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第十章~狩猟

 「そうね・・・じゃあせっかくだから、一粒で四回美味しい技、攬雀尾を教えようかな」

 「らんじゃくび?」

 「そう。太極拳の套路の始めのほうから出てきて、その後何度も繰り返される、重要な基本技よ。四つの技で構成されていて、太極拳の全てがこの技に集約されているの」

 「へえ・・・」

 「ええと・・・ま、細かい理屈はいいから、私について真似してちょうだい。何度か繰り返せば、動きは覚えられるはずだから」

 「わかった」

 「自分の体が・・・大きな、大きな渦に・・・竜巻になったイメージで・・・その力に乗せて、掌を掲げる・・・掤」

 「ぽん?」

 「あ~・・・いや、動きの名称はいいわ。今度は、迫ってくる大きな力を、体のうねりで巻き取ってしまうイメージで・・・その力に沿って、掌を下ろす。次に、掌で打って、間髪入れずにもう一方の掌で重ね打ち・・・」

 「あ、カールを抜け殻にした技だね」

 「そう。で、最後に、カールに決めた技・・・両掌で、前を打つ。按。これは両手で打ってるから、双按」

 「じゃ、片手だったら?」

 「単按よ。でもほんと、そういう細かいことはいいから。とにかく動きを覚えちゃいましょう」

 「うん」

 周詠の思った通り、ほんの数分の練習で、ウタリの攬雀尾はかなり完成度の高いものになった。

 「OK。上出来だわ・・・あとは稽古を繰り返して、氣と勁の流れをしっかり感じるようにすればいいわ」

 「けい?」

 「あ、勁のことはお父さんから教わってないの?」

 「ないよ」

 「そっか。・・・ええとね。腕だけとか足だけとかじゃなくて、全身を巧く繋げて出す力、だと思ってもらえばいいわ。で、その氣や勁の流れをちゃんと感じながら功を練れば、ウタリだけの太極拳ができあがるはずよ。たぶん、その先にはウタリなりのタオがあると思う」

 「へへ・・・楽しみだなあ」


 「さて・・・講義は終わったみてえだな。ウタリの機嫌は直ったのかい?」

 いつの間に入ってきたのか、徹芯がトレーニングルームの隅に、ノーネクタイの地味なスーツ姿で腰を下ろしていた。

 「何をこそこそ見てるのよ。いい趣味ね・・・それで、カールたちの具合はどう?」

 「ああ。三人とも、ちょっとダメージがあったからな。メディカルポッドに入ってもらってるよ。けど、じきに出てくるはずだ」

 「そう・・・よかった。佳澄は?」

 「あいつはダメージはないからな。今、着替えてるところだ。そろそろこっちに・・・あ、来た」

 「失礼します・・・ウタリ、もう大丈夫?」

 「うん。平気だよ」

 「じゃあ・・・ウタリと佳澄は、お昼休みにして、一緒に食事でもしてくるといいわ。その後ゆっくりお茶してきていいわよ」

 「チーフは?」

 「私はちょっと、考えたいことがあるから」

 「そうですか・・・じゃあウタリ、行こうか」

 「うん」


 佳澄とウタリが出ていってからも動こうとしない徹芯を、周詠は黙って見つめていた。

 しばしの沈黙の間。

 「・・・で、私は考えたいことがあるの」

 「さっき聞いたよ」

 「出ていこうとは思わないの?」

 「いいのか?昼飯を後回しにしてこっちに寄ったのは、そろそろ話し相手が欲しいタイミングだと思ったからなんだが」

 「本当に、妙な勘だけは鋭いわね」

 「おかげさんでね」

 周詠は「ふんっ」と軽く鼻で笑いながら、徹芯から二メートルほど離れた壁に、どん、ともたれながら腰を下ろした。

 「ジェームズ」

 「んっ?」

 「ジェームズよ。今日のヨーロッパ・ブロックの選抜チームに、ジェームズがいなかったの」

 「ああ。そういやカールが言ってたな。あいつは生粋のボクサーだから、俺たちとは相性が悪いってな」

 「そう。交流戦のルールじゃ、ジェームズは実力の半分も出せないわ。でも・・・もし交流戦が、グローブをつけて、シューズを履いて、リングの上で、ボクシングのルールで行われてたら、どうなったかしら?」

 「ジェームズの一人勝ちだろ。あいつ一人で俺たち三人抜きされるんじゃねえか?まあ、ウタリが出ればあの娘は別格だから負けはしねえだろうが、遊んじまって試合にならんだろうし。お前だって、引き分けに持ち込めりゃ上出来だろ?間合いの操作でジェームズを崩すとこまではできても、ボクシング技限定じゃ、たぶん倒しきれねえ」

