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第五章~紹介

 「ECP・・・」

 「そう。私は、ECPの一部門の、身体技術研究所・・・ボディ・アーツ・ラボラトリー、通称BALのマーシャルアーツ・セクションで、チーフを務めてるの」

 「・・・それって、つまり何をやってるの?」

 「ええと・・・つまりね。人類の進化のヒントを探すために、みんなで自分の得意な技術を持ち寄って、色々考えようっていうのが、ECP。その中で、特に体を動かす技術を持つ人たちが集っているのが、BAL。ダンス、体操や導引、氣功にヨガ。色んなジャンルがあるの。その中で、武術や武道、格闘技を扱っているのが、マーシャルアーツ・セクションよ」

 「ぶじゅつ?かくとうぎ?」

 「それなんだけどね・・・さっき、戦争の映像を見たでしょ?」

 「うん」

 ウタリの眉間に縦皺が入った。

 「その・・・昔のほうの戦争で、槍とか刀とかを持って戦ってたでしょ?あんな風に、戦場で敵と戦うための技術が、武術なの」

 「えー・・・周詠さんって、あんなことやってるの?」

 「あのね、私も実際に戦争に参加したことはないわよ。あくまで技術を学んでいるだけだから」

 「それにしたって、そういう技術が人間の・・・ええと・・・進化?その役に立つの?」

 「痛い所を突くわね・・・そうなのよ。だいたい、武術も武道も格闘技も、本来は全然別のジャンルなのに、マーシャルアーツでひとくくりにされちゃうってところが、ウチのセクションの立場の弱さを表してるのよね。そもそも進化って、『何ができるか』よりも、『何になりたいか』が重要なのに、格闘技って『今できること』の成功率を上げるための工夫が思考の半分を占めてるから・・・そういう意味じゃ、BALで一番、進化っていうテーマに合ってるのは、舞踊・・・ダンス・セクションかしらね」

 「なりたいとかできるとかってのもだけど、さっきの進化の説明からしたら、もういっそ空を飛べるようになるとか、水の中でも暮らせるようになるとか、そういうのが進化っていうんじゃないの?」


 「あ、いい線いってるわね。確かに生息域の拡大は、進化の基本パターンのひとつよ。実際、遺伝子工学のほうで、マーメイド(人魚)プロジェクトとか、イカロス(鳥人)計画とかが立ち上げられたことがあったわ」

 「それはどうなったの?」

 「・・・その姿を3D映像でシミュレーションしてるうちに、立ち消えになったって」

 「あ・・・何か、想像つくような・・・」

 「だからまあ、現実的な生息域の拡大ということなら、宇宙開発なんかもあるんだけど、こちらはマーシャルアーツ・セクション以上に不遇な状況なの。もちろん今でも人工衛星はいくつも回ってるし、宇宙ステーションだってあるのよ。でも宇宙での仕事は全部ロボットがやっていて、人間はいないの」

 「どうして?」

 「人間を出すメリットがないからよ。今の技術で行ける宇宙で、人間がやるようなことなんて、五十世紀に入るまでにやりつくしちゃったから。もしこれから人間が宇宙に出るとしたら、恒星間飛行でもできるようになってからじゃないと意味がないの。でもそのためには、それこそワープ航法とか反重力エンジンとか、画期的なテクノロジーの一大変革がないと、駄目なのよ」

 「うーん、とにかく、街の人たちが色んなことで煮詰まってるってことだけは、わかった」


 「それで十分よ。・・・でね、ウチとしては・・・ううん、マーシャルアーツ・セクションだけじゃない。BAL全体から見ても、ウタリの能力って、魅力的なのよ」

 「へえ・・・そうなんだ」

 「さて、説明はこのぐらいにして・・・出かけましょうか。ちょっと早いけど、どこかでお昼を食べてから、BALへ行って、あなたの基本的なデータを取らせて欲しいの。いい?」

