらね・・・私が見た感じだと、エレーナは折る気だったと思うわ」
「俺もそう思うな」
「あ、私も。・・・劉翔は?」
「ん・・・僕も、折るつもりだったと思うな」
「じゃあ、どうして折らなかったんですか?」
「うん。これは推測だけど、エレーナは折らなかったんじゃなくて、折れなかったのよ。鎧徹しのダメージが、かなりあったんじゃないかしら?ほら、エレーナが今、やっと立ち上がったわ」
佳澄が振り返ると、エレーナがフラフラと自陣に戻るところだった。
「ね?あの飛びつき腕十字だって、どっちかっていうと『ダウンしながら腕十字』だったもの。身長差があったから極まったけど」
カール、トーマスとハイタッチを交わしたエレーナは、そのまま壁にもたれて座り込んだ。
額から冷たい汗が流れている。軽いショック状態だった。
「大丈夫か、エレーナ?あの、両手を重ねた打撃は、そんなに効くのか?」
カールがエレーナの顔を覗き込みながら訊いた。
「去年のイスマイルとの試合じゃ、あんな打ち方してなかったのにな」トーマスが口を尖らせる。
「そうだな。俺が思うに、あれが佳澄のフィニッシュブローなんだろう。ただあの技は、かなり射程距離が短いようだ。イスマイルはリーチがあったから、佳澄を懐に入れさせなかったしな。・・・で、ダメージはどうだ?医務室へ行くか?」
「大丈夫です。もう息もできるし、少し休んでいれば回復します」
「そうか。よかった」
「それにしても・・・あの娘、本当にウエイトは40キロちょいなの?まるで、背骨を直接殴られたような・・・心臓を鷲づかみにされたみたいな衝撃だったわ。呼吸はできないし、腕は痺れるし・・・何とか腕十字に持ちこんだけど、形を維持するので精一杯だったわ。正直、タップしてくれて助かった・・・。あのまま続けてたら、脱出されて、トドメを刺されてた」
「ふん。でもな、佳澄はタップした。あのまま続けてりゃ、折られると思ったからだ。お前のテクニックには、そう思わせるだけの力があるのさ」
「・・・何よトーマス。あんたもたまにはいいことを言うのね。・・・ちょっと気持ち悪いけど」
「よし。そんな悪態をつく元気があるのなら、まあ大丈夫だろう。・・・さあトーマス、このリズムを崩さないようにしろ」
「OK。ボスが出る前に、ウチの勝ちを決めてくるよ」
「・・・じゃ、私は・・・もっと冷静に、エレーナの状態を観るべきだったんですね。そしたらタップせずに済んだかもしれないのに・・・」
佳澄は眉間に皺を寄せて口惜しがっていた。
ウタリはそれを見て(ああ、可愛い)と、抱きつきたい衝動に襲われていた。
「そこは判断の難しいところね。腕十字が完全に極まっていたのは事実だから・・・力は出なくても、ポイントをおさえるだけで折れたかもしれないわ。やっぱり極められたらタップするのが正解だと思う。そもそも、なぜ鎧徹しが、あんなにあっさり入ったと思う?」
「それは・・・その前に、振り打ちや脇への点撃で仕掛けたから・・・」
「うん。それもあるけど、そもそもエレーナは、あなたの打撃をもらうつもりでいたのよ」
「え?」
「柔道やサンボの組み手争いって、すごいスピードでしょ?エレーナだって例外じゃないわ。もっと冷静に、じっくりと佳澄の動きを見て対処していれば、鎧徹しだって簡単には入らなかったかもしれない」
「じゃあ、どうして・・・」
「多分ね、去年のあなたの・・・イスマイルとの試合のせいよ」
「あの、アフリカ・ブロックのキックボクサーとの試合ですか?」
