第一章~空腹
食料問題について頭を悩ませていたのは、ウタリだけではない。
ウタリが地平線の彼方に、ポンガだの獲物の影だのをボンヤリとイメージしている間にも、集落の中央では部族の大人たちが車座になって、その日の方針をねっていた。
その中心にいるのはウタリの祖父で、実質上の部族の長だ。
だが、族長とは呼ばれておらず、「お父さん」あるいは「お祖父ちゃん」もしくは名前の「ネルグイ」と呼ばれている。
そもそも「族長」という言葉がない。
これは部族という集団が、社会的な組織というよりは、一種の大家族だからだ。
ウタリの部族は、三世代二十五人という、平均かそれより少し小規模な構成だ。
第一世代がウタリの祖父と、その兄夫婦の三人。
第二世代は、ネルグイの娘が三人と、兄夫婦の息子が三人。そのうちの娘二人と息子二人が結婚しているので、合計で十人。
第三世代は第二世代の子供たちで、十二人。
部族によっては二世代だけだったり、逆に五世代で三桁前後の人数の大所帯だったりもするが、たいていの部族は三~四世代で、人数は二十~四十人といったところだ。
どの部族も狩猟採集生活をしているので、行動範囲が広く、頻繁に部族間の接触や交流がある。
その時に気に入った男女同士が結婚して、部族の血が入れ替わるのだ。
ただ、結婚というのもそれほど厳密な契約ではなく、かなりその時、その場の気分でくっついたり離れたりしている。
つまり、血縁関係を基本として、気の合う者同士が寄り集まり、何となく指導力のある者が成り行きでまとめ役をやっているという、ある意味かなりアバウトな形態の集団が「部族」なのだ。
ウタリは大人たちの相談を聞き流しながら、近くの川で顔を洗い、水を飲んで空腹をごまかそうとした。
息が続くまで水を飲み、ブハッと顔を上げると、腹の中で水がタプタプと揺れた。
呼吸を整えながら、川面をじっと見下ろして、水に映る自分の顔を見る。
やはり拳同様、見た目の変化はない。
(でも、やっぱり違う。昨夜の・・・あの夢を見る前とは、何か違う)
だがこうも空腹では、何がどう違うのかはわからず、わからないことを深く考える気分にもなれなかった。
(さて。・・・そろそろ話し合いも終わった頃でしょ。戻ろ戻ろっ・・・)
「とにかく、日が高くなるまでは獲物を探そう」というのが、大人たちの出した結論だった。
部族の全員で川沿いを下りながら、獲物を探す。それで首尾よく狩りが成功すればよし。
日が高くなるまでに獲物の目星がつかなければ、今度は全員で山か森に入り、木の実や果物や芋を探すことに専念する。
最初から、狩りをするチームと採集をするチームの二手に分かれるという方法もあるが、一長一短だ。
狩りを担当したチームが仕事を成功させても、そしてそれが大物だったとしても、車などの運搬手段がないから、獲物を集落へ運ぶのに大変な時間がかかるし、運べる量も限られている。
それに、もし途中で肉食獣と遭遇でもしたら、せっかく手に入った肉を置いて逃げなければならない。
だが、全員が狩りに参加すれば・・・獲物を仕留めたその場所で、全員が食事にありつける。
しかしこの日は部族の全員が、ベストコンディションとは程遠い空腹状態だ。
午後の強い陽射しの中をウロウロするのは少々きつい・・・ということで、午後からは芋や果物の採集に切り替えて、体力の回復・・・せめて温存を図ろうという作戦だ。
いや、作戦というよりは、単なる勘といったほうが近いかもしれない。
だが経験に裏打ちされた勘は、それなりに当てになる。
実際、狩猟採集によって糧を得ている彼らは、ほぼ常に軽い空腹を抱えてはいたが、餓死する者はほとんどいなかった。まあ何とか生き延びられる程度には、食糧事情は豊か?なのだ。
さて、獲物を探して川沿いを下り始めたウタリたちだったが、手頃な獣はなかなか見つからなかった。
かなり日が高くなり、もう駄目か・・・今日は木の実か芋を探そうか・・・と思い始めた頃に、牛の群れを発見した。
・・・が、牛だ。
武器といえば、石のナイフや軽い槍しか持たない人間がかなう相手ではない。
・・・ウタリ以外は、みんながそう思っていた。
「ねえ、お父さん」ウタリが父親の腕を引っ張った。