 「うん」

 「そうだ。申し訳ないけど、街ではその・・・皮の服じゃなくて、私の服を着てくれる?」

 「いいよ。あらぬ誤解をさけるってやつ?」

 「そうよ。えーと、どれがいいかな」

 周詠はクローゼットから、Tシャツとショートパンツを選んでウタリに着せた。ウタリと周詠の体型はほぼ同じだったので、サイズの問題はなかった。

 明るい色のTシャツとショートパンツを身につけたウタリの外見は、街の高校生と大差なかった。

 周詠はいつものように、長袖のアオザイを着用した。

 「この暑いのに、そんなにぞろっとした服を着るの?」

 「紫外線対策よ。それと、武術家のたしなみ」

 「何それ?」

 「秘密」


 ウタリと周詠は、近所のカフェまでのんびりと歩き、ランチを食べてから、BALへ向けて再び歩き出した。

 歩きながらウタリは、時折自分に注がれるいくつもの視線に気づいた。

 「周詠さん。私、あっちこっちから見られてるみたいなんだけど、これって『あらぬ誤解』?」

 「違うわよ。あなたが可愛いから見られるの。適当に流しとけばいいから」

 実際ウタリは、街の女性とはひと味違う溌剌さにあふれていた。

 二人はたっぷり二時間ほどかけて、食後の散歩を楽しんだ。


 散歩の終点のBALは、フィットネスクラブとオフィスビルとカレッジをごちゃ混ぜにしたたような雰囲気だった。

 「さ、着いたわよ。ミーティングルームで荷物だけ置いて、まずは着替えましょ」

 「また着替えるの?」

 「身体測定や体力テストをするから、トレーナーのほうがいいわよ」

 マーシャルアーツ・セクションのミーティングルームは、それほど広くはないが、窓が大きくて明るい部屋だった。

 入り口の側には小さなソファとテーブルの簡易応接セットがあり、窓の側に事務用のデスクが三つ並んでいた。

 そして壁際にロッカーが四つ。

 つまりここは、ミーティングルーム兼オフィスなのだ。

 ウタリは更衣室でマーシャルアーツ・セクションのロゴが入ったトレーナーに着替えると、周詠の案内でメディカルルームと総合体育館をまわり、一通りの検査と体力テストを受けた。

 医療スタッフもトレーナーも、ウタリの身体能力に驚いていたが、周詠だけは平然としていた。力が発動した状態のウタリを見ていたから、通常時のウタリをそれほどすごいとは感じなかったのだ。


 体力テストを終えてミーティングルームに戻ると、ウタリと同じ年頃の女性が、デスクに向かって端末を操作していた。

 地味なパンツスーツ姿のその女性は、周詠とウタリに気付くと、おや、という顔をした。

 「あれ?・・・チーフ、お休みは今日までじゃなかったんですか?」

 「そうよ。今日はまあ、仕事半分、趣味半分で来たの」

 「そちらのお嬢さんは?」

 「うん。昨日ね、街の外から来てもらったの。ネイティブのウタリよ。すごい力を持ってるの。で・・・ウタリ、この人はね。ウチのスタッフで、志葉佳澄しば・かすみさんよ。柳生心眼流っていう、日本の古流柔術の免許皆伝を持ってるわ。去年、高校を出たばかりだから・・・十九歳、だったわね」

 「はい」

 「ウタリもまあ、そのぐらいの年でしょ?」

 「うん。よろしくね、佳澄。昨日初めて街に来たばっかりで、色々びっくりしてるんだ」

 ウタリは大袈裟に右手を上げて、左手で自分の胸をパンパンと叩いた。

 

 「こちらこそよろしく。わからないことがあったら、何でも聞いてください」

 佳澄は立ち上がると、ニッコリと微笑みながらウタリに歩み寄ろうとした。 

 佳澄の、少しクセのあるショートヘアがフワリと揺れるのを見ながら、ウタリは(猫みたいなコだ)と思った。

 思った途端に、自分から間を詰めていた。

 ウタリと握手をしようとして右手を差し出していた佳澄は、いきなり鼻先にせまってきたウタリの顔に、思わず「え?」と声をあげた。

 ウタリは佳澄の狼狽には構わずに抱きついた。ハグしながら頭を撫で回し、柔らかい髪の感触を楽しんだ。

 「え?ちょっと・・・」

 佳澄はウタリが両手を伸ばした時から、それを心眼流の振り打ちで払おうとしていたのだが、難なく突破されてしまっていた。ハグされてからも、「震い」で外そうとしていたのだが、ウタリはその動きにうまく合わせて、技を潰していた。