 「私もそう思うわ。つまりね・・・今日のウタリは、ジェームズみたいなものだったんじゃないかしら。そもそもここは、ウタリが力を発揮できる場所じゃないのよ」


 「そうかもしれんな」

 「だから・・・ウタリの力を見たいのなら、ウタリのリングに上がるべきなのよ」

 「リング・・・ってのも、ちょっと違和感があるな」

 「そうね・・・うん、劉の表現がぴったりだわ。『同じフィールドに立ってる気がしない』って。だったら、ウタリのフィールドに行けばいいのよ」

 「どうやって?」

 「・・・飛行機に乗って!」

 「飛行機?そんな予算の余裕があったか?」

 「ウチにそんな余裕ないわよ。だからウチの・・・周家を利用させてもらうわ」

 「あ、お前んちね・・・」

 「カールたちは、すぐに完治するんだったわね?」

 「ああ」

 「じゃ、後で彼らにお願いしましょう。明日いっぱい、ちょっとハードなロードワークにつき合ってねって」

 「ロードワーク?飛行機に乗るんだろ?・・・一体、何をする気だ?」

 「そうだ、劉は・・・外よね。メールしとこう。今日はもういいから、何とかして明日もう一日、こっちにつき合ってもらわなきゃ」

 「いや、だからどこへ・・・」

 「街の外よ。狩りをするの!ウタリのスタイルでね」

 「狩り?じゃあ持久狩猟か?」

 「そうよ。もっとも、ウタリが力を発揮すれば、もう持久狩猟とはいえないけど。少なくとも獲物を見つけるまでは、たっぷり走らなきゃね」

 「その企画にカールたちをつき合わせる気か?」

 「そうよ」

 「やれやれ、ご苦労なこった・・・」

 徹芯は、炎天下を走らされるヘビー級ファイターたちの苦難を想像して、溜め息をついた。


 「人ごとみたいに言わないの。あなたも行くのよ」

 「え?俺も?」

 「そうよ。交流戦の翌日は、視察の予定はないでしょ?だから明日なのよ」

 「いや、しかしなぜ俺まで?」

 「言ったでしょ。ウタリの狩猟スタイルを再現するんだから、なるべく状況がそれに近いほうがいいの。私やあなたや佳澄やカールたちは、ウタリの部族の代役よ。人数はもうちょっと多いほうがいいんだけど、そう贅沢はいってられないものね」

 「あ、佳澄も連れてくのか・・・まあ、あいつはかなり走りこんでるから、大丈夫だろうが・・・」

 「何よ。自信ないの?」

 「いや、俺もそこそこは走ってるから、何とかもつだろうけどな。問題はカールたちだ。あいつらだって相当タフだが、どだいあの体は持久走向きじゃねえぞ」

 「だからいいのよ。私と佳澄と、劉や徹芯だけじゃ、街の外でマラソンしても、あまり追い詰められないかもしれないでしょ?武術家の体作りのコンセプトって、狩猟民族に近いもの。でもカールたちは違うわ。慣れない環境で、どんな動物が現れるかわからない緊張感の中、苦手な持久走を強いられて、飢えと渇きと疲労に攻めたてられるのよ?これ以上、ウタリの力を切望できる状況なんてあるかしら?」

 「・・・俺は前から、お前って実は鬼なんじゃないかと思ってたんだが・・・」


 「そうそう、着陸ポイントには注意しなきゃね。疲れる前に獲物の群れを見つけちゃったら、ウタリの力が発動しないかもしれないし。かといって獲物が見つかる前に、誰かが倒れちゃっても困るし・・・活かさず殺さずの加減をどうするか・・・徹芯、あなた何キロぐらいなら楽に走れる?」

 「んっ?二十キロぐらいかな」

 「フルマラソンのタイムは?」

 「体調にもよるが、四時間台でよけりゃ、まあいつでもいける」

 「そう。そうねえ、じゃあ・・・」

 周詠は思考の深みにはまりつつ、うっとりとした目で宙を眺めていた。

 「おいおい。わかってんだろうが、走れる距離や速さなんて、個人差があり過ぎるぞ?お前や佳澄はフルマラソンでも楽に二時間台だろうが、カールたちはハーフマラソンを越えたらキツイだろうし・・・」

