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第三章~出発

 「シュウエイさんね。私はウタリ」

 ウタリは、不思議そうな目で周詠を眺めていた。

 街の人間を見るのは初めてなのだ。


 「お姉さんて、どこの部族の人?」

 「えっ?ああ、違うの。私は・・・ずっと、あっちの山のほうから来たの」

 周詠は、街の方向を指さしながら、しどろもどろに答えた。

 「あっち?・・・あっちは獣が少ないし、変な感じがするからって、どこの部族も近づかないみたいだけど」

 「そうなの。だから、私は狩りはしてない・・・」

 我ながら間抜けだ、と周詠は自分に呆れていた。今、手合わせをしたら、相手が誰でも負けそうな気分だった。

 戸惑いを振り払おうとして、首を軽く振っていると、ウタリがスッと間合いを詰めてきた。

 速い動きではなかった。ただ、動きにまったく無駄がなかったので、イメージよりも早く距離が詰まっていた。


 (あっ・・・今、ウタリに打つ気があったら、打たれてた・・・)

 だがウタリとしては、本当にただ歩み寄っただけだ。

 「ねえ、これ、何の獣の皮?」

 周詠のアオザイの袖を引っ張りながら、ウタリが訊いた。

 「ああ、これは・・・皮じゃなくて、絹よ。蚕の繭から紡いだ糸で織った布。その、あなたの服は何の皮?」

 「山羊の皮よ。いいでしょ?お姉さんの服って、軽くて動きやすそうだけど、何か頼りないなあ。私は皮のほうがいいや」

 「そう?そうね。あはは・・・」


 (違う。私が訊きたいのは、こんなことじゃない!)

 すっかり混乱した周詠は、何から話したらいいのか迷ったが、思い切って単刀直入に切り出すことにした。

 「あなた、すごいわね。牛を・・・」

 「ああ、これ?へへ、すごいでしょ」ウタリは自分が倒した牛を見ながら、ニッコリと笑った。小麦色の肌と真っ白な歯のコントラストがまぶしかった。

 「ねえ、あなたが牛を倒せるってことは、あなたの部族の・・・大人はみんな、こんなことができるの?」

 「ううん。私だけだよ」

 「ウタリだけ?じゃあ、何か、特別な工夫とか、練習をした?」

 「ううん、何にも。急にできるようになったんだ。一年ぐらい前にね、夢を見たの。その時に、ポンガが牛を倒すのを見て、それから私も獣を打ち殺せるようになったの」  

 「夢?じゃあ、そのポンガって人があなたの先生?」

 「んー・・・ねえ、お腹空いてない?」

 「はい?」

 「私、お腹ペコペコなの。食べながら話そうよ」


 「・・・ウタリ」

 ウタリの背後から、男が声をかけた。

 「はじめまして。ウタリの父です。周詠さん、でしたね。街からいらしたんですか?」

 その男は浅黒い肌と、引き締まった体をしていた。狩猟生活で鍛えられた体だ。

 だが、どこか・・・文明の匂いが残っていた。

 「はい。アジア・ブロックに住んでいます。ひょっとして、あなたも・・・」

 「ええ。私もアジア・ブロックの住民でした。・・・でも十八歳の時に、街の外へ出て以来、戻っていません。街にいた頃は、松林健太という名前でした」

 「マツバヤシ・ケンタ・・・日本区のかたですか?」

 「はい。今はただ『ケンタ』と呼ばれてます」


 ケンタの口ぶりは穏やかだったが、同時に慎重さも感じられた。

 (無理もないわ。街を出て、ネイティブとして暮らすことを選んだ人にとって、街の思い出は懐かしいものばかりではないでしょうから)