 「チーフ、何なんですか、この人は・・・」

 佳澄は目尻をキュッと上げて、顔を赤く上気させた。

 それを見たウタリは、ハグしている腕に更に力を込めた。

 「みゅっ・・・」

 佳澄はウタリよりも小柄なので、捕らわれた小動物のようだった。

 「あらら・・・ねえウタリ、ネイティブって、そういう挨拶もするの?」

 「挨拶っていうか、このコが可愛いからしてるだけ」

 「あ、そう。じゃあそろそろ、離してあげてくれない?」

 「うん」

 ウタリが離れると、佳澄はヨロヨロと後ずさりして頭を振った。

 すっかりクシャクシャになった髪が揺れるのを見て、ウタリは再び飛びかかりそうになったが、睨み返されて自重した。


 「意外な反応ね。ねえウタリ、佳澄のどこが気に入ったの?」

 「あっちこっち。・・・特に、あの髪。あーいう短くて可愛い髪って、見たことないから」

 「あ、そうか。ネイティブはみんな、長髪だもんね。・・・でも佳澄、これでわかったでしょ?ウタリの体術が、どれぐらいすごいか」

 「ええ・・・まあ」

 佳澄は不満そうだった。武術家として、周詠の前で恥をかかされたような気分だった。

 それに、幼い頃から武家の行儀作法を叩き込まれてきた彼女には、何かとオーバーアクションなウタリの立ち居振る舞いは、ひどく下品に感じられた。

 ウタリはウタリで、佳澄がご機嫌斜めなのに気付いてはいたが、気にしていない・・・というより、それさえ可愛いと感じていた。

 佳澄の不機嫌の元が自分だという自覚がないのだ。

 そもそもネイティブにとって、オーバーアクションは日常会話の一部だった。

 周詠はそんな二人の様子を興味深く観察していた。


 「ああ、そういえば徹芯は?」

 「あ・・・宮城さんは、出先から直帰するそうです」

 「そう。じゃ、ウタリと顔を合わせるのは明日になるわね。あなたはまだ時間がかかるの?」

 「まあ、多少は・・・編集の途中ですから」

 「じゃ、私たちは先に帰るわね。また明日」

 「はい。・・・お疲れさまでした」

 「帰りましょうか、ウタリ」

 「はあい。じゃあ佳澄、また明日!」

 「・・・ええ」佳澄は軽く右手を上げて、作り笑いを浮かべた。


 「ねえ、周詠さんは佳澄と仕事してるんだよね?二人だけで?」

 「ううん。あと一人いるわ。明日紹介するけど・・・ウチは、この三人のスタッフでやってるの。小さな所帯よ」

 「どんな仕事?」

 「そうね。午前中は自分の稽古をしてるわ。午後からは、街のジムや道場を回って、これはと思うような流派や人材を探して・・・で、目ぼしい素材が見つかったら、交渉して、技や動きを動画に撮らせてもらうの。動画はデータベースに共有されて、BALにアクセスすれば、誰でも見られるわ。ダンス・セクションの人がインスピレーションを得るために見たり、生体工学の人が研究素材にしたり、色々よ。時々レポートを書いたり、他のブロックの選抜チームと交流戦をしたりするけど、メインは動画の収集ね。そうそう、交流戦といえば、明後日はヨーロッパ・ブロックの選抜チームとの交流戦があるのよ」

 「それって何するの?」

 「まあ、その・・・技の応酬よ。明日、実際にやってみましょう。そのほうがわかりやすいから」

 「うん。わかった」


 翌朝、ウタリと周詠がBALに到着すると、ミーティングルームには誰もいなかった。

 「佳澄は来てないの?」ウタリはキョロキョロしたり、辺りを嗅ぎ回ったりして佳澄を探した。

 「来てるはずよ。佳澄も徹芯も、トレーニングルームで稽古してるんでしょう。私は出勤前に、自宅でほとんど済ませちゃうけど、あの二人は早めに来て、ここでしてるの」

 「周詠さんは、ここでは稽古ってしないの?」

 「そんなことないわよ。気が向いたらこっちでも稽古するわ。設備も充実してるしね。でも、あんまり恵まれた環境でばかり稽古してると、技がダレちゃうのよ。佳澄や徹芯だって、ここで稽古しない時期があるのよ」

 「へえ?」

 「さ、とにかく着替えて。トレーニングルームに行きましょ」


 はたしてトレーニングルームでは、佳澄と、それにもう一人・・・引き締まった体つきの男が、練習をしていた。

 二人ともTシャツとトレーニングパンツという格好だったが、すでに汗びっしょりだった。

 「昨日、テストとかを受けた所とは、違うね」

 ウタリはトレーニングルームと聞いて、体力テストを受けた体育館を想像していた。

 「ええ。ここはマーシャルアーツ・セクション専用のトレーニングルームだから・・・ウエイトとかエアロビとか、そういうトレーニングをするなら、そのための部屋がちゃんとあるしね」

 

 マーシャルアーツ・セクションのトレーニングルームは、テニスコート一面分ぐらいの広さの部屋に固めのマットが敷き詰められていた。四方の壁にも、同じようにマットが貼り付けてある。

 その部屋を半分ずつ使うような形で、佳澄と徹芯は独闘をしていた。

 だが、いわゆるイメージ上の敵と戦っているような動きではなかった。

 二人とも、本当に敵と向かい合っているかのように間合いを調節し、打ち、かわしていた。


 「あれって、何をしてるの?」

 「シミュレーションよ。ヴァーチャル・スパーリング・・・佳澄もあのオジサンも、顔にゴーグルをつけてるでしょ?あれでね、本当に目の前に相手がいるように感じるのよ。打ったり打たれたりした時の、手ごたえやダメージまで再現できるわ」

 「あの、バイクが化けてた岩みたいなの?」

 「そう、そんな感じ。だから怪我はしないし、便利よ。組み技の練習はちょっと難しいけど。・・・たぶん二人とも、ヘビー級のキックボクサーを設定してるんじゃないかしら?ま、すぐに終わるから待ってましょ」

 その言葉通り、ほどなくゴングが鳴って、シミュレーションが終了した。

 ゴーグルを外した二人の顔は、真っ赤に上気して、汗びっしょりだった。

 「おはよう。頑張ってるわね」

 「ああ、チーフ・・・おはようございます」佳澄が軽く会釈をした。

 そしてもう一人。

 「おお、ちゃんと無事に帰ってきたみたいだな。そうそう、佳澄から聞いたぞ。ネイティブの嬢ちゃんを連れてきたって?そっちの子かい?」

 年の頃は三十前後といったところか。その男は、白い歯を見せて笑いながら、ウタリに手を振った。

 「ええ。この子がウタリよ。あなたよりずっと強いんだから」

 周詠は男に向けて、やはり白い歯を見せながら、悪戯っぽく笑った。


 「そりゃすごいな・・・ああ、俺は、宮城徹芯(みやぎ・てっしん。専門は那覇手の空手だ。よろしく」

 「那覇手っていうより、三戦の専門家でしょ。不器用なのよ、この人」

 徹芯は周詠をチラッと睨んでから、ウタリに右手を差し出した。

 ウタリはその手を握りながら、徹芯と周詠を交互に眺めた。

 (周詠さんが、何か変だ)と、ウタリは感じていた。

 佳澄は、やれやれという顔をしていた。

 街で暮らす人間なら、周詠の徹芯に対する態度は、屈折した愛情表現だと察することができる。

 だがウタリは、ずっと狩猟民族の中で暮らしていたので、感情表現にはストレート以外にも色々な変化球があるということを知らないのだ。

 (まあ、いいや)