 だがもはや、徹芯のそんな忠告など、周詠の耳には届いていなかった。


 そして翌日。

 午前九時。

 ウタリ・周詠・佳澄・徹芯・劉翔、それにカール・トーマス・エレーナの合計八名は、街の外の上空を飛ぶ飛行機の機内にいた。

 離陸してから一番はしゃいでいたのは、やはり?ウタリだった。

 「うわー飛んでる!ねえ佳澄、これ、本当に飛んでるよ!」

 ウタリは窓に顔を押しつけながら、はしゃぎ続けていた。

 「そうね。飛行機だから、よく飛ぶわね」

 ウタリの隣の席に座った佳澄は、そのあまりのテンションの高さについていけず、ただボケ返すのが精一杯だった。

 「すごいなあ・・・お父さんの言ってたことって、本当だったんだ」

 「え?それ、どういうこと?」

 「うん。時々ね、雷雲も出てないのに、空からゴーッて音が聞こえることがあって・・・お父さんに聞いたら、『あれは飛行機っていう、空を飛ぶ乗り物だ』って教えてくれたんだ。でも、いくら何でも嘘だろうって思ってた。だってお父さんって、時々真顔でものすごい冗談を言うから」

 「ふうん。例えばどんな?」

 「例えば世の中には、空を飛ぶだけじゃなくて、地面の下を獣より速く走る乗り物があるとか」

 「・・・それ、ひょっとしたら、全部冗談じゃないかもしれないわよ」

 「うん。私もそんな気がしてきた。・・・でもさ、この飛行機って、結構あっちこっちを飛んでるんじゃないの?どうして私、見えなかったんだろ?」

 「ああ・・・それは無理よ。街ではね、ネイティブに対して過度に文明的な干渉をしないようにって、飛行機も見られないように注意してるの。街の外ではなるべく高度を上げて、光学迷彩で空に偽装したりして。でも、音は隠しきれないわね」


 「なあ徹芯。俺たちはこれから、どこへ連れていかれるんだ?」

 コクピットで、パイロットとなにやら相談中の周詠を横目で見ながら、カールが不安そうに訊いた。

 「どこって・・・俺も正確なことはわからんが、じゃあひょっとしたら、これから何をするかも知らんのか?」

 「実は知らん」

 「・・・おいおい。周詠のやつ、昨日は一体何を言ってきたんだ?」

 「いや、それが・・・今回の交流戦は、アジア・ブロック側の不手際で迷惑をかけた、お詫びに素晴らしいものを見せたいから、明日・・・まあ、今日だな・・・ちょっとハイキングにつき合ってくれないか、ってな」

