第十二章~退避
「しかし・・・いずれにせよ、複数の氣を結びつけて共鳴させるというテクニックは、街の人間には使いづらいだろうな」
カールが右手で顎を抱えた。
「そうね。空腹感ひとつとっても、街では深刻に追い詰められたりしないから・・・私はボルシチが食べたい、でもあいつはピザが食べたい・・・なんてのじゃ、氣は繋がらないんでしょ?」エレーナが串で空中に罰印を描いた。
「無理でしょうね。街には色々な価値観があるから・・・共通の、しかも真剣な願いとなると、難しいと思うな」
劉翔が、少し残念そうに首を振る。
「でもよ、そりゃ考え方次第じゃねえのか?」
トーマスが軽く身を乗り出す。
「確かに街の人間の価値観は多様化してるさ。けどその上で、それでもみんながこうしたい、って思えるような願い事があったら、それこそが人類の根源的な願いに近いものなんじゃねえのか?それって、進化の取っ掛かりになると思うぜ」
「・・・トーマス、あんたって本当に、たま~にいいこと言うわね」
エレーナが笑いながらトーマスを串でつついた。
「だから、たまにってのは何だよ。・・・つつくなって。俺を食う気か?」
「もうお腹いっぱいよ。・・・ウタリじゃないけど、この人数で牛を一頭なんて、食べきれるものじゃないわね。ちょっと勿体ないかな」
エレーナはランチの残りをしげしげと眺めて、軽い溜め息をついた。
「大丈夫だよ。このまま置いとけば、鳥や獣が食べるから」
ウタリが地平線の彼方を眺めながら言った。
「ああ、そうか・・・けど、ウタリはあまり食べてないんじゃねえか?」
「ううん。ちゃんと食べたよ」
「ネイティブはね、意外と少食なのよ。食後だろうと何だろうと・・・例えば虎や狼に襲われたら、走らなきゃならないでしょ?だから、腹六分ぐらいしか食べないのよ」
周詠の説明に、トーマスが軽く頷く。
「へえ・・・そういや、周詠も・・・いや、佳澄も徹芯も劉翔も、そんなに食べてなかったな。俺たちより体が小さいからだと思ったが、ひょっとしてお前らも、満腹まで食べないクチか?」
「徹芯は知らないけど、私と佳澄と劉は腹八分までね」
「いや、俺もそんなもんだ」
「はあ・・・ストイックだねえ。そういやウタリは、さっきからずっと・・・あっちのほうを眺めてるけど、何かあるのか?」
「今はないよ」
「へえ。じゃ、何で見てるんだ?」
「何かあったら・・・っていうか、いたら困るから。それこそ、虎とか狼とか。・・・この中で一番目がいいのは、たぶん私だから。ちゃんと見張らないと」
「あ、そりゃご苦労さん・・・けど、あっちばっかり見てて、背後から来たらどうするんだい?」
「後ろは風上だから、何かが来たら、見なくても臭いでわかるよ」
「ほえ・・・参ったね」
「うん・・・参った」
「へっ?」
「狼の群れだ」
「へ?えっ?マジ?」
「うん」
ウタリが立ち上がり、一同に緊張が走った。
「すぐにここから離れましょう。狼だって無駄な争いはしたくないはずだから、この牛を置いていけば追ってこないでしょう」
周詠は手早く荷物をまとめ、リュックに詰めて背負った。
「周詠には、狼が見えるのか?俺には見えん」カールが地平線を睨みながら呻いた。
「いいえ、私にも見えない。・・・劉は?」
「気配は感じる。・・・あ、見えた。うわっ、多いな・・・」
「何頭いるんだ?このメンバーなら、一人が一頭ずつ相手すりゃ、十頭ぐらいまでは何とかなるぜ?」
トーマスがアップライトで構え、シュシュッとジャブを繰り出した。
