終章~何時か観た景色
「本当に、ここでよろしいのですか?」
操縦席の董が、振り返りながらウタリに訊いた。
「うん」
「では・・・着陸態勢に入ります。ベルトをお締めください」
鬱氣の暴走を止めた日から、一週間。
ウタリは周詠の実家が所有する小型機で、空を飛んでいた。
いや、ウタリだけではない。
周詠も、徹芯も、佳澄も・・・そして、劉翔もいた。
あの日・・・暴走が止んだバイローチャナの前で、ウタリは劉翔に静かに告げた。
「私・・・そろそろ街を出るよ」
「・・・そりゃ、ずいぶん急だな」
「そうかな・・・私、この日のために・・・鬱氣を眠らせるために、街に来たような気がする。だからもう、街でやることはないの」
「そうか・・・じゃ、僕も一緒に行っていいかい?」
「え?」
ウタリは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑顔になった。
「もちろん。一緒に行こう」
「ちょっとちょっと、二人で盛り上がってるとこを悪いんだけど・・・本気なの?劉。それって、『僕はネイティブになります』って言ってるように聞こえるわよ」
周詠は呆れ顔をしつつも、どこか嬉しそうだった。
「そりゃそうでしょう。そういう意味だから」
「そう・・・いつ出発するの?」
「すぐにでも。・・・と言いたいところだけど、職場の引き継ぎとか、マンションの解約とか、知り合いへの挨拶とか・・・色々身の回りの整理をしなきゃならないから、一週間後ぐらいに。・・・なんだけど、ウタリはどうする?先に街を出てくれても構わないよ。後から追いかけるから」
「ううん。じゃ、私も一週間後にする」
「だったらウタリ。あなたさえよければ・・・その一週間で、太極拳の大架式の套路と、四正推手をやってみない?あなたなら覚えられるわよ。ニタイちゃんとレラちゃんへのお土産にも、ちょうどいいんじゃない?」
「あ、それいい!お願いしまーす」
・・・それから一週間。
ウタリは周詠から太極拳を習い、劉翔は身辺整理に駆け回り、あっという間に時間が過ぎて・・・
ウタリと劉翔、それに見送りの周詠と徹芯、佳澄を乗せた小型機は、草原のど真ん中に着地した。
ウタリは草原に飛び出すと、深呼吸をしてから周囲を見渡した。
初めて周詠と出会った時の、皮の服にサンダルといういでたちだった。
「・・・あった!」
一言叫んで、いきなりウタリが駆け出した。何かを見つけたらしい。
「おーい、ウタリ・・・聞いちゃいないな」
続いて小型機から降りた劉翔は、苦笑しながらウタリを追った。
彼はトレーニングウェアにスニーカーというスタイルだった。
「ウタリは、どこまで行くつもりなんでしょう?」
佳澄は目を大きく開いて、ウタリの姿を追った。
「『あった』って言ってたから、そのうち・・・あ、止まった。手を振ってるわね」
・・・周詠と、続けて佳澄も走り出した。
「やれやれ、みんな元気だねえ。董さん、俺たちは歩いていこうか?」
徹芯が振り向きながら言った。
「いえ、お気遣いなく・・・私も走りますから」
董はニッコリ微笑むと、意外に速いスピードで走り去った。
「おやまあ・・・じゃ、俺はゆっくり行くかな」
徹芯はいくつもの背中を眺めながら、ポテポテと走った。
「ほら、劉翔。これ」
ウタリはようやく追いついた劉翔に笑いかけながら、地面を指さした。
「これ・・・は?」
「あ、これは・・・あの時の?」
周詠は、ウタリの指さす先を見てハッとした。
「そうだよ。私と周詠さんが初めて会った時、一緒に食べた牛・・・の、骨。もう真っ白だね」
そう。
ウタリが街を出ると言い出した時、周詠は「飛行機で、ウタリの部族のいる場所まで送りましょうか?」と提案していた。
だが、ウタリは「飛行機は楽しいけど、部族のみんなの所までひとっ飛びしちゃったら面白くない。それよりも・・・」と、着陸地点にこの場所を希望していた。
「ここは、私にとって大切な場所だから。新しい出発は、ここから始めたかったんだ」
ウタリはそう言って、劉翔を見た。
「ふう、やっと追いついた・・・董さん、大丈夫かい?」
「やれやれ、年ですかな。ちょっと息切れがしますが、平気です。・・・翔お坊ちゃま、本当にそんな軽装でよろしいのですか?飛行機に、色々用意しておきましたから、よろしければお持ちください」