 「ハイキング?よく言うぜ」

 「だろう?いや、こっちは初めて周詠の動きが見えたんで、気分が良かったし、それに・・・メディカルポッドから出た直後だったんで、かなりハイになってたから・・・」

 「周詠のやつ、狙いやがったな・・・で、深く考えずにOKしちまったのか」

 「そうだ。そしたら今朝早く、朝食を摂る間もなくホテルに迎えの車が来て、そいつで周詠の実家に連れて行かれて・・・そしたら庭に、でっかい自家用機があるじゃないか」

 「金持ちなんだよ。あいつん家は」

 「さすがにただのハイキングじゃないのはわかったが、後の祭りだ」

 「そうだな・・・うん。周詠に言わせると、ちょっとハードなロードワークらしいぞ」

 「ロードワーク?」

 「へっ・・・そういやカール、周詠んちは何のために、この飛行機を所有してると思う?」

 「移動用じゃないのか?」

 「それもあるが、街で手に入らない食材の調達に使ってるらしいぞ。さすがは何でも食べる中国人だな。今日のロードワークも、ある意味、食材調達が目的なんだぜ」


 「お嬢様、見つかりました。ここから北北東へ五十キロの地点に、牛の群れがおります」

 上品なスーツに身を包んだ初老の紳士が、操縦桿を握ったまま、人工衛星からの映像を拡大して周詠に見せた。

 この紳士は、周家の執事でアンディ・とうといい、周詠が生まれる前から周家に仕えていた。

 「OK。それにしましょう。その群れの南、二十キロぐらいの地点に着陸してくれる?」

 「かしこまりました」

 董は指定された地点まで飛ぶと、少し旋回してからホバリング状態となり、そのまま垂直に下降して・・・着陸した。

 「そうだ、董。さっきの群れのデータ、私の携帯端末に入れといてくれる?」

 「先ほど入れておきました」

 「ありがとう。・・・じゃあ董は、ここで待っててね。帰る時には呼ぶから」

 「かしこまりました。どうかお気をつけて」

 「ええ。・・・じゃあ、みなさーん!ハイキングに出発ですよー」

 「まだあんなこと言ってやがる」

 「そこ、徹芯!ブツブツ言ってないで、今のうちに水を飲んでおく!」

 「水も大事だけどよ、腹が減ったな・・・何か食わねえか?」

 離陸直後から、キョロキョロと食べ物を探していたトーマスは、不満そうに口を尖らせた。

 もちろん食べる物などありはしない。

 「ごめんね、トーマス・・・とりあえず、スポーツドリンクで我慢して欲しいの。この後、飛びっきりのランチが待ってるから」

 周詠が笑顔でペットボトルを差し出した。

 「諦めろ、トーマス・・・何か食いたきゃ、しばらくは周詠の言いなりになるしかねえ」

 徹芯は、苦渋に満ちた表情でトーマスの肩を叩いた。


 「よくわかってるじゃない・・・じゃ、あなたはこれを背負ってね」

 周詠は大きめのリュックを、笑顔で徹芯に押し付けた。

 「おい、何だこりゃ?結構重いぞ」

 「一リットルのペットボトルが十本と、固形燃料と、救急医療用具が入ってるの。乱暴に扱わないでね」

 「おい、何で俺だけ・・・」

 「私も持つわよ。一リットルを五本と、串とナイフ。佳澄もペットボトルを三本担ぐんだから。カールたちはこういうハイキングに慣れてないから、荷物は持たせられないでしょ?ウタリは万が一に備えて、なるべく身軽でいて欲しいし」

 「はは・・・諦めろ、徹芯」

 トーマスが笑顔で徹芯の肩を叩き返した。

 だがその笑顔も、三十分後には汗で綺麗サッパリと洗い流されることになる。

 

 「周詠っ・・・いつまで走るんだー?」

 トーマスが悲痛な叫びを上げた。

 「大丈夫よ。群れはまだ移動してないから、このまま北上すればいいわ」

 「答えになってないぞ・・・」

 だが、それ以上追求する気力は残っていなかった。

 一面の草原。

 遠くにかすむ山々。

 乾いた風。

 そして、照りつける太陽。

 カール、トーマス、エレーナの三人は、ヨーロッパ・ブロックのBALで支給されているTシャツとスパッツを着用していた。

 それはテクノロジーをふんだんに取り込み、通気性・吸湿性に優れ、体の動きをサポートしてくれる逸品なのだが、もはや流れる汗も、体が重くなるのも止められない。

 カールたちも、走るのが苦手なわけではなかった。

 百メートルから四百メートルぐらいのダッシュを何本も繰り返すような、瞬発力を重視した練習なら、周詠たちより熱心だ。

 だが持久走となると、周詠たちのほうが有利だった。

 筋肉の重さが違いすぎるのだ。

 しかも今日は朝食を食べていないから、エネルギーの絶対量も足りない。

 どんどん血糖値が下がって、頭がポンヤリしてくる。

 

 「トーマス・・・フラフラしてないで、もっとシャンとして・・・まっすぐ走ってよ」

 エレーナが息も絶え絶えに注文をつける。

 「んー?何でそんなこと・・・あーっ!お前、さっきからピッタリ後ろについてると思ったら、俺を風よけにしてやがるな?」

 「・・・大きな声を出さないでよ。お腹に響くじゃない」

 「ああ・・・俺も後悔してるところだ。怒鳴ると空きっ腹にビンビン来やがる・・・あー、それよりエレーナ、今度はお前が俺の前を走れ」

 「嫌よ」

 「ずるいぞ」

 「ちょっと、スピード落とさないでよ・・・」

 「前に行きゃいいだろう」

 「だから嫌だって。第一、私があんたの風よけになれると思う?サイズを考えなさいよ」

 「ないよりゃマシだ」

 「だからスピード上げなさいよ。カールたちに離され始めてるわよ」

 「いいじゃねえか。ちゃんと見えてるんだから、すぐに追いつけるって」


 ウタリと周詠は、先頭を並んで走っていた。

 周詠が「このまま、まっすぐね」とコースを確認して、スピードを落とし、カールの隣まで退がった。

 「淡々と走ってるわね、カール。トーマスとエレーナを放っとくなんて、珍しいじゃない?あの二人が泥仕合を始めたら、いつも止めてるのに」

 「止めないと話が進まないから、そうしてるんだ・・・今は別に構わんさ。あれであの二人も、多少は空腹をごまかせるだろう」

 「よかった。二人を止める元気もないのかと思ったわ」

 「そんなことはない・・・が、そうなる可能性は、ある。だからすまんが、なるべく話しかけないでくれ。走ることに集中したいんだ。少しでもエネルギーロスがないように、全身とパーツのバランスチェックを・・・しないとな」