「うん?何だ?」
「牛がいるわよ」
「ああ、いるね」
「美味しそうね」
「そうだな」
「狩れないかな?」
「何を?」
「あいつらを」
「あいつらって?・・・牛を?」
「そう」
ウタリと父親の会話を聞いていた数人が、ふぅと溜め息をついた。
ウタリの言葉は冗談そのものなのだが、空腹のせいで笑い飛ばす元気がないのだ。
「そりゃ無理だよ。牛が一頭なら、まあ何とかなるかもしれない。でも、あの群れの中から一頭だけを追い立てるなんて・・・こっちは戦える男が五人で、武器はこんな槍だ。下手に手を出して、群れが襲いかかってきたら勝ち目はない。若い男が十人以上いるような部族なら、速攻で一頭を群れから孤立させることも可能らしいが、それでも失敗したら大怪我だ」
「・・・つまり、一頭を群れから離せれば、いいのよね」
「ん?まあそうだが・・・」
「できそうな気がする」
ウタリは本当にそう思っていた。いや、空腹感のせいで、そう思いたかっただけかもしれない。
そんなウタリの気分に周囲の何人かが共感し、同調していた。
・・・その途端に、ウタリの体に力が湧き上がってきた。
「できそうな気がする。牛を・・・本当に・・・」
ウタリは呟きながら、フラフラと引き寄せられるような足取りで牛の群れに近づいた。普段なら単なる冗談としか思えない行動だ。
だが今は、冗談では済まされないほど、部族の誰もが空腹だった。
(本当に、牛を狩れたら・・・)
全員の心に、淡い希望の光・・・というか、切迫感からくる警告灯が点滅した。
そしてまたウタリは、全身に力が漲るのを感じていた。
ウタリは無造作に群れの中に入り、一頭の若くて大きな牛の前に立った。
黙々と草を食べていたその牛は、突然目の前に立った人間を、虫でも見るような目で一瞥した。実際、個体の戦闘能力でいえば、牛にとっては人も虫も「弱い」という意味で大差はなかった。
・・・いや、一部の毒虫と比べれば、素手の人間などはそれ以下だった。
群れ全体がそう感じていたから、ウタリに対する警戒心など起こらない。
ただ草を食べ続けるだけだった。
そんな牛とは対照的に、ウタリは軽い緊張感と違和感に包まれていた。
(普通に考えたら、私が牛を殴ってどうこうできるわけがない・・・なのに、できそうな気がする)
それは迷いというほどでもなかったが、狩りの邪魔になると判断したウタリは、深呼吸をしながら数回地面を踏み鳴らし、頭から思考を追い払った。
皮のサンダルと草がぶつかり合って、乾いた音を立てた。
そのリズムに乗るように、ウタリは踏み降ろした足を弾ませ、牛の頭を蹴り上げた。
ブシュッという音を立てて、牛の頭が跳ね上がった。
ウタリは足を踏み降ろしつつ、胸の高さまで浮き上がった牛の横っ面を、掌で横殴りに叩いた。
牛は草を吐き散らしながら顔を振り回し、ヨタヨタとよろめいた。
ウタリは歩いて間合いを詰めると、今度は膝で牛の顎を蹴り上げた。
牛の顔がウタリの顔と同じ高さになった。その顔に、ウタリは・・・狙いすました右拳を叩き込んだ。
牛はン、モッとわめきながら、またヨタヨタと後退した。
その目に恐怖と怒りの色が浮かぶ。
だが、他の牛はウタリと若い牛のことなど気にも留めず、草を食べたり川の水を飲んだりしていた。
身長百六十センチそこそこの少女が、打撃で牛にダメージを与えるなど、彼らにとってはあり得ないことだ。
ウタリがベタベタと触ってくるのを鬱陶しく感じた若い牛が、自分から離れた・・・他の牛からは、そういう風にしか見えないのだ。
いや、目の前で起こっていることを信じられないのは、ウタリの部族の面々も似たようなものだった。
だが信じようと信じまいと、ウタリの攻撃が牛をたじろがせているのは事実だった。
ウタリは牛が反撃の体勢を整えるのを待たずに、拳の連打を顔面に集中させた。
牛はジリジリと後退して・・・ついに、群れの外に出た。そこでウタリが斜めに体をさばき、牛の肩を狙って体当たりをすると、滑るように数メートルほど吹っ飛んだ。
軽いパニックに陥った牛は、ウタリに背を向けると、群れとは反対の方向へ走り出した。
他の牛は何の反応も見せなかった。
若い牛が何の気まぐれか、自分で勝手に群れから離れている・・・そんな風にしか見えていないからだ。