 周詠自身、街を出ようかと考えたことは一度や二度ではない。

 野営中に、このまま街へ帰らずに、どこかの部族に身を寄せようかと思うことはしょっちゅうだ。

 周詠だけではない。

 常に一定数の人間が、街から出て、そのまま戻ってこないのだ。


 だが周詠は、今のところは本気で街を出る気はなかった。

 じわじわと増える邪氣は不愉快だったが、それでも家族や仕事仲間との関係を断ち切るほどではない。

 「で・・・ウタリじゃありませんが、話の続きは食事しながら、で、どうでしょう?私たちの食事が、お口に合えばですが」

 ケンタは、もうかなり解体がすすんだ牛を指さした。

 「あ・・・いただきます。ぜひ」

 周詠は、生肉を食べる習慣はなかったが、新鮮な生肉が栄養バランスに優れた食品だということは知っていた。

 (それに、食事をしながらのほうが、打ち解けやすい)


 何人かが、林から枯れ枝の束を抱えてきた。

 「今日はたまたま近くに林があったから、生肉だけじゃなくて、焼肉もたべられますよ」

 「ふふ・・・でも、焼いたお肉を食べるのは、小さなお子さんが先でしょう?」

 「まあそうですけど、街のかたの胃袋じゃ、生肉ばかりというのは少々ハードじゃありませんか?」

 「ご心配なく。体は丈夫なほうなんです」

 「じゃ、お好きなように・・・どうぞ」

 ケンタは石のナイフを周詠にすすめた。

 「ありがとう。でも、初心者はこれを使わせてもらいます」

 周詠はデイバッグから、自分のナイフを取り出した。


 「うわあっ・・・どうやったら、石がこんなになるの?」

 ウタリが周詠のナイフに興味を示した。

 「あ、これは石じゃなくて、鉄なの。削るだけじゃなくて、焼いて、叩いて、伸ばして、磨いて、研いでるのよ。使ってみる?」

 「うん」

 「気をつけてね。石器と違って、金属の刃物は触るだけで切れちゃうから」

 「そうなんだ・・・うわっ、本当だ。葉っぱみたいに鋭くて、獣の牙みたいに頑丈だ・・・」

 ウタリは少しの間、ナイフを撫でたり眺めたりしてから、慣れた手つきで牛の肉を削ぎ、ひと口食べた。

 「ふうん・・・よく切れるから、肉の味が逃げないのかな」

 続けて数切れの肉を削り取ると、周詠にナイフごと差し出した。

 「はい。どんどん食べてね」

 「ありがとう。ナイフはもういいの?」

 「うん。ちょっと切れ過ぎるから・・・私はこっちのほうがいい」

 ウタリは石のナイフを手に取ると、また肉を削り始めた。

 金属のナイフと比べて鋭さに欠けるぶんは、動きのキレで補わなければ上手く切れない。

 ウタリは全身を鞭のようにしならせて、きれいに肉を削いだ。

 肉の表面は滑らかで、じんわりと肉汁が浮かび、ツヤツヤと輝いている。


 「あら・・・美味しそうね。私もやってみようかしら」

 「そう?じゃ・・・」

 ウタリは手早く数切れの肉を削ぎ取ると、一切れを口に押し込み、残りを片手に持ったまま、ナイフを周詠に差し出した。

 「ありがとう。借りるわね」

 先にウタリから渡された肉を頬張りながら、牛の前に立ち・・・圧倒的な質量の肉に戸惑いつつも、思い切ってナイフを立てて、引いた。

 だが、台所で包丁を使う感覚で切ってしまったためか、肉の表面は凸凹で、肉汁も抜けてしまっていた。


 「へえ・・・お姉さん、本当に狩りをしたことないんだね。そんなに薄く切ろうとしないで、もっと思い切って厚く切らないと、食べ応えがないし美味しくないよ。あと、もっと勢いつけて」

 「わかったわ。じゃ・・・」

 周詠は呼吸を整えてから、今度は落ち着いて肉にナイフを徹した。

 今度は上手く切れた。

 「えーっ、すごい!一回で上手くなっちゃった」

 「ふふ、まあね」

 何のことはない。一流の武術家である周詠が、本来の動きをしてみせただけのことだ。


 周詠はウタリからもらった肉を飲み込んでから、自分で切った肉を食べた。

 鉄のナイフで切った肉は、確かに旨みが封じ込められていたが、石のナイフで切った肉も悪くない。滲み出る肉汁がソースのように、口の中をほどよく潤すようだ。

 (それに・・・この石のナイフは、技術がなければ切れない。だから鞘がいらないんだ。そういう意味では手軽な道具だ)