「無理だと思う。全部で三十・・・と、二頭いるから」
「あ、そんなに・・・おい、じゃあ急ごうぜっ!・・・って、ウタリの力でパパーンってやっつけられねえのか?」
「わからない」
「ほら、今日は自分の部族と一緒じゃないから、氣が安定してないのよ」
「うん。すぐに力が途切れるんだ。そうなったら、呼吸を整えて氣を練り直さなきゃならないから・・・一息で倒せるのは、たぶん三頭ぐらいだろうし」
「よし。残りの二十九頭を相手にしたくないなら、全力で走れっ!」
カールは叫びながら、佳澄が背負おうとしていたリュックを取り上げた。
「あ、カールさん、私が・・・」
「いや。エネルギーは充分に補給したから、俺が持つ。それに、水はあらかた飲んでしまったから、軽いしな。君はしっかり俺たちを先導してくれ」
「・・・はい」
「ボス~、いつからそんな、イタリア・エリアの連中みたいな真似をするようになったんで?」
「・・・そうか、トーマス。お前、そんなにしんがりを走りたいのか」
「はいはいはい、そこまで!狼たちが私にも見えるところまで近づいてきたわ・・・本当に多いわね」
周詠の視線の先にうごめくそれは、まだ小さな毛玉の集りのようなものだった。
ウタリが狼だと教えてくれなければ、気付かずにいたかもしれない。
「みんなー!こっちだよー!」
ウタリが先頭に立って走り始めた。
カールたちを気遣って、かなりスピードを抑えているが、それでも食後の運動にしてはキツいペースだった。
二分後には、ヨーロッパ・ブロックの三人の息が上がり始めた。
「カール、トーマス、エレーナ・・・大丈夫?」
「気にするな。このままのペースでいってくれ」
「ハハ・・・面目ない。これでも普段は腹八分を心がけてるんだが、今日はつい、食い過ぎちまった」
「私も・・・」
「そういうこともあるわよ。もうだいぶ、牛から離れたから・・・ほら、狼たちが食事を始めたわ」
それは、人と肉食獣の戦闘能力の差を見せつけるような光景だった。
人間はナイフを使って、少しずつ肉を削るというのに、狼たちはその牙で、いとも容易く肉を裂き、骨を噛み砕いていた。
「・・・あれ?ねえウタリ、あれって・・・」
「うん。私たちを追ってるね」
「え?マジか?あの牛じゃ足りないのか?」トーマスの声が裏返った。
「それもあるかもしれないけど・・・追ってくるのは、みんな若い狼だね。きっと、もうすぐ群れから離れるんだよ。だから自分たちの食べる分は、自分で獲ろうとしてるんじゃないかな」
「じゃ何か?あいつらは俺たちを、独立パーティーのメインディッシュにするつもりか?」
「メインディッシュっていうより、単なる練習台じゃないの?」
「どっちもお断りだ。一体、何頭が追ってきてるんだ?・・・おい、結構いるぞ?」振り返ったカールが叫ぶ。
「全部で五頭、だね。周詠さん、どうする?このままじゃ追いつかれるよ」
「・・・仕方ないわ。迎え撃ちましょう」
周詠とウタリは走るのをやめて、追っ手のほうを向いた。
もう彼らの咆哮が届き始めていた。
灰色の剛毛。
躍動する筋肉。
若く、自信に満ちた疾走だ。
「おい周詠、俺たちへの気遣いなら無用だ。走り続ければ逃げ切れるかもしれんだろ?」
「いいえ。たぶん無理だわ・・・狼もね、持久狩猟をするのよ。この中で逃げ切れるのは、ウタリと佳澄と劉ぐらいね」
「・・・お前は?」
「私もうっかり食べ過ぎたの。普段どおりには走れそうにないわ」
これは半分は本当で、半分は嘘だった。