ウタリは、牛一頭を群れから孤立させることに成功したのだ。
(いける!)ウタリも、ウタリの部族も、全員が同時にそう思った。
その思いがウタリの中に漲る力を一気に増幅し、あふれさせた。
ウタリが走り出す。部族の全員が続く。
まっすぐに、牛を追いかける。
数分もすると、牛のスピードが落ち始めた。
息が切れたというのもあるが、逃げるのが馬鹿馬鹿しくなったというのが本音だろう。
たかが人間ごときに、逃げる必要なんてないじゃないか・・・そんな思いが、若い牛の足を止め、体をウタリに向かって反転させていた。
(昨夜見た夢と、同じ展開だ)ウタリは既視感にひたりながら、攻めどころを探っていた。
体からあふれ出す力を掴むように、右拳を握り締める。
指の隙間から洩れた力が、パチッと弾けた。
それを見た若い牛は、ようやくウタリたちの本気を感じ取った。
うるさい虫を追い払うようなわけにはいかないことを悟ったのだ。
牛の目に、再び恐怖と怒りの色が浮かんだ。
ウタリは歩いて距離を詰めながら、牛に語りかけた。
「恐いの?ごめんね。でも、私たちもお腹が空いてるの。だから見逃せない・・・せめて、一撃で眠らせてあげるわ。・・・この、私の拳で!」
ウタリの決意が氣の壁となって、牛を圧迫した。
牛はその氣当たりを破るように、頭を低くして突進した。素晴らしいダッシュ力だった。
だが、今のウタリには牛の動きがスローモーションに見えていた。
ウタリは牛の突進を、ギリギリでかわすつもりで、軽く地面を踏みつけた。
だがその体は、予想以上に高く、遠くまで跳んでいた。
(体が・・・羽根みたいに、軽い)
空中でバランスを取り直して着地した時には、牛は既にウタリの数メートル後方にいた。
(・・・逃さないっ!)
ウタリはポンガの動きをイメージしながら、牛の首のそばまでひとっ飛びに移動した。
歓声が聞こえた。
(みんなには、私の動きが見えなかったろうな・・・私が、ポンガの動きを追えなかったように)
牛はまだ、ウタリにサイドを取られたことに気付いていなかった。
いきなり眼前から消えた敵を探して、首を勢いよく振る・・・その首筋に、ウタリはカウンターのタイミングで右拳を叩き込んだ。
分厚い筋肉と、その奥で頚椎が砕ける感触が拳に伝わってきた。
牛はそのまま横倒しになって・・・絶命した。
ウタリは、体の底から震え始めた。
その震えに呼応するように、オーという歓声がいくつも、いくつも上がって、重なった。
「ウタリの拳は、すごい」
・・・山のような肉に存分にかぶりつきながら、部族の全員がそう思っていた。
だが、腹が満たされてくると、次第に・・・
「でも、ちょっと反則かもしれない」とも感じていた。
「反則かもしれない」と、一番強く感じていたのは、実際に拳を振るったウタリだった。
(この拳の力は、あまりホイホイ使っちゃいけないのかもしれない)
ウタリも、部族の者たちも、漠然とそう感じていた。
だが、それはいらぬ心配だった。
若い牛を仕留めてからひと月ほどの間、ウタリの力は発動しなかった。というより、必要がなかった。
牛の肉を集落へ持ち帰ることができたので、それで結構食いつなげたし、その後も普通に鹿や山羊を狙い、数回の狩りを成功させていたからだ。
だがそれからまた、狩りの空振りが続き、深刻な空腹感が部族を襲った。
誰もがまた、ウタリの力を切望した。・・・すると、再びウタリの体に力が漲った。
今度の獲物は、体長二メートルを越える大物の猪だった。
この猪は単独行動をしていたので、群れから追い出す手間が要らなかった。
ウタリはズカズカと間合いを詰め、猪はいきなり縄張りに踏み込んできた人間に怒り、突進してきた。
ウタリはその突進を、真正面から拳のカウンターで叩き潰した。
猪は頭蓋骨と頚椎を縦方向に粉砕され、その場に崩れるように倒れ伏して絶命した。
・・・つまり、ウタリの力は、日常の範囲内での空腹では発動しない。
部族の全員か大多数が、脳裏に生命の危機を感じるほどの空腹感があって初めて、その拳の力が発揮されるのだ。
・・・いや、ある程度まとまった人数の「本気」がひとつにまとまりさえすれば、その中味は空腹感である必要はなかった。