「そう。あなたは打撃の専門家のキックボクサーから、有効打をもらわなかったでしょ?あなたも彼の懐には入れなかったから、引き分けになったけど。あの試合を見て、カールたちはきっと、佳澄をストライカーに分類したのね。だから、組み技が専門のエレーナが佳澄と当たったら、もう打撃の攻防はしないって、最初から決めてたのよ」
「あ・・・」
「もし佳澄の体重が、せめて70キロ台だったなら、こういう作戦はとらなかったと思うわ。時間をギリギリまで使って、引き分けも視野に入れた上で、もっと慎重な試合運びをしたんじゃないかしら。でも佳澄の体重は、エレーナの半分もないでしょ?だったら少々打たれても、捕まえて投げるか極めるかってことだけ考えたほうが効率がいいってこと。下手に打撃の攻防につき合ったら、どこで罠にかかるかわからないもの」
「ん・・・でも、エレーナは私の振り打ちをブロックしました」
「うん。そこがポイントね。打撃につき合わない作戦でいくんなら、ブロックなんかしないで、どんどん前に出て、間合いを潰しながら佳澄を捕まえれば良かったのよ。でも、その前にあなたが首に肘を落としたでしょ?あれで迷いが生じたのね」
「じゃあ、あのブロックは・・・」
「ええ。本当はエレーナは、自分から前に出て佳澄を捕まえたかったんじゃないかしら。でも佳澄がエレーナの迷いに乗じて、いいタイミングで打ち込んだから、うっかりその場でブロックしちゃって、そのまま鎧徹しまで繋がったのよ」
「・・・だが、勝負は何が災いするかわからんな。佳澄は鎧徹しに相当の自信があるんだろ?」
徹芯が、両拳を胸の前で合わせながら言った。
「・・・はい」
「だから、エレーナが反撃してくるとは思ってなかったんじゃねえか?」
「・・・確かに、油断してました」
「だろうな。普段の佳澄なら、飛びつき腕十字をあんな固まった状態で受けたりしねえはずだ。鎧徹しへの信頼が、結果的に残心まで甘くしちまったか」
「・・・はい」
「だが、佳澄はそれぐらい、鎧徹しに惚れ込んでるんだろ?」
「え?・・・はい」
「だったら、これからもっと鎧徹しを可愛がって・・・練り上げてやれ。技ってのは、大切にしたらした分だけ、ここぞって時に、その信頼に応えてくれる・・・だろ?」
徹芯は、片頬に笑みを浮かべながら、右拳を佳澄に差し出した。
「・・・はい」
佳純も笑顔で右拳を突き出し、徹芯の拳と重ねた。
「さて・・・どう?ウタリ。格闘技の試合って、こんな感じなのよ。感想は?」
壁際で膝を抱えたままユラユラ揺れていたウタリは、周詠の問いで、斜め四十五度の角度で静止した。
「ん~、街の人って、色々考えるんだね」
「え?それはまあ・・・でも、ウタリたちネイティブだって、色々考えるでしょ?」
「そうだなあ・・・獲物を探す時に、糞を見てどんな獣なのかとか、足跡を見て群れの数がどのくらいかとか、逃げてった方向を考えたりとか、色々あるね」
「でしょ?別に街の人間が、ネイティブよりモノを考えてるとは思えないわ」
「うーん、でも・・・やっぱり違うよ。私たちは、食べ物を集めるために色々考えるんだけど、街の人たちって、考えること自体を楽しんでる・・・いや、違うかな。考えることが、目的になってるって感じ?」
「ああ・・・そう見えるの?」
「見えるよ。だって実際、あのエレーナって人は色々考えて試合には勝ったけど、食べ物が手に入ったわけじゃないでしょ?」
「そうね。確かにエレーナは、肉やお芋や果物を・・・直接手に入れたわけじゃないわ。でもね、他のものを手に入れたのよ」
「どんなもの?」
「よっしゃ」
徹芯が、ドン、とマットを踏み鳴らして立ち上がった。
「武術家や格闘家が、試合で拳を交える中で、何を得るのか・・・次の試合で、俺が見せてやるよ」