 「わかったわ。でも、あんまり根をつめると、かえって肩に力が入るわよ。リラックスしてね」

 「ああ・・・しかし周詠、君はそんな長袖の服を着て、暑くないのか?」

 周詠の服装は、いつも街の外で走る時のものだった。

 白いアオザイと、トレーニングスパッツだ。

 「私はこれに慣れてるの。見た目よりずっと涼しいのよ・・・じゃ、前に戻るわ。無理しないでね」

 「もうしている」

 「あら、ごめんなさい」

 周詠は笑顔で手を振りながら、スピードを上げてウタリに追いついた。街の外を走るのに慣れている上に、邪氣から解放されているので、朝食抜きでも普段以上に体が軽かった。

 そしてウタリも、空腹を抱えて走ることには慣れている。

 というより、持久狩猟は空腹だから走るのだ。

 しかもここはウタリのホームグラウンドで、身に付けているのも狩猟民族の普段着兼ユニフォームである皮の服とサンダルだ。

 これでカールたちを置いてきぼりにしないペースで走っているのだから、ウタリの感覚としては散歩しているようなものだった。


 「どう?ウタリ。もうすぐ牛の群れが見えてくるはずなんだけど・・・力は出そう?」

 「うん。まあまあかな。部族のみんなと狩りをする時と比べたら、かなり足りないけど、何とかなりそうだよ」

 「そう。・・・カールたちを苛めたかいがあったわね」

 「いじめた?」

 「ものの例えよ。気にしないでね」

 先頭の周詠とウタリの二十メートルほど後方をカールが走り、更に二十メートルほど後方を徹芯と佳澄と劉翔が走っていた。

 そして更に後方三十メートルほど・・・つまり最後尾を、トーマスとエレーナが口論しながら走っていた。

 予定では、先頭はウタリと周詠、後方に佳澄・徹芯・劉翔がつき、その間をカール・トーマス・エレーナに走ってもらって、ペースを調整するはずだった。

 長距離に不慣れなカールたちに異変があれば、徹芯たちがすぐに気付くというわけだ。

 だがトーマスとエレーナは、徹芯たちよりずっと後方に退がってしまった。

 それでも徹芯たちがウタリ・周詠との距離を変えず、トーマスとエレーナを放っておいたのは、二人がグダグダと言い争いを続けていたからだった。

 「しかし元気だね、あいつらは・・・黙って走れば、先頭に行けるんじゃねえのか?」

 徹芯は呆れていた。

 「どうですかね。ああやって言い争うことで気持ちを奮い立たせてるようにも見えますよ」

 劉翔がリュックを背負い直しながら分析した。

 周詠が徹芯に渡したリュックは、さすがに冗談だった。大荷物は半分に分けられて、徹芯が水を五リットルと固形燃料、劉翔が水を五リットルと救急医療器具を担いで走っていた。

 もっとも、徹芯の荷物が一番重いことに変わりはない。


 「でも、劉翔さんもいいペースで走りますね。ちょっと意外だな」

 三リットルの水を担いで走っている佳澄が、劉翔をチラッと見ながら口惜しそうに眉を寄せた。

 佳澄と徹芯は、BALから支給されたTシャツとスパッツを着ているが、劉翔はそれより少しばかりスペックの低い、市販のTシャツを着ていた。しかも下はスパッツではなく、トレーニングパンツだ。それでも息ひとつ切らさず、汗だくにもならずに涼しそうな顔で淡々と走り続けていた。

 「これでも一応、毎日走ってるからね」

 「へえ。どのぐらい走ってるんだ?」

 「朝と晩に十キロずつです」

 「マジか?タイムは・・・いや、言わなくていい。自信を失くしそうだ」


 そろそろ徹芯も、キツイと感じ始めていた。

 とにかく背中の荷物が厄介だった。

 (こいつがなけりゃ、もうちょっと余裕なんだが・・・カールもフラフラし始めてるし、周詠に休憩するように言うか?)

 徹芯がそんなことを考え始めた、その時。

 周詠が振り返って手を上げた。

 「は~い、みんな止まって・・・ここに集ってね」

 その背後には、風にそよぐ柔らかい草が、濃い緑のカーペットように広がっていた。

 そしてその草を、一心に食べ続ける牛、牛、牛。何十頭もの牛・・・。

 ある牛は寝そべり、ある牛は角を突き合わせ、ある牛は湧き水で喉を潤していた。

 「お待ちかね・・・無事、ランチの素材のありかまで到着しました」

 周詠は体も声も低くして、そう告げた。だが、興奮を無理に抑えているのは、誰の目にも明らかだった。

 「なあ徹芯。周詠は、ああいう女だったのか?俺にはこう・・・普段よりはしゃいでる・・・というか、子供っぽいように見えるぞ」

 カールは草の上にどっかりと腰を下ろして、首を捻った。

 「ああ・・・あいつは街にいる時は、邪氣のせいでテンションが低めだからな。今のが素に近いんだ。それに・・・ウタリの真の力が観られるっていう期待感も、相当大きいだろうしな」