ウタリが初めて牛を倒してから、半年後のことだ。
また、狩りの失敗が続き、ウタリの力が発動した。発動回数は、もう六回目で、ウタリも力の制御に慣れ始めていた。
その日も牛を追っていた。
群れから手頃な一頭を選び出し、鼻先を小突き回して追い立て、孤立させた。
その日は風が強く、また暑いさかりで、人と牛は草の海を泳ぐように走った。
ザ、ザ、ザ、という音が波のように、追う者と追われる者の足音や息遣いに被さっていた。
そしてまた、追われる者は自分の立場をよしとせず、身を翻してウタリを睨みつけた。
その時だった。
草むらから一頭の虎が現れ、牛に向かってまっすぐに飛びかかったのだ。
牛がウタリとの戦いに全神経を集中させたのを見て、好機と判断したのだろう。
草と風のざわめきは、人と牛の足音と呼吸音だけではなく、風下にいた虎の気配をも消していたのだ。
完全に虚をつかれた形になった牛は、それでも体を捻り、爪と牙の直撃だけは避けた。
虎が牛のほうへ向き直る間に、牛はウタリと虎の両方から均等な間合いを確保していた。
牛はもう、無理をして戦う必要はない。
タイミングよく逃げれば、虎とウタリで潰し合ってくれるからだ。
部族のみんなはとっくに逃げ始めていた。
槍を持った男たちが、固まってしんがりを務める。
「ウタリ!お前も早く逃げろ!」父が叫んだ。
「そりゃ、私もそうしたいけど・・・ああもうっ・・・」
ウタリは地団太を踏んで虎の不手際を呪った。
虎の奇襲が成功していたら、ウタリも迷わず逃げていただろう。虎は牛を食べるのにかかり切りになるからだ。
だがその初撃は紙一重で外れた。
虎はそれほど狩りが上手くはない。ここから牛を攻め直しても、確実に倒せる保証はなかった。
虎としては、牛が逃走に成功すればもちろん、そうでなくても早々に牛を諦めて、より弱くて遅い人間を標的にしようと考えるのが自然だった。
部族の全員がそれを理解していたから、今のうちに少しでも虎から離れておきたいと、必死で走っていた。
だが、この距離で虎が人を追い始めたら、全員が助かる見込みは薄い。
(食われたくない!)全員がそう願った。
その願いがウタリの力を発動させていた。
ウタリは迷わずに跳び、虎の眼前で掌を振り上げた。
牛と人と、どちらを狙うか思案していた虎は、まさかひ弱な人間が立ち向かってくるとは想定しておらず、意識にポッカリと隙間ができていた。
とはいえ、ウタリに対して恐怖を感じたわけではない。
虎にとって、目の前の少女はあまりにも小さく、軽く、細かったからだ。
そしてその認識を改める暇もなく、虎は眠りについた。
脳天に打ち下ろされたウタリの掌が、意識を断ち切ったのだ。
牛はこのチャンスに上手く乗じて駆け出していた。
見事に逃げおおせたと思ったはずだ・・・だから、いきなりウタリに進路を阻まれて、心底仰天していた。
牛は二つのことを知らなかった。
ウタリの掌には、虎を一撃で眠らせる力があるということと、その力が発動している間は、チーターを置き去りにするほど速く走れるということだ。
だが牛は仰天はしても、まだ自分の力を信じていた。
既に加速は十分についている。このまま突進して、このか細い人間の娘を跳ね飛ばせば、それで終わりだ・・・そう判断した牛は、更に加速した。
自らの鼻息と足音が、より激しく耳にこだまして・・・いや、もうひとつ。
「ごめんね・・・眠ってっ!」ウタリの叫びが、鼓膜に割り込んできた。
次の瞬間、ウタリの右拳が眉間にめり込んでいた。
牛が知らなかったことの三つめは・・・ウタリの拳は、猛牛の全力での突進を、カウンターで迎撃する力があるということだった。
それからしばらくして目を覚ました虎は、すぐ近くに牛の死体が転がっているのを見つけた。
ウタリたちが食事をした後、持てるだけの肉を取った残りだったが、とりあえず空腹を満たすことはできた。
ウタリは最初から、虎を殺すつもりはなかった。
肉食獣には草食獣の数を調整する役目があることを、狩猟民族は知っていた。
できれば自分たちは食われたくないが、全ての生き物の存在に意味がある以上、みだりに殺していいわけではない。
それに、どうせ食べるなら、虎よりも牛のほうが美味しい。