 わからないことはグズグズ考えないのがウタリだ。

 「よろしくね、徹芯」

 握った手を大きく振りながら、ウタリは徹芯の顔を見上げた。

 ウタリより頭ひとつ分は大きい。だが、受ける印象はもっと大柄だ。

 絞り込まれた体をしているが、骨格がしっかりしているせいか、華奢な感じはしない。むしろゴツゴツした雰囲気がする。

 角ばった顔や、逆立った短い髪が、そのゴツゴツ感を増幅していた。

 「ねえ。それ、やってみてもいい?」

 「ん?これか?」徹芯がゴーグルを持ち上げる。

 「うん。それ」

 「昨日はやらなかったのかい?」

 「昨日はメディカルチェックと、基本的な体力テストだけやったの・・・面白そうだから、やってもらいましょうよ」そう言いながら、周詠は徹芯のゴーグルを取り上げた。


 「どれどれ、さっきの記録は・・・攻撃回数64、命中回数61、命中率95,3パーセント。防御回数84、被弾回数3、回避率96,4パーセントね。・・・あなた、このプログラムって、去年からやってるでしょ?なのにまだパーフェクトを出せないの?」

 「でも評価はSランクだぜ」

 「よろしい。じゃ、お手本を見せてあげるわ。さあウタリ、これをつけて」

 佳澄は自分のゴーグルを目に当てた。ウタリのつけているゴーグルとコネクトすれば、ウタリとブログラムの戦う様子が見られるのだ。

 「ええと、で、どうするの?」

 「打ってくるのをよけて、打ち返せばいいのよ」

 そしてウタリの目の前に、いきなり黒人の大男が現れた。

 「ARE YOU READY?」

 「何か言ってるよ?」

 「YES、って言って」

 「イエス!」

 「OK、GO!」

 ゴー、という掛け声と同時に、プログラムの黒人キックボクサーが鋭くインステップして、勢いをそのままローキックにつなげた。

 「わわっ?」

 ウタリは派手に跳び退いて、ローキックをかわした。


 (さあウタリ、どう?ちょっとギャラリーは少ないけど、ここにいる三人は、あなたの力を見たいと思ってるわ。それに応えて、力の一端でも出ないかしら?)

 周詠はドキドキしながら、ウタリの動きを見つめていた。

 「うわっ・・・とっ・・・」

 だがウタリは相変わらず、大きなステップでかわし続けるだけだ。

 「ははっ・・・いや、でもいい動きじゃねえか」

 「とっ・・・よ・・・っ」

 ウタリの動きが、次第に小さくなってきた。

 「ん・・・ほっ・・・」

 「ふうん・・・」

 「うわ・・・」

 ウタリの動きの無駄が、どんどん減っていった。

 最小限のバックステップでかわし、時にはサイドステップでプログラムのコンビネーションを中断させていた。

 「なあ、佳澄・・・ちょっと、ゴーグルを貸してくれねえか?」

 「あ・・・はい」

 徹芯が佳澄からゴーグルを受け取り、それを目に当てる間に、ウタリの動きは更によくなっていた。

 「よしっ・・・こうか、へへっ・・・そうか、打ち方も蹴り方も、狙う場所も・・・決まってるんだ・・・」

 「お、お・・・」

 「うそ・・・」


 ウタリの足が、止まっていた。

 その場から一歩も動くことなく、プログラムの放つすべての攻撃をかわしていた。

 ストレート系のパンチをウィービングでかわすのは、まあ普通だ。

 だがウタリは、フックやハイキック、ミドルキックまで、ダッキングでかわしていた。

 ダッキングはキックボクシングでは、やってはいけない動きだ。頭が低くなるので、膝蹴りをもらってしまうからだ。

 当然プログラムも、頭を下げたウタリに膝蹴りで追撃した。

 だが、それが当たらない。

 ウタリはギリギリで体をひねって、膝蹴りをやり過ごしてしまうのだ。

 そう。

 ウタリは、ブロックをしていなかった。

 ローキックでさえ、狙われた脚を抱え込んでかわしていた。

 ついにプログラムは、ウタリを首相撲で捕まえようとした・・・が、ダッキングで逃げられる。

 膝蹴り。

 当たらない。

 だが、ウタリもバランスを崩す。

 プログラムは肘を打ち下ろす。

 ウタリは片足を軸にして、ピボットターンの要領でサイドへ回る。

 ・・・佳澄と徹芯は、やっとウタリが移動した、と感じていた。

 「・・・もう、殺陣みたいだな」

 「殺陣っていうか、ウタリだけの動きを見てたら、ダンスみたいです」

 だが、ウタリのこの超絶的な動きを見ても、周詠はそれほど驚いてはいなかった。

 いや、むしろ物足りなさを感じていた。

 (確かにすごい動きだけど・・・これは、ウタリの目の良さによるものだわ。速さも力も、あの時・・・牛を倒した時には程遠い)


 やがてゴングが鳴って、シミュレーションが終了した。

 プログラムの黒人キックボクサーは、肩をすくめて首を振りながら姿を消した。

 「どれどれ・・・回避率は100パーセントか。しかも、ひとつもブロックしてないってのがスゴイよな。でも攻撃がゼロ、命中率はノーカウントだ。消極的な姿勢が過ぎるってんで、評価は五段階評価でEランクか」