「ありがとう。でもいいよ。本当は服だって、ウタリと同じようなものにしたいぐらいなんだ」
「ふふ。こういう服って、劉に似合うかしら?」
「似合うようになるさ。ネイティブとして生きていれば」
「しかし、劉翔の両親が街に帰ってきたら、びっくりするだろうな?」
「どうかなあ。・・・案外、あの人たちのほうが先に、どこかの部族に腰を落ちつけてるかもしれないよ」
「あり得るわね・・・ところで翔」
「はい?」
「街に戻りたくなったら、いつでも・・・マーシャルアーツ・セクションで雇うから、仕事の心配はしなくていいわよ」
「周老師・・・」
劉翔は目を丸くして、周詠を見つめた。
だがすぐに微笑みながら、周詠の手を握る。
「・・・ありがとう、姉さん」
「あら・・・そう呼ばれるのって、何年ぶりかしら」
「姉さんから、太極拳を習い始めて以来だよ」
「そうだったわね・・・何か、ちょっと楽になったわ」
「よかったね、劉翔」
ウタリが劉翔の肩をパシッと叩く。
「ああ。・・・じゃ、そろそろ行こうか?ウタリ」
「うん」
「方向は・・・君の部族のいる場所は、わかりそうかい?」
「大体ね。今頃の季節でこの天気なら、あっちのほうだと思う。近づいたら氣でわかるし」
「そうか。じゃ・・・みんな、再見!」
「再見」
「元気でな」
「・・・さようなら」
ウタリと劉翔は、並んで走り出した。その後ろ姿は、あっという間に小さくなっていった。
二人は一度も振り返らなかった。
「行っちゃったわね・・・さあ、佳澄」
「え?」
「この一週間、私がウタリにかかりっきりだった間、何を悩んでたの?」
「え?・・・いや、その」
佳澄は黙って俯いたが、すぐに観念したように顔を上げた。
「私・・・ウタリに置いていかれたような気がして・・・差をつけられたっていうか・・・」
「ふうん。だから、自分も頑張って成長しなきゃいけないって?」
「はい」
「わかってるじゃない」
「はい。・・・でも、差が大き過ぎて・・・いえ、そうじゃなくて・・・」
「ねえ佳澄。心眼流の稽古は、初伝から始めるでしょ?」
「えっ?・・・はい」
「どうして?最初から奥伝の型をやればいいじゃない。初伝なんて時間の無駄でしょ?」
「そんなことありません。初伝で体と動きを練ってこそ、奥伝の型が活きてくる・・・あ」
「ね?わかってるじゃない。ウタリを目標にするのはいいわ。でも、今の自分を否定しちゃ駄目よ。まずは、目標を追い続ける自分を好きにならなきゃ」
「・・・はい」
「と言っても・・・こういうことって頭で理解しても、体が納得しなきゃスッキリしないのよね。・・・よし、佳澄。こんな時は・・・夕日に向かって走るのよ!」
「・・・え?」
「またそんな、大昔のドラマみたいなことを・・・大体、まだ昼だぞ。それに街は西じゃねえし」
「うるさいわね、ものの例えでしょうが。みんなで一緒に走ればスカッとするわよ。さあ、街へ向かってゴー!」
「みんなって、俺もか?」
「当然よ!」
「やれやれ・・・董さん、あんたは飛行機に戻って、のんびりお茶でもしててくれ。そのうち拾ってくれって連絡が入るだろ」
「かしこまりました」
周詠と佳澄は並んで走り、徹芯はその後を追った。
周詠と佳澄の・・・呼吸が、足音が、氣の波が・・・溶け合い、響き合い、二人を優しく包んでいった。
二時間ほど走った頃、佳澄は心の中のシミが消えていることに気付いた。
「チーフ」
「なーに?」
「私、追い続けますから。ウタリも、チーフも・・・だから、見ててください」
佳澄はそう言うと、ダッシュして周詠のずっと先へ駆け抜けていった。
入れ替わるように、徹芯が追いついてくる。
「・・・どうやら、佳澄の鬱氣の種は消えたようだな」
「へえ・・・気付いてたんだ。いつから?」
「バイローチャナが止まった時からだ」
「あら。・・・なのに、黙ったままで何もしなかったの?」
「そりゃ、こういうのは上司の仕事だろ?」
「ふふ・・・でも、佳澄も面白い子ね。あっさり鬱氣に憑かれたかと思えば、『追い続けます!』なんて張り切っちゃって。今のあの子は、実際・・・私より前にいるわよ」
「誰だってそんなもんだろ?調子のいい時も、悪い時もあるさ」
「ええ・・・でも、鬱氣はそこにツケこんでくるわ。特に今は、鬱氣が一度に激減しちゃったから・・・世界中の氣が陽に偏ってる分、反動で陰が大量発生しやすいし」
