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男爵ピアノシリーズ

男爵令嬢の私が隣国の音楽祭で右手だけでピアノを弾いたら、王弟殿下を感動させてしまいました

作者: 豆柴の旅々
掲載日:2026/10/31

『男爵ピアノシリーズ』第二作です。


前作をお読みでない方も、本作からお楽しみいただけます。

 私には、一つだけ得意なことがある。


 ピアノを弾くことだ。


 私の名前はクラリス・ベルフォード。


 十八歳。マルドール王国の片田舎に領地を持つ、貧乏男爵家の娘である。


 そして、実は前世の記憶を持っている。


 前世では日本の音楽大学でピアノを専攻し、毎日のように鍵盤に向かっていた。


 けれど、この世界に生まれ変わってからは、事情が違った。


 我が家には、高価なピアノを買う余裕などなかったのだ。


 だから、ずっと我慢していた。


 そんな私の人生が変わったのは、ユリウス・グランフォード様とのお見合いがきっかけだった。


 ユリウス様は、王国の文化芸術大臣を務める伯爵家のご子息。


 お見合い先で久しぶりにピアノを弾いた私は、その演奏を気に入っていただき、王宮の晩餐会でも演奏することになった。


 それ以来、ユリウス様とは親しくさせていただいている。


 お会いするたびに優しくしてくださるので、最近は少し困っている。


 ……だって。


 ますます好きになってしまうんですもの。


     ◇


「素晴らしいわ、クラリスさん!」


 演奏を終えた私に、温かな拍手が送られた。


 場所は、グランフォード伯爵家の応接室。


 今日はユリウス様のお誘いで、お屋敷にお邪魔していた。


「本当に素敵な演奏だったわ。いつまでも聴いていたくなるわね。」


「ありがとうございます!」


 嬉しそうに微笑んでくださったのは、ユリウス様のお母様、マルガレーテ様だ。


「いやあ、何度聴いても見事だな。」


 隣に座っていたユリウス様のお父様も、満足そうに頷いた。


「それに、何より楽しそうに弾いているのがいい。」


「……!」


 その言葉に、胸の奥が温かくなった。


 ……そうなんです。


 私は、ピアノを弾くのが大好きなんです。


 上手に弾けたと褒めていただくのも、もちろん嬉しい。


 けれど、演奏している私自身が楽しんでいることまで分かっていただけたのが、何より嬉しかった。


「クラリス嬢。」


 ユリウス様が、穏やかな声で話しかけてくださった。


「今日も素晴らしい演奏でした。」


「ありがとうございます、ユリウス様。」


「あなたの演奏を聴いていると、不思議と心が穏やかになります。」


「……えへへ。」


 ……そんなことを言われたら、照れてしまいます。


 ユリウス様は、いつも私のピアノを真剣に聴いてくださる。


 そして、演奏が終わると、必ず感想を伝えてくださるのだ。


 その言葉を聞くたびに、もっと素敵な演奏を届けたいと思ってしまう。


「まあまあ。」


 マルガレーテ様が、楽しそうに微笑んだ。


「ユリウス。あなた、クラリスさんのことになると、ずいぶん表情が柔らかくなるのね。」


「……母上。」


「あら、何かおかしなことを言ったかしら?」


「……いえ。」


 ユリウス様が少し困ったように視線を逸らす。


 すると、お父様まで笑い始めた。


「ははは。ユリウスがこんな顔をするとはな。」


「……父上まで。」


「いやいや。実に喜ばしいことだ。」


 マルガレーテ様も、嬉しそうに頷いた。


「クラリスさんが来てくださるようになってから、この家もずいぶん賑やかになったわ。」


「……!」


 ……嬉しいなあ。


 貧乏男爵家の娘である私を、こんなに温かく迎えてくださるなんて。


 お見合いのときは、あんなに緊張していたのに。


 今では、ここに来るのが楽しみになっている。


 私は、そっとユリウス様を見つめた。


 すると、ユリウス様もこちらを向いて、優しく微笑んでくださった。


 ……ああ。


 幸せだなあ。


     ◇


 それから数日後。


 王宮の執務室に、ユリウス・グランフォードが呼び出されていた。


「ユリウス。アルヴェリア王国から、興味深い申し出が届いた。」


 国王の言葉に、ユリウスは姿勢を正した。


「申し出、でございますか?」


「うむ。」


 国王は、机の上に置かれた書状を手に取った。


「アレクシス王弟殿下が、先日の歓迎晩餐会でピアノを演奏した令嬢を、アルヴェリア王国の音楽祭に招きたいそうだ。」


「……クラリス嬢を、ですか?」


「そうだ。しかも、音楽祭の最後を飾る演奏者としてな。」


「……最後を、ですか。」


「うむ。王弟殿下が直々に希望されている。」


 国王は、書状を机に置いた。


「まずは本人の意向を確認してくれ。正式な調整は、お前に任せたい。」


「承知いたしました。」


「それから、ユリウス。お前も同行するように。」


「はい。」


「両国の文化交流を深める、よい機会だからな。」


「かしこまりました。」


 ユリウスは、深く頭を下げた。


 そして、執務室を後にする。


 その表情には、かすかな笑みが浮かんでいた。


     ◇


「……音楽祭、ですか?」


 ユリウス様からお話を伺った私は、思わず声を上げた。


 場所は、グランフォード伯爵家の応接室。


 今日はユリウス様からお話があると伺い、お邪魔していた。


「はい。アルヴェリア王国のアレクシス王弟殿下から、正式な招待が届いています。」


「……王弟殿下?」


「以前、王宮であなたの《ラ・カンパネラ》を聴かれた方です。」


「ああ!」


 私は思わず声を上げた。


 あのとき、演奏が終わると、とても喜んでくださった方だ。


「殿下は、あなたの演奏を、ぜひ自国の貴族や民にも聴かせたいとお考えのようです。」


「……本当ですか?」


「ええ。」


 ユリウス様は、穏やかに微笑んだ。


「しかも、音楽祭の最後を飾る演奏者として、あなたを招きたいそうです。」


「…………。」


 ……えええっ!?


 大トリ!?


 そんな大きな音楽祭で!?


 驚きのあまり、すぐには返事ができなかった。


 王宮の晩餐会で演奏したときも、たくさんの方々に聴いていただいた。


 けれど、今度は隣国の音楽祭だ。


 しかも、最後の演目を任せていただけるという。


 嬉しい気持ちと同じくらい、緊張も込み上げてきた。


「……だ、大丈夫でしょうか。」


 思わず呟くと、ユリウス様が静かに頷いた。


「大丈夫です。」


「……本当ですか?」


「ええ。私は、あなたの演奏を信じています。」


「……!」


 以前にも聞いた言葉だった。


 王宮で演奏することになったときも、ユリウス様はそう言ってくださった。


 あのとき、どれほど心強かったことだろう。


 ……この人は、いつも私を信じてくれる。


「もちろん、無理にとは申しません。」


 ユリウス様は優しく微笑んだ。


「ですが、あなたが望むのであれば、私も同行いたします。」


「……ユリウス様も?」


「ええ。文化芸術大臣として、正式に随行する予定です。」


「……!」


 その言葉に、胸の奥がぱっと明るくなった。


 ユリウス様と一緒に、隣国へ。


 しかも、大好きなピアノを弾くために。


 ……そんなの。


「ぜひ、参加させてください!」


 私は大きく頷いた。


「皆様に楽しんでいただけるなら、私も嬉しいです!」


 ユリウス様は、嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます、クラリス嬢。」


 ……楽しみだなあ。


 どんな音楽堂なんだろう。


 どんな人たちが聴いてくださるんだろう。


 考えるだけで、胸が高鳴った。


 早く、行ってみたい!