 周詠は続けて肉を数切れ削ぎ落とし、ウタリにナイフを返した。

 野営中に生肉を食べるのは、初めてだった。

 というより、ここ数年、野営時には肉を食べていなかった。周詠はベジタリアンではなかったが、野営中はリフレッシュのために、食事はその場その場で採集した木の実や木の芽、果物などの植物性の素材でまかなっていたのだ。

 だが、こうして石のナイフで切った生肉を噛み締めると、体の底から力が湧いてくるようだった。


 肉の焼ける香ばしい匂いがした。

 枝の先に肉の塊を刺し、焚き火であぶり焼きにしているのだ。

 「お姉さんも、肉、焼く?」

 「そうしようかな」

 ウタリと周詠も適当な枝先に肉を刺し、焚き火のまわりの車座に加わった。

 その隣にケンタも座った。


 「周詠さんは、街から・・・街の生活そのものから、抜け出したというわけでは・・・ないんですね?」ケンタは肉を焼きながら、ポツポツと訊ねた。

 「ええ。リフレッシュというか、リハビリというか・・・定期的に、こうして街の外で過ごしてますけど。それは結局、街で暮らすためです」

 「そうですか・・・私は、駄目でした。街の生活は、確かに便利ですが、雰囲気がどうもね。邪氣、と言ってわかってもらえるかどうか・・・」

 「あ、いや、わかります。私も・・・その邪氣のせいで、こういうことをしてるんです」

 「ほう・・・そこまではっきりと邪氣を感じることができて、それでも街で暮らしていけるなんて・・・あなたは、強い人ですね」ケンタは本気で感心したようだった。

 「強くなんかありません。しがらみから抜け出す力がないだけで・・・弱いんですよ。強いというのは・・・そうだ、ウタリさんのような人です」


 それを聞いて、ケンタが笑い出した。

 「ウタリの力を基準に強さを計ったら、強いのはウタリだけですよ」

 「・・・じゃあ、他の部族にも、ウタリみたいな力のある人は・・・」

 「いません。私の知る限りではね。私は・・・十八の時に、街を出ました。一ヶ月ほど一人でブラブラして、ある部族と出会って、そこへ身を寄せました。それから二年ほど、いくつかの部族を渡り歩いて、今の部族に落ち着きました。今では自分の年齢も正確にはわかりません」

 「それぐらい、狩猟生活に・・・ネイティブの暮らしぶりに深く染まったんですね?」

 「そうです。でも、ウタリのような力を見たのは初めてです。一年ぐらい前ですか・・・狩りの失敗が続いて、みんな空腹でした。誰もが本気で『何か食べたい、肉を食べたい』と思っていました。ウタリがあの力を見せたのは、そんな時です」

 「その時も、牛を?」

 「ええ。牛だけじゃありません。必要とあらば、虎だろうが熊だろうが、ウタリの敵ではありません」

 「虎に・・・?熊?」

 周詠は絶句していた。

 その脳裏に、文献で見た昔日の武術の達人の逸話が浮かんだ。

 「そんな力を・・・彼女は、修行もせずに?」

 「ええ。ただ・・・あの力は、正確にはウタリ一人のものではありません。ウタリ以外の複数の人間が、本気で一つのことを願ったり、念じたりした時にだけ、発動するんです」

 「じゃ・・・この牛も?」

 「はい。また狩りが失敗続きで、さっきまでみんな空腹でフラフラしてたんですよ」

 「はあ・・・」


 それから周詠は、ポンガの夢のことや、ウタリが今までに倒した獣の数や種類、その時の状況などについて、ケンタとウタリから話してもらった。

 信じられないような話の連続だったが、周詠自身がウタリの力を見ている以上、信じないわけにはいかなかった。


 (どういうことなんだろう。ウタリの力は、自由意志では発動しないみたいだけど・・・発動の鍵になるのは・・・危機感、かしら?)

