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序章~此処から観た景色

 ウタリは、草原を走っていた。

 ペースはまあ、普段通りだ。だが、空腹感は普段以上だった。


 その上ウタリの周囲を走る面々は、見覚えのない顔ばかりだった。

 (なぜ私は、この人たちと走っているんだろう?)ウタリは自問した。

 何の目的で走っているのかは、ハッキリしている。


 狩りをしているのだ。


 ウタリは、先頭を走る男の逞しい背中と、風になびく長髪を眺めた。

 ウタリは背中に届くほどの長髪を、首の後ろでくくっているのだが、男の長髪はウタリよりもずっと長かった。

 (まるで生まれてから一度も切ったことがないみたいだわ。・・・ううん、彼だけじゃない)

 そう。

 ウタリの周囲を走る者たちは、みんなボサボサの長髪だった。

 いや、髪だけではない。服装も違う。

 ウタリは獣の皮を体に巻きつけて、皮紐で止めた簡単な服と、皮のサンダルを履いていた。

 狩猟生活のお手本のようなスタイルだ。

 だが、まわりは更にワイルドだった。腰に皮をスカート状に巻きつけているだけで、足元も裸足だった。

 そのファッションに違わず、顔の造作もかなりワイルドで、少々人間離れしている。人よりもむしろ獣に近いようだ。

 (でも、間違いなく人だ)ウタリはそう感じていた。


 (私の前に男が二人。女が一人。先頭集団は、全部で・・・九人。男が五人で、女は私を含めて四人。ずっと後ろに、子供とか母親とかお年寄りとか・・・十二人ね)

 ウタリは自分を子供だとはカウントしなかったが、先頭集団の中では一番子供だ。

 もっともウタリは自分の年齢を知らない。自分が生まれてから十六年か十七年か、まあそのぐらいだろう、という認識しかない。

 ウタリだけではない。ウタリが暮らしている部族の者は、みんな自分の年齢など知らないし、気にしてもいない。


 (さて・・・とにかく、狩りのスタイルは、私たちの部族と似たようなものね)

 ウタリの部族の狩りは、基本的に持久狩猟だ。獲物は鹿や山羊、羊が多い。

 群れの中から一頭を選び出し、追い立てて群れから孤立させて、ひたすら追いかける。

 そのうちに獲物は体温が過度に上昇し、蹄が割れ、呼吸困難を起こして倒れてしまう。

 そこでトドメを刺す。

 人間は、優れた発汗能力による体温調節機能を持ち、なおかつ直立することで、呼吸が走行による制限を最小限に抑えられるので、持久走という一点においては地上最強クラスなのだ。


 (それで・・・私たちは・・・何を追っているんだっけ?)

 ウタリは、その狸顔の真ん中についた丸い鼻をヒクヒクさせて風の匂いを嗅ぎ、大きな瞳をいっぱいに開いて獲物の姿を探した。

 その視線の五百メートルほど先に、獣の影が映る。

 (あいつね・・・あれは・・・牛?)

 そう。牛だった。

 (ちょっと、冗談でしょ?牛?牛を相手にする気なの?)

 ウタリの部族は、牛を狩るために追うことなどしなかった。

 ヨボヨボに年老いているとか、ついさっき死んだばかりとか、そんな牛にたまたま出くわした時にだけ、牛肉を食べることができた。

 牛と人間では戦闘能力に差があり過ぎて、追い立てるという以前に、そもそも群れから任意の一頭を孤立させることができないのだ。


 (なのに・・・この人たちは、牛を追っている。それも・・・結構大物じゃない。そりゃ、あれなら食べごたえはあるだろうけど・・・)

 そう思った途端に空腹感が倍増していた。

 (ううっ・・・でも、あの牛まだまだ倒れそうにないわね)

 実は牛とウタリたちとの距離はどんどん縮まっているのだが、牛には疲労の色は見えない。逃げるのも面倒だから、ここらで鬱陶しい人間共を追っ払ってしまおう・・・そんな雰囲気だ。

 だが、そんなことを気にしているのはウタリだけのようだった。

 みんな当然のように、淡々と走り続けていた。


 やがて牛が足を止め、その状態がハッキリと視認できるほど接近してみると・・・

 (何よこいつ?呼吸がちょっと乱れてるけど、全然元気じゃない?ていうか、私たちを蹴散らす気満々でしょ?なのに何でこの人たち、平気で近づけるの?)