 「それっていいの?」

 「よくない。最低だ」

 「え・・・?何だ、簡単によけられたと思ったのに・・・」

 「打ち返さなきゃ、駄目なのよ」

 「んー、そう言われても・・・」

 「ねえウタリ。あなた、子供の頃に殴り合いとか、取っ組み合いのケンカをしたことはないの?」

 周詠が訊いた。

 「あるよ。っていうか、そんなの子供の頃しかやらないよ」

 「ん?・・・大人はケンカしねえのか?」

 「殴り合ったりとかはしないよ。そんなことしても、狩りの役に立たないし」

 「そりゃそうだな」

 「えっ・・・でも、基本的な格闘技術って、多少は狩りにも使えるんじゃないですか?」

 「いや、そうはいかねえんだよ佳澄ちゃん。対人の格闘技術ってのは、どこまでいっても対人用なんだ。四つ足の獣には使えねえ」

 「そうね・・・じゃあ、子供の頃に戻ったつもりで、ちょっと私とじゃれ合ってくれない?あなたの力は、こんなものじゃないわ。あの、牛を一撃で倒す身体能力を・・・徹芯にも佳澄にも見せたいの」

 周詠が氣を整えながら、ウタリの前に立った。

 「おうおう・・・」

 徹芯は目を丸くしながら、佳澄の腕を引っ張り、壁際まで下がった。

 二人とも周詠の言葉から、ウタリの超人ぶりを想像し、それを見たいと感じていた。もちろんそれが周詠の狙いだった。

 (さあ、舞台は整ったわ。それに生身の人間は、プログラムとはひと味違うわよ。どうするウタリ?)

 周詠は、ウタリの反応に期待しながら戦闘態勢に入った。

 ウタリもまた、そんな周詠をワクワクしながら見つめた。


 周詠はただ、ひっそりと立っているだけ・・・の、ようでいて、わずかに揺らいでいる。

 前傾しているようで、いつの間にか後傾している。

 気付かないうちに、わずかに間を詰めているようで、今度は離れている。

 間合いを微調整することで、ウタリを誘っているのだ。

 これが周詠の戦闘スタイルだった。

 相手が思わず攻めたくなるような間合いに立つ。

 だが、相手が攻め込んだ時には、もう周詠はそこにはいない。

 相手は攻めているのではなく、攻めさせられているから、自分の動きができない。

 それはつまり、崩されているということだ。

 自ら崩れた相手を仕留めることなど、周詠にとっては造作もないことだった。

 相手を崩し、さばき、そこから攻める・・・太極拳は、そういう戦法に特化した拳術だからだ。

 周詠は、この間合いの取り方に関して、天賦の才能を持っていた。

 ・・・だが。

 「・・・駄目だわ」周詠は首を振った。

 「こんなに噛み合わない相手って、初めてかもしれない」

 「え?私って、そんなに下手なの?」

 「そうじゃないの。私はね・・・相手にちょっとでも、『隙あらば打とう』って気持ちがあれば、それを利用して崩せるの。でもあなたには、打つ気がない。打たれたら打ち返そうとすら思っていない。まあ打つ気になったら打とう、ぐらいにしか考えてないから・・・誘えないのよ」

 「あ・・・誘ってたんだ?周詠さんが来るのか来ないのか、動きの意味がよくわかんなくて・・・」

 「そうでしょうね・・・というわけで、徹芯!あなたの番よ」


 「え?俺?いや、俺もあの嬢ちゃんに当てられるかどうか・・・」

 「私もあなたにそんなことは期待してないわ。試したいのは、あなたのその、暑っ苦しい闘氣よ。それを全開にして、ウタリにぶつけてちょうだい」

 「おう・・・それでウタリに警戒心か、せめて戸惑ってでもくれれば、何か変化があるかもしれないってことだな」

 「そう。頼むわよ」

 「了解。・・・じゃ、お嬢ちゃん。今度は俺が相手だ」

 「うん、わかった」

 「コッ・・・お・・・」

 徹芯は、低く力強い息吹きで闘氣を練り上げた。

 練り上げた闘氣を、下腹部の丹田に溜めて、溜めて・・・

 「かっ・・・ハァ!」

 吐気と共に、凝縮した闘氣をウタリにぶつけた。

 「お?」

 ウタリの体が、ピクリと震えた。

 「徹芯の氣って、変わってるね・・・人よりも、獣みたい・・・」

 呟きながら、体を揺すり始めた。

 目が本気になっていた。

 徹芯は、ウタリの本気の視線を真正面から受け止めつつ、一歩、また一歩と間合いを詰めた。

 そして・・・歯を見せて、笑った。

 「いくぞ、嬢ちゃん」

 「うん」

 徹芯が、右の正拳突きを放った。

 ウタリはそれをギリギリでかわし、サイドステップで徹心の右肩の外に貼り付いた。これで徹芯は、一度離れなければ追撃できない・・・と思っていたウタリを、左の正拳が襲った。