 あれこれと考える周詠のそばで、十歳前後の男の子と女の子がウロウロし始めた。

 二人とも、周詠の服に興味があるようだった。

 そのうち我慢ができなくなったらしく、男の子がアオザイの襟をつかんで中を覗き込んだ。

 「こら、ニタイ」

 「あ、構いませんよ」

 「ねえお父さん、これ、文字でしょ?見たことないけど、何て読むの?」

 男の子が、つまみ出したタグを指さして、ケンタに訊いた。

 その隣で女の子も、タグをじっと見ながら首を捻っていた。

 「こら、まったく・・・すいません。ちょっと・・・ああ、これはアルファベットだ。メイド・イン・チャイナエリアと書いてあるんだ。お前たちにはアルファベットは教えてないからな」

 「どういう意味?」

 「中国区で作りました、って意味だよ。ほら、周詠さんに謝りなさい」

 「ごめんなさい」

 「いいのよ」

 男の子の頭をなでながら、周詠はハッとした。

 「・・・その子は、文字が読めるんですか?」


 「えっ?ああ、私が教えたんです」

 「部族の子供みんなに教えてらっしゃるの?」

 「いや、私の子供だけです。そっちの男の子がニタイで、女の子がレラ。ウタリの弟と妹です。・・・お察しのとおり、こういう生活だと、文字なんて必要ないんですよ。だからまあ、遊びですね。漢字を二百字ぐらいかな。二人で地面に書いて、筆談して遊んでますよ」

 「じゃ、ウタリさんも?」

 「いえ、あの娘は読み書きはできません」

 「教えなかった?」

 「いえ。どうやら、あの娘は読字障碍らしいんです。線の組み合わせで作られた形が、その形以外の意味を持つということが理解できないんです。・・・あ、読字障碍のことは・・・」

 「ええ、知ってます。小学生の時、クラスに一人いましたから。結構な割合でいるはずですよね?訓練である程度まで克服できるから、そうと気付かない人も多いとか・・・」

 「そうです。でも、ウタリは相当な重症だと思いますよ。何しろ、漢数字の一、二、三も覚えられないんです。いや、まず理解ができない。何か、具体的なものの数を数えることならできるのに、一、ニ、三という文字になってしまうと、それが数そのものを表すということがわからないんです」

 「それは・・・でも、ひょっとしたら・・・」

 「そう。実はそれは、読み書きの才能がないというより、読み書きとは別の次元で情報を処理する才能があるというべきなんですね」

 「その、私のクラスメイトは、絵を描くのがとても上手でした」


 「そう。ウタリの場合は、まず『夢』という形で、ポンガ・・・どうも、クロマニョン人のような気がしますけどね。彼らも文字なんて使ってなかったでしょう・・・その、ポンガからのメッセージを受け取った。それをきっかけにして、ウタリは他人の願いや本気を受け取り、物理的なエネルギーに転化する技術を修得した・・・何かを得れば、何かを失う。あの桁違いの拳の力は、重度の読字障碍と引き換えに得たのかもしれません」

 「だとしたら・・・ウタリの力は、進化の可能性のひとつ、ということでしょうか?」

 「進化?そりゃまた、話が大きくなりましたね」

 ケンタは笑いながら、すっかりウェルダンに焼きあがった肉をかじった。

 規則的に動くケンタの顎をボンヤリと眺めていた周詠は、やがて意を決したように口を開いた。


 「ケンタさん・・・それに、ウタリ」

 「うん?」

 「はあい」

 「その・・・ウタリを、街に招待したいんです」

 ケンタの顎の動きが止まった。

 ウタリは周詠の言葉の意味がわからないようだった。

 「ケンタさんも、弟さんや妹さんも、お母さんも・・・必要であれば、部族のみなさん全員を招待します。ケンタさんもご存知でしょうが、街はネイティブの訪問について、法的な制限はしていません。私は・・・」