徹芯は、空気を弾くようにフン!と息を吐き、その反動で吸い込んだ空気を味わうように目を閉じた。
そして、腹の底から絞り出すように「コオオ・・・」と氣を吐く。
その吐息はビリビリと体を震わせ、闘氣が練り上げられていく。
「それは楽しみね。トーマスにいいように打ちまくられて、黒星でも得てくるつもり?」
周詠が髪をかき上げながら混ぜっ返したので、徹芯の息吹きは、途中から溜め息になってしまった。
「お前なあ。これから試合だって人間に、そんなこと言うか?」
「ムキにならないの。武術家が、こんなことで平常心を失っちゃ駄目よ。ちょっと釘を刺してあげただけなんだから」
「そりゃ、どういう意味だ」
「『武術家や格闘家が、試合で何を得るか』なんて・・・そんな宿題を背負いながら戦ってたら、勝てる試合も勝てなくなるわよ。大体あなた、ウタリに何を見せるつもりなの?足を止めて打ち合って、『男同士の拳の語らい』なんて、武術家のやることじゃないわよ」
「冗談じゃない。少年漫画じゃあるまいし、俺がそんなことするように見えるか?」
「わかんないわよ。確かに普段のあなたなら、無駄に打ち合ったりなんかしないけど。男って、可愛い女の子の前でカッコつけるためなら、簡単に宗旨替えするじゃない」
「・・・安心しろ。俺は普段通りにやる。それで充分ウタリには伝わるはずだ」
「結構だわ」
「・・・けどな」
「はい?」
「確かにちょっと、肩に力が入ってたかもしれん。今ので抜けたよ。サンキュ」
「ふふ・・・上司として、当然の務めよ」
徹芯はウタリたちに背中を向けたままで、片手をヒョイと上げてみせると、そのままトレーニングルームの中央へ歩みを進めた。
「ねえ周詠さん・・・徹芯の肩って、そんなに力が入ってたの?」
ウタリが傾いていた体をまっすぐにしながら訊いた。
「ううん。・・・あいつは締めるところは締めても、無駄に力むようなやつじゃないわ」
「じゃあ何で、『肩の力が抜けた』なんて言ったの?」
「そういうやつなのよ。まったく、からかい甲斐がないんだから」
「でも、周詠さんも徹芯も、すごく楽しそうだったよ?そこがさ・・・どの辺が楽しいのか、よくわからないんだ」
「そ・・・お?そうね・・・それはきっと、街の人間が・・・ネイティブと比べて素直じゃないからよ」
ウタリは周詠の氣が乱れていくのを見て、もう納得できる回答は期待できないと直感した。同時にこの話題への興味も急速にしぼんでしまったので、徹芯とトーマスの試合に気持ちを集中させることにした。
「よう、徹芯。お前との試合は二年ぶりだな。覚えてるか?」
トーマスは軽いフットワークで体をほぐしながら、徹芯を睨みつけた。
「ああ。もうそんなになるか・・・今のお前は、あの時より強いんだろうな」
「当然だ。今日は勝たせてもらうぞ」
「・・・交流戦、第二試合を始めます。用意はいいですか?」また、レフェリー・プログラムの音声が流れた。
「OKだ」
「ああ、始めてくれ」
「OK・・・ファイト!」
ゴングが鳴ると同時に、徹芯は右足を軽く半歩踏み出した。
前後左右とも、肩幅より少し狭いスタンスで、前足のつま先をやや内に向けている。
肘を落として前腕を立て、両手は肩より少し高い位置で半握りにして、手の甲をトーマスに向けて構えた。
トーマスはアップライトスタイルで構え、攻め込むタイミングを計っている。試合が始まった途端に、ベタ足になっていた。
フットワークはあくまでも体をほぐすためと、割り切っているらしい。
「あれ?昨日、徹芯はあんな立ち方してなかったよね?」
ウタリは徹芯の立ち方に、軽い違和感を覚えた。
棒立ちのようで、棒立ちでない。堅く守っているのだが、それは激しい攻めを前提としている。