 ウタリには理解できなかった。

 野生動物の底力は恐ろしい。

 比較的戦闘能力の低い鹿や山羊であっても、自ら脚を折り、その身を地に横たえるまでは油断できない。

 ましてや相手は牛だ。

 人の力でどうこうできるはずがない。


 ・・・が、先頭を走る男は、全く気にする様子もなく牛との距離を縮めていた。

 ウタリはゾッとして、隣を走っている女に声をかけた。

 「ちょっと、早く止めなきゃ!あの人、殺されるわよ?」そう叫んだつもりだった。だが、声は出ていなかった。

 だから女はウタリのほうを見向きもしなかったのだが・・・

 (何か変だ)ウタリは声の出ない口をパクパクさせながら、女をじっと見た。

 (この女の人には・・・私が見えていない?)

 そんな疑問を中断させるかのように、女が叫んだ。聞いたことのない言葉だった。

 それは言葉というより、鳴き声のようにも聞こえたが、ウタリは確かに言葉だと感じていた。

 何しろ聞いたことがないにも関わらず、その意味が理解できてしまったからだ。


 「気をつけて!」とか「落ち着いてね!」とか、女はそういった意味合いの叫びを先頭の男に投げかけていた。

 女だけではない。

 ウタリのまわりの全ての人が、先頭を走る男一人に声援を送っていた。

 その中の数人は、石を削って作ったナイフを持っていた。

 ウタリはナイフを持った男のそばへ駆け寄り、

 「ねえ、早く助けに行かなきゃ!そんなのでもないよりはマシでしょ?あの人は素手じゃない」と叫んだ。

 叫んだつもりだった。

 だがやはり声が出ない。そして・・・ナイフを持った男からは、ウタリが見えていないようだ。


 先頭の男は、どんどん牛に近づいていく。

 誰かが「行くぞ!ポンガ!」と叫んだ。

 すると男はこちらを振り返り、声援に応えるように右拳を振り上げた。

 表情に気負いはなかった。

 額も、鼻も、顎も、ウタリが今までに見た誰よりも逞しかった。

 (ポンガ・・・彼の名前?・・・確かに強そうだけど・・・人は人だ。牛には勝てない)

 もうポンガは走ってはいなかった。歩きながら間合いを詰め、攻め入るタイミングを計っているようだ。

 ウタリを含めたその場の全員が、鼻息を荒げる牛とポンガの背中を見つめながら歩いていた。


 ポンガと牛の距離は、五メートルほどか。

 牛はポンガを睨みながら、頭を低くして唸っていた。この気高い筋肉の塊は、怒りと恐怖の入り混じった闘氣を、隠そうともせずに撒き散らしていた。

 (そうね。どんなに強い生き物でも、死ぬか生きるかの戦いは恐いわ。でも・・・恐がっていようがいまいが、牛は間違いなく人より強い)

 だが、ウタリはもう何も叫ばなかった。声が出ないとわかっていたし・・・

 (例え声が出たとしても、ポンガは止められない)そう直感していた。

 (・・・違う。止められないんじゃない。止める必要がないんだ。私自身がポンガの力を信じ始めてるんだ)

 ウタリは・・・いや、まだ、ちょっと違うという風に、眉をひそめた。

 (そうだ。ポンガだけじゃない。牛と直接向き合っているのはポンガだけど、戦うのは彼だけじゃないんだ。ここにいるみんなが・・・私も・・・)


 そして、ポンガの呟きがウタリの耳に届いた。

 それは低く、静かな声だったが、その場の全員に聞こえていた。

 それはやはりウタリが聞いたことのない、鳴き声か咆哮に近いものだったが、なぜだか意味は理解できた。

 「・・・恐ろしいか。腹立たしいか。すまんな。・・・だが、俺たちも腹が減っているんだ。見逃すわけにはいかない。せめて一撃で、楽にしてやろう。この・・・俺の拳で!」

 呟きと共に、ポンガの体から闘氣が陽炎のように立ち昇る。

 ウタリは目をみはった。

 (すごい・・・人間が、あんな氣を出せるなんて・・・あんな大きな闘氣、見たことない・・・)