     ◇


 それから数週間後。


 私は、ユリウス様とともにアルヴェリア王国へ向けて出発した。


 馬車の窓から見える景色は、少しずつ変わっていく。


 見慣れた王都の街並みを抜け、広い草原を通り、山々を越えていく。


「……わあ。綺麗ですね!」


 私は、窓の外に広がる景色に思わず声を上げた。


「ええ。この辺りは、季節によって花の色が変わることで有名なのですよ。」


「そうなんですか!」


 馬車の外には、色とりどりの花が咲いていた。


 風に揺れる花々が、まるで大きな絨毯のように広がっている。


 ……素敵。


 前世でも旅行は好きだったけれど、この世界には初めて見る景色がたくさんある。


 しかも、今回は一人ではない。


 隣には、ユリウス様がいらっしゃる。


 窓の外に珍しいものを見つけるたび、つい話しかけてしまうのだけれど、ユリウス様はいつも楽しそうに聞いてくださった。


「クラリス嬢は、外国へ行かれるのは初めてですか?」


「はい!」


「それでは、今回の旅も楽しんでいただけそうですね。」


「もちろんです!」


 私は、にっこりと微笑んだ。


「それに、ユリウス様と一緒ですから。」


「……!」


 ユリウス様が、少し驚いたように私を見つめた。


「……そうですか。」


「はい!」


 すると、ユリウス様は小さく微笑んだ。


「……私も、あなたと一緒に旅ができて嬉しいです。」


「……!」


 ……あ。


 今のは、ちょっと。


 嬉しすぎるかもしれません。


 胸が急にどきどきして、私は慌てて窓の外へ視線を戻した。


 花畑は相変わらず綺麗だったけれど、さっきまでのように落ち着いて眺めていられない。


 ……顔、赤くなってないかな。


     ◇


 数日後。


 私たちは、アルヴェリア王国の王都へ到着した。


「……わああ!」


 馬車の窓から外を眺め、私は思わず声を上げた。


 広い石畳の通り。


 美しい彫刻が施された建物。


 そして、街のあちらこちらに掲げられた、音楽祭を知らせる色鮮やかな旗。


 通りには多くの人々が行き交い、楽器を抱えた音楽家たちの姿も見える。


 広場の一角では、小さな楽団が演奏していた。


 ヴァイオリンの音。


 笛の音。


 そして、楽しそうに手拍子をする人々。


 通りかかった人が足を止め、演奏に耳を傾けている。小さな子供たちまで、音楽に合わせて体を揺らしていた。


 誰もが、当たり前のように音楽を楽しんでいる。


 その光景が、私にはとても素敵に思えた。


「すごいですね、ユリウス様!」


「ええ。アルヴェリア王国は、古くから音楽や芸術を大切にしている国です。」


「……素敵な国ですね。」


「きっと、クラリス嬢も気に入ると思います。」


 ユリウス様が微笑む。


 ……うん。


 もう、すっかり気に入ってしまいました。


 そして、その日の午後。


 私たちは、アルヴェリア王宮へ招かれた。


 案内されたのは、美しい庭園に面した応接室だった。


 大きな窓からは柔らかな陽射しが差し込み、室内には季節の花が飾られている。


「よく来てくれた、クラリス嬢!」


 私たちを迎えてくださったのは、アレクシス・フォン・アルヴェリア王弟殿下。


 落ち着いた雰囲気を漂わせる、中年の男性だ。


 以前、王宮でお会いしたときと変わらず、穏やかな笑みを浮かべている。


「お久しぶりでございます、殿下。」


 私は、丁寧に頭を下げた。


「うむ。再び会えて嬉しいぞ。」


 殿下は、満足そうに頷いた。


「前回、そなたの演奏を聴いたときの感動は、今でも忘れられん。」


「……ありがとうございます!」


「まさか、あれほど素晴らしい演奏を聴けるとは思ってもみなかった。」


 殿下は、楽しそうに笑った。


「帰国してからも、何度となく家族や友人に話してしまったほどだ。」


「……ええっ!?」


 ……そんなに!?


 思わず驚いてしまった。


「ははは。皆、私がそこまで褒める演奏とはどんなものかと、興味津々でな。」


「……そ、そうなのですね。」


「だからこそ、今回の音楽祭に招きたかったのだ。」


 殿下は、穏やかに微笑んだ。


「我が国の者たちにも、ぜひそなたの演奏を聴かせてやりたい。」


「……!」


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


 ……嬉しい。


 私のピアノを、こんなにも楽しみにしてくださっているなんて。


 前世では、演奏会に出演することもあった。


 けれど、こうして誰かから「あなたの演奏を聴きたい」と招いていただけることが、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。


「精いっぱい、演奏させていただきます!」


「うむ! 楽しみにしているぞ!」


 それから、私たちはお茶をいただきながら、音楽祭についてお話を伺った。


 国内外から多くの音楽家が集まり、さまざまな演奏が披露されること。


 貴族だけでなく、一般の人々も楽しめる祭典であること。


 そして、私には最後の演目を任せたいということ。


 ……本当に、すごい音楽祭なんだなあ。


 私は、胸を高鳴らせながら話を聞いていた。


「ところで、クラリス嬢。」


 アレクシス殿下が、ふと思い出したように尋ねてこられた。


「そなたは、いつ頃からピアノを弾いているのだ?」


「ええと……ずっと昔から、ピアノが大好きだったんです。」


「ほう。では、長年親しんできたのだな。」


「……はい。そんなところです。」


 私は、少し照れながら微笑んだ。


 ……前世のことまで説明するわけにはいきませんから。


 殿下は、満足そうに頷いた。


「うむ。好きこそものの上手なれ、ということだな。」


「……ありがとうございます。」


 私は、ほっと胸を撫で下ろした。


     ◇


 翌日。


 私たちは、リハーサルのため、音楽祭の会場を訪れた。


「…………。」


 私は、思わず足を止めた。


 ……大きい。


 とにかく、大きい。


 王都の中心に建てられた巨大な音楽堂。


 高い天井には美しい装飾が施され、客席は何層にも分かれている。


 舞台の中央には、立派なピアノが置かれていた。


 私は、しばらくその光景を見つめていた。


 こんなに大きな音楽堂で、自分が演奏することになるなんて。


 前世で音楽を学んでいた頃の私が知ったら、きっと驚くだろう。


「……ここで、弾くんですね。」


「はい。」


 ユリウス様が頷いた。


「音の響きも素晴らしいと聞いています。」


「……楽しみです!」


 私は、胸を高鳴らせながら舞台へ向かった。


 そして、ピアノの前に座る。


 そっと鍵盤に指を置いた。


 ……うん。


 いい感じ。


 私は、ゆっくりと鍵盤を押した。


 澄んだ音が、広い音楽堂に響き渡る。


 ……わあ。


 すごい。


 鍵盤から生まれた音が、舞台の上だけにとどまらず、客席の奥へと広がっていく。


 その響きが天井に届き、柔らかく返ってくるように感じられた。


 ……素敵。


 ここで演奏したら、きっと気持ちいいだろうなあ。


 私は、思わず微笑んだ。


 そして、両手を鍵盤に置き直す。


 リストの《ラ・カンパネラ》。


 前世で何度も練習し、王宮の歓迎晩餐会でも披露した曲だ。


 私は、ゆっくりと演奏を始めた。


 高音域に響く、澄んだ鐘のような音。


 軽やかに跳躍する右手。


 それを支える左手。


 音楽堂いっぱいに、華やかな旋律が広がっていく。


 ……ああ。


 やっぱり、楽しい!