周詠は街の外では、食事は腹六分までにしているのだが、さっきは腹八分まで食べてしまったから、食べ過ぎたのは本当だ。
だが、ちょっと無理をすれば走れなくはなかった。
とはいえ、カールたちを置いて逃げるわけにもいかないので、立ち止まる口実をでっち上げたのだ。
「飛行機は呼べないのか?」徹芯が叫んだ。
「もう呼んでるわ。でも、到着まで十分はかかりそうね」
「ちっ・・・十分もありゃ、全員食われちまうな。おい、なるべく固まったほうが良くねえか?」
「うん。とりあえずはそのほうがいいよ」ウタリが頷く。
すぐに全員が、くっつくように固まった。
「なあウタリ。その、『とりあえず』ってのは、どういう意味だ?」
トーマスが恐る恐る訊いた。
「バラバラになってたら、あいつらもバラバラになって襲ってくるから、対応しづらいんだ。固まっていれば、あいつらも束になって近づいてくるから、一気に倒せるかもしれない」
「おお、いいねえ」
「・・・でも、あんまり近づき過ぎると、あいつらは多分、私たちの周りをグルグル回って、五方向から同時に襲ってくると思う。そしたら・・・三頭までは何とかなりそうだけど、残りの二頭が誰かに噛みつくよ」
(それなら、何とかなる)
周詠と劉翔は、同時にそう考えていた。
周詠は、右手をアオザイの左袖の中に入れた。そこには麻酔銃が隠されていた。
街の外に出る時は、いつもこの銃を携帯していた。
三日前、ウタリにアオザイを着る理由を問われて「武術家のたしなみ」と答えたのは、こういうことだった。
彼女は常に、アオザイの袖の中に、何らかの武器を隠していたのだ(もちろん街の中では、銃はまずいので、手裏剣程度にしている)。
劉翔もまた、トレーニングパンツのポケットに忍ばせた九節鞭を握っていた。
彼も外出時には、何らかの暗器を持つことを忘れなかった。
周詠と劉翔は、お互いにお互いが武器を隠し持っていることを告げていない。
だが、お互いに、お互いが武器を持っていることを当然のように確信していた。
この師弟は、本来の意味での武術家なのだ。
(ウタリが二頭は倒せるはずよね。私が二頭は撃てる。残りの一頭は、劉が何とかしてくれるでしょ)
周詠は、そう考えていた。
(ウタリが一頭か二頭、周老師も一頭か二頭。・・・最悪の場合、僕が三頭は倒さなきゃならない・・・)
劉翔は、そう考えていた。
(となると、九節鞭じゃ威力に不安があるな。やっぱり、ちょっとカッコ悪くても手槍か刀を背負ってくればよかったかな)
武器の威力のことを考えるうちに、劉翔はふと、ウタリの氣の操作を真似てみようと思いついた。
ちょうど目の前で、ウタリが呼吸を整え、自らの氣を鎧と化そうとしているところだった。
その呼吸と、波打つ氣。
迫り来る狼たちの恐怖が、劉翔の感覚を鋭くしていた。
(吐いて・・・納めて・・・)
劉翔の氣の波調が、普段とは違うリズムを刻み始めた。
それは確かに、本来の劉翔の氣よりも強い力を持っているようだった。
だが、この氣でウタリの動きを再現できるとは、とても思えない。
(所詮は劣化コピーか・・・ま、最初はこんなものだろう。でも・・・)
劉翔は全身を巡る「ウタリの劣化コピーの氣」を、意念で誘導して、九節鞭の先端へと集中させた。
太極拳の達人である劉翔にとって、氣を一か所に集めて効果を高める技法は、手馴れたものだった。
(・・・よし。これで・・・ウタリの拳ほどじゃないけど、かなり威力が上がったな。クリーンヒットしなくても、高圧電流のようなショックを与えられるはずだ。さあ・・・来い!)