 牛にもその闘氣が見えたのか。それともポンガの咆哮の意味を理解したのか。

 ヴモッ、と鼻息を爆発させると、角をポンガに向けて猛然と突進を始めた。

 牛に蹴られた大地が土煙を舞い上げる。

 その角が、まさにポンガの腹をえぐるかと思われたその瞬間、ウタリは信じられないものを見た。

 ・・・いや、見えなかった。

 確かに牛の進行方向にいたはずのポンガの姿が、いきなり消えたのだ。


 (嘘でしょ?私、部族の中でも目はいいほうなのよ。なのに、彼の動きを追えなかった)

 少し離れた位置から見ていたウタリが驚いたのだから、牛はもっと驚いただろう。

 ポンガが立っていた地点を数メートルほど走り抜けてから、また派手な土煙と、戸惑いに揺らめく闘氣を上げながら急停止して、その場をグルグルと回った。


 その土煙の中から・・・ポンガが現れた。

 牛の頭のそばに、ピッタリと貼り付くように立っていた。

 その右拳は、硬く、硬く握り締められていた。

 ポンガの気配を察知した牛が、体勢を立て直そうとするのと同時に、ポンガの拳がブンッ、と震えた。


 ドズッ、と重くて鈍い衝撃音と共に、ポンガの拳が牛の首筋に打ち込まれていた。

 それで終わりだった。

 牛は地面に叩きつけられて絶命した。


 ポンガは、地に倒れ伏した牛を見つめていた。

 位置関係でいえば見おろしているのだが、ポンガの目にはむしろ畏敬の念があった。

 周囲から、オーという歓声が上がった。ひとつ、ふたつ、みっつ・・・いくつもの歓声が重なり合い、渦を巻いて、ポンガと牛を包んでいった。

 その響きには、ポンガと牛、その両者への感謝が、確かにあった。


 (同じだ)ウタリは、見知らぬ顔に囲まれているにもかかわらず、自分の部族で狩りを成功させたような達成感と、牛への敬意を感じていた。

 (それにしても・・・妙な気分ね。この気分は・・・そうだ。自分で獲物にトドメを刺した時の気分だ)

 ウタリは部族の狩りによく参加していたが、疲労困憊した獲物にトドメを刺すのは、ほとんどの場合、大人の役目だった。


 だが時には、獲物に反撃の余力は残っていないと判断された場合などに、ウタリがトドメを刺すこともあった。

 父親の槍を借りて、首筋に突きたてるのだ。

 鏃は鉄ではない。石を削り、磨き、棒の先端に皮紐で固定しただけのものだ。

 槍を持ったウタリがそばに歩み寄ると、獲物は息を乱し、悲しそうな目で見上げる。

 ウタリは(ちょっと可哀想だな)と思いはするが、自分も家族も、部族のみんなも空腹なので、トドメを刺すこと自体に迷いはない。

 それよりも、いかに速やかに、的確に仕留めるかということに気持ちが集中している。

 上手く急所に当てないと、獲物を無駄に苦しめてしまう。

 それが気つけになって一時的にでも回復されたら、食事が先送りになってしまう。

 それどころか最悪の場合、獲物が流血しながら暴れて血の匂いをばらまくことで、狼の類を呼び寄せる可能性もある。

 そういったことを防ぐためにも・・・狙いすましたひと刺しで、仕事を済ませたい。

 振りかぶったらもう、迷ってはいけない。


 ウタリは初めて槍を手にした時、(ちゃんと刺せるか?)と迷ってしまった。

 その迷いが傷を浅くした。

 その時の獲物は年老いた羊だったが、ウタリの槍では死に切れずにもがき始めた。

 父親が黙ったまま、槍からウタリの指を外し、ひと刺しで仕留めた。

 

 以来、ウタリはトドメを任されても、しくじらなくなった。

 仕損じれば、獲物を無駄に苦しめるだけだと、身に沁みて理解したからだ。

 肩に力を入れない。全身を震わせるようにして、槍を振り下ろす。

 そのひと振りで仕留めた瞬間の、更なる体と心の震え。

 高揚感。達成感。それと・・・獲物への感謝と、敬意。


 獲物を追い立てる役だけで狩りを終えた場合でも、そういう気分には、なる。

 だが、自らの手でトドメを刺した時は、その気分の密度がグッと濃くなる。

 ・・・ポンガの拳での狩りを見て、ウタリはそういう気分になっていた。

 (変よね。直接牛と戦ったのは、あくまでもポンガなのに。まるで・・・自分で牛を殴ったみたいな気分になってる)

 そんな疑問を抱えながら、ウタリは自分も歓声を上げていることに気付いた。

 気付いた途端に、オーという声に力が入った。その響きはウタリの内臓を震わせ、空腹感を倍増させていた。

 

 (みんな、こんな気持ちで声を上げてるんだ)ウタリは見知らぬ部族との一体感の中で、ポンガの顔を見つめた。

 ポンガは歓声を上げる一人一人の顔を、ひとつひとつ順番に見ていた。

 そして・・・ポンガの視線が、ウタリの視線と交錯した。

 (えっ?)ウタリはポンガの目に、驚きの色が浮かんだのを見た。

 (見えるの?ポンガには、私が見えてる?)