 やがて、最後の一音を弾き終える。


 すると。


「素晴らしい!」


 舞台の前方から、大きな拍手が響いた。


 顔を上げると、アレクシス殿下が立ち上がっていた。


「やはり、そなたの演奏は素晴らしいな!」


「ありがとうございます、殿下!」


「この音楽堂で聴く演奏も、実に見事だ。」


 殿下は嬉しそうに頷いた。


「明日が楽しみでならん。」


「はい!」


 私は笑顔で答えた。


「精いっぱい、演奏させていただきます!」


 ……よかった。


 どうやら、喜んでいただけたみたい。


 客席では、リハーサルを見学していた数人の関係者も拍手を送ってくださっていた。


 その中には、アレクシス殿下に招かれた音楽愛好家の貴族もいた。


 男性は、驚いたように舞台を見つめていた。


 ……あれほどの技巧を持つ令嬢がいるとは。


 明日の本番でも、ぜひこの演奏を聴きたい。


 そう思いながら、彼は何度も拍手を送っていた。


 私は、もう一度客席へ頭を下げた。


 明日は、もっとたくさんの人がこの音楽堂に集まる。


 その人たちにも、ピアノの楽しさを届けられたらいいな。


 そんなことを考えると、明日の本番がますます楽しみになってきた。


     ◇


 音楽祭の前夜。


 王宮では、出演者や各国の来賓を招いた晩餐会が開かれていた。


 豪華な料理。


 美しい音楽。


 華やかな衣装に身を包んだ貴族たち。


 私はユリウス様と並んで、会場の一角に立っていた。


「クラリス嬢。お疲れではありませんか?」


「大丈夫です!」


「それならよかった。」


 ユリウス様は微笑んだ。


「明日は大切な本番です。あまり無理はなさらないでください。」


「はい。ありがとうございます。」


 ……本当に、優しい方だなあ。


 明日の演奏を楽しみにしている私の気持ちを分かってくださりながら、体のことも気遣ってくださる。


 その優しさが、いつも嬉しかった。


 そんなことを考えていると。


「おお、クラリス嬢!」


 アレクシス殿下が、こちらへ歩いてこられた。


「殿下。」


 私とユリウス様は、揃って頭を下げた。


「ははは。そう堅くならずともよい。」


 殿下は、楽しそうに笑った。


「明日の演奏が楽しみでな。つい、また話しかけてしまった。」


「……ありがとうございます!」


「今日のリハーサルも見事だった。明日は、きっと多くの者が驚くだろう。」


「……えへへ。」


 ……そんなに褒められると、照れてしまいます。


 そのときだった。


「失礼いたします。」


 若いメイドが、飲み物を載せた盆を持って近づいてきた。


 まだ十代半ばほどだろうか。


 少し緊張しているようで、表情が硬い。


「お飲み物をお持ちいたしました。」


「ありがとうございます。」


 私が微笑みかける。


 すると、メイドは少し安心したように表情を緩めた。


 けれど、その瞬間。


「あっ!」


 メイドの足が、床に敷かれた絨毯の端に引っかかった。


 ぐらり。


 体が前のめりになる。


 盆が大きく傾いた。


「危ない!」


 私は、反射的に左手を伸ばした。


 転びそうになったメイドを支えようとしたのだ。


 けれど。


 ガシャンッ!!


 盆から滑り落ちたグラスが、近くの卓の縁に当たって砕けた。


 その破片が跳ね、差し出した私の左手の甲を切りつけた。


「……っ!」


 鋭い痛みが走る。


 見ると、手の甲から赤い血が流れ落ちていた。


「クラリス!」


 ユリウス様が、すぐに駆け寄ってきた。


「大丈夫ですか!?」


「……はい。少し、切ってしまったみたいで……。」


「すぐに医師を!」


 その声に、周囲の人々が慌ただしく動き始めた。


「クラリス嬢!」


 アレクシス殿下も、驚いた様子で近づいてこられた。


「怪我をしたのか!?」


「……はい。でも、大丈夫です。」


「大丈夫なものか。すぐに手当てを受けるのだ。」


 殿下は、近くの侍従に指示を出した。


 そして、目の前では。


「……あ……ああ……。」


 メイドが、真っ青な顔で立ち尽くしていた。


「も、申し訳ございません……!」


 その場に膝をつく。


「わ、私……なんということを……!」


「……あの。」


 私は、痛みをこらえながら声をかけた。


「あなたは、怪我をしていませんか?」


「……えっ?」


「転びそうになっていましたから……。」


「わ、私のことなど!」


 メイドの目から、涙がこぼれ落ちた。


「本当に、申し訳ございません……!」


「……大丈夫ですよ。」


 私は、できるだけ優しく微笑んだ。


「まずは落ち着いてください。あなたに怪我がなくてよかったです。」


 けれど、メイドは涙を流しながら、何度も頭を下げていた。


 そのとき、アレクシス殿下の側近が声を上げた。


「衛兵! こちらへ!」


 駆けつけた衛兵たちが、メイドを取り囲む。


「この者が、殿下の大切な客人に怪我を負わせた。事情を確認せよ!」


「はっ!」


 側近は、厳しい表情でメイドを見下ろした。


「王宮では、客人の安全を損なう失態は重く扱われる。まして、明日の音楽祭で演奏される方に怪我を負わせるとは……。」


「ま、待ってください!」


 私が声を上げた、そのとき。


「待て。」


 アレクシス殿下の声が響いた。


 衛兵たちが、ぴたりと動きを止める。


「まずは事情を確認せよ。処分については、その後に判断する。」


「……承知いたしました。」


 衛兵たちは、深く頭を下げた。


 そして、メイドを立たせる。


「申し訳ございません! 申し訳ございません!」


 泣きながら連れていかれるメイド。


 私は、その背中を見つめた。


 ……大丈夫かな。


 あの子。


 とても、怖がっていた。


     ◇


「……残念ですが。」


 診察を終えた医師が、申し訳なさそうに口を開いた。


「左手の傷は、しばらく安静が必要です。幸い、傷は深くありません。きちんと治療すれば、後遺症も残らないでしょう。」


「……そうですか。」


 私は、ほっと胸を撫で下ろした。


 後遺症が残らない。それを聞けただけでも、十分にありがたかった。ピアノを弾く私にとって、指が自由に動かせることは何よりも大切だからだ。


 けれど、医師は少し表情を曇らせた。


「ただし、明日の演奏はお控えください。指を動かすと手の甲の傷口が引っ張られ、再び開くおそれがあります。少なくとも、左手を使った演奏は認められません。」


「…………。」


 私は、包帯の巻かれた左手に視線を落とした。


 白い布の下では、まだ鈍い痛みが続いている。試しに指を動かそうとすると、傷のあたりがぴりりと痛んだ。


 つい昨日まで、何の不自由もなく動いていた指だった。


 鍵盤に触れれば、頭の中で思い描いた音を奏でてくれる。右手が旋律を歌えば、左手がその音を支えてくれる。


 そんな当たり前のことが、今はできない。


 ……そっか。


 弾けないんだ。


 前世では、毎日のようにピアノを弾いていた。


 朝から晩まで練習室にこもり、難しい曲が弾けるようになるまで何度も繰り返した。思うように指が動かなくて悔しい思いをしたこともあったけれど、それでもピアノから離れたいと思ったことは一度もなかった。