「だが、陰そのものは善でも悪でもねえだろ」
「そう。陰を邪にしてしまうのは、人の心よ。妬み、僻み、恨み、憎しみ、怒り・・・」
「あれ?お前は全感情肯定派じゃなかったか?」
「そうよ。恨んでも憎んでもいいの。その感情に呑まれさえしなければ」
「それが難しいんだろうが」
「だから、人は一人じゃ生きていけないのよ。誰かが自分を見ている、認めてくれてる・・・それだけで、心は邪に染まらずに済むわ」
「ははっ・・・そういうのって、お互い様なんじゃねえのか?」
「・・・どういう意味よ」
「佳澄がいてくれて、助かっただろ?ウタリも劉翔も、遠くへ行っちまったもんなあ。案外、お前のほうが佳澄と走りたかったんじゃねえのか?お前は・・・誰かを見ていたいタイプなんだよ」
「・・・まったく、わかったようなことを・・・」
「わかってるさ」
「え?」
「俺はずっと、お前を見てきたんだからな。これからも、ずっとだ」
「・・・・・・」
「・・・おい、黙ってないで、何かリアクションしてくれねえか?・・・って、何してんだ?」
周詠は、黙って携帯端末を操作していた。
「ああ、董?私たちの位置はわかる?・・・ええ、ここから五キロ先で、拾って欲しいの。・・・うん、お願いね。じゃあ後で。・・・佳澄!飛ばすわよ!」
「おいおいおい?お前らのハイペースで五キロって、俺にはキツ過ぎるぞ?」
「だったら無駄口叩いてないで、走りなさい!遅れたら置いてくわよ!」
「そりゃねえだろ・・・」
それから どれだけの 時間が 過ぎたのだろうか・・・
青年は草原に寝転び、星空を見上げていた。
青年は、逞しい体つきをしていた。
その青年は・・・ポンガだった。
ふと。
大地から背中に、軽快なビートが伝わってきた。
(足音だ・・・誰かが、近づいてくる)
ポンガはゆっくりと体を起こし、足音のするほうを見た。
二人の人間が、走っていた。
二人とも、獣の皮を体に巻きつけ、皮紐で止めただけの簡素な服と、サンダルを着用していた。
それでも、腰の周りに皮をスカート状に巻きつけているだけのポンガから見れば、かなりの重装備だった。
二人はどんどんポンガに近づいてきた。
それは・・・ウタリと劉翔だった。
ウタリは右手を、劉翔は左手を、ポンガに向かって伸ばした。
ポンガはごく自然に、二人の手を取った。
そのまま、ウタリと劉翔に挟まれるようにして、草原を走り始めた。
・・・いつも以上に体が軽い。まるで、飛ぶように・・・
飛ぶように?
ポンガはいつしか、自分の足が大地を踏みしめていないことに気が付いた。
「飛んでいる?俺は・・・飛んでいるのか?」
「ああ。そうだよ」
劉翔が囁く。
「一体、どうやって?」
「飛びたいと思った。それで・・・私と劉翔は、飛べるようになった。でも、ポンガにはポンガのやりたいことが・・・ポンガにしか出来ないことが、あるんだよ」
ウタリの力強い声が、心臓の鼓動を速める。
全身のバネが躍動するたびに、体が高く高く、舞い上がっていく。
やがて三人は雲を突き抜け、星空の中を泳ぐように翔けた。
突然、ウタリと劉翔が止まった。
二人はポンガの顔を見ながら、ゆっくりと手を離し、背後を指さした。
ポンガは、自分の力で浮いていた。興奮で全身に鳥肌が立っていた。
ウタリと劉翔は、笑顔でポンガの背後を指し続けていた。
ポンガは、ゆっくりと・・・途中で少し、バランスを崩しながら・・・振り返った。
そして、見た。
青く輝く、丸い・・・地球を。
そこで・・・ポンガは、夢から覚めた。
今宵のねぐらにしている洞窟の入り口から、青い月の光が差し込んでいた。
ポンガはその清廉な光に、両手を・・・つい今しがた、夢の中でウタリと劉翔とつないでいた手を、かざした。
何かが違う。
(今までになかった力を、感じる)
ポンガはその手に感じた力を確かめるように、拳を握った。
腹の底から力が湧き上がり、肺を圧し、喉を響かせる。
低く、しかし力強く・・・ポンガは吼えた。
その咆哮は、思った以上に洞窟内にこだまし、隣で眠っていた妹のパンが目を覚ました。
彼女は眠気に顔を歪め、派手に鼻を鳴らしながら、寝転がったままで兄の背中をポカン、と一つ蹴り上げた。
~ハンターナックル・完~