 「ウタリの力に、興味がある?」ケンタが、口の中の肉を飲み込みながら訊いた。

 「・・・はい」

 「街へウタリを連れて行って、色々調べたいのですか?」ケンタは、慎重に周詠を観察していた。

 「はい。私は・・・ECPのスタッフなんです」

 ケンタが、さも納得したというように、大きく頷いた。

 「あなたがねえ・・・なるほど、『進化』なんて大袈裟な言葉が出ると思ったら・・・ご専門は、何ですか?」

 「太極拳です」

 「太極拳?じゃ、所属はBAL?」

 「はい」

 途端にケンタが笑い出した。

 周詠は、続ける言葉をなくした。

 ウタリは話が見えなくて退屈そうだ。


 「いや、失礼・・・随分と知的なお嬢さんだから、遺伝子工学とかが専門で、ウタリを研究素材にしようとか、そういうことかと思ったんだけど・・・違うな。あなたがウタリを誘ったのは、職務のためなんかじゃない。単なる好奇心だ」

 「・・・はい」

 周詠は、ごまかすつもりはなかった。

 「なあ、ウタリ。この・・・周詠さんが、お前に一緒に来てもらいたいそうだ」

 「どこへ?」

 「街だ。お父さんが昔、住んでた所だよ。行ってみたいか?」

 「へえ・・・面白そう。行きたい!」

 「よし。じゃ、行ってこい・・・というわけで、周詠さん、よろしく」

 ケンタが軽く頭を下げるのを見て、周詠は慌てた。

 「いや、ちょっと待ってくださいケンタさん。もうちょっと、慎重に・・・お母さんとか、部族の・・・そう、ウタリさんは、狩りのエースなんでしょ?突然いなくなったら・・・」

 「大丈夫ですよ。ウタリがいなきゃいないで、何とかなります。それにね、こういうことは、本人の気持ちが最優先なんです。ウタリが行きたいというんだから、行けばいい」

 「そういうものなの?」

 「そういうものです。ここではね、自分が今、一番行きたい場所が、自分の居場所なんですよ。結婚とか、所属してる部族とか、集落の位置とか。全部、基本的にはその時の気分です。ああ、だから、もしウタリが『もう街はいいや』と思ったら、止めても無駄ですよ」

 「はあ・・・」


 「周詠さん。ウタリと・・・ニタイとレラの名前の意味が、わかりますか?」

 「・・・いいえ」

 「これはね、アイヌ語なんです」ケンタは肉を刺していた枝を小さく振り回しながら、悪戯っぽく笑った。

 「アイヌ語?」

 「ええ。私の祖先が、まだ日本列島に住んでいた頃、その列島の北端に、北海道という土地があったんです。そこにはアイヌという先住民族がいたんですが、大和民族に侵略されて、北海道は日本の一部になりました」

 周詠は、どこか身につまされるような気がした。彼女の祖先の漢民族も、侵略したりされたりを繰り返してきたのだ。

 もっとも今時、純粋な民族の血を受け継ぐものなどほとんどいない。

 ケンタも周詠も、しいて言えば大和民族、漢民族の血が濃いという程度だ。


 「アイヌの文化には、文字がありませんでした。アイヌに限ったことではありません。インカ帝国にも文字がありませんでしたし、文字を持たない民族はたくさんあったはずです。でも文字というのは、情報の伝達や共有のための道具として、とても優れています。だから文字を持つ文化は、継承しやすいし、速さや力といったわかりやすい『強さ』を得やすい。そして、文字を持つ者は、持たない者を征服していきました。・・・でもね」

 ケンタは一息ついて、枝を火の中に放り込んだ。

 「何かを得れば、何かを失う。・・・文字を持つ文化、文明、読み書きのできる人間というのは、それと引き換えに何かを失ったんじゃないか。アイヌやインカの人たちは、それを持っていたんじゃないか・・・いや、そもそも人間は、みんなそういう力を持っていたんじゃないか・・・私たちのようにシンプルな狩猟生活では、文字を使いません。せっかくこういう環境に生まれ育つのだから、その、人間本来の力を発揮できないものか・・・そういう願いをこめて、子供たちにはアイヌ語の名前をつけたんです」