 けれど、この世界に生まれ変わってからは違った。


 貧乏男爵家の娘である私には、ピアノを自由に弾ける環境などなかった。楽器を見かけても、遠くから眺めることしかできなかった。


 それが、ユリウス様と出会って変わった。


 お見合い先で久しぶりに鍵盤に触れた日のことは、今でも鮮明に覚えている。


 指先から音が生まれた瞬間、胸がいっぱいになった。


 もう一度、ピアノが弾ける。


 あのときは、それだけで幸せだった。


 そして今度は、隣国の音楽祭に招いていただいた。


 私の演奏を楽しみにしてくださる人たちがいる。あんなに立派な音楽堂で、たくさんの人に音楽を届けられる。


 明日が来るのを、心から楽しみにしていたのに。


 ……弾きたかったな。


 あの大きな音楽堂で。


 みんなの前で。


「……クラリス嬢。」


 隣から、ユリウス様の声が聞こえた。


 顔を上げると、ユリウス様が心配そうに私を見つめていた。


「無理をする必要はありません。あなたの体が一番大切です。」


「……はい。」


 そう答えたつもりだった。


 けれど、声が少し震えてしまった。


 私は慌てて微笑もうとしたけれど、うまくいかなかった。


 ユリウス様は、それ以上何もおっしゃらなかった。


 ただ、私の隣に座り、静かに待っていてくださった。


 慰めの言葉を重ねることも、無理に元気づけようとすることもなかった。


 その優しさが、今はとてもありがたかった。


 ……分かってくださっているんだ。


 私が、どれほど明日の演奏を楽しみにしていたのか。


 ピアノを弾けるようになったことが、どれほど嬉しかったのか。


 きっと、ユリウス様には伝わっている。


 私は、そっと息をついた。


 そして、包帯の巻かれた左手をもう一度見つめた。


 ……でも。


 左手は、しばらく使えない。


 それは仕方がないことだ。


 無理をして、これから先もピアノが弾けなくなってしまったら、それこそ悲しい。


 そう思いながら、私は膝の上に置いていた右手に目を向けた。


 何となく、指を動かしてみる。


 親指、人差し指、中指。


 一本ずつ、ゆっくりと。


 ……あれ?


 こっちは、ちゃんと動く。


 当たり前のことなのに、なぜか胸の奥が少しだけ明るくなった。


 私は、もう一度右手の指を動かした。


 頭の中に、ピアノの鍵盤が浮かぶ。


 そして、ふと。


 一つの旋律が聞こえた気がした。


 ……あ。


 もしかして。


「……ユリウス様。」


「はい。」


 私は、そっと顔を上げた。


「私、明日の音楽祭に出たいです。」


「……クラリス嬢?」


「ピアノを弾きたいんです。」


 ユリウス様は驚いたように私を見つめた。


「ですが、左手は……。」


「はい。使えません。」


 私は、包帯の巻かれた左手を見つめた。


 それから、右手をそっと握りしめる。


「……でも。」


 ゆっくりと顔を上げた。


「右手は、動きます。」


 ユリウス様は、しばらく何もおっしゃらなかった。


 私は、少しだけ笑ってみせた。


「右手だけで、弾いてみようと思います。」


「……片手だけで?」


「はい。」


「……できるのですか?」


「……まだ、分かりません。」


 私は正直に答えた。


「でも、試してみたいんです。」


 できるかどうかは、分からない。


 いつものように、豊かな伴奏をつけることもできないだろう。


 それでも、今の私にできることがあるのなら。


 ……諦めたくない。


「せっかく、皆様が私の演奏を楽しみにしてくださっているんですから。」


 私は、ユリウス様を見つめた。


「それに、私が演奏できれば、あのメイドさんも少しは安心できるかもしれません。」


 先ほど、泣きながら謝っていた少女の姿が浮かんだ。


 あの子が、私の怪我をずっと気に病んでしまうのは悲しい。


 もちろん、演奏できたからといって、怪我をした事実が消えるわけではない。


 それでも、私が笑顔で舞台に立てたなら、少しは安心してもらえるかもしれない。


 ユリウス様は、静かに私の話を聞いていた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……分かりました。」


「……!」


「あなたがそこまで決めているのなら、私は応援します。」


「……ユリウス様。」


「ただし、左手は絶対に使わないと約束してください。それから、もう一度医師に確認しましょう。」


「はい!」


 私は、大きく頷いた。


 ……嬉しい。


 ユリウス様は、私の気持ちを大切にしてくださる。


 でも、怪我を無理に押してまで演奏することは望んでいらっしゃらない。


 その両方が、ちゃんと伝わってきた。


 だからこそ、私も約束を守ろうと思った。


 左手を大切にしながら、今できる音楽を探してみよう。


 念のため医師にも相談したところ、左手を動かさず、痛みが出たらすぐに中止することを条件に、右手だけでの演奏を認めていただけた。


 ……よかった。


 これで、明日もピアノを弾ける。


 私は、ユリウス様に向かって大きく頭を下げた。


「ありがとうございます!」


 ユリウス様は、優しく微笑んでくださった。


「明日の演奏を、楽しみにしています。」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな灯りがともったような気がした。