 「ウタリの・・・真の力?」


 「そうよ、カール。約束したでしょ?素晴らしいものを見せるって。これからそれが始まるのよ・・・って言っちゃったけど、どう?ウタリ。力は出そう?」

 「うん。みんながかなり本気でお腹が空いてるみたいだから、何とかなりそうだよ」

 「おい、ちょっと待てよ。さっき、ランチの素材がどうとか言ってたよな?ひょっとして、あの牛を食うのか?」

 「えらい!よくわかったわね、トーマス」

 「イエ~イ・・・そりゃ豪勢だね。でもよ、誰も・・・銃どころか、弓矢も持ってねえぞ?どうやって捕まえるってんだ?」

 「私が殴り倒すんだよ」

 ウタリが笑顔で自分を指さす。

 「ほおお・・・じゃ、そうだな・・・あれ!あの、一番でっかい牛!あれにしようぜ。もう腹ペコでさ・・・あれ一頭食えば、満腹になるだろ」

 「え?それはちょっと・・・」

 「アハハッ・・・わりぃわりぃ。そうだよな。いくら何でも、あんなでっかいのを倒すなんて、無理だって」

 「そうじゃなくて、この人数で牛一頭を全部食べるなんて、無理だよ」

 「あ、そっち・・・って、お前、マジで牛を殴り倒す気か?」


 「だから、大声出さないでよ・・・空きっ腹に響くって・・・」

 エレーナがグッタリした目でトーマスを睨んだ。

 「じゃあエレーナ、それからみんなも。今のうちに、その空きっ腹に水を詰めこんでおいてくれないかしら?」

 周詠はそう言うと、ペットボトルの水を飲み始めた。

 「ああ、そうだな・・・とにかく水分補給だ。しかし、今のうちってのは、どういう意味だ?」

 カールが徹芯からペットボトルを受け取りながら、弱々しく呻いた。

 「私が適当に一頭を選んで、殴って、追い立てて、群れから孤立させるから。そいつを追いかけるのに、またしばらく走るんだよ」

 ウタリが立ち上がりながら答えた。

 その言葉に、全員がビビッドに反応していた。

 (本当に、あの牛を・・・新鮮な肉を、たらふく食べられるのか?)

 何しろ、街で規則正しい毎日を送っているアスリートたちが、いきなり朝食ヌキで、炎天下の草原を十五キロも走らされたのだ。多少の差こそあれ、全員が耐え難い空腹を感じている。

 特にカール・トーマス・エレーナの三人は、ウタリの言葉を天の導きのように感じていた。

 ただ周詠の場合は、(牛を食べられるのか?)ということよりも(ウタリの力を見られるのか?)という期待感のほうが強かった。

 ともかくこれで全員の心が、かなり切迫した空腹感の下に、ひとつにまとまった。


 「よしっ」

 ウタリが牛の群れに向かって歩き出した。

 「・・・ん?」

 そのウタリの後姿が、陽炎のようにぼやけたような気がして、カールは目をこすった。

 「ボス・・・ウタリが・・・」

 「トーマス、あんたも目が変なのかい?」

 「目っていうか、・・・こう、意識の置き所が定まらねえ感じだ」

 そんなカールたちを見て、周詠は興奮を抑えられずにいた。

 「すごいわね・・・普段、氣を感じる訓練なんかしてないカールたちが、ここまではっきりと氣の流れを感じるなんて・・・徹芯、佳澄、あなたたちはどう?」

 「確かに妙な感覚だな・・・俺自身はここに座ってるのに、気持ちだけはウタリの隣にいるような・・・」

 「意識・・・っていうか、体の周りの氣の一部が、持っていかれてるみたいです」

 「私も佳澄に近い感じだわ・・・劉、あなたはどう?この中で一番、氣を正確に感じ取れるのは、たぶんあなたよ」

 「そうだなあ・・・氣を持っていかれてるというよりは、全員の氣がウタリを媒介として繋がっている、って感じですかね。おそらくは、みんなの心が空腹感で統一されているからでしょう。更に氣が繋がることで、意識の共有化まで進みつつあります。だから・・・ウタリの動きや、見ているものが・・・」