徹芯の立ち方は、様々な矛盾を内包していた。
「そうね。昨日のアレは、遊びだったから・・・ただ闇雲に攻めてただけだったわ。でも今日は違うわよ。あれはね、三戦立ちっていうの。徹芯流に多少崩してあるけど」
「へえ・・・三戦立ち、ね」
「そう。空手の剛柔流を代表する型に、この立ち方を核にして鍛錬する『三戦』という型があるの。徹芯はこの『三戦』の専門家なのよ」
「剛柔・・・って、徹芯は確か、那覇手が専門とか言ってなかった?」
「よく覚えてるわね。そう、剛柔流は那覇手の一派なのよ。もっとも、那覇手とか首里手とか泊手とかって分類は、意味がないっていう研究者もいるわ。徹芯は個人的に那覇手っていう呼び方が好きなもんだから、そう言ってるのよ」
トーマスがスリ足で距離を詰め、右のローキックを放つ。
徹芯は右のカカトをわずかに浮かせ、右膝を内に向けてローキックを迎え撃った。ゴン、という鈍い音がして、ローキックが弾かれる。
トーマスは右足を引いて静かに下ろすと、上体を揺らしてリズムを取り直した。
「ちょっと探りを入れただけのローキックね・・・さすがに今回は、トーマスも慎重だわ」
「今回はって、前はそうじゃなかったの?」ウタリがチラリと周詠を見る。
「ええ。・・・あの二人、二年前に一度試合してるのよ。その時はトーマスがいきなりハイキックで仕掛けて、それを徹芯がカウンターの正拳突きでKOしたの」
「へえ・・・」
「あの時は、トーマスもまだ10代だったから、自分のスピードとパワーを過信してたのね。小柄な東洋人なんて、力でねじ伏せればいいと思ってたんじゃないかしら。・・・でもね、三戦立ちで待ちに入った徹芯は、私でも崩せないわ」
「周詠さん」
「ん?なに?」
「周詠さんて、徹芯が目の前にいないと褒めるんだね」
「えっ?そうかしら・・・そんなことないわよ。ただ、事実を言ってるだけだから」
「ふうん」
まあどっちでもいいや、という表情で試合を眺めるウタリに、周詠は胸を撫で下ろした。
トーマスは、右、左と交互に単発のローキックを出し続けた。
クリーンヒットしさえすれば、即座に徹芯の足を止めるだけの威力がある蹴りだ。
だがその蹴りが飛んでくる度に、徹芯は膝を突き出してカットするので、むしろトーマスの脛に、微細なダメージが蓄積しつつあった。
「チーフ。トーマスはどうしてコンビネーションを出さないんですか?宮城さん相手に単発のローキックじゃ、そりゃカットされますよ」
佳澄は首を傾げていた。
「出さないんじゃなくて、出せない、というのが半分ね。キックボクシングのコンビネーションは、基本的に点撃の連続だから、継ぎ目や隙間ができやすいの。徹芯なら、その隙間に打ち込んでコンビネーションを止められるわ」
「それはわかります。でも、トーマスと宮城さんにはかなりのリーチ差があるでしょう?多少威力は犠牲にしても、宮城さんの射程外からコンビネーションで攻めて、手数で圧倒すれば、少なくとも主導権は取れます。でも今のままじゃ、蹴って、・・・あ、またカットされた・・・何だか蹴って返されて、のリズムに自分からはまってますよ」
「そうね・・・これが格闘家の恐いところね。試合の組み立てが上手いわ。・・・トーマスが単発のローキックしか出さない理由の半分はね。佳澄のいう『蹴って返されて』のリズムを作るためよ」
「え?じゃあ・・・」
「そろそろよ。トーマスが狙ってくる・・・」
その瞬間、トーマスの左足が、今までとまったく同じリズムで振り出された。
少なくとも、膝を上げるところまでは同じだった・・・が、そこからが違った。
(膝から下が・・・消えた?)