 「どんな意味なんですか?」

 「ニタイは、森。レラは、風。ウタリは・・・仲間、です。」


 「素敵ですね」

 「ありがとう」

 「でも、じゃあなぜ漢字を教えたんですか?」

 「ああ・・・それは、読み書きができるようにと教えたんじゃなくて、教えてもできないという才能があったらいいな、と思って教えたんです」

 「え?・・・あ」

 「そうです。読み書きの能力と引き換えに手にする能力なら、いくら教えても読み書きができないぐらい、文字と相性の悪い人間にこそ、その才能があるんじゃないかってね」

 「それで、ウタリは・・・」

 「ええ。見事に読み書きの才能がありませんでした。内心、歓喜しましたよ。でもそれって、単に私の教え方が下手なだけかもしれない・・・ところが、ニタイやレラは教えれば読み書きができるようになりましたからね。いつかウタリは何かやってくれるんじゃないかと思ってましたよ」

 ケンタはクスクスと笑った。

 「ま、ただの親バカともいえますが」

 「素敵な親バカですよ」

 「そう。・・・親バカとしては、ウタリが街で何ができるか、非常に興味があります」

 「親バカと、興味と、その根っこは好奇心ですか?」

 「そう。だから、あなたには共感できる」

 「じゃあ、ケンタさんも一緒に・・・」

 「いや、私は遠慮します。邪氣に耐えられそうにない」


 「お父さんが行かないんなら、他に行きたい人はいるかなあ?」

 ウタリは立ち上がると、スーッと息を吸い込んだ。

 「このお姉さんが『街』ってトコに連れてってくれるってー!行きたい人、いるー?」

 周詠を指さして、ウタリが叫んだ。

 「街って、どっちだ?」と、誰かが訊いた。

 「あっちのほうだって。あっちの、ずっと、ずっと遠くのほう」

 ウタリが街の方角を指さすと、全員が気分の乗らない表情になった。

 「あっちの山のほうは、どうもな」

 「俺は遠慮しとく」

 「あたしも」


 「ま、こんなものでしょう」ケンタが肩をすくめた。

 「みんな、感じるんですよ。街の邪氣を。言い換えれば、それがネイティブとして生きていく素質のひとつかもしれません。ウタリだって、あっちの山のほうは変な感じがするだろう?」

 「うん。でも、お父さんが子供の頃、住んでたんでしょ?それに私、このお姉さん・・・周詠さんと一緒にいたら、何か面白いことがありそうな気がするの」

 「そうか。じゃ、ちょっとみんなに挨拶だけしておけ」

 「わかった。お~い、みんなー!私、街に行くから!」

 そうか、とか、体に気をつけて、とか、元気でね、という声があちこちから上がった。

 ウタリの母と、祖父と、ニタイとレラが来て、抱き合いながら挨拶を交わした。

 ニタイとレラは、お土産をねだっていた。


 「じゃあ周詠さん、そろそろ行こうか」

 「・・・え?その、せめて一晩、名残を惜しんだりとかしないの?」

 「しないよ」

 周詠は文献などから、ネイティブは仲間との絆を非常に大事にする反面、別れる時は非常にあっさりと別れるように見えるということを、そしてそれは、実はネイティブの絆の固さの裏返しだということを、知識としては知っていた。

 しかし、それを実際に目の当たりにすると、さすがに驚いてしまった。

 いや、感服したといったほうがよかった。

 (ネイティブにとっては、物理的に遠く離れるぐらいでは、『別れ』とは感じないんだ。そんなことで、仲間の絆が揺らいだりはしないんだ)

 

 「わかったわ。じゃ、ケンタさん・・・」

 周詠は、ウタリをお預かりします、と言いかけて止めた。

 ケンタは(それで結構)という目をして微笑んだ。

 「じゃあ行こう、ウタリ」

 「うん」

 ウタリと周詠は、街のある山脈地帯へ向けて、並んで走り出した。

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