劉翔は、はやる闘争心を抑えつつ、呼吸を整えて氣を安定させることに努めた。
「・・・くそっ、しょうがねえな」
突然トーマスが、エレーナと佳澄の腕を掴んでカールの背中に押し付けた。
更にトーマス自身も背中を向けて、エレーナに押し付ける。
これでエレーナと佳澄は、カールとトーマスに挟まれる形になった。
「ちょっと、何なのよ?」
「ん~っ・・・トーマスさん、カールさん、どいて下さい」
「あ~、静かにしてろ。こういう場面じゃ、ストライカーのほうが使えるだろうが」
「ふん・・・じゃあ何で佳澄までサンドしてるのよ?彼女もストライカーよ」
「そうですよ。ここから出してください」
「そういうわけにはいかねえな。だろ、ボス?」
「トーマス。お前は本当に、たまにいいことを言うな」
「だから、たまにじゃありませんって」
トーマスはニヤリと笑いながら、アップライトに構えた。
「しょうがねえ・・・か。まったくだな」
ボソボソと呟きながら、徹芯が迫り来る狼たちに向かって歩き出した。
「おい徹芯、何のつもりだ?」カールが叫ぶ。
「劉翔、周詠、佳澄・・・悪いが、カールたちを引っ張って、なるべく遠くまで走ってくれ。ウタリは俺と一緒に・・・」
「待て待て待て。お前のファイトスタイルは、それこそ『待ち』だろうが?大体、カラテに先手無し、じゃねえのか?」トーマスが怒鳴った。
「あいにくだが、空手ってのは、あくまでも対人間用の格闘技術なんでな。相手が狼なら、別の対策が必要だ」
「無茶言わないで下さい。ウタリ以外の素手の人間が、狼相手に何ができると?」
劉翔は努めて静かな口調で説いた。
下手に大声を上げると、かえって徹芯のテンションが高まりそうだからだ。
「わかってるよ。俺にできるのは、囮と時間稼ぎぐらいだ。ウタリ、狼どもが俺を狙って一斉に飛びかかってきたら、ニ、三頭は確実にぶっ飛ばせるだろ?残りが俺をかじってる間に、呼吸を整えて氣を回復・・・ぶっ?」
徹芯の言葉は、そこで途切れた。
いきなり目の前に、怒りに燃える周詠の顔が現れたと思ったら、次の瞬間には視界いっぱいに空が広がって・・・その空が、白くかすんで・・・徹芯は気を失い、膝をつき、その場に突っ伏した。
周詠は、今しがた徹芯の顎を蹴り上げた右足を、ゆっくりと下ろしながら蒸気機関のように力強く息を吐いた。
「まったくこのバカは、本当にバカなんだから・・・こんな所で噛み殺されたら、病院で治療を受ける前に、脳が駄目になっちゃうでしょ?そんなこともわからないの?」
「あの・・・周老師」
「なによ?」
「宮城さん、気絶してますよ」
「えっ?・・・えっ?ちょっと、どうしてあの程度の蹴りで気を失うのよ。一体どこまでバカなんだか・・・」
周詠は徹芯に活を入れようとして、背後に回った。
その横を、ウタリがさり気なく通過する。
「そうだ・・・待たなきゃいいんだ。ありがとう、徹芯。たぶん何とかなるよ」
ウタリは振り返って、まだ意識の戻らない徹芯に笑いかけた。
(それに・・・体が軽い)
ウタリは、部族の仲間たちと狩りをする時と、ほぼ同様の氣の充実を感じていた。
迫り来る狼という、本物の生命の危機に臨んで、全員の気持ちがひとつにまとまったからだ。
「・・・っしっ!」
ウタリが走り出した。
念のため、力は発動させずに普通に走っていた。
狼たちとの距離が、どんどん縮まっていく。
荒い息遣い。
光る牙。
刺すような眼光。
その五重奏が、ウタリ一人をめがけて密度を濃くしていく。
そして・・・ほぼ並進していた五頭の内、やや先行気味だった二頭が、ウタリの斜め左右から同時に飛びかかった。
爪が空を裂き、肉を捉える・・・と思われた瞬間、ウタリの体がブルンッ、と震えた。
と同時に、飛びかかった狼の一頭が宙を高く舞い、もう一頭は地面に叩きつけられていた。