 ……うん。


 頑張ろう。


 今の私にしか弾けない音楽を、探してみよう。


     ◇


 その夜。


 私は、宿泊先の屋敷に用意されたピアノの前に座っていた。


 左手には、白い包帯。


 右手だけを、そっと鍵盤に置く。


 ……さて。


 何を弾こうかな。


 《ラ・カンパネラ》は無理だ。


 ほかの曲も、ほとんどは両手で弾くことを前提としている。


 でも。


 ……あ。


 ふと、一つの旋律が頭に浮かんだ。


 前世で、何度も弾いた曲。


 優しくて、どこか切なくて。


 まるで、誰かにそっと語りかけるような旋律。


 ショパンの《ノクターン第2番》。


 ……これなら。


 私は、右手の指をゆっくりと動かした。


 静かな音が響く。


 続いて、もう一音。


 ……うん。


 旋律だけなら、弾ける。


 《ノクターン第2番》は、もともと右手が美しい旋律を奏でる曲だ。


 左手は、その旋律を優しく支える伴奏を担当している。


 だから、右手だけでも、曲の魅力をある程度は伝えられる。


 けれど。


 ……やっぱり、少し寂しいな。


 私は、もう一度鍵盤を見つめた。


 左手の伴奏がないと、音の響きが薄くなってしまう。


 普段なら、何も考えずに弾いている部分だった。


 右手が旋律を奏でている間、左手は自然に伴奏を重ねてくれる。


 けれど、今日はその左手が使えない。


 ……よし。


 少し、工夫してみよう。


 私は、旋律が一息つくところで、右手を低い鍵盤へ移した。


 低音を一つ。


 そして、すぐに高い鍵盤へ。


 けれど。


 ……あっ。


 旋律に戻るのが、ほんの少し遅れてしまった。


 もう一度。


 今度は、低い音を急いで弾こうとして、音が強くなりすぎた。


 ……難しいなあ。


 両手なら、何でもないところなのに。


 私は、しばらく鍵盤を見つめた。


 右手だけで低音と旋律の両方を担当しようとすると、どうしても無理が生まれる。


 音を増やそうとすればするほど、かえって旋律がぎこちなくなってしまうのだ。


 ……でも。


 全部の音を弾く必要は、ないのかもしれない。


 大切なのは、音を増やすことじゃない。


 この曲の美しさを、伝えることなんだから。


 私は、もう一度右手を動かした。


 今度は、旋律の切れ目を選び、低音を一つだけ静かに響かせる。


 右足でダンパーペダルを踏み、余韻を残したまま高い鍵盤へ戻る。


 そして、次の旋律をそっと奏でた。


 低い音の余韻が残っている間に、高い音が重なった。


 ……あ。


 今度は、綺麗につながった。


 私は、思わず微笑んだ。


 ……うん。


 これなら、いけるかもしれない。


 もちろん、原曲をそのまま右手だけで弾くことはできない。


 左手の伴奏をすべて補うことも不可能だ。


 だから、これは私なりの編曲になる。


 前世でも、片手だけで旋律を弾いたり、伴奏を工夫したりする練習はしたことがある。


 音楽大学で学んだことが、こんなところで役に立つなんて。


 私は、旋律を中心にしながら、余裕のあるところだけ低音や和音を添えていった。


 無理に音を増やさず、静けさも生かしていく。


 すると、少しずつ演奏の形が見えてきた。


 ……楽しい。


 私は、思わず微笑んだ。


 前世でも、こうして曲を工夫する時間が大好きだった。


 難しい曲を弾けるようになるのも嬉しかったけれど。


 どうすれば、もっと綺麗に響くだろう。


 どうすれば、この曲の魅力を伝えられるだろう。


 そんなことを考えながら鍵盤に向かう時間も、私にとっては大切なものだった。


 やがて、装飾音が続く部分に差しかかる。


 右手の指が、忙しく動く。


 ……うん。


 ここは、旋律を大切にしよう。


 無理に伴奏を補おうとせず、細かな音の流れを生かす。


 すると、軽やかな響きが生まれた。


 ……ああ。


 やっぱり、この曲は綺麗だなあ。


「……クラリス嬢。」


 振り返ると、ユリウス様が立っていた。


「……あっ。すみません。音が聞こえてしまいましたか?」


「いいえ。」


 ユリウス様は、穏やかに微笑んだ。


「とても美しい旋律でした。」


「……ありがとうございます。」


「初めて聴く曲ですね。」


「はい。私の大好きな曲の一つなんです。」


「……そうですか。」


 ユリウス様は、私の隣に立った。


「明日も、その曲を?」


「はい。」


 私は、右手を見つめた。


「今の私にできる、精いっぱいの演奏をしたいと思います。」


「……楽しみにしています。」


 その言葉が、とても嬉しかった。


 怪我をしたときには、もう明日の舞台に立てないと思っていた。


 それが今は、どんな演奏を届けようかと考えている。


 そして、ユリウス様が楽しみにしてくださっている。


 それだけで、胸が温かくなった。


 ユリウス様は少しだけ表情を和らげた。


「ですが、今夜はそろそろ休んでくださいね。」


「……えへへ。分かりました。」


「約束ですよ。」


「はい!」


 ……本当に。


 いつも、私のことを気にかけてくださる。


 私は、そっと微笑んだ。


 ……明日は、頑張ろう。


 そして。


 あのメイドさんにも、いい知らせを届けられたらいいな。


     ◇


 そして、音楽祭当日。


 会場は、満員の観客で埋め尽くされていた。


 貴族だけではない。


 一般の人々も、たくさん集まっている。


 音楽祭は朝から続き、さまざまな演奏家たちが素晴らしい音楽を披露していた。


 ヴァイオリンの独奏。


 管楽器の合奏。


 美しい歌声。


 どの演奏も素晴らしく、私は舞台袖で聴きながら、何度も感動してしまった。


 ……すごいなあ。


 やっぱり、音楽っていいなあ。


 そして、いよいよ最後の演目。


 私の出番がやってきた。


「皆様。お待たせいたしました。」


 司会者の声が、会場に響き渡る。


「本日の音楽祭、最後を飾っていただくのは、マルドール王国よりお越しいただいたクラリス・ベルフォード嬢です!」


 大きな拍手が起こった。


「先日、我が国のアレクシス王弟殿下が、その演奏に深く感銘を受けられ、今回のご出演が実現いたしました!」


 拍手が、さらに大きくなる。


「それでは、どうぞ!」


 私は、ゆっくりと舞台へ歩き出した。


 すると、客席のあちらこちらから、小さなどよめきが起こった。


「……左手に、包帯?」


「怪我をしているのか?」


「……大丈夫なのだろうか。」


 私は、そっと左手を胸元に添えた。


 ……大丈夫。


 左手は使えない。


 でも、右手は動く。


 今の私にできる演奏を、精いっぱい届けよう。


 私は客席へ一礼し、ピアノの前に座った。


     ◇


 客席の一角に、一人の男性が座っていた。


 アルヴェリア王国の貴族で、音楽をこよなく愛する人物だった。


 彼は昨日、アレクシス王弟殿下の招きでリハーサルを見学していた。


 そこで聴いたクラリスの《ラ・カンパネラ》は、実に見事なものだった。


 軽やかに跳躍する指。


 華やかな音の連なり。


 そして、音楽堂いっぱいに響き渡る、鐘のような高音。


 あれほどの技巧を持つ演奏者には、なかなか出会えるものではない。


 だからこそ、今日の本番を楽しみにしていた。


 ところが。


 舞台に現れたクラリスの左手には、白い包帯が巻かれていた。


 ……怪我をしたのか。


 男性は、眉をひそめた。


 昨日のような演奏は、難しいかもしれない。


 そう思いながら、彼は静かに舞台を見つめた。


     ◇


 私は、そっと右手を鍵盤へ置いた。


 ショパンの《ノクターン第2番》。


 前世で、何度も弾いた曲だ。


 深く息を吸い、最初の鍵盤を押す。


 澄んだ音が、音楽堂に響いた。


 続いて、もう一音。


 優しい旋律が、静かに流れ始める。


 ……あれ?