佳澄にはそう見えた。
だがその時徹芯は、既に半歩踏み込んでいた。踏み込みながら、右肘を少し落としていた。
その右肘が、トーマスの左膝をこするようにして、ミドルキックを防いでいた。
「佳澄、見えた?トーマスの本命は、あの左ミドルよ」
トーマスは、舌打ちをしていた。だがグズグズと口惜しがっている暇はない。
徹芯に懐に入られたのだ。
トーマスは頭を狙って左肘を振った。だが、左のミドルキックを止められた時にバランスも崩されていたので、勢いがつかない。
肘打ちは、トーマスのイメージより三割減のスピードで弧を描き・・・途中で止まった。
徹芯の左の正拳突きが、トーマスの腹を打ち抜いていた。
「ふううう」
絞り出すような吐息を洩らしながら、トーマスはマットに膝をついた。
「ダウン。・・・ワン、・・・ツー、・・・」
レフェリー・プログラムが、淡々とカウントを進める。
「トーマスはね、試合開始から三発目ぐらいまでは、最速のローキックを出してたわ。でもそれからは、ちょっとずつスピードを落としてたの。佳澄は気付いてた?」
「・・・いえ、気付きませんでした」
「ふふ・・・多分、徹芯も気付いてないわ。あいつにはこのテの繊細さはないから」
「でも、ちゃんと反応してましたよ?」
「そう。理解したとか気付いたとかじゃないの。ただ反応しただけなのよ。トーマスはね、ローキックを蹴って、返されてのリズムをわざと作ったのよ。そのテンポを少しずつ遅くして・・・徹芯がそれに慣れた頃に、本命の左ミドルキックを彼本来のスピードで出したの」
「それで・・・私はローキックに目が慣れてしまって、ミドルが見えませんでした」
「いい作戦だったと思うわ。でも、徹芯には通じなかった。・・・もっとも、通じなかったのはお互い様ね」
「え?」
「ほら、トーマスが・・・」
カウント9で、あっさりと立ち上がっていた。
正拳突きを決めた後、すかさず数歩退いて残心を取っていた徹芯は、トーマスがヒョイと立ち上がるのを見て目を丸くした。
「・・・マジかよ」
「へへ、これがマジなんだな・・・驚いたか?徹芯」
ファイティングポーズを取るトーマスを、チカ、チカと小さな閃光が照らした。
レフェリー・プログラムのセンサーが、ダメージをチェックしているのだ。
「OK・・・ファイト!」
トーマスは「フッ!」と荒い鼻息を吐き、徹芯は再び三戦立ちで構えた。
「あ、またあの立ち方だ・・・ねえ周詠さん。徹芯は、あの立ち方のおかげで、トーマスのキックを防げたんだよね?」
ウタリは三戦立ちに興味がわいたようだった。
「そうね。どうしてだと思う?」
「うーん、そうだなあ・・・あの立ち方がよくできてるってこともあるけど、それよりも・・・あの立ち方のままで動き回る練習を、徹芯はすごくたくさんしたんじゃないかな?で、あーいう反応ができるようになったとか」
「当たり。あの立ち方のままで動く・・・それが、三戦の型よ。三戦立ちや、三戦の型の最大の目的はね、正中線を安定させることなの」
「正中線?」
「体の中心の軸のことよ。まあ正中線が大事なのは、どんな武術でも同じなんだけど、三戦はそれが突出してるわ。とにかく動きが小さいから、正中線を安定させて丹田からの力を上手く手足に伝えないと、使いものにならないのよ」
「へえ・・・」
「だから、自分の正中線をいかに客観的に見られるか、がポイントになるわ。そうやって三戦の型を練り続けると、正中線のわずかな動きから、体全体の動きが読めるようになるの。自分の動きも、他人の動きも。・・・つまり、相手の動きが読めるようになるのよ」
「おおっ」
「徹芯は『俺はまだ修行不足だから、本気か牽制か、右か左か手技か蹴りかぐらいしかわからない』って言ってたけど、それだけわかれば立派なものよ。さっきの、ローキックのリズムを作る作戦。あれを考えたのがカールかトーマスかは知らないけど、きっと、徹芯のことを『相手のリズムを読んでカウンターを合わせるのが上手いタイプ』だと思ったんでしょうね。そうじゃないの。徹芯は、リズムも視線も手先足先の動きも、気にしてなんかいないわ。感じてはいるけど。ただ相手の正中線に反応してるだけ。動きの根本に反応してるから、フェイントにも引っかからないし、リズムに釣られたりもしないの」