 「自分が見て、動いているように感じる?」

 「そうです」

 「マジか?俺はそこまでは感じねえぞ」

 「私もです」

 「ああ・・・俺は、何だかバランスが取れない感じだ」

 「俺もだ、ボス」

 「余計にお腹が空いてきたわ・・・」


 周詠たちが自分の感覚を口にしている間に、ウタリはどんどん歩いて牛の群れの中に入っていった。

 二、三回左右を見回して・・・群れの端っこの、やや小ぶりな牛に近づく。

 牛は、草を食べていた。皮膚の艶は悪くないが、やや張りに欠けている。若いとはいえないようだ。

 ウタリの接近に気付いたその牛は、面倒臭そうに小柄な少女を一瞥すると、また草を食べ始めた。

 いつものことだ。

 牛にとっては素手の人間など、ちょっとうるさい蝿に過ぎない。

 牛がウタリを気にしないのと同様に、ウタリも牛のそんな態度を気にもせず、淡々と近づいていく。

 そのたびに周詠と劉翔には、牛の息遣いまでが迫ってくるように感じられた。

 徹芯と佳澄は、何となく牛に囲まれているように感じ、カール・トーマス・エレーナは、とにかく心身の位置が定まらない、と感じていた。

 もう、手を伸ばせば牛に届く・・・

 そこでウタリは、いきなり牛の頭を蹴り上げた。

 「蹴った」劉翔が思わず呟く。

 「ブフッ」牛は口の中の草を噴き出しながら、よろよろと後退した。

 その間にウタリは軽く深呼吸をしながら首を振る。

 「氣を整えて・・・」周詠が呟く。

 ウタリがスッ、と踏み込んで・・・顔面を右拳で真っ直ぐ。

 ガツン、という手ごたえ。

 追う。

 左拳を顎に突き上げる。

 深く入った拳が、喉の柔らかい筋肉をグニ、と抉る。

 また追う。

 牛は退がる一方だ。

 横っ面を掌で張る。

 パン!

 牛の顔が・・・いや、体全体が、群れの外を向いた。

 フラフラとその場に崩れそうになる牛の腹を、下から爪先で蹴り上げる。

 「グ、モッ」

 妙な声を上げながらも、その蹴りが気つけになってフラツキが止まる。

 そこでまた、ウタリが深呼吸。


 「ウタリの氣が・・・というより、ウタリのまとっている氣が、不安定だ」

 劉翔が呟いた。

 「そうね。・・・たぶん、私たちの氣の特徴を掴みきれてないのよ。部族の仲間との狩りなら、こんなことはないんでしょうけど」

 「マジかよ。・・・それでも、充分にすごいぜ?大人の牛が、打たれて・・・痛がってるじゃねえか」

 「信じられない・・・鎧徹しを連発したって、あんなことできない・・・」

 「ボス・・・あの娘に殴られなくって、よかったっスね」

 「ああ・・・」

 「お腹空いた・・・早く、あの牛が食べたい・・・」

 エレーナのこの言葉が、全員の結束を強固にした。

 「おっ・・・ウタリの氣が整った」

 劉翔の呟きが終わるより先に、ウタリは牛の背後に回っていた。

 その右手が、高く上がって・・・牛の尻を叩いた。

 ビシャリという音が、周詠たちにもはっきりと聞こえた。

 何頭かの牛が、音のしたほうをチラリと見たが、多くの牛は関心がなさそうだった。

 牛にとってウタリの恐さは、実際に打たれなければ理解できないのだ。

 そして、実際に打たれたランチ候補は、「モッ」と鳴き声を上げて走り出した。

 ウタリがその後を追って走りながら、笑顔で周詠たちを手招きする。


 「さあ!もうひと踏ん張りよ。遅れないでね、徹芯!」

 「・・・なんで俺なんだ?」

 「決まってるでしょ。バーベキューの成否は、ウタリの拳とあなたの持ってる燃料にかかってるのよ。水はかなり減ったんだから、だいぶ軽くなったでしょ?」

 「ああ、まあ・・・」

 フラフラと立ち上がりながら答える徹芯を置いて、周詠が走り出した。

 慌てて佳澄が続く。

 「宮城さん、先に行ってください。カールと、トーマスもエレーナも・・・僕はしんがりを走ります」

 劉翔はそう言いながら、徹芯やカールの背中を押した。

 「ああ・・・すまんな、劉翔。どうやらこの中じゃ、お前が一番冷静かつ余裕がありそうだ」

 「そうだ・・・劉翔、やっぱりお前、ヨーロッパに来ないか?」

 「ボス、そんなことよりバーベキューだ!」

 「いいこと言うじゃない、トーマス。急ぐわよっ・・・」

 トーマスとエレーナは、食事のめどが立った途端に元気が出たようだった。

 さっきまでとは打って変わって、先を争うように走り始めた。

 その後を徹芯とカールがマイペースで追い、劉翔がしんがりを走る。

 