 私は、少しだけ不安になった。


 思っていたよりも、音が少ない。


 練習のときは綺麗に響いていた旋律が、広い音楽堂では、どこか頼りなく感じられた。


 いつもなら、左手の伴奏が旋律を支えてくれる。


 けれど、今日はその響きがない。


 ……ちゃんと、届いているのかな。


 客席には、たくさんの人がいる。


 その一人ひとりに、私の音楽を聴いていただきたい。


 けれど、今の演奏では物足りないと思われてしまうかもしれない。


 私は、そっと息をついた。


 ……大丈夫。


 昨夜、何度も練習したんだから。


 全部の音を弾くことはできない。


 でも、この曲の美しさを伝えることは、きっとできる。


 私は、旋律を一つひとつ丁寧に奏でていった。


 鍵盤を押す指先。


 音が生まれる瞬間。


 そして、音が消えていくまでの、わずかな余韻。


 いつも以上に、その一つひとつがはっきりと感じられた。


 やがて、旋律が一息つく箇所に差しかかる。


 私は、右手を低い鍵盤へ移した。


 ポーン。


 深い音が、静かに響く。


 右足でダンパーペダルを踏み、余韻を残したまま、高い鍵盤へ戻る。


 そして、次の旋律をそっと重ねた。


 ……うん。


 綺麗につながった。


 低音の温かな響きが、高い旋律を優しく包み込んでいる。


 左手の伴奏がないことは変わらない。


 それでも、音と音の間に生まれる静けさが、旋律を引き立ててくれていた。


 ……やっぱり、綺麗な曲だなあ。


 私は、少しだけ微笑んだ。


     ◇


 客席の男性は、静かに演奏を聴いていた。


 最初の数小節を聴いたとき、正直なところ、少し残念に思った。


 昨日のような華やかな技巧はない。


 左手の伴奏もなく、響きはずいぶんと控えめだ。


 ……やはり、怪我の影響は大きいのだろう。


 そう考えていた。


 けれど、しばらくすると、不思議なことに気づいた。


 旋律が、とても美しい。


 たった一つの音が、静かな音楽堂に広がっていく。


 その余韻が消えかけたところへ、次の音がそっと重なる。


 時折、低い音が加わる。


 それだけで、旋律の表情が変わった。


 ……なるほど。


 男性は、いつの間にか身を乗り出していた。


 昨日の演奏では、次々と繰り出される技巧に圧倒されていた。


 だが、今日は違う。


 一つの音が、次の音へつながっていく。


 その流れを、いつまでも聴いていたくなる。


 ……こんな音楽も、あるのか。


 男性は、静かに目を閉じた。


 もはや、昨日の《ラ・カンパネラ》と比べることも忘れていた。


     ◇


 私は、ゆっくりと右手を動かしていた。


 最初は、音が少ないことばかり気になっていた。


 けれど、今は違う。


 目の前の旋律を、どうすれば美しく響かせられるだろう。


 そのことだけを考えていた。


 ふと、客席の前方に座る少女が目に入った。


 舞台に出たとき、包帯の巻かれた私の左手を、不思議そうに見つめていた女の子だ。


 今は、少し身を乗り出している。


 隣のお母さんも、静かに演奏を聴いていた。


 そして、客席の奥まで見渡すと、目を閉じている人や、じっとこちらを見つめている人たちがいた。


 ……あ。


 聴いてくれている。


 こんなに静かな演奏なのに。


 右手だけで弾いている私の音楽を、みんなが聴いてくれている。


 そのことに気づいた瞬間、胸の奥が温かくなった。


 ……嬉しい。


 練習のときは、右手だけでも美しい音を奏でられることが嬉しかった。


 けれど、今はそれだけじゃない。


 私が奏でた音を、誰かが聴いてくれている。


 その人たちが、音楽を楽しんでくれている。


 ……ああ。


 やっぱり、ピアノっていいなあ。


 私は、そっと微笑んだ。


 旋律は、少しずつ華やかさを増していく。


 細かな装飾音が、右手の指先からこぼれ落ちるように響いた。


 高い音が、きらきらと連なっていく。


 ……この部分、大好きなんだよなあ。


 指が、自然と次の鍵盤を求めて動いていく。


 最初に感じていた不安は、いつの間にか消えていた。


 もっと綺麗に。


 もっと優しく。


 この曲の美しさを、聴いてくださる人たちに届けたい。


 そう思うだけで、演奏することが楽しくてたまらなかった。


 ふと、客席の一角にユリウス様の姿が見えた。


 ユリウス様は、まっすぐ私を見つめていた。


 目が合うと、優しく微笑んでくださった。


 ……ユリウス様。


 昨夜、私が落ち込んでいたときも、ずっとそばにいてくださった。


 右手だけで弾きたいと申し出たときも、私の気持ちを尊重してくださった。


 そのユリウス様が、今、私の演奏を聴いてくださっている。


 ……嬉しいな。


 私は、鍵盤へ視線を戻した。


 もう、不安はなかった。


 ただ、大好きな音楽を奏でていた。


     ◇


 アレクシス王弟殿下は、静かに目を閉じていた。


 昨夜、クラリスが怪我をしたときは、今日の演奏を諦めることになるだろうと思っていた。


 だが、彼女は舞台に立った。


 しかも、右手だけで演奏している。


 以前聴いた《ラ・カンパネラ》は、圧倒的な技巧に満ちていた。


 あの演奏を聴いたとき、殿下は彼女の才能に驚かされた。


 だが、今日の演奏は違う。


 静かで、優しく。


 それでいて、不思議と胸に響く。


 音が少ないからこそ、一つひとつの響きが心に残る。


 ……この娘は、本当に音楽が好きなのだな。


 殿下は、そっと息をついた。


 そして、演奏するクラリスの表情を見つめた。


 彼女は、微笑んでいた。


 左手を怪我し、思いどおりに弾けないはずなのに。


 今、心から音楽を楽しんでいる。


 その姿を見て、殿下も自然と微笑んだ。


     ◇


 曲は、終わりへと近づいていた。


 私は、右手の指をゆっくりと動かした。


 穏やかな旋律が、音楽堂に広がっていく。


 ……もう少し。


 もう少しだけ、弾いていたい。


 前世では、毎日のようにピアノを弾いていた。


 この世界に生まれ変わってからは、ずっと弾きたかった。


 そして、ようやく演奏できるようになったと思ったら、今度は左手を怪我してしまった。


 でも。


 私は、そっと微笑んだ。


 今、こうしてピアノを弾いている。


 右手だけでも、音楽を奏でることができる。


 そして、私の演奏を聴いてくださる人たちがいる。


 ……幸せだなあ。


 私は、最後の旋律を丁寧に奏でた。


 右手の指が、最後の鍵盤を押す。


 澄んだ音が、静かな音楽堂に響いた。


 その余韻が、ゆっくりと消えていく。


 私は、すぐには鍵盤から手を離さなかった。


 最後の音が静けさの中へ溶けていくのを待ち、そっと右手を膝の上へ戻した。


 ……ああ。


 楽しかった。


 会場は、静まり返っていた。


 誰も、すぐには拍手をしなかった。


 私は、そっと客席を見つめた。


 ……あれ?


 もしかして、あまりよくなかったのかな。


 そのとき。


 パチ。


 小さな拍手が響いた。


 アレクシス王弟殿下だった。


 殿下は、ゆっくりと立ち上がり、両手を打ち鳴らしていた。


 パチ、パチ、パチ。


 その音に応えるように、客席のあちらこちらから拍手が起こった。


 一人。


 また一人。


 観客たちが立ち上がっていく。


 前方の少女も、隣のお母さんと一緒に立ち上がっていた。


 小さな手を精いっぱい動かし、拍手している。


 そして、客席の一角では。


 昨日のリハーサルを聴いていた男性も、立ち上がっていた。


 彼は、誰よりも熱心に拍手を送っていた。


 昨日は、華やかな技巧に驚かされた。


 けれど、今日の演奏は、それとはまったく違うものだった。


 たった一つの音が、これほど心に残るとは思わなかった。


 男性は、舞台のクラリスを見つめながら、何度も手を打ち鳴らした。


 そして――。


 ワアアアアアアアアアッ!!