打ち上げられた狼が、まだ上昇している間に、ウタリは・・・周詠たちの視界から、消えていた。
「見えない・・・」
劉翔が呟いた。
それは狼たちも同じだったらしい。
鋭い嗅覚を持つ獣たちからすれば、散りゆく残り香は、泡のように解ける残像のごとく。
目標を見失った三頭が足を止めた時・・・ウタリが、右端の狼の側面に、ふって湧いたように現れた。
現れたと思ったら、踏み込んでいた。ほんの一歩だった。
右前腕が、狼の脇腹に当てられていた。
なす術もなく押し込まれ、横一列になっていた三頭の狼たちは、あっという間にひと束にまとめられてしまった。
これでは、身動きもままならない・・・まずはここから散って、仕切り直しだ・・・と、狼たちは思った。
もちろんウタリは、そんな暇は与えない。
「・・・フッ!」
鋭い吐息を発し、左掌を・・・まだ狼の脇腹に当てたままの、右前腕に叩きつけた。
ぎゃん。
ガッ。
ぐっ。
三者三様の鳴き声を上げながら、狼たちは三頭まとめて弾かれるように吹っ飛んでいた。
「鎧徹し・・・?」
佳澄が呟く。
それと同時に、最初に宙高く打ち上げられた狼が、ボトリと地面に落ちた。
「いや、擠出だ・・・すごいな。三頭全部に衝撃力を浸透させて、なおかつ、あえて吹っ飛ばすことで内蔵へのダメージを最小限に抑えてる・・・」
劉翔の声は震えていた。
無意識のうちに、九節鞭を固く握り締めていた。
狼たちは、完全に気を失っていた。
ウタリは狼たちが動かず、しかし死んではいないことを確認すると、残心を解いて周詠たちのところへ戻った。
「劉。・・・ウタリが今、何をやったのか見えた?」
周詠の声も震えていた。
「最初のダッシュは、見えませんでした。でも、近くの敵から片づけるだろうとヤマをかけて見たから、狼たちに何をしたのかは見えました」
劉翔が溜め息まじりに答えた。
「マジかよ。俺なんか、えっ?て思ってる間に、五頭ともぶっ飛んじまって・・・気のせいか、牛をぶっ叩いた時より速かったんじゃねえか?」
トーマスは、今にも笑い出しそうだった。目の焦点が定まっていない。
極度の緊張感からいきなり解放された反動で、精神が大きく揺らいでいるのだ。
佳澄は黙ったまま、トーマスの背中に・・・中枢穴と神道穴に、軽く裏拳を入れた。
フワリと握った拳が、当たった瞬間にクシャッと潰れるように撃つことで、鎧徹しと同じ効果を出す。
その衝撃が一時的に氣の流れを加速させて、トーマスの精神を立て直し、フラついていた目の焦点がピタリと合った。
佳澄の入れた活法が、見事に決まったのだ。
「トーマス~」
エレーナが、いきなりトーマスの顔面に突っ張りを入れた。
鍛え上げられたぶ厚い掌がバチン!と鳴り響き、顎が跳ね上がる。
エレーナ流の活法だった。
しかしこちらは衝撃が大き過ぎて、脳が揺れてしまっていた。
トーマスの膝がガクガクと笑い出し、今にも座り込みそうになる。
「あっ、こら・・・」
エレーナは慌ててトーマスのバックに回り、体を支えた。
「もう・・・この程度でスタンディングダウンなんて。これでよく狼と張り合おうなんて言えたわね」
「へへっ・・・お前に比べりゃ、狼のほうがまだ可愛いってもんよ」
「いい度胸してるじゃない。サンビストにバックを取られてるって、わかってるの?このまま投げ落としてあげましょうか?それとも絞め落とされるほうがいいかしら?」
「いや、そんなだから狼のほうが可愛いっつーの」
そんな二人を見ながら、カールは首を大きく左右に振りつつ、深い溜め息をついた。
「それで・・・ウタリは何をしたの?」
佳澄が劉翔に迫った。