 それは疑いの余地がなかった。ポンガはまっすぐに、ウタリのほうへ歩き始めたからだ。


 すぐにポンガとウタリは向き合い、お互いを見つめた。

 ポンガは満面の笑顔だ。

 「やっと会えた」ポンガが言った。

 そう、それはやはりウタリの知らない言葉だったが、ウタリには意味がわかった。

 「あなたは・・・ポンガは、私を知ってるの?」ウタリが訊いた。

 訊きながら、(え?声が出る?)と驚いていた。

 だがポンガには、ウタリの驚きなど問題ではない。


 「もちろん知ってるよ。君も、君と一緒に走っていた彼のことも。・・・あれ、そういや彼はいないんだな。まあいいや」

 「彼?彼って誰?」

 ポンガはそれには答えずに、黙ったままで右拳をウタリの前に突き出した。

 大きな拳だった。

 ウタリもまた釣られるように、自然に右拳を突き出していた。ポンガの半分くらいの大きさしかなかった。

 ポンガとウタリは、お互いに拳を前に進めて、その先端を重ねた。

 拳を通じて、ウタリの体に大きな力が流れ込んできた。その力はウタリの体を波のように駆け巡り・・・また、更に空腹感を倍増させていた。


 そして・・・ウタリは、唐突に目を覚ました。

 「夢・・・だったの?」

 ボンヤリした頭を振りながら、体を起こすと、待ってましたとばかりに腹の虫が鳴り出した。

 さっきまで見ていたのは、夢かもしれない。しかし、空腹感だけは本物だった。

 「あーっ、どうせなら、せめてあの牛を食べてから目が覚めればよかったのにっ!」

 ウタリは歯噛みして悔しがったが、もう後の祭りだ。

 ここ数日、わずかな木の実や果物を口にしただけ・・・なのは、ウタリだけではない。

 狩りが立て続けで三回も空振りに終わり、芋掘りも外れたために、部族全体が空きっ腹を抱えていたのだ。


 「お姉ちゃん、うるさい・・・」ウタリの隣で眠っていた弟のニタイが、恨めしそうな目で見上げた。

 「あー・・・ごめん。でも、もう朝だよ。お父さんもお母さんも、もう起きて外に出てるじゃない。私たちも起きなきゃ。ほら、レラも起こして」

 ウタリは弟に、妹を起こすよう促した。


 (はあ・・・それにしても何だったんだろう、あの夢。・・・一緒に走ってた彼って、誰よ・・・それに、ポンガの拳から伝わってきた、波みたいなもの・・・)

 ウタリは夢を思い出しながら、右拳を自分の顔の前に掲げた。

 いわゆる竪穴式住居の、あちらこちらの隙間から入ってくる細切れの光に透かすようにして、拳を眺めた。

 見た目には、特に変わってはいない。


 (・・・でも、昨日までの私の拳じゃない)ウタリはそう確信していた。

 ポンガが牛を倒した時の、あの震えが戻ってきた。

 その震えに同調するように、ウタリは「おおお・・・」と、気合いを発していた。

 ・・・それがまた、空腹感を刺激した。

 「だからお姉ちゃん、うるさいって。そんな、空きっ腹にしみるような声、出さないでよ」

 弟の抗議に、ウタリは「あ、ごめんごめん」と一言置くと、逃げるようにねぐらを出た。

 朝の光がまぶしかった。


 ウタリは「んっ」と背伸びをしてから、山と森と、草原をぐるりと見渡した。

 それから地平線をじっと見つめた。

 (あの地平線の向こうに、ポンガや、その仲間がいるのかもしれない)ウタリはそんな気がしたが、それよりも当面の問題は、この空腹感だった。

 (山か森で木の実や果物を探すか、芋を掘るか、それとも狩りに行くか・・・?)それは切実な葛藤だった。

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