 割れんばかりの拍手が、音楽堂を包み込んだ。


 私は、思わず目を見開いた。


 ……こんなに?


 昨日、左手を怪我したときは、もう演奏できないと思った。


 けれど、今は違う。


 右手だけで弾いた私の音楽を、こんなにも多くの人が聴いてくださった。


 そして、喜んでくださっている。


 ……よかった。


 胸の奥が熱くなり、視界が少しだけ滲んだ。


 私は立ち上がり、深く頭を下げた。


 顔を上げると、客席の一角にユリウス様の姿が見えた。


 ユリウス様も立ち上がり、嬉しそうに拍手を送ってくださっている。


 目が合うと、ユリウス様は優しく微笑んだ。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥にあった最後の緊張が、すっとほどけた。


 ……ユリウス様。


 私は、もう一度深く頭を下げた。


 拍手は、いつまでも鳴りやまなかった。


     ◇


 演奏が終わったあと。


 舞台袖へ戻った私を、ユリウス様が迎えてくださった。


「……クラリス嬢。」


「ユリウス様!」


 私は、嬉しくなって駆け寄ろうとした。


 けれど、左手の包帯を見たユリウス様が、少し心配そうな表情を浮かべたので、慌てて足を緩めた。


「……えへへ。ちゃんと、左手は使いませんでしたよ。」


「ええ。見ていました。」


 ユリウス様は、優しく微笑んだ。


 そして、少しだけ間を置いてから、静かにおっしゃった。


「……本当に、よかった。」


「……?」


 いつもの落ち着いた声とは、少し違っていた。


 ほんのわずかに、声が震えている。


 私は、思わずユリウス様を見つめた。


「……ユリウス様?」


「昨夜、あなたが怪我をしたときは、どうなることかと思いました。」


 ユリウス様は、そっと息をついた。


「演奏できるかどうかも心配でしたが、それ以上に、あなたがどれほど悲しんでいるかを思うと……。」


「……!」


 胸の奥が、きゅっとなった。


 ユリウス様は、ずっと心配してくださっていたんだ。


 私が演奏できるかどうかだけではなく。


 私が、どんな気持ちでいるのかまで。


「……でも。」


 ユリウス様は、穏やかに微笑んだ。


「今日のあなたは、本当に楽しそうでした。」


「……はい!」


 私は、大きく頷いた。


「とても、楽しかったです!」


「……そうですか。」


 ユリウス様の表情が、柔らかくなった。


「それを聞けて、安心しました。」


 私は、そっと右手を握りしめた。


 ……嬉しいな。


 この方に、今日の演奏を聴いていただけて。


 本当に、よかった。


     ◇


 そのあと。


 私は、アレクシス王弟殿下にお呼びいただいた。


「クラリス嬢!」


 殿下は、満面の笑みを浮かべていた。


「見事だった! 本当に、素晴らしい演奏だったぞ!」


「ありがとうございます、殿下。」


「昨夜、そなたが怪我をしたときは、今日の演奏は難しいと思ったものだ。」


 殿下は、感慨深そうに頷いた。


「それが、まさか右手だけで演奏してくれるとはな。」


「……ありがとうございます。」


「前回の演奏では、そなたの技術に驚かされた。」


 殿下は、少しだけ真剣な表情になった。


「だが、今日は違う。」


「……?」


「そなたの音楽が、これほど人の心を温かくするものだとは知らなかった。」


「……!」


 その言葉に、胸が熱くなった。


 前回の演奏も、精いっぱい弾いた。


 けれど、今回は自分でも思いがけない発見があった。


 右手だけだからこそ、一つひとつの音を大切にできたこと。


 いつもとは違う美しさを見つけられたこと。


 そして、何より演奏そのものを心から楽しめたこと。


 その気持ちが、殿下にも伝わったのだと思うと、嬉しくてたまらなかった。


「そなたのおかげで、今年の音楽祭は忘れられぬものとなった。」


 殿下は、穏やかに微笑んだ。


「何か望みはないか? 私にできることであれば、褒美を取らせよう。」


「……褒美、ですか?」


「うむ。遠慮することはない。」


 私は、少しだけ考えた。


 そして、顔を上げる。


「……では、一つだけお願いがございます。」


「何だ?」


「昨夜、私に怪我をさせてしまったメイドのことです。」


 殿下の表情が、少しだけ変わった。


「……あの者か。」


「はい。」


「事情は確認させている。故意ではないことも分かっている。」


「……そうなのですね。」


「うむ。ただ、本人はずいぶんと責任を感じているようだ。」


 私は、あの夜のことを思い出した。


 真っ青な顔。


 震える声。


 何度も繰り返された謝罪。


 あのとき、少女は自分の失敗を心から悔やんでいた。


 私が怪我をしたことを、誰よりも恐れていたように思う。


 ……きっと、怖かっただろうな。


「殿下。」


「うむ。」


「どうか、あの方をお許しいただけませんでしょうか。」


 殿下は、静かに私を見つめた。


「そなたは、自分が怪我をしたというのに、あの娘のことを案じていたな。」


「……はい。」


「なぜだ?」


 私は、少しだけ考えた。


「あの方は、ただ転んでしまっただけです。誰にでも、失敗はあると思うんです。」


「……そうだな。」


「それに、幸い私の傷は治るそうです。」


 私は、包帯の巻かれた左手を見つめた。


 もちろん、怪我をしたことは悲しかった。


 もう演奏できないと思ったときには、涙が出そうになった。


 けれど、右手だけでもピアノを弾くことができた。


 そして、今まで知らなかった音楽の美しさにも出会えた。


「怪我をしたことは残念でした。でも、その中でも、私にできることを見つけられました。」


「…………。」


「ですから、あの方にも、もう一度頑張る機会をいただけませんでしょうか。」


 私は、深く頭を下げた。


 殿下は、しばらく黙っていた。


 そして、穏やかに微笑んだ。


「……そなたは、実に優しい娘だな。」


「……えっ?」


「自分が怪我をしたというのに、あの娘のことを案じている。」


 殿下は、静かに頷いた。


「実は、王宮の規律に従い、あの娘を解雇する方向で話が進んでいた。」


「……!」


「だが、怪我を負ったそなた自身が、こうして許しを願っている。」


 殿下は、穏やかに微笑んだ。


「ならば、私もその気持ちを尊重しよう。」


「……本当ですか!?」


「うむ。解雇は取りやめ、厳重注意にとどめよう。これからも王宮で働けるように取り計らう。」


「ありがとうございます!」


 私は、思わず大きく頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます!」


 胸の奥にあった心配が、ようやく消えていった。


 これで、あの子は王宮に残れる。


 もう一度、頑張ることができるのだ。


「ははは。礼を言うのはこちらの方だ。」


 殿下は、楽しそうに笑った。


「そなたのおかげで、素晴らしい音楽を聴くことができた。」


 そして、少しだけ真剣な表情になった。


「クラリス嬢。」


「はい。」


「また、我が国に来てくれるか?」


「……もちろんです!」


 私は笑顔で答えた。


「ぜひ、またピアノを弾かせてください!」


「うむ! 楽しみにしているぞ!」


     ◇


 翌日。


 私は、王宮の一室であの夜のメイドと再会した。


「お嬢様。本当に、ありがとうございました……!」


 少女は、目に涙を浮かべながら何度も頭を下げた。


「これからも、王宮で働けることになりました。」


「……よかったですね。」


 私は、ほっと胸を撫で下ろした。


 怪我をした夜、あんなに怯えていた少女が、今はこうして目の前に立っている。


 その姿を見ることができて、私も嬉しかった。