食べるために殺す。食べないなら殺さない。
それは、万事につけて大らかな(アバウトな?)彼らには珍しい、暗黙のルールだった。
こんなこともあった。
虎と戦ってから三ヶ月後のことだ。ウタリは女と子供ばかりで、果物や芋を集めに出た。
収穫は順調で、食べ物を集めることに夢中になっていたウタリたちは、一番年下の子供が自分たちから離れて行動し始めたことに気付かずにいた。
だから、その幼子があげた絶叫は、一同の浮かれた心を瞬時に凍りつかせた。
ウタリたちが弾かれたように振り向くと、そこには泣きじゃくる子供と、低い唸り声を上げる熊がいた。
大変だ・・・その場にいた全員がそう思い、ウタリの力が発動した。
ウタリは熊との間合いをひとっ跳びに詰めると、熊の横っ面に右拳を打ち込んだ。
数時間後に熊が目を覚ました時、ウタリたちはとうに逃げ去っていた。
だが、これについてはウタリは(ちょっとやり過ぎたな)と感じていた。
そもそも、熊の縄張りに無断で入ったのはウタリたちのほうだ。
それに、基本的に熊は警戒心が強く、自分から人に近づくことはまずない。だから、熊の縄張りと思しき場所では、大声で歌ったり話したりして、こちらの存在を熊に知らせるようにすれば、無駄な接触もトラブルも避けられる。
実際、この日のウタリたちも、始めはそうしていた。だが食べ物を集めているうちに、つい声が小さくなり、幼子の単独行動にも気付かずにいた。
その結果、熊を驚かせてしまったのだから、どちらかといえば非があるのはウタリたちのほうだ。
(あの時、子供を助けるだけなら、別に殴らなくてもよかったんだ。力が使えてたんだから、全速力で走って、抱っこして逃げれば、それで済んだのに。他の人は自分で走っても、十分に逃げ切れるだけの距離があったし)
この時、ウタリは初めて自分の力を恐いと感じた。
そして、ウタリが最初に牛を倒してから一年余りが過ぎた。ウタリの力の発動は、十数回に及んでいた。
この日もまたウタリは、目の回るような空腹を抱え、部族全員で牛を追っていた。
(そろそろ勝負どころだ)
そう思ったウタリは、妙な気配を感じた。
(虎?狼?違う。肉食獣じゃない。そんな殺気はない・・・じゃ、まあ、いいや。とりあえず放っといて、牛を食べよう)ウタリは気持ちを牛に集中させた。
そしていつものように、牛がウタリを睨みつける。
「怒ってる?ごめんね。・・・でも、私たちもお腹が空いてる・・・」
そこで牛がウタリに向かって突進を始めた。
「あら、逃げないんだ・・・」
牛には、ウタリが声だけを残して消えたように感じられた。
「じゃあ、眠ってちょうだい」
その声がしたほうへ、牛が首を振ろうとした瞬間、その首筋が爆発した。
その時だ。
「・・・えっ?」
ウタリは思わず声を洩らしていた。
さっき感じていた気配が、グンと巨大化してウタリにぶつかってきたからだ。
ウタリはキョロキョロと、気配のする方向を探した。
やがて、気配の主が足早に近づいてくるのを見つけた。
ウタリは、初めて見るタイプの・・・その、人間の女性に目を丸くしていた。
気配の正体は、その女性の視線だった。
驚愕と、畏敬の念と、それからあふれるような好奇心の混ざった視線が、その知的で穏やかな瞳を溌剌と輝かせていた。
その女性は、ウタリが見たことのない服を着ていた。
それはアオザイとトレーニングスパッツと、トレッキングシューズだった。
背中の中ほどまで伸ばした髪が、風になびいていた。その髪も、今までウタリが見たことがないほど、軽やかでサラサラとしていた。
「あの・・・」
女性が口を開いた。
(なんて涼しい声だ)ウタリはそう思った。
食事の準備をしていた部族のみんなが、いっせいに彼女を見た。
降り注ぐ視線にたじろぐ様子もなく、女性は言葉を続けた。
「あの・・・こんにちは。私の言葉が・・・わかる人は、いますか?」
「わかるよ。お姉さんて・・・私のお父さんみたいに、スラスラした話しかたをするんだね」
ウタリがそう答えると、女性は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。・・・私は、シュウエイ。周詠といいます」