 「わ?」

 徹芯は、その場で鋭く、コンパクトに腰を切り返して、鉤突きを出していた。


 「あのバカ・・・」

 周詠は呆れ声で毒づいたが、顔は笑っていた。

 佳澄だけが不愉快そうだった。

 「バカって・・・宮城さんは、きっちり追撃してますよ?」

 「本当にそう思う?」

 「いや、その・・・正直、遊んでるようにも見えます。でもウタリはともかく、宮城さんまで・・・」

 「あいつだから遊んでるのよ。ウタリに乗せられたのね・・・さっきの鉤突き、見たでしょ?倒す気なら、あんなフックの出来損ないみたいな打ち方はしないわ。もっときっちり体を切り返して、正拳突きを出してるわよ」

 周詠の言葉通り、徹芯はウタリと遊んでいた。ウタリに対して、駆け引きも何もなしに、バカ正直な突きを繰り出し続けていた。

 突きのひとつひとつは本気だ。だが、すべて寸止めだった。

 ウタリもそれを承知の上で、寸止めでなかったとしても当たらないような動きをしていた。


 周詠は、堪え切れずにクスクスと笑い出した。

 「徹芯ったら、ウタリの最初の目つきでわかっちゃったのよ。自分はウタリにとって、本気で遊べる相手なんだって」

 「そんな・・・それって、バカにしてませんか?」

 「そんなことないわよ。だってほら、徹芯の顔。楽しそうでしょ?」

 「ええ・・・まあ・・・」

 確かに佳澄にも、ウタリと徹芯の姿は、じゃれ合う親子か鬼ごっこに夢中の兄妹のように見えた。

 「でも・・・いいんですか?こんな、遊び半分の・・・」

 佳澄にとって、トレーニングルームは道場であり、道場とはつまり、神聖な修業の場だった。

 その場所で、ふざけた稽古をするのは、納得がいかなかった。

 「遊び半分じゃないわ。あの二人はね、全開で遊んでるのよ・・・あなたもやってみればわかるわ。・・・徹芯!選手交代よ。次は佳澄の番!」


 「え?私が・・・ウタリと?」

 「そうよ。遊んでばかりのウタリが気に入らないのなら、ぶっ飛ばすつもりで打ちかかってみれば?」

 「・・・わかりました」

 正直なところ、佳澄自身がウタリを打てるとは思っていなかった。

 だがこのままでは気持ちが治まらない。

 

 「いい動きだな」

 「へへっ」

 笑顔でハイタッチを交わす徹芯とウタリの姿が、佳澄のイライラを募らせた。

 「はあい。じゃ、始めてちょうだい。ウタリ、まだ続けられるでしょ?」

 「うん。平気平気」

 ウタリは両腕をグルグル回しながら、軽快に跳ね回っていた。平気どころか、やっとエンジンが温まってきたようだ。

 「それは大したものね・・・じゃ、遠慮なくいきます」

 佳澄は、両手を軽く握って下丹田の前に置き、氣を整えた。

 「ふっ・・・」


 ゆらり、か。

 ぐらり、に近いような動きで、佳澄が間合いを詰めた。

 詰めながら両拳を振り回す。心眼流の振り打ちだった。

 相手が攻めてくれば、その手足を打ち払い、逃げれば追撃する。攻撃にも防御にも使える動きだ。

 徹芯の正拳突きと比べれば威力は落ちるが、それとは異質のスピードとリズムがある。

 とにかく、動きに継ぎ目がない。

 どこで打ち始め、どこで打ち終わっているのか、見当がつかないままに拳の雨が降り続けるのだ。

 ・・・だが、ウタリには通用しなかった。

 見切られるとは、まさにこういうことなのだと、佳澄は肌で感じていた。


 だが不思議なことに、実際にこうしてウタリに打ちかかってみると、ひとつも当たらないというのに、それほど不愉快ではない。

 それどころか次第に、当たるとか当たらないとか、そんなことがどうでもよく思えてきた。

 ただ、思い切り拳を振る。ウタリがそれをギリギリでかわす。

 ウタリは決して逃げてはいない。佳澄の拳をかわすために、接近し続けている。

 振る。かわす。打ち上げる。仰け反ってよける。打ち下ろす。回り込む。

 その一連の動きは、コミュニケーションとして成立していた。

 (もっと、こうしていたい)

 佳澄はふと、そんな風に感じている自分に気付いた。そして、そんな自分をごく自然に認めていた。


 「これはもう、武術じゃないわ。スポーツでもない。ただの遊びね」

 周詠が、二人の動きを見つめながら呟いた。

 「ああ。・・・だが、こういう稽古があってもいいんじゃねえのか?」

 「そうね。これで佳澄も、ふた皮ぐらい剥けるでしょ」


 佳澄は、自分の持久力に驚いていた。

 心眼流に限らず、大抵の古流武術の練習体系には、数稽古が組み込まれている。ひとつ、もしくは数種類の技を、万単位でひたすら繰り返すのだ。

 疲労困憊の中で動き続けることで、余計な力みが抜け、技の精度が増していく。

 そして、あくまでオマケとしてだが、持久力も上がる。

 佳澄もそういう稽古を経験しているし、周詠の影響で走り込みもしていたから、持久力にはそれなりの自信があった。

 だが、ウタリとの語らいは、そういった稽古とは別次元だった。

 疲労感がまったく湧いてこないのだ。

 (チーフと稽古する時は、誘われて、打たされて、崩されるから・・・続けていると疲れてしまう。でもウタリは・・・ただ、打ち続けていたい。ウタリと一緒に作っているこの「場」にいること自体が、とても心地いい)

 佳澄は時間が経つほどに、自分の拳のキレが増していくのを感じていた。

 (まだ、もっと、動ける・・・ウタリが、跳んだ・・・待って・・・何よ、その動き・・・いや、違う。動いたんじゃなくて、かすんでいる?)