「あの……私、昨日の演奏を聴くことができなかったんです。」


「そうだったんですね。」


「でも、皆さんが、とても素晴らしかったとお話しされていて……。」


 少女は、そっと顔を上げた。


「私……お嬢様の演奏を、いつか聴いてみたいです。」


「もちろんです!」


 私は、にっこりと微笑んだ。


「今度は、両手で弾けると思いますから。」


「……はい!」


 少女は、涙を浮かべながら笑った。


 そして、少し恥ずかしそうに付け加えた。


「あの……私、ピアノのことは、よく分からないんですけれど。」


「はい?」


「それでも、聴いてもいいのでしょうか?」


「もちろんです!」


 私は、思わず笑ってしまった。


「音楽を楽しむのに、難しいことを知っている必要なんてありませんから。」


 音楽は、知識がある人だけのものではない。


 綺麗だなと思ったり、楽しい気持ちになったり。


 それだけでも、十分に素敵なことだと思う。


「……ありがとうございます!」


 少女は、もう一度深く頭を下げた。


 そして、今度は少し照れくさそうに微笑んだ。


 ……よかった。


 今度は、ちゃんと笑ってくれた。


     ◇


 帰国の日。


 私とユリウス様は、馬車に揺られていた。


 窓の外には、アルヴェリア王国の美しい街並みが広がっている。


 来たときは、これから始まる音楽祭への期待で胸がいっぱいだった。


 けれど、今は少し違う。


 楽しかった演奏。


 温かな拍手。


 そして、笑顔を取り戻したメイドの少女。


 いろいろなことがあった旅だったけれど、振り返ると、どれも大切な思い出になっていた。


「……クラリス嬢。」


「はい?」


「今回も、本当にありがとうございました。」


「……えっ?」


「あなたの演奏のおかげで、アルヴェリア王国との友好を、さらに深めることができました。」


「……そんな。」


 私は、少し照れながら微笑んだ。


「私こそ、素敵な機会をいただけて嬉しかったです。」


「……そうですか。」


「はい!」


 しばらく、穏やかな沈黙が続いた。


 馬車の窓から、柔らかな陽射しが差し込んでいる。


 私は、その温かさを感じながら、隣に座るユリウス様をそっと見つめた。


「……クラリス嬢。」


 ユリウス様が、もう一度私の名前を呼んだ。


「はい?」


「私は以前、あなたの《ラ・カンパネラ》を聴いて、これほど素晴らしい演奏はないと思いました。」


「……ありがとうございます。」


「ですが、今回の演奏を聴いて、改めて分かったことがあります。」


「……何でしょう?」


 ユリウス様は、私をまっすぐに見つめた。


「あなたのピアノが人の心を動かすのは、その技術だけではないのですね。」


「……!」


「音楽を心から愛し、聴く人のことを想っている。」


 ユリウス様は、優しく微笑んだ。


「だからこそ、あれほど美しい演奏ができるのでしょう。」


「…………。」


 私は、何も言えなくなってしまった。


 今回の演奏では、左手が使えなかった。


 いつものように弾くことができず、最初は不安でいっぱいだった。


 けれど、音楽を奏でているうちに、少しずつ楽しくなっていった。


 最後には、怪我をしていることさえ忘れるほど夢中になっていた。


 ユリウス様は、そんな私の気持ちまで分かってくださっていたのだろうか。


 ……そんなふうに。


 ……そんなふうに、思ってくださっていたんだ。


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。


「……ありがとうございます。」


 私は、そっと微笑んだ。


「ユリウス様にそう言っていただけると、とても嬉しいです。」


「……私も、嬉しいです。」


 ユリウス様は、少しだけ照れたように微笑んだ。


 そして、包帯の巻かれた私の左手へ視線を向けた。


「……傷が治るまでは、無理をなさらないでくださいね。」


「はい。ありがとうございます。」


「あなたの手は、私にとっても大切なものですから。」


「……!」


 私は、思わずユリウス様を見つめた。


 すると、ユリウス様は少し照れたように微笑んだ。


「もちろん、あなた自身が一番大切ですが。」


「……ユリウス様。」


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


 ユリウス様は、私のピアノをいつも褒めてくださる。


 けれど、今の言葉を聞いて、改めて分かった気がした。


 この方は、私がピアノを弾けるから大切にしてくださっているわけではない。


 演奏ができなくなったときも、無理に励ますことなく、隣にいてくださった。


 そして今も、私の怪我を心配してくださっている。


 ……嬉しいな。


 そんなふうに大切にしていただけることが、何より嬉しかった。


 ユリウス様が、そっと右手を差し出した。


「……クラリス嬢。」


「はい?」


「これからも、あなたの演奏を聴かせていただけますか?」


「……もちろんです!」


 私は、嬉しくなって右手を重ねた。


 ユリウス様の手は、温かかった。


「何度でも、聴いてください!」


「……ありがとうございます。」


 ユリウス様は、私の右手を優しく握った。


「これからも、ずっと。」


「……!」


 ……ずっと。


 その言葉が、胸の奥に優しく響いた。


 これから先も、ユリウス様と一緒にいられたら。


 嬉しいことも、少し大変なことも、こうして分かち合えたら。


 そんな未来を想像すると、自然と笑みがこぼれた。


「……はい!」


 馬車は、穏やかな陽射しの中を進んでいく。


 私の左手には、まだ包帯が巻かれている。


 けれど、右手は自由に動く。


 そして、傷が治れば、また両手でピアノを弾けるようになる。


 前世では、当たり前のように触れていた鍵盤。


 この世界に生まれ変わってから、ずっと遠い存在だった。


 それが今では、たくさんの人と私をつないでくれている。


 そして、何より。


 大切な人と出会わせてくれた。


 私は、隣に座るユリウス様をそっと見つめた。


 すると、ユリウス様もこちらを向いた。


「……どうかなさいましたか?」


「……いえ。」


 私は、にっこりと微笑んだ。


「次は、何を弾こうかなと思いまして。」


「……そうですね。」


 ユリウス様は、楽しそうに微笑んだ。


「あなたが選ぶ曲なら、何でも楽しみです。」


「……えへへ。」


 ……それなら。


 次は、もっと明るい曲もいいかもしれない。


 それとも、優しい曲?


 ……うーん。


 迷っちゃうなあ。


 そんなことを考えながら、私は窓の外へ視線を向けた。


 青い空が、どこまでも広がっていた。


 ――おしまい。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


『男爵ピアノシリーズ』第2作をお届けしました。


今回は、左手を負傷してしまったクラリスが、右手だけで演奏に挑む物語でした。


どんな困難があっても、大好きな音楽を諦めたくない。


そんなクラリスの思いが、少しでも皆様の心に届いていれば嬉しいです。


なお、第1作『男爵令嬢の私がお見合い先でピアノを弾いたら、王国の危機を救うことになりました』も公開しております。


それぞれ独立した短編としてお楽しみいただけますので、よろしければ第1作もご覧ください。


本作を気に入っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると、今後の創作の励みになります。


ありがとうございました!

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