「ウタリは・・・最初に飛びかかってきた狼を、掌で跳ね上げました。次に襲ってきた狼を、返す掌打で叩き潰して、地面にめりこませて。その後、またウタリを見失って・・・でも流れからいって、何となく次は擠じゃないかと思ったんで、左にヤマをかけたら、当たりました。つまり・・・踏み込みながら三頭をくっつけて、浸透性の高い打撃で、まとめてKOです。トーマスの言うとおり、移動速度は牛を倒した時よりずっと速かったなあ。打撃力の変化がそれほど感じられなかったのは、殺さないように手加減していたからだと思うけど・・・どうかな?ウタリ」
「うん、そうだよ。食べるわけでもないのに、無闇に殺すのはいけないから」
「じゃあ、今のは部族のみんなと狩りをする時と、同じぐらいの力が出てた?」
「うん。さすがにさっきの牛の時よりも、みんなの真剣さが違ったよね」
「そうか・・・じゃ僕たちは、人間が音速で走るところを見たんだ・・・いや、見えてなかったか」
劉翔は、天を仰いで溜め息をついた。
彼は生まれて初めて、圧倒的な力の差というものを感じていた。
口惜しさも湧いてこない。
それほど大きな差だった。
「そういや、ウタリ。・・・君は、周老師から太極拳を教わったのかい?」
劉翔は視線を空からウタリへと移した。
「うん。昨日ね、攬雀尾って技を教わったんだ。さっき使ったやつ。便利な技だね」
「ああ・・・やっぱりね。さっきのは、太極拳であって、太極拳でない・・・でも、まぎれもなく太極拳だ。周老師と同じ、自由な拳だ。もし、教えたのが僕だったら、ああはならない・・・そうか・・・僕が周老師に認めてもらえないわけだ・・・」
劉翔は、肩を落としていた。
だがそれは気落ちしたというより、肩の力が抜けたような仕種だった。
何よりも、表情がスッキリとしていた。
「あ・・・そうだ、徹芯?」
周詠が、ハッとした表情で徹芯のほうを見た。
「うおーす。もう目え覚ましてるよ・・・あ~痛ぇ・・・ん?」
徹芯は、座り込んだままで口をモゴモゴさせていた。
「あ・・・くそ。口ん中で、血が・・・止まらん」
「えっ?ちょっと・・・」
劉翔が徹芯のそばに座り、顎を触った。
「あ・・・病院で診てもらわないと、はっきりしたことは言えないけど・・・たぶん、顎が折れてます」
「え?そんなに強く蹴ったつもりはないんだけど。本気は本気だったけど・・・いや、本気って、当てるための本気よ。壊すための本気じゃないわよ」
「チーフ・・・宮城さんを止めるだけなら、何も本気で蹴らなくても」
「いや。本気で蹴らなきゃ、宮城さんはかわしてるよ。下手をすれば周老師のほうがカウンターをもらったかもしれない。ま、とにかく今は・・・」
劉翔は目を閉じて呼吸を整えると、さっきと同じ要領で氣の波調を変調して、掌に集中させた。
その氣を「治癒」のイメージで包んで、徹芯の顎に注ぐ。
「お・・・お?血が止まったぞ?」徹芯が目を丸くした。
「ウタリの氣を変調させる技術を、治療に応用してみたんです。でも、付け焼刃の一時しのぎですよ。またいつ出血するかわからない・・・周老師、早く街に戻りましょう。宮城さんが出血多量で死ぬ前に、ね」
劉翔は周詠を見て、いたずらっぽく笑った。
「うるさい、バカ弟子。今連絡してるんだから、静かに・・・あ、董?回収地点なんだけど、うん。・・・」
打ち合わせは数十秒で終わった。
「じゃあ、ほら、あそこ・・・林が見えるでしょ?あそこまで走りましょう」
「へ?また走るのかよ?」トーマスが、やれやれと肩をすくめた。
「二~三分で着くわよ。別に着かなくってもいいの。ここでじっとしてて、狼たちが目を覚ましたら面倒でしょ?林を目標にして走ってれば、飛行機からも見つけやすいし」
「そういうことだ。行くぞ、トーマス、エレーナ」カールはもう駆け足になっていた。
「徹芯。その・・・ごめん。走れる?」
周詠はうつむきながら、ボソボソと呟いた。
「ああ。これなら何とかなりそうだ。とにかく帰ろうぜ」
「行きましょう、チーフ」
「佳澄ーっ、林まで競走しない?」