 「はい、そこまで・・・佳澄も無茶するわね。そんなスタートダッシュみたいな動きを二十分以上続けるなんて」

 「え・・・そんなに?」

 周詠の声で我に返り、動くのを止めた佳澄は、ひどい喉の渇きと、自分の笑顔にハッとした。

 「佳澄、顔が真っ赤だぞ」徹芯が心配そうに声をかける。

 「えっ?いや、これは・・・」

 「脱水症状を起こしかけてるのよ。早く水を飲んで・・・それに汗びっしょりじゃない。もう稽古はここまで。ウタリとシャワーでも浴びてらっしゃい」

 「はっ・・・はい」

 冷静になるにしたがって、疲労感が佳澄を襲い始めた。手足が重く、頭がフラフラする。

 だが、それを上回る爽快感があった。

 「佳澄、大丈夫?」

 ウタリが佳澄の顔を覗き込む。

 「大丈夫よ。・・・シャワーを浴びに行きましょう」

 「うん」


 水分を補給して、シャワーで汗を流すと、佳澄はようやく頭がシャンとした。

 ウタリと佳澄は、更衣室のベンチに並んで腰をおろし、一息をついた。

 佳澄は新しいペットボトルを開けて、水をふた口飲んでから、ボソボソと話し始めた。

 「ねえ。ウタリのお父さんって、どんな人?」

 「お父さん?そうだなー・・・色んなことを知ってるよ。わからないことは、ほとんどお父さんから教わるかな。お爺ちゃんよりも色々知ってるかもしれない。知らないこともあるけど、そういう時は一緒に考えてくれるよ」

 「そう。・・・そういう風に育てられると、ウタリみたいになるのかな・・・」

 佳澄はまた、水をひと口飲んだ。

 「私の父は・・・私に心眼流を教えてくれた。当家は、心眼流を継承する家系なんだって・・・行儀作法も含めて、稽古は厳しかったわ。でも、物心がついた時からずっとそうだったから、辛いとも、楽しいとも思わなかった。ずっとそんな生活をしてきて、・・・結構強くなったのよ。道場破りを返り討ちにしたこともあるんだから。それで・・・高校生の時に、ウチにチーフが来たの」

 「周詠さんが?」

 「そう。心眼流を観たいって・・・父は大喜びだったわ。BALのデータに加えられれば、本物の・・・一流のお墨付きをもらうのと同じだもの。さすがに私もはりきって演武したわ。・・・で、演武が終わってから、チーフが私に訊いたの。『佳澄さんは、どうして心眼流の稽古を続けてるんですか?』って」

 「へえ。何て答えたの?」

 「それがね。先に父が答えちゃったのよ。『それはもちろん、失われゆく伝統文化を受け継ぐことによって、先人を敬い、心身を鍛え、人の世の役に・・・』何たらかんたらって」

 「何それ?」

 「そうよね。『何それ』でしょ?そしたら、チーフは何て言ったと思う?」

 「やっぱり『何それ』って言ったんじゃないの?」

 「はずれ。まあ、そういう気分だったろうけど。『申し訳ありません、志葉さん。私は佳澄お嬢さんの言葉が聞きたいんです』って」

 「へえ」

 「で、あの涼しい眼で、私をじっと見て。・・・その時、始めて気がついたの。だからこう答えたわ。『私は、心眼流が好きだから、稽古を続けてます』って。・・・稽古自体は、父から・・・というより、家から強要されたものだけど、それだけじゃ上達なんてしないわ。私は、心眼流が好きなのよ。・・・でもそれを聞いた父は、目を白黒させてたわ。そしたら、端っこで正座してたチーフがいきなり立ち上がって、道場の真ん中に行って・・・太極拳の演武を始めたの」


 「太極拳?」

 「ウタリは、チーフの太極拳を見たことないの?」

 「うん。私が起きる頃には、周詠さんの稽古は終わってるから」

 「見といたほうがいいわよ。チーフの技は・・・誰よりも伝統を重んじ、正確に受け継ぎながら、それでいて誰よりも自由なのよ。その演武を見て、私はわかったの。父は・・・伝統を守ってたんじゃない。伝統に縛られて・・・ううん、伝統に呪われてただけなんだって。そんな父は、私に心眼流を教えてたんじゃなくて、心眼流を私という器に保存しようとしてただけなんだって。でも・・・そんなこと、もうどうでもいいの。私の今の目標はね。チーフのあの境地に、心眼流で到達することなの」

 「ふうん。だから、ここで働いてるの?」

 「うん。っていうか、あの日・・・初めてチーフの演武を見た後で、言われたの。『一緒に仕事をしませんか』って。あれから、色んなことをチーフから教わった・・・つもりだったんだけど。・・・私は、ウタリを誤解してた。ふざけてばかりの礼儀知らずだって・・・以前、チーフが言ってたわ。礼儀を守ることは大事だ。でも、礼儀の形にとらわれて、自分とは違う形の礼儀を持つ者を理解しようとせず、あまつさえ見下すような真似をするなら、礼儀の形など知らないほうがいい・・・って。その意味が、やっとわかったわ。・・・ウタリのおかげよ」