 それから三十分後。

 先頭のウタリのすぐ後ろに周詠と佳澄がつき、そのずっと・・・三百メートルほど後方を、残りのメンバーが団子状態で走っていた。

 ペースを上げ過ぎたトーマスとエレーナは、カールと徹芯の背後で息も絶え絶えだった。

 「面目ない、ボス」

 「いいから、もう話しかけるな・・・」

 「トーマス、しゃべりたけりゃ俺かエレーナにしとけ」

 「私は嫌よ。声を出すだけで・・・ああもうっ、お腹に響く」

 だが、後方のメンバーが空腹に苛まれるほどに、ウタリの氣は安定感を増していた。

 それでも普段と比べると・・・仲間との狩りの時と比べると、不完全だ。

 そもそも周詠たちの感じている空腹感は、まだ生命の危機を暗示させるほどではない。

 それでも、空腹でいることに不慣れな街の人間が、街の外というワイルドな環境で感じる空腹感は、それなりの切迫感を持ち、どうにかウタリの氣を安定させていた。


 牛は、走り続けていた。

 混乱していた。

 蝿がぶつかったと思ったら、仲間の体当たりを食らったように感じた。

 いや、それ以上だった。逃げ出さずにはいられなかった。

 ・・・だが、この暑さの中で走り続けるうちに、逃げるのが馬鹿らしくなってきた。

 さっきは食事中で、気が抜けていたのだ。人間など恐れる必要が、どこにある?

 そう思った時には、牛はもうウタリに角を向けていた。

 その角の先端から一キロ近く後方をひた走るウタリは、抜群の視力で牛の方針変更を確認し、微笑を浮かべていた。

 「周詠さん、牛が止まった。追いついたら勝負だ」

 「了解。じゃあ、ペースを落として徹芯たちを待ちましょう」

 そして、徹芯たち団子グループのしんがりをつとめる劉翔が、ウタリたちのペースダウンに気付いた。

 「お・・・先頭グループが、スピードを落としました」

 「ほお・・・牛を見失ったんじゃねえだろうな」

 「ええー?そりゃねえぜ」

 「食べたい・・・」

 「大丈夫です。ウタリの氣の勢いが落ちてないから・・・たぶん、牛が逃げるのをやめたんでしょう。さすがに牛は見えないけど・・・」

 「俺には牛どころか、周詠たちも見えんぞ。劉翔、お前の視力はいくつだ?」

 「8,5です」

 「やっぱりお前、ヨーロッパに来いよ」


 ・・・それから数分後。

 徹芯たちが周詠に追いつく頃には、もう牛との距離は五十メートルをきっていた。

 ウタリは一人で、牛と周詠たちとの中間を歩いている。

 お互いの距離が、縮まる。

 「ウタリ、力は・・・出そう?」

 周詠が、少し心配そうに訊いた。

 「大丈夫。さっきは群れから追い出さなきゃならなかったから、手間取ったけど・・・」

 ウタリは話しながら、どんどん歩いて牛との距離を詰める。

 その二十メートルほど後方を、周詠たちがゾロゾロとついていく。

 「今度は、一撃で決めるから」

 ウタリは当然のように告げた。そこには慢心も虚勢もなかった。

 ただ自然に出た言葉だった。

 「それに・・・」

 「それに?」

 「念のために、ちょっと弱そうなのを選んだしね」

 その言葉を理解したのか?突然、牛の鼻息が荒くなった。

 その鼻息に乗って、ウタリの呟きが周詠たちの耳に届く。

 「恐い?ごめんね。でも・・・私たちも、お腹が空いてるの。せめて一発で・・・」

 牛がいきなり頭を低くして、前足で地面を引っ掻くように叩き始めた。

 突進するつもりだ。


 (あの角にかかったら、ウタリの体は・・・)

 周詠たちがそう思った瞬間、ウタリの姿が消えた。

 消えたと思ったら、もう牛の目の前にいた。

 その右拳は、硬く、硬く握り締められていた。

 牛はまだ頭を低くしたままで、自分が既にウタリの射程圏内にいることを知らずにいた。

 ウタリは、太い、太い項を見下ろし・・・思い切り、右拳を打ち込んだ。

 「眠ってっ!」

 ゴツン、という音と、バキバキ、という音が混じり合って響いた。

 一瞬遅れて、ズシンという音が地響きと共に周詠たちを揺らした。

 牛が倒れた音・・・ではない。牛の頭が地面に叩きつけられた音だった。

 (やった・・・!)

 その場の全員が、そう感じていた。

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