「・・・すごいですね」佳澄が少し目を伏せる。
「何言ってるの。心眼流の振り打ちを組み合わせた『周転』だって、正中線を磨く優れた技法よ。佳澄も稽古を続けていれば、徹芯ぐらいの見切りができるようになるわ」
「・・・はい」
「ねえ、その見切りってのもいいけど、反撃するまでがすっごく早かったよね?」
「そうね。三戦の動きの小ささは、そういう意味でも有利だわ。最小限の動きで守りと攻めを一体化させるの。トーマスの左ミドルだって、パッと見には決まったように見えなかった?」
「あ、ちょっと思った」ウタリが軽く頷く。
「私は・・・騙されました。冷静に見て、やっと宮城さんの肘がヒットポイントをずらしてるって・・・」
「蹴ったトーマスも、『当たってるはずなのに』って感じたでしょうね。徹芯がベストの見切りをしたら、シミュレーション・プログラムだって騙されるんだから。あいつの回避率が未だに100パーセントにならないのは、そのせいなのよ」
「あれ?周詠さん、それがわかってて、昨日は徹芯にあんなこと言ったの?」
「え?・・・何か言ったかしら。忘れたわ。・・・そんなことよりね、ウタリ。徹芯の動きは、ただ小さいだけじゃないのよ」
「え?まだ何かあるの?」
「予備動作を見えにくくすることで、相手の予測より一瞬早く攻撃を当てられるの。予備動作がはっきりしてると、防御されたり、当たっても効かなかったりするでしょ?でも、どんな達人でも予備動作をゼロにすることはできないわ。できるのは、予備動作を他の動きの中に隠すことだけよ。徹芯の予備動作隠しは、ほぼ理想的だわ。打たれる側にしてみれば、無防備な瞬間をつかれるんだから、一種の不意打ちね。これは体重差を超えて効くわよ」
「・・・そんな正拳突きをクリーンヒットさせたのに、どうしてトーマスは立てるんですか?」佳澄が首をひねった。
「あっちだって色々研究してるのよ。打たれた時、変わった声を出してたでしょ?あれは、息を吐いて突きの衝撃を吸収してたのね。多分、システマのブリージングだと思うわ。エレーナが教えたのかしら・・・心眼流は、戦国時代の甲冑武術がルーツだから、こういう技は重視してないんじゃない?」
「そうですね。心眼流は、受ける暇があるなら打ちます」
「それも正解のひとつよ。攻撃は最大の防御ってね」
「・・・でも、トーマスの・・・その、システマの技だって、こういう時には便利です」
「そうね。ケースバイケースなのよ。・・・でも、トーマスはやっぱりキックボクサーね。彼のブリージングは、ちょっと荒いわ」
「そうなんですか?」
「だって、一応ダウンして、カウント9まで休んでたじゃない。それなりのダメージはあったのよ。まあ、徹芯の正拳突きをまともにもらって立てるんだから、立派なものだけど」
「でも、トーマスは迷ってるね。攻めようか、休もうかって」
「そうね。今、無理に攻めても迎撃されるだけだから・・・でも多分、時間の問題だわ」
「それ、どういうこと?」
「試合時間はまだ、十分以上残ってるもの。トーマスが攻めない限り、徹芯からは攻めないから、ダメージは充分に回復できるはずよ。そしたらトーマスは、また攻めてくるわ」
「徹芯は攻めないって、どうして?チャンスじゃないの?」
「うーん、そこが徹芯の弱点ね。まず、単純に体格差があるでしょ?いくらトーマスがベストじゃなくても、徹芯のリーチで迂闊に攻め込んだら、返り討ちにされるわ」
「でも徹芯には、体の小ささを補うだけの上手さがあるよ?」
「うん。・・・でもね、あいつの『三戦』は、あくまでも『攻めるための守りの型』であって、『攻めるための攻めの型』じゃないの。自分からは仕掛けられないわ・・・そもそもあいつは、攻めて来ない人には打ちかかれないのよ。性格的に。まあその甘さが、あいつの『鉄壁の三戦立ち』の支柱になってるんだけど」
「ふうん・・・」
そのまま、徹芯とトーマスの睨み合いが続いた。
ラスト三分。
「トーマス!」
カールが叫び、トーマスが動く。
ワン・ツー。
徹芯は両手を伸ばし、トーマスの両肘をこするようにして、パンチの勢いを殺した。
トーマスはすぐにサイドステップして、徹芯の右側へ回り込む。回り込みながら右のミドルキック。