 「え?そう?よくわかんないけど・・・私、佳澄と遊ぶの、楽しかったよ。また遊ぼうよ」

 ウタリはそう言って、佳澄の背中をパンっと叩いた。

 水を飲もうとしていた佳澄は、少しだけ咳き込んでから・・・ウタリに笑顔を返した。

 「ええ。・・・ありがとう」


 シャワーで汗を流した徹芯がミーティングルームに入ると、周詠が机に頬杖をついて、ディスプレイをボンヤリと眺めていた。

 「何だそりゃ・・・ああ、あの嬢ちゃん・・・ウタリのデータか」

 「ええ」

 「どれどれ・・・身長163センチ、体重51キロ。握力が右62キロ、左59キロ。背筋力293キロ?垂直跳び102センチ・・・おい、この100メートル9秒3てのは何だ?」

 「ああ、それは本人も驚いてたわ。整備されたトラックで、スパイクを履いて走ったから・・・力が発動してないのに、こんなに速く走れたのは初めてだって」

 「ははっ、そうかい・・・しかし大したもんだな。十五か十六の嬢ちゃんが、こんな・・・」

 「十七よ」

 「ん?」

 「メディカルチェックでわかったの。ウタリの年齢は十七歳と三ヵ月よ。誤差は一週間以内だって」

 「あ、そう・・・お、だったらDNA検査もしたろ?何か変わったことは・・・」

 「ううん。塩基配列自体は、ごく普通よ」

 「ふーん・・・しかし、この視力12,5ってのが、さすがはネイティブだな」

 「動体視力も抜群ね。・・・でも、ピクルほどじゃないわ」

 「ピクル?」

 「何よ。あなた、空手家のクセにピクルを知らないの?」

 「知らねえよ。大方、古典漫画のキャラか何かだろ」

 「そう。名作よ?サイドストーリーだけど、私はあれが本編でもいいと思うわ。そもそも・・・」

 周詠の声が次第に熱を帯び、右手の人差し指がフラフラと揺れ始めた。

 それを見た徹芯は、慌ててその先を制した。

 「ああ、で、とにかくお前さんとしちゃ、ウタリに・・・そのピクル並みの力を期待してたわけだ」

 「そうなのよ。・・・今、思い出しても身震いがするわ。あのスピード、牛を殴り倒したあのパワー・・・信じられる?チーターの速さとゴリラの強さを兼ね備えて、更に十倍したような動きだったのよ」

 「そりゃ凄いね」

 「・・・信じてないでしょ」

 「まあ・・・実際に見たお前自身が、どうやら半信半疑なんでな」

 「そう見える?」

 「ああ」

 「バカ」


 「ふん。で、これからどうするつもりだ?」

 「そうね・・・とりあえず、明日の交流戦に、私の代わりに出てもらおうと思ってるの」

 「ヨーロッパ・ブロックの連中と?そりゃ確かにあいつらは強いが、身体能力についちゃ、正直ウタリほどじゃないと思うぞ」

 「そうね。でも、明日ウタリが戦うのは、カールたちじゃないのよ。『試合』という特殊な『場』が、あの娘の敵になるの」

 「あ、そうか・・・制限時間内に、積極的に攻めて、守って、倒せりゃ勝ちで、倒されたら負けってのは、独特の緊張感があるからな」

 「ええ。問題はその緊張感が、空腹感に匹敵するほどの危機感になり得るか、ね・・・とにかくウタリは、周りの人間の想いや願いを力に変えるってトコまでは、確かなのよ。明日は人数も増えるんだし・・・あとは、力を出さなきゃならないような、きっかけさえあれば・・・」

 「そりゃ、意外と難題じゃねえか?」

 「そうね。まあ色々試してみるわよ。明日は劉翔も来るし」

 周詠はニヤリと笑いながら、携帯端末を開けて、劉翔からのメールを徹芯に見せた。

 「お?そうか、劉翔が来るのか。あいつならひょっとしたら・・・」

 「でしょ?」

 そこへ、ウタリと佳澄が入ってきた。

 佳澄の顔を見て、その成長を読み取った周詠は、心の中でウタリに(謝々)と呟いた。


 「さて・・・じゃ俺はこれから、マニラ・ストリートに行って、カリのジムを見てくる」

 「徹芯、どこか行くの?」

 「ああ・・・あ、そうだ。ウタリ、ちょっと・・・」

 徹芯はウタリを手招きして、ミーティングルームの外に出た。

 「なあ。今、周詠の部屋で寝泊りしてるんだろ?」

 「うん」

 「じゃ、ひとつ教えとくぜ。周詠がな、こうやって人差し指をフラフラ揺らし始めたら、話が脱線して戻らなくなるサインだからな。早めに話題を変えたほうがいいぞ」

 「あ・・・」

 「心当たりでもあるか?」

 「ちょっとね」

 「そうか。その様子じゃ、まだ被害は軽いらしいな」

 「そんなにひどいこともあるの?」

 「まあな。あいつが興に乗っちまったら面倒だぞ。そこで話をさえぎると、えらく不機嫌になるから、その前に対処しねえとな」

 「うん、わかった。ありがとう、徹芯」

 「ああ・・・じゃ、また明日な」

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