「じゃ、僕も混ぜてもらおうかな」
ウタリと佳澄と劉翔は、林を目指してダッシュを始めた。
あっという間にカール・トーマス・エレーナを追い抜く。
周詠と徹芯は、最後尾をトロトロと走っていた。
先頭グループの三人は、二百メートルほど横並びに走っていたが、次第に佳澄が遅れ出した。
一分を過ぎると、ウタリと劉翔の二人だけでダッシュしていた。
佳澄はもうカールたちと一緒に走っている。飛行機の音も近づいていた。
林まであと百メートルそこそこという所で、ウタリが止まった。劉翔も釣られて足を止める。
二人が振り返ると、百メートルほど後方で、みんなが固まって空を見上げていた。
上空で周家の自家用機が旋回していた。
やがて飛行機はホバリングして、ゆっくりと下降を始めた。
「・・・やだな」
ウタリがポツリと呟く。
「え?何?」
飛行機の爆音で、劉翔にはウタリの声が聞き取れなかった。
「やだな、って言ったの。林の・・・あそこの藪の中に、何かがいる気配がする」
「あ、それで止まったのかい?」
「そう。でも・・・飛行機がうるさくて、気配が散っちゃう」
ウタリは藪と飛行機を交互に見ていた。
その目はひどく不安そうだった。
ウタリの目から危機を感じ取った劉翔は、ポケットの中の九節鞭を握ると、藪を凝視した。
その劉翔の視線を蹴散らすように、藪の中から唐突に熊が躍り出た。
まっすぐに、劉翔とウタリに向かって突進してくる。
当然その延長線上には、周詠たちがいる。
「ふん・・・」
劉翔は荒っぽい鼻息ひとつで、氣を変調させた。さすがに三回目ともなると、要領がわかってくる。
相変わらずウタリの氣の劣化コピーの域を出てはいなかったが、それでも九節鞭の先に集中させれば、普通の人間なら即死するほどの威力がありそうだった。
(よしっ・・・)
劉翔は闘氣を全開にして、一歩踏み出した。
・・・その腕をウタリがつかんで引っ張る。
「おい、ウタリ?」
「殺しちゃ駄目!こんなに大きな音がするのに、自分から出てくるなんて、あいつはたぶん子連れだ!だから殺しちゃ駄目!」
ウタリには観えていた。
劉翔が背負う、武の「業」が。
劉翔が一歩を踏み出した途端に、そいつらは、またぞろ湧き出していた。
撃ちたい。殴りたい。蹴りたい。踏みたい。絞めたい。折りたい。投げたい。突きたい。斬りたい。
・・・傷つけたい。・・・殺りたい。
そんな欲望に憑かれた武の亡者たちが、劉翔の闘氣に炙り出されていた。
血生臭い殺意をばらまく亡者たちに、しかし熊は怯むことなく突進を続ける。
それでもウタリは、劉翔の腕をつかんだまま離さなかった。
(何てこった・・・ウタリはこういう状況で、こんな発想をするのか?)
劉翔は半ば呆れつつ、急速に闘氣が萎えるのを感じていた。それと共に、武の亡者たちも雲散霧消していく。
殺意が消えたのを確認したウタリは、劉翔をつかむ腕に力を込めて引き寄せ、そのまま周詠たちのほうへ放り出した。
その反動で自らは熊に向かって走り始める。
「みんなに知らせて!」
ひとこと叫んで、ウタリはまっすぐに走った。
力の発動していない今のウタリなど、熊の敵ではない。だが劉翔は、ウタリの作戦を理解していた。
(ウタリは恐らく、熊とぶつかり合うつもりはないだろう。ギリギリでかわして足止めをするつもりなんだ。その間に僕が周老師たちに熊の存在を知らせて、みんなの氣を重ねれば、ウタリの力が発動する)
劉翔は、周詠たちを見た。
みんな飛行機に注目していて、こちらで起こっていることには気付いていない。
下降中の飛行機の爆音は凄まじく、ここから叫んでも声は届きそうにない。
距離は百メートル近くある。
(ギリギリの賭けだ・・・あそこまで走って、伝えて、振り向かせて・・・全員が危機を自覚するまで、何十秒かかる?その間、ウタリは逃げ切れるのか?)