徹芯は斜めに半歩踏み込んで、蹴りに勢いがつく前におさえる。
トーマスが退く。退きながら右フック。
遠い、と判断した徹芯は動かない。
フックは意外と伸びて、徹芯の額をかすめる。その勢いで、トーマスは右へ跳ぶ。
「ヒットアンドアウェイで来たわね。トーマスは残り時間いっぱい、攻め続けるつもりだわ」
「でも、宮城さんは上手くさばいてますよ」
「うん。でも、攻めに繋げられない。徹芯よりもトーマスのほうが、『速い』から」
「そうね・・・始めから、ここまで想定してたみたいだわ」
届かない距離からワン・ツー。
ツーの右肩を入れて、徹芯の右手にタッチ。
バックブロー気味に払って構えを崩す。その勢いでレバーに左フック。
徹芯は右足を一歩退いてかわす。
トーマスの体がわずかに泳いだ。が、それをサイドステップに変換して距離を取る。
「また・・・打って、さばいて、離れて、ってリズムになってるね」
「ええ。何か仕掛けてるんでしょうけど・・・」
「また、ちょっとずつ遅くなってるんですか?・・・そうは見えないけど」
「ううん。むしろテンポはどんどん速くなってるわ。すごいスタミナね」
「トーマス!」
今度はエレーナが叫んだ。それが、ラスト三十秒の合図だった。
トーマスはまたインステップして・・・両手をスルッと伸ばした。
徹芯の頭を押さえて、首相撲から膝蹴りの連打に繋げるつもりだった。
徹芯の目を、素早い出入りと打撃に慣らしておいて、いきなりリズムのまったく違う掴み技で意表をつくという作戦だった。
このまま首をがっちりと決められたら、膝蹴りの嵐が待っている。徹芯とてKOは免れない。
・・・だから、徹芯は掴まれる前に手を出した。
右手を開き、指先をトーマスの目に向けて突き出したのだ。
それは打つというより、タッチしにいくような動きだったが、目に指を突っ込まれてはたまらない。
トーマスは左手で、徹芯の貫き手を払おうとした。・・・が、その貫き手は異様に重かった。
徹芯の狙いはトーマスの目ではなく、掴みにきた腕をそらすことだった。
徹芯は斜めに踏み込んでトーマスの左肩の外に貼り付き、左手でトーマスの左肘を制した。
完全にサイドポジションを取られたトーマスの視界の端に、徹芯の右掌が映る。
(顔面を打ちにくる)トーマスは右手で顔面をカバー。
パン!という衝撃音が響く。
それと同時に、トーマスは左の脇腹が爆発したように感じていた。
徹芯の左掌で打たれたのだ。
「うわ・・・まわし受けで崩して、左右の掌底で上下同時打ちって・・・三戦の型の動き、そのまんまですね」
「本当。器用なのか不器用なのか、よくわかんない人ね」
掌底打ちを決めた徹芯は、素早く跳び退いて残心を取った。
トーマスは膝をマットにつきかけて・・・堪えた。
残り時間はほとんどない。
トーマスは徹芯を睨みつけたが、もう追うだけの体力は残っていなかった。
「あのバカ・・・乗せられるんじゃないわよ」周詠が唸った。
「え?乗せられるって?」
「トーマスのあの顔。最後まで勝負を捨ててないのがミエミエでしょ?徹芯は、あーいうのに弱いのよ。ついつい『打ち合いに応じよう』とかやりかねないんだから」
だが、徹芯は動かなかった。
「タイムオーバー。第二試合は、ドローです」
レフェリー・プログラムのアナウンスが淡々と流れて、試合が終了した。
徹芯は構えを解き、トーマスは溜め息をついて肩をすくめた。
「くそっ・・・今日は自信があったんだがな・・・」
「実際、危なかったよ。何度も捕まりかけた」
「だが、捕まえられなかった・・・最後までな」
「ああ。最後の最後・・・俺は、お前を倒しに行けなかった。あそこで打ち合いに応じたら、俺はきっと負けていた」
「その通りだ。だからお前は動かなかった。・・・それでいいのさ。それがお前のファイトスタイルで、お前はそれを最後まで貫き通したんだからな。もし、お前が自分のスタイルを曲げて、俺と打ち合ってたら・・・その瞬間はスカッとしたかもしれねえ。そして多分、俺が打ち勝っただろう。だが、そんな・・・お情けでもらった勝ちなんざ、嬉しくもなんともねえ」
「ああ、お前はそういうやつだ」
徹芯とトーマスはどちらからともなく歩み寄り、固い握手を交わした。