迷っている時間はなかった。
ウタリと熊との距離は、どんどん縮まっている。
巨大な野生が放つ圧迫感が、劉翔の心までぐらつかせた。
「・・・ちっ」
劉翔は舌打ちを鳴らすと、奥歯を力いっぱい噛み締めて、揺らぐ心を抑えた。
そしてもう一度、氣を変調して、大地の氣と同調した。
九節鞭は、とうに手放していた。
「行くぞっ・・・!」
自らを鼓舞するように叫び、劉翔はダッシュした。
・・・熊に向かって。
(ウタリほどじゃないが、時速三百キロ近く出てるな。さすがにぶっつけだと、バランスが悪い・・・)
あっという間にウタリに追いつき、追い越していた。追い越しながら、「周老師のところへ行け!」と叫ぶ。
ウタリが丸い目を更に丸くして驚くのが、チラリと見えた。
その目には、もう武の亡者は映っていなかった。
数瞬後には、熊とぶつかる。
だが、このまま衝突するわけにはいかない。そんなことをすれば、熊も劉翔もただでは済まないからだ。
(まあ、熊は死なないかもしれんが、僕は潰れるだろう。それじゃつまらないし、ウタリの意にも沿わないよな)
劉翔は右拳を握って、氣を集中させた。
極度の興奮のせいか、変調した氣の作用か、時間の流れがひどくゆっくりと感じられた。
(この拳で打つんだ。僕の力なら、殺してしまう心配はない。気絶させられればベストなんだが・・・そうでなくても、力の発動していないウタリよりは、上手く時間稼ぎができるだろう。その間にウタリが周老師たちの所に行って、力を発動させれば万事解決だ)
熊はもう、すぐそこにいる。
劉翔が普通の人間とは比べものにならない戦闘能力を秘めていることは、この獣も感じているはずだった。が、退こうとしない。
(やはりウタリの言うとおり、子連れなのか?僕たちが驚かしたから、子供を守るために、必死で戦おうとしているのか・・・?そんなやつに、僕は何をしようとしているんだ?この拳を・・・何のために打つんだ?倒すのが目的じゃない。ましてや殺すためなんかじゃない。僕たちは、死にたくない・・・でも、こいつを殺すつもりもない・・・そうだ。ただ、待って欲しいだけなんだ。そしたら僕たちは、街に帰る。だから少し待ってくれ。あなたを、意味もなく傷つけるつもりはない・・・それを伝えたいんだ。・・・この拳で!)
そう、はっきりと自覚した劉翔は、急に視界が明るく開けたような気がした。
握り締めた拳に、もう迷いはなかった。
その拳に込められた想いは、劉翔の氣の高揚と共に急速に広がった。
周詠たちのほうへ反転しかけていたウタリは、突然、体を包みこんだ暖かな想いに、部族の仲間との狩りと同じものを感じた。
その温もりには、ウタリの力を発動させるのに充分な力があった。
劉翔は、右拳を振りかぶった。
熊も立ち上がって、前足を振り上げた。そこで両者の動きが止まった。
劉翔の目の前に、ウタリの背中があった。
ウタリは両掌を熊の腹部に当てていた。
「んっ・・・」
吐息が弾けて、ウタリの全身がブルン、と震えた。
刹那の間を置いて、その波が熊の体を激しく揺るがした。
「双按・・・」劉翔が呟く。
熊はその場にフラフラとへたり込み、あえぎ始めた。
ウタリはサッと熊の耳元に座る。
「ごめんね。ちょっと体が痺れて息苦しいだろうけど、すぐに治るから。私たちが飛行機に乗るまで、じっとしててね」
そう告げると、すぐに立ち上がり、劉翔の手を取って走り出した。
「さあ、帰ろう、劉翔。・・・ありがとう。助かった」
もう飛行機は着陸していた。
「ウタリ?劉?それ・・・熊?」
周詠の驚く声が聞こえた。
「そうでーす。起き上がったら面倒だから、早くここから離れましょー!」
ウタリが叫びながら手を振る。
ウタリに引き摺られるように走っていた劉翔が、ふと熊のほうを見ると、二匹の子熊が心配そうに、母親の体を鼻先でつつき回してした。
「おーい、安心しろ!お前たちの母親は、すぐに元気になるからなー!」
劉翔の叫び声に、ウタリも振り向く。
「ね。言ったとおりでしょ?」
「そうだな。・・・でもウタリ。僕は、周老師の所へ行け、って言ったんだぜ?」
「そうだっけ?」
「そうさ。大体、僕一人でもあいつを止められたんだ」
「そう?余計なことしたかな」
「いや、助かったよ」
「でしょ?それに、私が先に『みんなに知らせて』って言ったんだよ」
「そうだっけ?」
「そうよ」




